招魂場について

June 25 [Sun], 2017, 7:00
暑くなりましたねぇ。
今年の夏も、戦争モノの映画とかドラマとかやるんだろうなぁ。
もはや夏の風物詩で、年末に忠臣蔵やるようなもんですね。
(最近はほとんどやらないけど・・・)

ついでに靖国神社がどうのこうの、A級戦犯がどうのこうの言い出して、
最近ではそれが派生して、護国神社招魂社がどうのこうの言い出す始末。
挙句、靖国神社は長州藩の守り神だったとか、
全国の護国神社は長州の息が掛かっているとか、
もう、めちゃくちゃでございます。

政治がらみ戦争批判がらみで、長州藩が色々といわれるのは、
現総理が山口県人だからでしょう。
そう考えたら、鹿児島県人が総理大臣になったら、
どんな言われ方するのか見てみたい気もします。
鹿児島県の国会議員頑張れ〜!

それはさておき、靖国神社は招魂社でして、
その招魂社は、高杉晋作によって発案された桜山招魂場がはじまり。

元々、人が一人亡くなれば、その子供や妻、
子孫などが供養する
のが普通なのですが、
身寄りの無い者や天涯孤独の者は、誰も供養してくれません。
奇兵隊などの諸隊は、次男三男坊他藩からの脱藩人も多く、
仮に死んでも、供養してくれる人がいませんでした。

そこで、晋作は藩の為、国の為に死んでいった隊士達を、
みんなで永代的に供養しようじゃないかということで、
奇兵隊の訓練場であった桜山に合同墓地(招魂場)を造ったのです。
ここに社殿があった方が良いだろうという三条実美の意見により、
社殿が建てられ、招魂墓+社殿という招魂社の形が出来上がります。

戦死した兵士を皆で永代的に弔おうという精神に賛同して、
諸隊地域領主が桜山招魂場に習い、招魂場を各自で設置し、
長州藩内に多くもの招魂場が設置しました。
招魂場は藩の方針ではなく、各隊各所の独自政策だったわけです。

維新後、国事に殉じた志士や兵を、
国が供養しようじゃないかという事が長州側から発案され、
京都東山霊明社(現霊山護国神社)や、
東京招魂社(現靖国神社)が出来たわけです。

また、明治以降各地に創建された招魂社(護国神社)も、国の政策ではなく、
そのほとんどが領主有力者によって造られたのものです。
地元や家臣の殉難者を永代的に祀ろうしようという精神によるもので、
靖国神社とは本社分社の関係ではなく、独立した神社でした。
その後、廃藩置県により保護者が国へと変わった為、
各招魂社の統一化が図られたという経緯があります。

各地の護国神社の祭神に、吉田松陰やその他長州人の柱は入っていません。
長州の息が掛かっているのだとすれば、当然入っているはずですよね。
こんなデマは調べればすぐにわかるんです。

長州の守り神だなんてお門違いな説ですし、
国に殉じた人を祀るという行為は、崇高なものだと思います。
とにかく運動家ってのは、歴史を政治に利用しがちなのですが、
しっかりと勉強していない人がほとんど。というかバカばっか。
色々な政治活動をするのはかまいませんが、
嘘や勘違いを垂れ流して、歴史を湾曲するのだけはやめてほしいですね。


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大島戦争(大島口の戦い)3

June 23 [Fri], 2017, 7:00
続き。

6月16日夜明け。
野営していた浦滋之助配下の秋良政一郎は、
久賀沖に停泊しているはずの幕府艦隊がいなくなっているのを発見。
これを攻勢の好機と見て、本陣の西蓮寺に赴いて攻撃を提案します。

第二奇兵隊軍監林半七は、一昨日よりの渡島、朝駆け、戦闘により、
兵の疲労を回復するために、本日は休日としたので攻撃はしないと答えます。
これに秋良は、絶好の機会を逃すべきではなく、
しかも本陣は谷間にあるため幕軍に山頂より攻撃されては危険なので、
はやく状況を打開せなばならぬと推したため、
軍議が開かれ、久賀村攻撃が決定されました。

@午前10時頃、第二奇兵隊及び諸兵は、
久賀村攻撃の為に垢水峠まで進みます。
この時、行軍の左側遥か先に、安下庄松山藩兵が三手に分かれ、
押寄せてくるのを発見。急遽、作戦を変更してこれを迎撃します。

長州勢は、山頂より松山藩兵を見下ろしながら発砲。
また、浩武隊が討手として松山藩兵を散兵戦術で襲います。
たまらず松山藩兵は後退。
安下庄まで退き、そのまま停泊していた商船数隻で残らず退却しました。
長州勢は山間で野営しています。


A6月17日午前4時頃。
長州勢は山を下りて安下庄に押し寄せます。
すでに松山藩兵は退却。残兵を探して多数生け捕り、
帯刀者は斬首。小者は路銀を与えて津和地島へ送還しました。
昼頃に久賀村の幕府軍との決戦に向かいます。
散兵して小銃を撃ちかけると、幕府軍もこれに応戦。
沖では幕府艦隊が艦砲射撃を行いました。
出航して久賀沖に居なかった「富士山丸」も戻ってきて、砲撃に参加。
午後4時頃には、幕府軍は各所を放火して退却の姿勢を見せ、
浜手まで退いて小舟で退却します。
長州勢も夜には本陣の西蓮寺に引き上げました。

幕府軍は一掃されましたが、1日空けて6月19日早朝。
再び幕府艦隊が久賀沖にやってきます。
兵卒を上陸させて、浜辺の民家で略奪。
その後放火して翌20日の早朝に残らず退却して、
再び周防大島には戻って来る事はありません。
長州勢が迎撃に来る頃には、焼野原の村があるだけでした。

これにて大島戦争は終了。
長州藩は勝利しますが、大島島民の惨状は悲惨。
特に久賀、安下庄は壊滅的打撃を受けており、苦い勝利となりました。

高杉晋作の丙寅丸での奇襲が、華々しく語られる大島口の戦いですが、
実際はこのような戦闘が行われていたのです。


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大島戦争(大島口の戦い)2

June 21 [Wed], 2017, 7:00
続き。

大島への幕軍攻撃の報告は、直ちに山口政事堂へ届けられますが、
周防大島より山口までの連絡には、当時約1日の期間を要し、
6月7日の攻撃の一報を8日に聞いた藩政府は、
長崎丸」の砲撃を威力偵察と判断して、
動揺せずに待敵の姿勢を崩さないように」と通達しています。

6月8日の久賀村砲撃の報告は、10日に政事堂に届き、
山田宇右衛門木戸貫冶桂小五郎)らにより、
応戦の方針が決断されました。

 浩武隊及び第二奇兵隊(南奇兵隊)へ大島出動
 高杉晋作へ「丙寅丸」での大島出動

一般的に云われる長州藩の大島放棄は無く、
報告がなされるや応戦を即断しています。
藩の大島放棄の方針を無視して、晋作が勝手に攻撃したというのも作り話。

6月12日。
大島対岸の遠崎に集結した浩武隊第二奇兵隊及び大島勢は軍議を開く。
晋作は、大島守備兵が抗戦も充分にしないまま大島から退却した事に怒り、
自ら「丙寅丸」で押し出して、幕府艦隊の度肝を抜く事にします。

@13日深夜2時。「丙寅丸」は久賀沖に停泊中の幕府艦隊に砲撃。
最新鋭の大型艦「富士山丸」は、伊予沖へ出航しており、
停泊していたのは「翔鶴丸」「八雲丸」「旭日丸」。
蒸気機関を止めていた幕艦は、奇襲に対応できず応戦が遅れ、
「丙寅丸」は艦隊に大砲7〜8発を撃ち込み、前島にも砲撃して、
その後、安芸灘方向に逃げます。
このまま「丙寅丸」は三田尻へ向かい、14日正午に到着。
夜には下関に向けて出航しています。

奇襲成功の報告は、三田尻より遠崎の長州軍にもたらされたと思われ、
大いに士気が上がったようです。
幕府艦隊の被害は軽微で、「旭日丸」が少々被弾した程度でしたが、
「丙寅丸」が東へ逃れたために船籍を特定出来ず、
混乱を与えることになります。

6月14日の10時頃に芸州口での緒戦の勝利が遠崎に伝えられ、
また、大島を占領中の幕府軍が油断しているという情報がもたらされました。
遠崎の長州軍は直ちに軍議を開き、同日18時に大島への進発を決定。
長州軍は遠崎を出発して、15日の早朝に大島へ上陸します。

A上陸した各長州軍は、西部より展開して進軍します。
本陣は屋代村の西蓮寺
第二奇兵隊、浩武隊を含む本隊は垢水口より日前村普門寺に向かうが、
幕府軍100余名と遭遇。撃ち合いとなったが、幕府軍は安下荘に敗走。
勝鬨をあげて西蓮寺に引き上げました。

大島勢は久賀に向けて進軍し、国木台庄地などで激戦を繰り広げ、
日暮れになって幕軍が引いた為に、野営することになります。

続く。


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大島戦争(大島口の戦い)1

June 19 [Mon], 2017, 7:00
大島口の戦いは、幕長戦争(第二次長州征伐)の初戦にして、
長州藩領を侵略された唯一の戦いです。

慶応2年6月5日付で長州藩への攻撃命令が、
広島に滞陣していた幕府直轄軍に出されます。

長州藩領周防大島は、広島や四国の海から攻める際、
本土を守る壁のような役割をする位置にある大きな島。
幕府軍はまずここを占領して、長州制圧の足掛かりにするつもりでした。

大島戦争の火蓋は広島からではなく、
小倉口総督小笠原長行の指揮による「長崎丸」からの艦砲射撃でした。

@6月7日。小倉からやって来た「長崎丸」は、室津瀬戸口の人家に砲撃。
大砲4発を発射します。被害無。

その後、大島の安下庄の湾内へ入り、大砲4発を発射。
1発は空砲。2発は龍崎の沖に着弾。残り1発は外入村へ落ちます。
被害無。
「長崎丸」は伊予大洲の方向に引き上げて行きました(小倉へ帰港)。


A翌6月8日。「富士山丸」「大江丸」が大島東端の油宇村を砲撃。
他に商船10隻が率いられ、松山藩兵が乗船。
「富士山丸」「大江丸」は大砲5~6発を発射しました。
この砲撃で村の母子が即死しています。
さらに松山藩兵を上陸させて、村の家屋に放火して引き上げ、
船団は安下庄の湾内に入り、大砲数発を討って退去。

その後、津和地島で松山藩兵は宿営。
2艦は「翔鶴丸」「八雲丸」「旭日丸」と合流して、
久賀村の沖合より大砲数十発を撃ち込みますが、
反応が無かったために、砲撃を中止して前島沖合に停泊します。
幕府軍陸兵は前島にて宿営。

その後、天候不良により戦闘無し。
11日より再び攻撃が開始されました。

B6月11日。「翔鶴丸」「八雲丸」「旭日丸」は久賀村を砲撃。
陸上部隊は久賀村の西の宗光より上陸し、久賀村に攻め入ります。
長州側の守備兵400名は、海、陸の攻撃によりたまらず山上に退却。
軍艦からは、焼玉が発射されたので火の海となり、
幕軍は大砲6門、米3000表を分捕ります。

一方、「富士山丸」と「大江丸」は、津和地島で松山藩兵の乗せ、
安下庄に攻撃を開始。
地元の領主村上亀之助が応戦しますが、支えきれずに交代しました。
久賀村が苦戦しているということで、援軍に駆けつけようとしますが、
すでに撤退後だったので、合流して屋代村まで退き、
夜間行軍で大島を離れて対岸の遠崎まで撤退します。

長州軍は大島より一掃され、幕府が大島を占領して初戦は幕府の大勝利
この情報は長州軍の本営である山口政事堂にもたらされます。

つづく。

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僕、運命の人です

June 18 [Sun], 2017, 7:00
幕末に全く関係ない話です。

僕、運命の人です」という日テレのドラマが終わりました。
嫁さんがドラマが好きで、興味ないながらも一緒に観てしまうパターンが多く、
この「僕、運命の人です」もそのパターンで観てました。

で、このドラマすごい良いドラマだなと思ったので、
幕末と関係ないながら記事にさせてもらいました。

以前、人気のあった「逃げるは恥だが役に立つ」を視て、
こういうドラマが多くなれば、結婚率も上がるだろうなと、
好印象だったのですが、今クールの「あなたのことはそれほど」や、
映画「昼顔」など、不倫をテーマにしたものも多く、
なんだかコイツら結婚率及び出生率を下げて、
日本を潰す気なんじゃないかと思ったりします。
まあそれは考え過ぎですが、明るいドラマ暗いドラマの比率が、
極端なような気がしますね。
もっと「逃げるは・・・」のようなドラマが多くても良い気がします。

でも、今回「僕、運命の人です」を観て思ったんですが、
「逃げるは・・・」では結婚率も上がらないだろうなぁと思ったのです。
2作品は双方とも明るく楽しいドラマなのですが、
決定的に違うのは「女が努力しているのか、男が努力しているのか」です。
「逃げるは・・・」はガッキー扮するみくりが、色々努力して、
女性経験の無い平匡の心を開いていく話なのですが、
結局、男の方は努力してなかったなと思うわけで、
冴えない男が何故かモテまくるという妄想マンガみたいなもんなのです。

それに比べ「僕、運命の人です」の主人公は、
毎回ものすごい努力をするのです。
この努力によって心を閉ざしていたヒロインが、
少しずつ主人公に好意を持って行くわけです。

こういうのを今の若い男どもに観てもらいたいと思うのです。
残念ながら視聴率はそこまで高くないようですし、
亀梨山Pというジャニーズの出演なので、
どちらかというと女性の方が観ているんじゃないでしょうか?
でも、こういうものこそ男に観てもらいたい。

実際、男が頑張らなきゃだめでしょ?
ブルゾンちえみのネタ。
花は自分からミツバチを探しに行きますか?・・・探さない、待つの」。
嵐の二宮がそのパロディ「ブルゾンかずなり」で言っていたネタ。
ミツバチは花を探さず、巣にひきこもってますか?・・探しに行こう、今すぐ」。
お笑いのネタなんですが、良い事言ってますよね。

この「僕、運命の人です」が、土曜10時放送だったのは残念。
もっと違う時間帯ならばもう少し視聴率上がったかもしれません。
とにかく、良いドラマだったなと思ったので、
記事にしちゃいました。

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長州藩家臣団の軍隊

June 17 [Sat], 2017, 7:00
幕末長州藩といえば、奇兵隊をはじめとした諸隊にスポットが当たりますが、
もちろん諸隊だけが長州藩兵ではありません。

内訌戦正義派が勝利し、抗幕体制が成立すると、
来たるべき幕府戦に備えて軍政改革が行われます。
諸隊は改めて整備され、規則や定員、駐屯地が決められ、
藩の統括する正式な軍隊となりました。

これに加え、従来の封建家臣団の軍事組織も、
軍制改革に則って編成されることになります。
1000石以上の知行を持つ家臣団は、
その家臣(陪臣)らを大隊単位に再編されました。
その数は15大隊

一門の宍戸家や、右田吉敷厚狭阿川大野各毛利家
また禁門の変により家名断絶となった益田福原両家(御神本、鈴尾)は、
1大隊から1.5大隊の兵員を派遣し、
堅田家国司(高田)などの大身寄組も半大隊。
その他寄組各家もそれぞれの知行に応じて、1~3小隊派遣しています。
下記がその編成です。

南第一大隊  宍戸家(一門筆頭)
南第二大隊  大野毛利家(一門)
南第三大隊  清水美作(寄組)、浦滋之助(寄組)、井原主計(寄組)、
南第四大隊  佐世仁蔵(寄組)、村上亀之助(船手組)、村上河内(船手組)
南第五大隊  右田毛利家(一門)、堅田健助(寄組筆頭)
南第六大隊  右田毛利家(一門)
南第七大隊  吉敷毛利家(一門)
南第八大隊  粟屋帯刀(寄組)、梨羽筑後(寄組)、国司主税(寄組)、
          宍戸備中(寄組)
南第九大隊  益田孫槌(寄組)、児玉若狭(寄組)、内藤常陸(寄組)、
          赤川蔵人(寄組)、佐々木式部(寄組)、内藤真伍(寄組)
南第十大隊  鈴尾駒之助(準一門)※福原家
南第十一大隊 厚狭毛利家(一門)、桂武之助(寄組)、宍戸丹後(寄組)、
          口羽熊之允(寄組)、山内新右衛門(寄組)、熊谷岩尾(寄組)、
          秋里音門(大組)、二宮余次(大組)
南第十二大隊 高田建之助(寄組)※国司家、山内梅三郎(寄組)
北第一大隊  御神本主殿(準一門)※益田家
北第二大隊  志道安房(寄組)、柳沢備後(寄組)、榎本伊豆(寄組)、
          児玉主税(寄組)、宍戸播磨(寄組)、根来上総(寄組)、
          繁沢河内(寄組)、渡辺丹波(寄組)
北第三大隊  阿川毛利家(一門)、周布治部(大組筆頭)、福原相模(寄組)、
          美山三郎(寄組)、益田与三(寄組)


人数については、詳しくわかりませんが、
1小隊が25人位と仮定すると、1大隊が8小隊位ですので200人。
15大隊で3000人。諸隊を上回る数になります。

この正規軍が西洋式軍制に改められた為か、
諸隊と連携するにあたり、さして軋轢のようなものは見られす、
良く機能していたようです。

大島口の戦いでは、戦闘の休日と定めた日に、
南第3大隊秋良政一郎が好機を知り、
第二奇兵隊に攻撃を進言して、松山藩兵を敗走させたりしています。
士気においても諸隊と引けをとらなかったようですね。


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周南市湯野温泉 後山招魂場

June 15 [Thu], 2017, 7:00
山口県内には、まだ未訪問の招魂場が沢山あるのですが、
いかんせんホームが下関なもので、東側はなかなか行けてません。
とはいえ、少しずつ制覇して行きたいと思ってはいるのです。

今回は周南市にある後山招魂場(湯野神社)に行ってまいりました。
後山招魂場は、周南市でも西側の防府市寄りにありますので、
とりあえず近いところから攻めて行こうと、今回行った次第です。

後山招魂場は、湯野温泉という温泉郷にあります。

湯野温泉は、戦国時代の天正年間に開かれた温泉。
また、別の説では、神功皇后の時代よりあり、
三韓征伐が終わっての帰路、生まれて間もない誉田別皇子(応神天皇)が、
ひどい熱病に掛かってしまったので、ここの湯を飲ませると、
たちまち熱が引いたという伝説もあるようです。


湯野温泉薬師」。
温泉街にある薬師堂。
河村三五兵衛という人が、朝晩湯気が立ち上がる所を見つけ、
或る夜の夢に薬師如来が現れ「土に埋まっている仏を掘り出して祀れ、
温泉が湧き出て繁盛するであろう」とのお告げを受け、
湯気が立ち上がる所を掘り続け、薬師如来像と温泉が出てきたという。
ここはその薬師如来を祀ったものだそうです。


山田家本屋」。
茅葺屋根の立派な屋敷が温泉街にあります。
この湯野は長州藩寄組筆頭堅田家の所領で、
山田家はその堅田家の重臣でした。
幕末には藩主毛利敬親村田清風なども立ち寄ったとされ、
当主は楫取素彦と懇意だったようで、
楫取の年賀状なども展示されていました。
観覧無料です。

さて、招魂場ですが、これがなかなか大変なところにあり、
見つけるのは苦労しました。

入口は田んぼの脇。
事前のリサーチ無しでは、絶対見つけられないような場所です。

スマホのGoogleMAP片手に、ここ通っていいの?
と思うような細道を通ります。
民家の敷地だと思うのですが、寺院巡礼コースのようで、
通ってもいいのでしょうね(てか、通らないと行けない)。

ギリギリ道だとわかるような道を通ると、
階段が隠れるように出てきます。


急な石段ですが、招魂場は大体こういう石段がありますので、
そんなに気にせず登ります。


登るとまだ先に石段が・・・。まだ先か・・・。


途中の祠には、上部の無い小さな仏像がありました。
廃仏毀釈でこのようになったのか?
それとも天災でたまたまこうなったのか?


まだまだ進みます。こりゃ結構辛いですね。


で、やっと鳥居が見えてきました。


正面は逆行なので裏側から写します。


招魂場は2段になっており、1段目に鳥居があります。
1段目の中央に拝殿跡と思われる石組みがありました。


拝殿跡の石組みの奥に2段目に続く石段が見えます。


2段目の奥に招魂墓が並んでいました。
一列に14柱建てられています。

左側

右側

この招魂場は、この地の領主堅田少輔によって建立されたもので、
寄組筆頭堅田家家臣の戦死者を祀ったものです。
堅田家では幕長戦争戊辰戦争で14人の戦死者を出しており、
慶応4年に他の招魂場に倣って建立されました。
後に官祭招魂社となり、「湯野神社」と改称されます。

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幕末長州藩と現在の株式会社

June 13 [Tue], 2017, 7:00
四賢候と呼ばれた松平春嶽伊達宗城山内容堂島津斉彬や、
水戸の烈候徳川斉昭、肥前の妖怪鍋島関叟など、
強烈なリーダーシップを取った藩主はたくさんいますが、
明治維新の原動力になったのは、そういうカリスマ藩主の居なかった長州や、
カリスマ藩主の死んでしまった薩摩でした。

現代の会社経営においても、
強烈なリーダーシップを発揮するカリスマ(ワンマン)社長の会社は、
急激に成長しますが、頭打ちするところが多い。
強烈なリーダーシップは、得てして他の社員の力を削ぐ事になり、
下の者が動けない状況が生まれやすい。

盛者必衰ではないですが、昔のTV番組に出演していたカリスマ社長達は、
8割方破綻しているようです。要因は色々だとは思いますが、
逆境の際にカリスマ一人で踏ん張りきれなくなったのが、
主な原因でしょう。

日本初のカンパニーである亀山社中(海援隊)も、
強烈なカリスマである坂本龍馬の死後に消滅しています。

藩の運営でいえば、藩主がリーダーシップを取ることもありますが、
やはり家老が藩を運営することが多く、
当時の身分制度から門閥一部の上士家がそれを担っていました。
なので必然的に人材は限られてくるわけです。

幕末の長州藩が右往左往しながらも、最終的に勝者となりえたのには、
そういう体制だった他藩と一線を画す仕組みが成り立っていたからでした。

実は長州藩という藩は現代の株式会社と近い体質で、
それが乱世において非常に有効な仕組みがうまく作用しました。

藩のトップは藩主ですが、会社のトップは社長です。
幕末長州藩の藩主は毛利敬親で、会社でいえば社長で、
先に書いたような強烈なリーダーシップを発揮するような人物ではありません。

次席としては永代家老となるですが、これは会社でいえば取締役でしょう。
長州藩も一門八家と呼ばれる永代家老家がありました。
他藩であればこれら永代家老が、藩政において絶大な権力を持つのですが、
長州藩ではそれほどではありませんでした(もちろん権威はあります)。
そういう意味でいえば、取締役というよりは相談役顧問かもしれません。

藩の運営については政務座役と呼ばれる中老が行いますが、
これは会社でいえば部長本部長ということになります。
長州藩が非常に特殊であったのは、この政務座役には、
ある程度低い身分の藩士でも就任できたことです。
能力が認められれば、中士クラスでも政務座役に抜適されますし、
下士も能力次第で中士に昇格したりします。
つまり会社でいえば「叩き上げの部長」になれるわけです。

また長州藩では、能力ある者、志のある者、学識ある者などに、
どんどん役を与えて、やらせるという雰囲気があり、
またそういう連中の犯した罪や失敗に非常に寛容で、
少しの罰でチャンスを与えます。
吉田松陰高杉晋作などは、
長州藩でなければ、早い時期に死罪となってしまうでしょうね。

そういう風土であるから人材が豊富にそろうわけで、
禁門の変俗論党による粛清という、
他の藩であれば壊滅レベル人材喪失を経験しても、
立ち直れるわけです。

そういう雰囲気の長州藩において、
そうせい候」と呼ばれた毛利敬親になったことにより、
長州藩の独自性が最大限に発揮できたのでしょう。

幕末の長州藩というのは、現在の組織運営を考えるうえで、
とても良いモデルケースといえるのではないでしょうか?


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山陽小野田市 厚狭護国神社

June 11 [Sun], 2017, 7:00
山陽小野田市の厚狭は、一門家老家の厚狭毛利家の知行地で、
現在は田舎ながら新幹線の駅もあります。

厚狭毛利家の幕末の当主毛利元美は、
攘夷戦時の赤間関海防総奉行でしたが、
外国船への砲撃をためらって解任されていたり、
椋梨藤太の俗論党政権時に加判役であったりと、
あまり良いイメージのある人物ではなく、
正室の毛利勅子女学校の設立に貢献していたりする分、
影の薄い人物となっています。

高杉晋作のクーデターによって正義派政権が誕生すると、
職を追われて厚狭で謹慎していますが、
対幕戦では厚狭毛利家も汚名挽回のチャンスと家臣達が奮闘しました。
厚狭毛利家臣団は南十一大隊に編入され、小倉戦争に従軍し、
戦死者を出しています。

謹慎中の毛利元美は、厚狭毛利家家臣戦死者の招魂の為、
知行地の物見山の山頂に「物見山招魂場」を創建しました。
その後、厚狭護国神社として、地元の英霊を合祀するに至ります。

物見山総合公園周辺(厚狭護国神社の場所)。

元々物見山の山頂にあった招魂場は、
参拝に便利な山頂より500m下った現在地に移され整備されました。

厚狭護国神社」。
社殿は新しく整備され、招魂墓は左右に配置されています。
社殿、招魂墓の規模は、桜山神社に匹敵するような壮大なものでした。

左右に配置された招魂墓は476柱。桜山神社より多いです。

右手側の招魂墓群。

左手側の招魂墓群。

きれいに整列した招魂墓は壮観ではありますが、
それだけこの地域の出征した戦死者が多かったということ。
これらの招魂墓のほとんど全てに「陸軍」若しくは「海軍」と頭に刻まれています。
つまり、明治以降の戦死者ということですね。

見渡す限り、「陸軍」若しくは「海軍」と刻まれていて、
小倉戦争での戦死者がなかなか見当たらない。・・で、やっと見つけました。

左手側の最後列の左側。
左手前より、
原田政之進興家神霊」、「二歩荘之介源忠恭神霊」、
小野萬蔵橘正忠神霊」、「○道静間禰壽太政武神霊」、
山田捨之進橘○義神霊」、「陸軍軍夫国弘熊吉」、
弘岡三吾幸哉神霊」、「桑原玄播○真○神霊」・・・・
他の招魂場と同様に後ろ側が古いものでした。

今回の物見山招魂場で、長門国の招魂場はすべて巡りました。
あとは岩国周南などの周防国の方の招魂場が残っているのですが、
下関からはなかなか遠いんですよね~。


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東京都大田区 池上本門寺

June 09 [Fri], 2017, 7:00
東京へ日帰り出張。
LCCを使って、行きは一番早い便、帰りは8時代の便。商談先は1ヶ所だけ。
あとはひたすら待つだけなのですが、同僚からは大変だねと言われますが、
どちらかと言えばラッキーだったりします。

7時に東京に着いて、商談は13時30分から。
現地へは1時間半なので、横浜の領事館跡巡りをしたわけです(前回の記事)。
で、商談した後に時間があれば、どこかに行ってみようと思っていました。
※仕事も十分成果は出してますよ(笑)。ON/OFFの切り替えが大事なのです。

・・が、商談が16時まで掛かってしまい、帰りの電車でどうしたものかと考え、
スマホで羽田空港のある大田区周辺を探して「本門寺」を見つけました。
蒲田で東急線に乗り換えて2駅か・・行けないことはないなと、
ギリギリまで悩んで「ええい!いったれ!」と蒲田で下車。
東急池上線に乗って、池上駅に到着しました。

飛行機は20時15分なので、十分時間はあるのですが、
日没を心配しつつ早足で本門寺へ向かいます。

本門寺」。
本門寺は日蓮聖人の入滅(臨終)された霊跡という由緒正しき寺院。
日蓮宗の七大本山のひとつです。
鎌倉時代より関東武者の庇護を受け、
江戸時代に入っても諸侯の祈願寺として栄えました。


本門寺大堂」。
慶長11年に加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立しましたが、
度重なる火災で現在は4代目。


本門寺五重塔」。
慶長13年建立当時のもので、空襲を免れた貴重な古建築。
ホンモンジゴケというコケの種類がありますが、
この五重塔で発見された為に名前が付いたものです。
五重塔全体を写したかったのですが、なんだかボヤケたので諦めました。


細川家墓所」。
本門寺の墓所には巨大な墓碑がたくさん建っています。
これらは大名家の墓で、紀伊徳川家、米沢上杉家、加賀前田家など。
戒名に「大姉」と付いた女性の墓が多く、江戸屋敷の正室、側室のものです。
肥後細川家の墓所もそのひとつですが、
ここに「四大人斬り」の河上彦斎の墓があります。


河上彦齋先生碑」。
河上彦斎は「るろうに剣心」のモデルとして知名度はありますが、
剣心の異名「人斬り抜刀斎」の「」以外の類似点が無いような気がしますが、
あえていうなら小柄で色白、女性のような容姿ながら、
片手抜刀術の達人だったというところでしょうか?
(るろうに剣心をそこまで良く知らないので、他にもあるのかも?)
彼は佐久間象山を斬ったことでも有名ですが、
残忍で簡単に人を殺し、斬った後も平然としていたという人物と語られますが、
象山以外の殺人の確たる証拠は無いのが現状です。
ただ、当時の多くの人が語っているのですから、
たぶん何人も斬ってるんじゃないかなとは思いますね。
大村益次郎広沢真臣の暗殺事件、二卿事件などへの関与を疑われ、
明治4年に斬首されました。

・・で、これは墓ではなく慰霊碑(碑文は徳富蘇峰)。
墓はその奥の小さいものです。

慶観法性信士(河上彦斎の墓)」。
事前のリサーチがなければ絶対見落とすでしょう。
大きい墓石の影ですし、戒名だけですし、ほんとにこれなの?
と、疑いたくなりますが、側面にしっかりと刻まれていました。

きっちり「通称 高田源兵衛」と刻まれています。
高田源兵衛は彦斎の明治期の名前。
象山の子三浦啓之助が、父の敵討を狙っているという事で、
高田源兵衛に改名したとされています。

五重塔左側の道をさらに奥に進むと、西条藩松平家墓所へ。

枢密顧問官正二位勲一等子爵花房義質之墓」。
西条藩松平家墓所への道すがら、左手側にあります。
花房義質は明治、大正期の外交官ですが、岡山藩士で緒方洪庵の適塾出身。
特命全権公使としてロシアに派遣された榎本武揚の補佐もしています。


「東光岡本柳之助墓」。
さらに先に歩いた左手側。
三浦梧楼らと朝鮮王后を暗殺する乙未事変を起こした人物。
紀州藩士で幕末期は砲術を学び、彰義隊にも参加しています。
陸軍に出仕して西南戦争で各地を転戦し、功を挙げました。


西条藩松平家墓所」。
西条藩は紀州藩の支藩で、伊予に陣屋を持っていましたが、
定府大名でしたので、江戸に定住していました。
ですので墓所は江戸のみにあるということになります。


徳本院殿頼英義道日慈大居士(10代藩主松平頼英の墓)」。
幕末の藩主ですが、あまり資料がみつからずどういう人物かはわかりません。
国元で藩士達が藩論を勤皇に統一しており、江戸の藩主に帰藩を要請。
京都からの召還命令には、病気と称して家老を派遣していますので、
江戸屋敷では日和見のフシがあったようです。
鳥羽伏見の戦いが決した後は、躊躇せずに兵を率いて入京。
二条城々北猪熊口柵内の警衛を命じられました。
上野戦争後に京の安定が見られた後に、帰藩を許されて、
初めて西条に入っています。
江戸藩邸の藩士は、吹上御門警衛水道橋関門警衛を担当しました。
廃藩置県後は東京に移住し、明治38年に死去しています。


力道山の墓」。
西条藩松平家墓所に隣接してプロレスラー力道山の墓がありました。
一世を風靡して戦後の民衆に希望を与えたとされていますが、
僕の生まれる10年も前に亡くなった人物なんで、
印象としてはアントニオ猪木の師匠だったという点の方が強いです。


大村家旧藩士之墓」。
力道山の墓所の左後ろ側、西条藩松平家墓所の裏手にあります。
大村藩主家の明治後の墓所で、これは旧藩士らの合葬墓。
西条藩松平家の墓所が石柵付きなのに、
表高2万7千石ながら実高は6万石に達していた大村藩の藩主家にしては、
いささかこじんまりとしてるなぁと思ったら、元々大きな墓所だったのが、
戦後に青山霊園や長崎県大村市の本経寺に大部分が改葬されたとのこと。
現在はこの合葬墓と大村家の墓、大村純雄とその家族のもののみです。


正二位大村純雄之墓」。
佐土原藩主島津忠寛の次男で、薩摩藩の藩費留学生として米国留学し、
帰国後に元大村藩主大村純煕の婿養子になった人物。
実弟に島津家ながら西郷軍に合流して城山で戦死した島津啓次郎がいます。
大村湾水産養殖所の設立に関わり、大村の真珠養殖事業に貢献しました。

道を戻って五重塔の反対側へ。
墓地の南側、隣接する法養寺に近い場所に、
比較的広い敷地のお墓があります。

野口家之墓」。
代々のお墓ですが、この中に加賀藩の勤皇志士野口之布が眠ります。
彼は昌平黌で、高杉晋作と知り合っていたらしいですね。
家老横山家の家臣だったので、陪臣ということになります。
禁門の変後に、加賀藩が行った弾圧によって永禁固処分となりますが、
政情の変化により釈放。
北越戦争にも従軍し、維新後は文部省、司法省に出仕しています。。

代々の墓などは霊標(法名碑)などで、確認が必要。

薄くですがちゃんと「俗名 野口之布」と刻まれていました。

こういう大きな場所を訪問するには、事前のリサーチが重要です。
今回、急遽行く事を決めたので、スマホで調べ探すの繰り返しでした。
結局、ある程度は見つけられましたが、また見つけるべきがあったようです。
西郷勝両雄会見之処」もすっかり忘れていましたし、
幕臣の墓もいくつかあったようでした。

タイムリミットとなったので、終了して帰りましたが、
まあ時間無いわりには、結構しっかり巡れたかなとは思います。


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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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