福島県二本松市 霞ヶ城跡

November 18 [Fri], 2016, 7:00
二本松城(霞ヶ城)へ行ってきました。

霞ヶ城二本松藩の藩庁で、戊辰戦争の激戦地として知られ、
二本松少年隊の悲劇の現場でもあります。

戊辰戦争といえば、まずは会津戦争が知名度が高く、
次は長岡戦争といったところですが、この二本松で起こった戦いは、
もう少し知られても良いのではないでしょうか?
ドラマなどでは、どちらかというと会津戦争の前哨戦のような描かれ方が多く、
二本松戦争はさらっと流すかスルーされるパターンが多数。
これは二本松少年隊を詳しく描くと、白虎隊の悲劇が薄れるからでしょうかね?
二本松少年隊は、ものすごいドラマディックな悲劇のオンパレードですので・・。

郡山から電車で20分強。駅から出ると銅像がお出迎えです。

二本松少年隊像霞城の太刀風」」。
刀で突くようなポーズの少年兵の像。これは成田才次郎(14)がモデル。
あとで書きますが、この成田少年が少年隊で最も知られた人物でしょう。
銅像のタイトル「霞城の太刀風」は、二本松戦争を描いた戦前の本の題名。
サイレント映画にもなった作品だそうな。

駅より歩いて霞ヶ城へ向かいます。
駅前の道を進むと二本松藩の総鎮守二本松神社があり、
それを右に曲がってひとつ目の信号を左へすすむとお城の方向です。

二本松城大手門跡」。
緩やかな登り坂を進むといきなりあります。
しかも周囲になじみすぎて知らなかったらスルーしそうです。
現在、石垣が残されていますが、当時は立派な櫓門でした。
通称「坂下門」と呼ばれ、その門前にはお堀があったようです。


二本松少年隊 小沢幾弥17才戦死之地」。
大手門を過ぎるとすぐにあります。
小沢少年は砲術師範朝河八太夫の門下で、開戦後は朝河隊に配属されました。
愛宕山に布陣した朝河隊でしたが、新政府軍の猛攻にあえなく壊滅。
二本松城落城後、薩摩の伊藤仙太夫がここで瀕死の小沢少年を発見します。
伊藤が声を掛けると、少年は「敵か?味方か?」とか細く声を発しました。
哀れに思った伊藤が「味方だ。遺言はないか?」と訊ねると、
少年は手振りで介錯を求めるので、伊藤は「武士の情け」と介錯します。
その指の爪はほとんど剥がれており、残った爪には土が詰まっていました。

後日、すぐ近くで土が奇妙に盛り上がっているところを掘り返すと、
朝河八太夫の遺体が埋まっており、小沢少年が隊長であり師でもある朝河を、
背負ってここまで運んできて、素手で穴を掘って埋めたのだとされています。
なんとも壮絶な話ですね。

そのまま進むとだんだんと坂が険しくなり、
峠のようになった観音丘陵と呼ばれる丘を超えて下り坂を進むと、
霞ヶ城公園へと続きます。

二本松少年隊像」。
霞ヶ城公園に入ると二本松少年隊の像が出迎えてくれます。
駅前の成田少年の像の他、砲や銃を構えた少年と、
隊長の木村銃太郎の像があります。
ところで「二本松少年隊」というのは正式な名称ではなく、
一般的に木村銃太郎指揮下の25名の少年達の事を指し、
また、木村隊以外の少年兵達の事もそう呼びます。
先ほどの小沢少年は木村隊ではありませんが、二本松少年隊とされています。


二本松城霞ヶ城)」。
梯郭式の平山城で、外堀まで含めるとかなりの大規模の城といえます。
しかしながら、二本松戦争時には、藩兵の大部分が白河へ遠征中であり、
いくら堅顧な城も守るべき将兵が不足していては、どうにもならないでしょうね。
藩主の丹羽長国は病を患っておりながら、藩兵と共に戦おうとしますが、
名門丹羽家の血を絶やすことを惜しんだ重臣達が、
無理やり駕籠に押し込めて開戦前に退去させています。
その後の軍の総指揮は、家老の丹羽一学が担いました。


箕輪門」。
霞ヶ城のシンボルともいえる箕輪門。
新政府軍がこの門に迫ると、突然箕輪門が開き、
大城代内藤四郎兵衛自らが打って出て、壮絶な討死をしました。
自刃を潔しとせず、討死を求めたのでしょう。
近くに戦死之地碑があったらしいのですが、気が付きませんでした。

訪問した日は11月上旬。菊人形の開催時期でした。
二本松といえば菊人形でも有名なところですね。
箕輪門をくぐって少し登ると菊人形会場が現れました。

せっかくなんで、拝見することにします。
二本松では江戸時代より菊の愛好家が多くいたようで、
菊人形だけではなく、菊の品評会も同時に行われていました。


高村夫婦の菊人形」。
高村智恵子は二本松出身の洋画家、紙絵作家。
夫の高村光太郎も彫刻家で詩人です。
二本松は少年隊の他にこの高村智恵子を推しているようですね。
人形の顔が綾瀬はるかに似ていると思うのは僕だけ??


るり池」。
城内は城というより、寺院の庭園の雰囲気がある美しい場所。
城跡と忘れてしまいそうなほど見事な庭園です。


二合田用水」。
雨も降っていないのに、やたらと城内の溝を流れる水が速いなぁと思ってたら、
用水路との事。安達太良山の中腹より運ばれているらしい。
これほど豊富な水があれば、籠城も容易だったでしょう。兵がいれば・・・。

本丸を目指して城山を登ります。
途中、少し開けた場所があり、石碑が建てられています。

二本松藩士自尽の地」。
土蔵奉行役宅があった場所で、家老丹羽一学、城代服部久左衛門
小城代丹羽新十郎が自刃しました。
年賦取立役大島成渡が介錯役を果し、火を放ってその遺体を焼きました。


日影の井戸」。
千葉県「月影の井戸」、神奈川県「星影の井戸」と共に「日本の三井」と呼ばれる。
ニ合田用水があるので、井戸はあまり意味ないような気もします。


本丸跡」。
やっとたどり着いた本丸跡。
平成5年から2年かけて石垣の修築復元工事が行われたそうです。


本丸からの眺め。
市内が一望できますが、眺めが良いということは、
迫りくる新政府軍の様子や、その戦況も窺えたという事。
相当の恐怖だったでしょう。


天守台」。
天守台は作られてはいましたが、天守閣は作られず仕舞いで、
当時より石垣だけであったようです。


丹羽和左衛門 安倍井又之丞 自尽の碑」。
天守台より戦況を確認した城代丹羽和左衛門と勘定奉行安倍井又之丞は、
共に自刃して果てました。
丹羽和左衛門は軍扇を膝の上に広げ、割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、
前屈みになって絶命したとされています。
なんとも壮絶な死様ですね。


二本松少年隊顕彰碑」。
本丸の西側にある少年隊の丘には、二本松少年隊の顕彰碑が建っています。
ここは戊辰戦争直前まで、砲術道場で学ぶ少年たちが稽古を行っていた場所との事。


二本松少年隊 成田才次郎戦死の地」。
城山を降り、箕輪門の西側の駐車場付近にひっそりとあります。
この成田少年は、重傷を負いながら城中へ向かう途中に長州藩兵と遭遇。
長州藩兵の隊長白井小四郎は、少年とみて油断していたところ、
成田少年は突きを喰らわせて白井を刺す。
白井は自らの不覚であるから、少年を殺すなと言い残して絶命しますが、
部下は成田少年をすでに返り討ちにしており、成田少年もここで戦死しました。
なんと無常な話なんでしょう。

その他、戦闘に参加した少年兵の半数以上が戦死、または戦病死しています。
久保鉄次郎豊三郎兄弟は、共に負傷して称念寺に運ばれたが、
重傷でお互いがそこに居るのを知らぬまま、それぞれ戦病死しました。

三浦行蔵少年は、重傷を負って倒れていたところを農民に助けられ、
その農民の看病の甲斐あって回復しますが、仲間のほとんどが戦死した事を知り、
農民が目を離した隙に、何処かへ去ってしまい、
以後、三浦少年を見たものはいないという。

悲劇でありながら、何処か美しいと感じてしまうのは不謹慎でしょうか?
少年隊はもちろんですが、それ以外の二本松藩士達に武士道を感じます。
滅びの美学」とかありきたりな表現しか思いつきませんが、
なにかこう・・潔さとかそういう意味合いの美しさがそこにあるような気がします。
もちろんこれは個人の感覚ですけれど。


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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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