「まな」の試練

February 06 [Sat], 2010, 8:46
「まな」の試練

「エリザベス・カラー」とか名前はずいぶんと
かっこいがいいが、子猫にとっては実につらいカラーに違いない。
2月1日に避妊手術を行ったので、傷が完全に癒されるまでの
10日間これをつけていなければならないという。餌も水も
思うようにとれないし、毛づくろいが大好きな猫のあの
しぐさができない。移動するにもあっちにぶつかり、
こっちにぶつかり、「ああ、かわいそう!」と
思わず叫びたくなる。

夜、妻と寝るときにはひやっとしたカラーが
彼女の顔に触れるので、妻も最初の晩は眠れなかったという。
後、4日間、まなと共にこの苦痛を耐える妻と僕である。
人が試練を共有することで絆が深まるように、まなとの
はじめての苦労、苦痛を共にすることで、我が家の
”娘”との新しい家族関係が築かれるのかも
しれないと思った。

・・・こんな風に思う僕は、猫好きなあの夏目漱石に
大分似てきたかもしれないと思う今日この頃である・・・



少しタフになったかな?

February 05 [Fri], 2010, 20:19
 少しタフになったかな

毎週、二回ほど介護老人保健施設(老健)に
入所している母を訪問しているが、最近気がついたことは、
母が家にいた頃に比べ気持ちに張りがあるようになってきている
ことだ。母によると「これまでよい人々に守られ『平和ボケ』して
いたけど、ここではいろいろな人と生活し、いろんな人の人生に
直に触れるでしょう。自分は自分らしくと思うからでしょうか、
少し元気になりました。」

そう語る母の顔を見ると、少し引き締まったような
感じがする。なんでも話せるお友達も与えられ、その方が
落ち込むと、支えてあげるという。「神さまにすべてをゆだねて安心
できる幸せ」を知っている母が、人のために少しでもお役に
立ってという幸せを見つけたようだ。

訪問すると、日当たりのよいところにあるソファーに座り、
いろいろお話を聞かせてもらう。そして「何か心配なことはある?」
と聞くと、「わたしのことは全く心配ないですよ。早苗のことが
心配なだけ。」と娘の病のことがやはり気になるようだ。

「この前の検査で数値は少し下がってきたから
安心していいですよ。」というとホットした顔をする。
母とはその後、聖書を読んでお祈りする。こうして私たちは
すべてのことを主の御手におゆだねする。お祈りとみことばによって、
安心はいつも愛する神から来ることを確認するひと時である。

最近、教会の婦人たちが二回も母を訪問してくれた。
人と人の温かい交流が続いていることが母に大きな元気を
与えている。長崎の教会の婦人からも時々、お手紙をいただく。
それらは宝のように大切にしておく。老健生活を送る母を見て、
申し訳ないなと思っていた私たちにとって、
この最近の変化は大きな慰めとなった。

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしは
そうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは
背負って、救い出そう。」イザヤ46:4


弱さの体温計10 「弱さを誇る」5度

January 27 [Wed], 2010, 17:21




 「弱さを誇る」5度

 「弱さの体温計」の1度〜4度までは僕たちの
経験の範囲内であっても、「弱さを誇る」ことは僕を含め
多くの人々にとって未経験の分野ではないだろうか。

「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」2コリ12:9と言い切れた
パウロは、「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」というキリストの
約束の力を味わっていたに違いない。彼のメッセージは、それまでの
弱さのイメージを払拭させ、本当の弱さは力であることを教え、
弱さを通して、だれにも人生に逆転勝利をもたらす
チャンスがあることを示してくれた。

パウロが、三度も取り除いてくださいと祈ったにも拘らず、
取り除かれなかった「とげ」。この独特の弱さのおかげで、彼は
高ぶることから守られ、謙遜にさせられ、キリストの完全な力を
いただき、愛の宣教を広げていくことができた。もし、僕たちに今も
なお取り除かれていない弱さがあるなら、「私の弱さは、私が無力
にされ、そこに神の力を招き、愛の実を結ぶ助けをしてくれる
個性である」と、一度明るく考えなおして見る
機会としたらどうだろうか。

 「弱さを誇る」こととは、自分の弱さを誇らしげに人に
語ることではない。そうではなく、反対に、自分をからっぽにして
神の御前で静まり、深い交わりに導かれることである
「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ行き、そこで
祈っておられた。」
マルコ1:35と書かれているのは、「自分
からは何事も行うことができません」
ヨハネ5:19と日々告白された
イエスの弱き姿であり、御前における静まりは、イエスにとって
父の御心を完全に行う力をいただく鍵であった。

そういうわけで僕たちも御前で静まり、弱いままで
イエスと共にあるなら、御霊の実である愛の力をいただくだろう。
己の力を誇らない、しかし、己の弱さを誇る。そこに神の力が
現わされ、神に栄光が帰する。これが神の約束なのだ。

「このすばらしい宝〔いま私たちのうちに輝いている光と力〕は、
こわれやすい器〔私たちの弱い肉体〕の中に入っています。 うちにある、
その栄光に満ちた力が、確かに神様から与えられたものであって、
私たち自身から出たものでないことは、だれの目にも明らかです。」

2コリ4:7(リビング・バイブル)



弱さの体温計 9 「弱さが益となっている」4度

January 26 [Tue], 2010, 20:17


 
弱さの体温計 9

 「弱さが益となっている」

弱さを受け入れることを助けてくれる4つの
提案を知ったとしても、どうしても受け入れることの
できない弱さというものがある。それが自分の体をなおも
苦しめたり、生活を不安定にしたり、まわりの人々や家族に
迷惑をかけたりしているならなおさらだ。そうした時、10ある弱さの
内のひとつでも受け入れられる経験をするなら、他の弱さも次第
に受け入れる意味を発見できる。こうして弱さを見る見方に、
少しずつ変化生まれてくる。小さな一歩は大きな変化を生み出す。
聖書もこう励ましてくれている。「期待が長引くと心は病む。
望みがかなうことは、いのちの木である。」
箴言13:12

Mさんは今も重度の障害を背負っており、介護する
方の助けなしでは普通の生活はできない。ところが、彼女は
イエスとの出会いによって、「今の自分が最も幸せ!」と躊躇せずに
告白できる人と変えられた。そのことばをはじめてお聞きした時、
その真意を疑ったほどだ。今彼女は、自分の弱さを自分の個性
として受け入れ、比較の呪縛から解放され、自分にしか
できない貢献をしようと行動している。

「自分は、障害者と健常者の橋渡し役になりたい」と以前
私に語ってくれた彼女は、小学校へ出向き、子どもたちに障害者
の生活を語り、自分の幸せを語る。そのことで子どもたちに
障害者に対する偏見がなくなり、豊かな心の持ち主に
なってほしいと願っている。

彼女は数年前に介護支援の会社を立ち上げ、福祉に
携わろうとしている大学生を育成することにも力を注いでいる。
Mさんはすでに70歳。どこからそのような力が沸いてくるのだろうか。
ひとつ確かなことは「弱さのうちにキリストの力が完全に
現わされている」
というイエスの約束が彼女のうちに
実を結んでいる、ということだ。

嘆きしかもたらさない弱さのイメージがある一方、
人々に幸いをもたらすプラスの弱さがある。弱さを恥じたり、
不安に思ったりした時、弱さは人と比較して感じる無力さや、愚かさ
であり、口からでるのは嘆きばかりであったが、弱さを受け入れた今、
「弱さは人が無力にされ、神の力がそこに注がれ、愛の実を
結ぶ助けをする独特の個性」となったと言える。

人にはそれぞれ肉体的、知的、社会的、経済的な違いがある。
以前僕は、その違いで他者をねたんだり、うらやましく思ったりした。
そんな思いに引きずり込まれそうな時、この新たな弱さがもたらす
ブラス面を思い出し、僕の弱さが僕独特の個性であると思うよう
にしている。今、この難病を僕の個性として受け入れている。
その個性から自由になる時もくるだろう。しかし、その時まで、
このことから学んでいる豊かさに感謝したい。
この経験がなかったら僕は弱さをいつまでも
恨んでいたかもしれない。



弱さの体温計8 

January 25 [Mon], 2010, 10:07




「常にある希望を糧とする」

 弱さを受け入れるようになるきっかけは、
人と自分とを比較する思いから解き放たれることによって起こる。
そのために、能力の有無にかかわらずある「存在価値」を認めること、
「イエスの弱さ」を知り、弱さがもたらす力、価値に目を留めることや、
比較から解放された「経験者の物語」に耳を傾けることなど
お話してきたが、大事なことをもうひとつ忘れていた。
それは「常にある希望」を糧とすること。

 不安という闇は、希望という光が訪れることよって
消え去ってゆく。僕が二度の大病で倒れた時、熱心に
「私の助けは、どこから来るのだろうか」(詩篇121:1)と求めたものは
希望だった。いやされるという希望、主がともにいて下さり、最善の
結果へと導いてくださるという希望。それらの希望は、回復を
忍耐して待つ信仰を強めてくれた。

 僕の希望は、神があらゆる事態に備えておられる
約束にある。将来の希望、死の後の希望など、それらに目を留め、
信仰によって受け入れるなら不安は小さくなり、抱えている弱さも
プラスに変えられるものとして受け入れられるようになる。
 
 見える世界に不安を感じるのであれば、見えない世界に
ある希望を求めるがよいと聖書は教えている。体力、知力、能力、
財力などなど、これらは一時的なもの。不安はいつもそこから湧き出る。
しかし、目に見えないもの、いつまでも続くものに心を傾けるなら、
そこにある希望は今の弱さを受け入れる勇気を与えてくれる。

「ですから私たちは勇気を失いません。たとい
私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠
の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えない
ものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、
見えないものはいつまでも続くからです。」
2コリ4:16~18

E.キューブラー・ロスは、人が死を受容するまでには否認、怒り、
抑鬱、取引、受容の5段階があるという。ロスはこの過程を歩む時
「希望」の必要性をこう述べている。「病気の段階がどうであれ、
対処機制がどの段階であれ、患者は最後の瞬間までなんらかの
かたちで希望を持ち続けていた。

チャンスをほのめかされることなく、希望を与えられることなしに
致命疾患を告げられた患者は、最悪の反応を示し、そうした残酷な
告げ方をした人とは決して和解することがなかった。
わたしたちの患者に関する限り、どの人もなんらかの希望を
持っていた。わたしたちはこれを忘れるべきではない。」
(「死ぬ瞬間」より)

 希望の中の希望、それは復活の希望である。
僕たちはその時、キリストと顔と顔を合わせ「キリストに似た者」
(1ヨハネ3:2,3)とされる。この希望をいただく時、
弱さを受け入れる思いは強められる。




弱さの体温計 7

January 15 [Fri], 2010, 13:33
 
冬の庭 蝋梅の花


 弱さの体温計 7
      
弱さを受け入れている 3

 「経験者の物語を聞く」

 パウロの経験が僕たちの目を開いてくれる
のと同様に、僕たちの周りにいるキリスト者の弱さの経験を
お聞きする時、弱さを通して働かれるイエスの恵みのわざを
覚えて励まされる。そうした方々の生きた物語は、「弱さは益となる」
と確信する次のステージに向かう上で勇気を与えてくれる。
それだけでない。弱さを仲介にして、お互いが結び合い、
共に成長してゆくという恵みをもたらしてくれる。

「弱さの情報公開」で知られている『浦河べてるの家』
のコミュニティーについて以前このブログでも書かせていただいた
ことがある。弱さを隠して生きるのではなく、互いに自分の弱さを
知ってもらい共に生きる障害者のコミュニティーだ。しかし、その
コミュニティーが発信する弱さの力は、弱さにおどおどしながら、
現わせないでいるばらばらのコミュニティーに、愛のある
コミュニティー再生の知恵を教えてくれる。
そのひとつを紹介しよう。



「弱さを抱えて生きている人も、これまで自分の弱さに
気づかずに生きてきた人も、自分たちがほんとうに弱い存在
として生きているんだと気づくところからコミュニケーションが
可能になってくる。コミュニケーションというのは、人と人の触れ合い
であり、人と人のつながりである。

『人間が弱さを絆にして出会う』というのは、
そういうことだった。弱さはコミュニケーションの基点である。
そこから、弱さを絆として、新しいコミュニケーションネットワーク
が生まれてくる。弱さを基点にして、ほんとうの人のつながりが
生まれてくる。だからこそ、弱さを大切にすることはすばらしい。
弱い人は、そこに存在するだけですばらしい価値がある。」
(「とても普通の人たち」四宮鉄男)

 僕も数人の弱さを分かち合う仲間がいることを
感謝している。「弱さの体温計」でお互いの弱さを分かち
合う仲間も少しずつ増えてきている。そんな仲間とともに、
弱さを受け入れ、自分をも受け入れ、互いに受け入れ
合うコミュニティーが生まれてくるのを
楽しみにしている。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。」
詩篇119:71 

弱さの経験は、さまざまな人に、自分の価値、
人生の意味を、そして人生を共に歩むために必要な
真理を明らかにしてくれる。弱さの中に隠された宝を
見つける喜びが始まるのもこの「弱さを受け入れる」段階からだ。


冬の庭 ゆり


弱さの体温計 6

January 14 [Thu], 2010, 15:02


我が家から1月の夕日


弱さを受け入れている 2

「イエスの弱さを知る」

二つ目は、イエスの弱さを知ることで、
それまでの弱さのイメージを反転させることができる。
聖書に、イエスは「弱さのゆえに十字架につけられた」(
2コリ13:4)とある。なぜ、神である方が弱さを背負われたのだろうか。

全知全能の方が弱くなる。その姿をパウロはこう表現した。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる
ことができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって
現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の
死にまでも従われたのです。」
ピリピ2:6~8

キリストの弱さとは、ご自分を「無にする」ことである。
それは「空にする」こと。「入れ物が空っぽになるまで、その入れ物
からものを取り出す場合に用いられる。」(バークレー)イエスは
「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは
何事も行うことができません。父がなさることは何でも、
子も同様に行うのです。」
ヨハネ5:19と言われた。

全知全能の神が、空っぽになって
「自分からは何事も行うことができない」者となる。
これがイエスが背負った弱さである。それはイエスが父の御心
を成し遂げるため、父なる神の力がイエスに完全に
現わされるためだった。

しかし、これを貫くことにはイエスにさえ戦いがあった。
ゲッセマネのイエスの祈りにその思いが現されている。
「『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。
しかし、わたしの願ではなく、みこころのとおりにしてください。』・・・
イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の
しずくのように地に落ちた。」
ルカ22:42,44 

イエスは十字架に至るまで、さまざまな誘惑に勝利し、
無力さという弱さを貫き通した。だからこそ、すべての人の罪を贖い、
罪を赦すための業は完了した。父はその後イエスに力を与え、
イエスは復活され、今も生きておられる。



僕たちが目指す弱さは、この無力さに近づくことだ。しかし、
イエスでさえ困難であったことが、どうして僕たちに可能なの
だろうか。ところが面白い事に、僕達がこの道に近づくのを助けて
くれるのが、自分に与えられている取り去ることのできない弱さなのだ。

パウロが取り去ってくださいと願っても取り去られなかったとげは、
彼が高ぶることがないように与えられた弱さであった。(2コリ12:7)
この弱さを受け入れることで、パウロは謙虚さを保ち、キリストの力を
自分の内にいただくことができた。イエスはパウロにこう語って励ました。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、
弱さのうちに完全にあらわれるからだ。」2
コリ12:9 

イエスご自身が父との間で経験したことが、
今度はパウロとイエスの間で起こった。パウロに起こったことは、
僕たちの中にも起こる。これが神の約束である。

「自分の無力さを受け入れられたとき、
神の大いなる力がわたしたちを満たします。」マザー・テレサ

僕達も自分の弱さを自覚し、「自分からは何事も
行うことができません」と告白し、神の導きと力に期待するなら、
御霊を通し、イエスの力が私たちの内に注がれる。パウロが
「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで
私の弱さを誇りましょう。」
2コリ12:9と宣言した思いが
伝わってくる。「弱さを受け入れる」この段階で、弱さが僕たちに
与えられている意味、目的が理解できれば、弱さを受け入れる
思いは次第に強められるに違いない。





我が家からの1月の夕日

弱さの体温計5「弱さを受け入れている」3度

January 13 [Wed], 2010, 21:29




 「弱さを受け入れている」

「イエスの視点から見る」

「自分の弱さを受け入れる」。弱さに関する認識は
ここからガラッと変わる。それまで、「弱さは人と比較して感じる
無力さや、愚かさであり、その実は嘆きである」と弱さをマイナスに
見ているが、ここから、弱さをプラス思考で見るように
変わってゆく分岐点である。

 では、人はそれまで恥じてきた自分の弱さ、不安や
恐れを与えてきた弱さを、どのようにして受け入れることができるように
なるのだろうか。どうしたら人の中に住みついている弱さのマイナス
思考がプラス思考へと変わってゆくのだろうか。この難しい変化
を助けてくれものの中から三つ紹介しよう。

ひとつ目は、イエスの私たちを見る見方に注目することだ

ふたつ目は、イエスの弱さを知り、この新たな弱さの考えを自分に
取り入れることだ。


みっつ目は、弱さを受け入れ、嘆きから喜びへと変えられた
人々の物語を聞くことだ。


この変化は、ある人にとっては案外早く訪れるものかも
しれないが、ある人にとっては長い旅が必要であるかもしれない。
僕は長旅をしたひとりである。しかし、どのような旅であれ、
イエスの愛は変わらず、その人に寄り添って目標へと
導いてくださる心温まる旅である。

ひとつ目の「イエスが人を見る目で自分を見る」ことに
ついて考えよう。これは僕たちを比較の呪縛から解放してくれる。
なぜなら、神は人の存在の価値は、その人の血筋、能力、体力、
財力などにあるのではなく、その人の存在そのものに価値が
あると見ておられるからだ。人は神の姿に似せて創造され、
人は創造のはじめから愛されており、また、そのいのちの
価値はイエスのいのちと引き換えになるほどに
尊いものなのである。

僕はこうした大切な事実を、障害を持っておられる方々との
出会いから学ばせていただいた。特に幼い寝たきりのKちゃん
から無言のメッセージをたくさんいただいた。競争社会から取り
残されたような人々が、競争社会が失った人の尊厳や価値を
思い起こさせてくれている。彼らに人の存在そのものの
価値の大きさを幾度も教えていただいた。

聖書が教えている人間の価値と尊厳に関するみこことば4つ:

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」
創世記1:27

「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。」
ヨハネ3:16

「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」
ローマ14:15

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは
あなたを愛している」
イザヤ43:4

このことを心から受け入れるなら、自分を他人と
比較し、価値判断の基準にするような愚かな考えから
次第に解放されてゆくだろう。



弱さの体温計4 「弱さに不安を」2度

January 06 [Wed], 2010, 21:48



弱さの体温計4 
   
 「弱さに不安を感じる」

弱さは人と比較して感じる無力さや、愚かさであり、
その実は嘆きである。過剰な嘆きは恥の感覚を生み、
弱さを隠すが、隠してもどうせ神に知られている弱さなら、
親しい仲間には少し話してもいいかなという少しオープンな思いに
なった状態がこの2度。「仕方がないかな」とある種の開き直りに似ている。
ところが、自分について自信がなく、本当に自分は必要とされている
のだろうかと不安を感じることがある。

人はこの状態に長いこと留まっていてことが多く、
不安に感じて、人をねたんだり、腹を立てたり、自分の弱さに
囚われている。こういう状態だと、自分に秘められた可能性や資産
には気付かず、それらは埋もれたままの状態に置かれている。
神を信じる生活をしていても、比重が神と自分の関係
にではなく、人と自分の関係に置かれたまま。


ある日、イエスの十二弟子の中の二人、ゼベダイの
二人の子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て、
「あなたの栄光の座で、ひとりを右に、ひとりを左にすわらせて
ください。」とお願いした。これを知った他の十人の弟子がヤコブと
ヨハネのことで腹を立てた。彼らもまた、十二弟子のなかで誰が偉いかと
気にしながら行動していたので腹を立てた。批判された二人も、
腹を立てた十人も同じ穴の狢だ。

 ここでイエスが弟子たちに「偉くなりたいと思う者は、
みなに仕える者になるように」「先に立ちたいと思う者は、みなのしもべに
なるように」促している。
マルコ1043,44 人との比較意識の
放棄を促し、ただ人に仕える者、しもべとなるようにと教えている。
そしてさらに「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、
かえって仕えるためであり・・・」
と、
その模範に倣うように勧めている。

僕たちは、人との比較の中で長く生活してきたし、
この世界ではそのような意識を持たざるを得ない。しかし、
イエスが言うようにこの世の支配者に倣うのではなく、
しもべイエスに倣うことで、比較の呪縛から
解放されてゆく。



弱さの体温計 3 「弱さを恥じる」1度

January 05 [Tue], 2010, 14:32


「白い道」 軽井沢


弱さの体温計 3

 「弱さを恥じる」

人との比較で感じる弱さの代表格は劣等感。
能力、容姿、健康、家柄、資産・・・などさまざまなことが
比較の対象になる。では、劣等感を恥じと受け取る人と、
不安と受け取る人の違いはなんだろうか。

弱さを恥じと捉える人は、強さ(能力、容姿、
健康、家柄、資産・・・)がその人の存在価値を決定する
大きな要因であると信じており、自分の弱さが知られたら、
自分はそこにいる価値がないと考えてしまう。

解決には、人と比較されるその場を去るか、
それを隠して生きようとするしかないと考える。しかし、
本音を語れない人間関係が続き、建前でしか関係を維持
できない環境は、相当なストレスとなり、身体的、
精神的な問題を引き起こす。

「強さ至上主義」に染まっている社会では、
強い者は成功し、勝利を収め、弱い者は敗者であり、
無用な者とみなされている。今では自由競争は国境を超え、
強い者が生き残り、力ある者が世界市場を支配している。
あまりにも激しいスピードで進んでいる技術革新は、
今日の勝者が、明日もまた勝者であることを保障しない。
朝、会社へ行ってみたら、突然敗者になっていたという
可能性もある。だから、「強くなければならない」
「一番を目指さなければならない」という
プレッシャーは強くなる。

そういう競争社会の有名企業の中で働く
人々の間で、最近うつ症状が多く現れているとの報告は、
「弱さを恥じ」と感じ、弱さを隠し、自分に正直になれないところ
から来ているのではないだろうか。日頃から負けず嫌いで、競争心が
強い傾向にあるなら気をつけなければいけない。プライドが高く、
本物の自分を出したら負けてしまうので、弱さを見せまいとする。
こういう状態は高慢から来ている場合が多く、解決法は
傲慢さを赦していただくことが先決となる。

キリストに出会う前の僕がそうであったし、キリストに
出会ってからもこのような状態にいたことがしばしばあった。
しかし、この罪に気づくごとに、赦しを得ることで、弱さを恥じと感じ、
隠すことから次第に解放されて行った。もうすべてを知って
おられる方がいる。肩を張らずに、弱い自分を他人にも
見せてゆく。そうした姿勢に変化していった。


軽井沢雪景色

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