古希を迎える(2)

September 25 [Tue], 2012, 12:48



古希を迎える(2)

9月23日(日)の日記


この日の朝、次男が帯広に帰る前、以前から祈っていた
スカイプによる聖書の学びを彼に提案したら、喜んで応じてくれた。
これから月二回、福音書の学びの分かち合うことになり、
うれしいハプニングとなった。三男も最近パソコンを購入し、
スカイプをはじめるというので、長男を含め、息子三人との
聖書の分かち合いが実現するかもしれないと思い、
ますますうれしくなった。

ニューヨーク、帯広、福島、宇都宮の4地点をつないでの
ユニークな交わりが、やがて家族全体への祝福へとつながってゆく。
そんな夢を描き始めている。神はきっと答えてくれると信じている。

三男の家族が福島へ帰る前、4人の孫たちに、
「どんなゴローじいちゃんでいてほしい?」 と尋ねると即座に、
「やさしい」、「元気で!」。「遊んでくれる!」、「ふつうの!」と
それぞれの答え。すると6歳のはなが、
「はなが結婚するまでいてほしい!」。このリクエストに、
「じゃはなのために頑張って90歳までいないとね」。

それぞれのやさしい思いを受け止めながら、幼子たちの願いが神様に
届くようにお願いしてみたい気持ちにさせられた。



    
   ひょうたん池のススキに秋を感じた古希の朝


古希を迎える(1)

September 24 [Mon], 2012, 19:59





古希を迎える(1)

9月22日(土)の日記


今日、古希の日。猛暑も終わり、過ごしやすい秋の日となった。
昨夜、北海道から次男夫婦が、今朝の10時頃から福島の三男
の家族が加わり、夏椿の木の下でバーベキューの準備をしはじめた。
ちょうど炭火の具合がよくなった頃、次男が送ってくれた
ジンギスカンの肉が届いた。おいしい肉を楽しんでいる頃、
ニューヨークの長男夫婦がスカイプで参加し、家族全員
による古希の祝いとなった。4人の孫たちが楽しさを
盛り上げてくれているのを妻とのんびりと眺めながら、
秋の日の下で、なんとも言えない贅沢な平安を味わった。

その後、94歳の母をホームへ迎えに行き、母も誕生会に
加わってくれた。車いすの母は好きなケーキをいっしょに
いただきながら、にぎやかな家族を楽しんでいる様子だった。

夕食の時、今日の古希を祝うために、家族が遠くから来て、
愛を示してくれたことに感謝し。その後、これまでの70年間の歩みと
良き家族を神に感謝していること、これからはいつ召されるかわからない
年齢だが、いつ召されてもよい生き方をし、家族を大事にして
いきたいと話した。私の人生の節目となる
恵みの一日がこうして終わった。




花のプレゼントもいただいて






古希を迎える日々(5)

September 21 [Fri], 2012, 16:22




古希に備える(5) 最後の日

「キリストとの47年間」から


 若い頃、「私の信仰の生涯は、今年で半世紀になりました。」
と語りだした老牧師を見上げながら、戦前、戦中、戦後の迫害、
混乱の時代を、信仰一筋で貫き通された姿に畏敬の念を抱いた。
信じがたいことに今、私がその年に近づいている。
ここまで歩んで来られたのも主イエス・キリストの深い
あわれみによるのである。心から感謝している。

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって
宿っています。そして、あなたがたは、キリストにあって
満ち満ちているのです。」コロサイ2:9,10 

キリストが私の内におられる故に、私のうちにも神のご性質が
満ち満ちているという、信じがたいが、これが神の約束だ。しかし、
その新たな性質を、自分のためにではなく、人々のために
用いなさいと私にチャレンジされている。

●「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34(愛し合うこと)

●「このわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」ヨハネ13:14
(仕え合うこと)

●「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、
互いに赦し合いなさい。」エペソ4:32(赦し合うこと)

●「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れて
くださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」
ロマ15:7(受け入れあうこと)

こうした行為はその一例であるが、私たちが経験している恵みを
無駄にしてはならない。それを行うとき、必ずキリストの喜び
が私たちにも溢れる。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びが
あなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」
ヨハネ15:11 
キリスト・イエスとの47年間、キリストの喜びは確かに
私の喜びとなっている。

「キリストを知り、キリストを知らしめる」
(To know Christ and to make Him known)
若い頃からのモットーである。これを単にキリストについての
知識を持ち、それを伝えるという意味で伝道に励んだ時期が
あったが、それはほんの一部に過ぎない。
私の生き方がキリストを示し、それが伝わっていくのでなければ、
主は心から喜ばれない。
これからはじまる最後の日まで、この手のわざを確かにする道
を歩ませていただきたい。
これが69歳、最後の日の私の思いである。










古希を迎える日々(4

September 20 [Thu], 2012, 14:27



古希を迎える日々(4)


学生時代、宣教師から「もし、3年間しか生きられない
としたらどうしますか?」と聞かれたことがある。自分の
若さがずっと続くかのように錯覚し、未来をあれこれと、
たくましく想像していた頃「3年間しか・・・」と問われ、
正直戸惑ったことを思い出す。当時、イエスのように
使命感を持って生きてはいなかった私には当然のことだろう。
しかし今では、その質問を、何の違和感もなく受け入れ、
考えることができる。人生の通過点が
私の視野の中にあるからだ。

私は私らしく、神にユニークに造られた者として、
神が願った「私の手のわざ」とは何だろうと考えている。
ヒントは、聖書のみことばと、長く継続しているさまざまの
関係の中にあるような気がしている。
なぜなら、そこに私の喜び、感謝、チャレンジが常に
伴っていたからだ。そこで、ここまで続いている
三つの関係を吟味してみよう。

まずは、主イエス・キリストとの47年間の歩み。
次は、宣教団体国際ナビゲーターのスタッフとしての43年間。
三番目は、妻と家族と共に過ごした42年間。故郷の家族との
70年間。そして神の家族の人々との長いお付き合い。
どれも40年以上続く関係である.
この中から、大事なものを掘り出してみよう。








古希を迎える日々(3)

September 20 [Thu], 2012, 9:53




 古希を迎える日々(3)


人生の次のステージへの通過点(死)を
意識しはじめた私にとって、大事なこととは何かを
知るだけでなく、それが神の御心にかなっているか
どうかを知ることが重要である。それなくして、
残りの人生に充足感はもたらされないと
信じているからである。

詩編90の作者は、挫折と苦渋に満ちた人生ではあったが、
自分の「手のわざ」が神の目にかない、慈愛に溢れた神
によってそれらが祝福されることを期待し、
次のように祈った。

「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。
そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」

詩編90:17 

二度くりかえして終わるこの祈りに、生涯が無駄に
終わることなく、喜びで満たされたいという強い思いが
込められている。
人は、神から「大丈夫。困難の中、よくやった。これからも、
すべてのあなたのわざを祝福する。」とのことばをいただくことで、
新たな希望を抱いて、次のステップへと踏み出せる。
ヤコブが神と格闘し、「私はあなたを去らせません。
私を祝福してくださらなければ。」
創世記32:26 
と迫ったようなしつこさを私も真似たいと思う。

今は、大切な自己吟味の時だ。「あなたがたは、信仰に
立っているかどうか、自分自身をためし、
また自己吟味しなさい。」
2コリント13:5 




古希を迎える日々(2)

September 18 [Tue], 2012, 10:11



古希を迎える日々(2)


古希から先に向かう日々は、それまで1
日に3個できたことを2個、やがて1個しかできなくなる
力の衰えを感じる時である、と多くの先輩が語っている。
多分そのせいだろう、時が次第に、早く過ぎ去ってゆくのを
実感しはじめるそうだ。
「それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」
詩編90:10、とあるようなスピード感ではないにしても、
だれもが感じることのようだ。

少し物悲しく感じるが、この変化は、
私たちのその後の人生を豊かに変えるチャンスを与えてくれる。
今、私も自分の与生にどう向きあい、どう生きるかを真剣に
考えはじめている。
以前のようにたくさんはできないが、
大事なことに心を込めたいと心から願うようになり、
大事なこととは何かを知ろうと神に耳を傾けている。

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく
数えることを教えてください。そして私たちに知恵の心を
得させてください。」
詩編90:12 
この祈りは、どれだけ長く生きることができるかと
年月を数えることではなく、与えられているいのちを、
どう御心に沿って生きたらいいのか、
その導きを神に求める祈りである。
これはまた、古希を迎えようとしている
私の心の祈りでもある。




そばの花が咲き始めた。(裏の丘にあるそば畑)



もうすぐ古希

September 07 [Fri], 2012, 10:19


もうすぐ古希


2週間ほどで古希を迎える。
人生の大きな節目のひとつ。
そこで、心に思い浮かぶことを
書いておこうと思う。

(「シャローム・ブログ」も長期休暇に
入っていたので、そろそろ休み明けにする
よい機会だと思っている。)

近頃、聖書のこのことばが浮かんでくる。
「私たちの齢は七十年。
健やかであっても八十年。しかも、
その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」
(
詩編90:10) 

まさに70歳は人生の節目の年。
と同時に、いつ天に召されてもよい十年に
入るということだ。
何歳まで生きたいかではなく、
どう生きたいかが問われている十年。

これまで、僕と共にあって、どのような労苦も
わざわいも益と変えてくださった
主イエス・キリストとの旅は、
これからもスリルと喜びで満ちたものになろう。

古希をどう迎えようかなと思っていたら、
こどもたちが祝いをしてくれるという。
その気持ちだけで、もう十分うれしい気分に
なっている日々である。





70代は妻が前面、僕は後方



「幸せ過ぎるほどです」

June 13 [Wed], 2012, 21:23



「幸せ過ぎるほどです」

驚きました。
もう二ヶ月もブログを休んでいるのです。
この間、Face bookにしばしば投稿し、異なった
感覚を楽しんでおりました。
これから、僕の大事な旅日記へ戻ります。

母は3月20日に誕生日を迎え、我が家で
誕生日のお祝いをすることができたのです。
このために献吾の家族が福島から、そして妻の妹の
三樹子さんが東京からお祝いに駆けつけてくれました。
母も幸せを感じた一日でした。11月の事故後は、
認知症の症状も出たり、先のことが心配でしたが、
寝たきりになってしまったとはいえ、食欲はあり
、いつも食堂で「おいしい」と言って、
すべてを平らげてしまうのです。

今日6月13日、早苗と共にケアーハウスに行くと、
母は「自分は愛を一ぱい感じます。」と小さな声で
僕の耳元にささやいてくれました。

「お母さんは、イエスさまから愛され、家族から愛され、
みんなから愛されていることを知っていますか」と
聞くと、「知っていますよ。幸せ過ぎるくらいです。」

天にある幸せを目指している母は、本当に幸せだと思う。
僕も、早苗も母から、主から幸せをいただいた
訪問でした。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。」
詩編118:29


病み上がりの阿久津さんが母に庭に咲いた大輪の
アマリリスを楽しんでくださいと昨日持ってきてくださった。







夢をかたちに 5

March 07 [Wed], 2012, 13:12


夢をかたちに 5

「老人は夢を見る」

世を去ろうとしている者に、夢など不似合と考えてしまう傾向がある。
問題だけが後から追いかけてきて、その対応で頭がいっぱい。
だから、夢を見る余裕もない。そう考えてしまう老後は寂しい。
一方、神は「老人は夢を見る」という。

神が与えられた老人にふさわしい夢が二つある。
ひとつは、やがて現実となる栄光の御国の夢。
僕たちはそこを目指して旅を続けている。
もうひとつは、今ここにある御国の夢。
「愛から生まれ、希望によって膨らみ、信仰によってかたちになる」夢。
隣人のための夢。

神は、老人の人生の最後まで、この夢を見させたいと願っておられる。
それは、彼らが人生で多くの辛苦を味わい、見えるものではなく、
見えないものこそ大事だと、「信仰、希望、愛」を深く知ったからだ。
老人は、挫折し、悩んだ分だけ、愛から生まれる夢をいただく
心の準備ができている。
「老人は夢を見る」と、神が老人に期待する意味がそこにある。

すでに老人の仲間入りをした僕は、昨年から
4か月に一度の割で、体に不調を感じている。
風邪、帯状疱疹、蕁麻疹など・・・この一年間、よく病院通いをした。
それプラス、3か月に一度は自治医大の腎臓内科の外来で
ネフローゼのチェック。
まだまだ、自分を健全に保つ努めがあるにしても
加齢と共に避けられない肉体の衰えを感じている。
幸に、この肉体は衰えてきても、目に見えない
「信仰、希望、愛」は衰えない。

今神が僕にふさわしい夢を与えようとして
おられるのが分かる。これまでの我欲から解放され、
愛で味付された隣人のための夢を。
そんな夢を育ててくれている僕の好きな
聖フランチェスコの祈りがある。

主よ。私をあなたの平和の道具として、お使いください。
憎しみのあるところに愛を、侮辱のあるところに許しを、
争いのあるところに一致を、誤りのあるところに真実を、
疑惑のあるところに信頼を、絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに、喜びをもたらす者としてください。

慰められるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、私が求めますように。
なぜなら、人は与えることによって受け、
自分を忘れることによって自分を見出し、
赦すことによって赦され、
死ぬことによって永遠の命へと復活するからです。


夢が心の底から湧き出てくるような気がしませんか?



夢をかたちに 4

March 04 [Sun], 2012, 21:44


夢をかたちに 4


「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、
まだ見ていない事実を確認することである。」
ヘブル11:1

夢がかたちとなるための最後の鍵は信仰である。
望んでいることが実現すると心で確信しまだ見てもいないのに
すでに見た事実であるかのように確認する。
おもしろいことに、信仰はこれを可能にする。

聖書のみことばは、さらに僕たちの確信を追加支援する。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、
神はその願いを聞いて下さるということ、
これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いて下さると知れば、
神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」

1ヨハネ5:14,15

超飛躍のように思うかもしれない。
しかし、これが全能であると同時に愛である神を信じる
信仰の神髄である。

「夢をかたちに」の結論はこうである。

愛は夢を生み、
希望は夢を膨らませ
信仰は夢を確かなかたちにする。


これが、夢をかたちにするプロセスである。
神は僕たちに信仰と希望と愛を惜しみなく与えてくださった。
この大切な神からの贈り物をふんだんにいただいて夢を見よう。
夢のない生活などあり得ない。
3:11から後一週間で一年。
この年だからこそ、惜しみなく夢を見よう。

現実が夢から遠く感じられる時が多いのは事実だ。
そんな時、このプロセスを振り返り、ひとつひとつの
夢について自問しよう。
「夢は愛から生まれたのだろうか。」
「夢を希望で膨らましているだろうか。」
「信仰によって、まだ見ていない夢を確認しているだろうか。」

2012年は僕にとって「夢見る年」
年の終わりに、このことを振り返る時が今から楽しみである。



      早朝からの訪問客
2012年09月
« 前の月  |  次の月 »
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:shalomblog
読者になる
Yapme!一覧
読者になる