なんとわなしに(60)

February 13 [Mon], 2012, 22:36
 なんの体裁も取り繕いもしなければ、社会の一般的な常識も何もかも取っ払ってしまえば、俺も匡子のことが堪らなく好きであることは隠しようもない。そんな俺の気持ちが分かるからこその匡子の暴挙なのだ。
 なんの社会的基盤も生活基盤もない五十男に、二十才年下の女が身も心も委ねようというのだ。これを暴挙と言わずしてなんと言おう。
 三十年前の加奈子とは違う。若い二人が愛に燃え上がったのとは違うのだ。その違いが俺に戸惑いという大きなブレーキを効かせている。

 三十年前に、帰りの加奈子を国分寺から新宿まで送った。新宿で電車から降りる俺に、
「だめなのよね?」
 そう言った目に涙が溢れそうになっていた。その声音が今も脳裏から消えてはいない。
 学生生活も何もかも棒に振ってでも、あの時に加奈子を引き留めておくのが男としての、そんな直向きな女への筋道であったのだ。
 しかも自分のバイトの都合で、まだ物言いたそうな加奈子を残して新宿駅で俺は下車した。
 それでいてだ、バイトから帰った俺は、加奈子がアパートで待っているかもしれないなどと期待をしていた。なんという男なのだ。
 あの時の切羽詰まった加奈子の状況を、加奈子の口から直接聞かなくても読み取ることは出来た。
 すべてが俺の中に選択肢としてあって、しかも選択権を握っていたのも俺だ。
 なのにだ、なのに加奈子との事をこの五十面を下げるまで引きずってきた。自分のつまらなさが身につまされる。

 では、だからといって匡子のことを、俺に悔いが残らないようにすればよいのか。それはなんだか違うような気がする。

 バスルームから出ると部屋の照明が落され、匡子がベッドで毛布にくるまったまま言った。
「こっちに来て欲しいの」
 毛布の形で、匡子が部屋着を脱いでいるのが分かった。
 俺も全裸になって匡子のベッドに入った。

 しがみついてきた匡子の若い肌が俺にまとわりついてきた。
 優しく匡子を抱きしめ直して、その感触の心地よさを二人で共有した。
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