乱舞

November 24 [Sat], 2012, 11:41
ああ、乱舞がはねた。
乱舞がはねてダンスをして、今宵のデートは終焉に進んでる。
薔薇の花びらが咲く方向を気にしていたら、僕は花びらがしおれる寸前に居る人になる。
ああね、乱舞をはねた。

どうであれ、

November 24 [Sat], 2012, 11:36
どうであれ、美しい。

眠りから覚める。

August 02 [Thu], 2012, 7:02

ユズリハとアゲハ(イントネイションって)

April 23 [Mon], 2012, 23:45
僕らは獲得。していく、あらゆるものを不変と音勢/イントネイションの数々によって打ち立てる。
世は、よ。アゲハの飛空をみあげた、見惚れた。

音は散る、不変の彼方に。音は、吸い込まれていく、空間において。
末端の狙いは情念の幅を利かせる事。現代に復権させる事。
あらゆる古代の情念が現代への復権を目論んでいる。ウィーリー、ザ、クーパー。それが狙いなのか?
いえいえ、真向に輪廻の極み。

音が立ち上がる、娼婦に塗れた昨夜の続き。寝床は開け放たれた!
どこへ、空へ、隣の部屋に。情事をみせる。第三者に見せつける事により成り立つ情事と少しの美学。
開け放たれよ、幅を利かすな。少なくても意識上においては目立つな。
僕らは意識と無意識下において揺れていきている。気づけよ、立ち上がれよ。

音は行方。爪弾け、躓けよ、民。わたしはあなたとともにいる。この圧倒的な共時性と絶対性。
揺るぎなく、そうほんの揺るぎなく。いこう。

たて、たゆまない、音鑑。抱き合いし恋人、ユズリハとアゲハ。
そのどちらもをテーブルの上に載せてグルーヴに乗せて。
あらゆるものを、跨いで。またねと言おう。

悲しいことだけれど。

April 13 [Fri], 2012, 22:08
悲しいことだけれど。
ステファノブランキーニ、ほぼ日本から撤退したような感じになっている。
僕がハレの日に、いや、徹底的なまでのハレの日に履く靴がベルルッティだとすれば、
ステファノブランキーニがハレもケも、ハレにする日常使いの靴だった。ようやくであった靴だったのに。

悲しいことだけれど。
それは日本であまり手に入らなくなった事を言ってるんじゃない。
ステファノブランキーニ自身ももういちど日本ではビジネスをしたいと思っている感じがすること。
そしてカレの靴を愛している人は多いはずなのに、こういう状況になってしまっていること。
僕はステファノブランキーニを失って、他を探せば探す程、彼の本当の才能に気付きはじめていた。
似ているブランドはたくさんあるけれども、どこか圧倒的に違う。
それはスクエアであり、なぜゆえのスクエアか。に尽きるのでは。

悲しいことだけれど。
いままで普通に店頭に並べられていた靴が、
一気にこの国から希少性の、ヴィンテージのような域になってしまった。
失われた永遠性のような牧歌な感じ。

ああ、とはいえ、ハレとケが欲望してるので、
これからステファノブランキーニみたいになるであろう靴を手にした。

中目黒のとある名店にて−自分メモ

December 24 [Sat], 2011, 22:40
こちらの天然明石鯛の焼き寿司、またしても時間が止まる。そして焦る。
旨い、本当に旨い。この見事なまでの渾然一体っぷり。
これによりシェフのクリエイティビリティを突抜け感を感じられ歓び。
それまでのどちらかというと”素材の/自然の”素晴らしさであったのに対して、
(蟹は旨いも、その極致。人はなぜにここまで蟹をむさぼりくらうのか考察。疑問であり神秘。
蟹の神秘性であり文学性、あれ?エロスが見当たらない。蟹は置き忘れたエロス。
時間は過去にはなく。未来にしかない。預言者でもある蟹。であるからして無エロス。)

こちらは人智とクリエイティビリティを感じられる。
そして私の歓びの/欲望の比重はやはり後者であり。
何かに対しての謀反/テーゼであり、天衣無縫な人智/才気である。
それを感じられたこの一皿に喝采。
バーナーで焦がした明石鯛とシャリの絶妙な食感、
そこを大葉と山椒の風味が待ったをかける。
加速度的な美食の錬金術士たちは、
宵の口あまたに心を飛び跳ねる時間のダンスをする。

ほうほう、そこにあるそこにあれ。その一皿が僕をつよくする。うっとりとする。
無時間制に陥れ、無調性的な音楽を奏でる。
そこは、果無い。そこは儚いか、いやそこは果てしない。

僕らは一皿にやがてかける。一皿の饗宴にすべてを賭する。
そうだ、ここは博打の世界。賭しているものたちの(のみ訪れる)饗宴の世界。
ここは、シェフズテーブルまでいかないも、キッチンの空間だけが自負/慈愛でみちている。
賭しているものがそびえ立たせる風貌。

焼き寿司だけではなく、この明石鯛じたいのなんともまあ美味さ。
久方ぶりではないか。魚をやき、それをここまでも<昇華>できているものに出会うとは。
ああ、畏怖である。畏怖である。なんともまあ口にしてしまった後は、過去形の畏怖だった。だけが残る。なんともまあ。

人生には権利と抑止と、貨幣と贈与/貸し借りとでみちている。だからこその、美食。
人生を謳歌させていくこと。グラングデンとドライブかけて人生をまわしていくこと。
快楽の極致(新しい時代の対象aとして)
今後はそれをどれだけ個人レヴェルの欲望から、
ユニバーサルな欲動へと転化させていく術をもつかどうかにかかっている。
生き残り戦略として。

作家は処女作に向かって成熟する

December 07 [Wed], 2011, 22:25
代官山T-SITEに行く。これは代官山オトナTSUTAYA計画の一貫。
他に代官山プロジェクトなど呼称があってちょい分かりにくい。

その中でも柱となるであろう蔦屋書店に行く。2011.12.5.open
はっきり言って。もう、素晴らしい。
息が止まるほど、美しかった。僕の中の鼓動が、大地に根差しているのを感じられる、鼓動/呼吸。
それを立ち上がらせてくる。ああ、こうきたか!って喜ぶ。

今までツタヤに対してはいい感情はもっていなかったのだけれど、
このプロジェクトは。すべて吹き飛ぶ。本当に素晴らしい。
本を愛して、音楽を愛して、映画を愛して、珈琲を愛している人間にとって、
至福であり、あらゆる”寄り添い”を感じる場所が仕上がった。

あらゆるところに配置/配架されているアートとか、
なんだか見えているもの以外の”雲みたいな指向性”のような名付けえぬもの、
の混在が本当に気持ちがいい。

静かなくらいに魅惑であり、官能の文字が起こせないほど、
官能の手前で踏みとどまる。
そういった場所に仕上がっていた。余韻が残る。

マンゴー、秘め事。

October 11 [Tue], 2011, 1:31

人間本性といえるもの

October 01 [Sat], 2011, 14:20
僕は、人間本性に忠実でありたいと思う。
その人間的本性があるとしたならばその宇宙的指針に従って忠実なる犬/従者であっていいと思う。

僕は、先祖返りのような体感をしている。
それとも幼児期への再接近とでもいうか。
たとえば、純なるものへの希求がはなはだしい。
かつて、毎週月曜日の少年ジャンプ発売を楽しみにして、
それを待ち遠しい一週間がある部分すべてであったかような少年時代。

そしていつからか早熟的な僕は、そういったものからへの解離もはなはだしく、
元々、それほどアニメっ子、漫画っ子ではなかった僕は、
次第に高尚な(と思われていた)思想/哲学/文学あたりまえ/映画、へいった。
ニーチェあたりまえ、ドゥルーズ/ガタリよろしく、フロイト、ユングに傾倒し、
1969年前後への歴史的接近、音楽においても黒きジャズのすべてを哀し、深くわけいり、
ECM的音楽を受容し、少年的な部分がうすまっていた(軽んじていた、のだと思う)

そして僕は自分に忠実でいてみた。
30代を迎え落ち着き、
この少年的なるものへの憧憬がうまれてきた。のを感じていた。
そしてそれに忠実になってみた。

おそらく20代的なものがいい具合に、ほんといい具合に
溶け合い、消え去っているんだとおもう。自分のなかから。
ほとんどの人は10代、20代的なあおさや恥ずかしさ、野心/ぶっとび具合があるとして、
まあ僕はその時にもそれらに忠実になり(時に利用し、ともいえる)意識的であった。
そう、20代であることを意識的だった。本能と野生と、半端なさに対して。
人は振れ幅だとおもっていた。だから極端に走り、その走った後に残るもの/地平を楽しみにしている。
それらはいまでも変わらない。だから二重性からは逃れられない。(それでも全然いい)

何がいいたいか。
いま僕は、初めて。
ジョジョとガンダムを、あいしてる(笑)

この僕が幼き時から存在している、そしてその時には”はまれなかった”、
そして”はまれなかった”記憶(すなわち軽い挫折、と痕跡)と同時に、
肥大化していくジョジョとガンダムの存在
(僕の幼い時から、いま現代までも続いていると言う事実のことであるけれど)に無意識下でかってに、
そうまさにかってにトラウマ的マインドをもってしまっていた。
そして!ぼくはそういったトラウマ的マインド/深層下でおもっていた。ような事は

【 果 た さ れ る 】

傾向がある、(あああ、またこんなこと言ってる笑)
傾向があるし、取り戻すとも言えるし、
いずれにしてもジョジョとガンダムがおもしろい(笑)

困難さの歓び。

September 28 [Wed], 2011, 21:34
困難だと思われる事の方が面白くないだろうか?
困難だと思われる先の道の方が面白くないだろうか?

その過程で悶えないだろうか?
僕はあらゆるこれらの困難さ、極めり。に悶える。事実。

そこにありがとうの転成が発生して、困難さがなぜか感謝に変わる。
僕はあの日のままでは無力だった。とっても無力だった。
過信に過ぎて、自信に満ち溢れて、立場だけよくて、困難ではなくて。
それでいて無力だった。
そして今はすべてが逆で、
困難だけれど、無力に思えない。
僕にはみずからの力が底に沈まっているのを、試せるようでいる。感覚をもつ。
今のこの境遇に感謝する。

ねえ、あの日のあの葉っぱはいまはどんなだ。
ねえ、あの日のあの歓びは今は思い出せるかい。

僕は転成を感じてならない。その先にある息吹と匂いと色と音が
交差しているこの時代にいれて本当によかった。


モード化する服から思考が芳醇に生まれるんだなあと実感した夜に。記。
着る衣服が身体に及ぼす、線、点、が思考に純化する。
P R
■プロフィール■
■代替テキスト■
関野 聡(セキノサトシ)
1979年2月18日横浜生まれ

”ネットから、リアルへ。”

仕事こそ、自分の色気を生み出す唯一のものだと思っています。

今の僕は仕事でしか、自己実現は図れないと思っています。

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