試作品の品定め2 「揺れ」

March 17 [Wed], 2010, 18:00



試作品の品定め2

「揺れ」について


「弱さの体温計」は3度の「弱さを受け入れている」を境に、
その下にある1度と2度の範囲では、弱さはマイナスに働き、
一方上にある4度5度では、弱さはプラスに働いている。

ある方が「私はプラスからマイナスへとよく振れるのです」、
と自分の経験を話してくれた。実はこの僕もそうである。
なぜ、このような揺れが起こるのだろうか。

ある例を用いて説明しよう。
「弱さの体温計」の1度、2度のマイナス領域を「荒地」と呼び、
3度を「耕地」、さらに4度、5度を「良い地」と呼ぶことにする。
僕自身は自分を「大地」と見なし、その中にこの「荒地」「耕地」
「良い地」が含まれていると考える。

「荒地」の荒れ具合は1度と2度で違うが、
荒地は生み出したくても何も生み出せない土地のたとえである。
「耕地」はかつて「荒地」であった所だが、開墾され、
耕作できる「耕地」に変えられた所。
「良い地」には緑があふれ、実を結び、収穫の時期が
来ている。そこは以前は「耕地」であった所。

僕は、ある時自分のある弱さに気づき、不安を感じた。
気持がプラスからマイナスになる「揺れ」の経験である。
こうした「揺れ」が起こるのは何故か。
それは、僕という「大地」の中に「荒地」がまだあることを
気づかせてくれるためだ。

以前なら「ああ、ここにもまだ『荒地』があったのか」と嘆きたい
気持ちになるのだが、今はそうではない。かえって感謝さえ感じる。
なぜなら、「荒地」は耕せば「耕地」となり、さらには「良い地」へと
変わることを知っているからだ。

だから、今は安心して「荒地」に出かけ、しばらく
「荒地」を調べ、どのようにしたら「耕地」に変えられるかを考える。
分かったら開墾開始だ。こうした作業も、豊かな「大地」を
想像すれば、楽しい作業となる。

このように「揺れ」は、自分を成長させ、自分という「大地」を
一層豊かにするきっかけを作ってくれていることが分かる。
だから弱さを覚え、揺れを経験することはなんら悲観すべき
ものではない。今後も揺れ続け、荒地を耕地へ、耕地を良い地へと
変え続けてゆく。

何よりも感謝すべきことは、この作業を
指導し、助言してくださる主がいつも一緒におられるので、
安心と自信をもって行うことができるということだ。


「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、
荒地は果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」

イザヤ32:15



試作品の品定め1

March 15 [Mon], 2010, 17:04




故郷沼津の夕日(2月)


試作品の品定め1

試作品「弱さの体温計」についてさまざまな
感想をいただき、『弱さ』を日頃分かち合うことの大切さを
深く感じ始めている。また、試作品の用い方についての
有益なヒントもいただき感謝している。

●「日頃、考えようとしない『弱さ』を、五段階に分けて
見つめなおすことで、自分の弱さの認識がどの辺にあるのか
知って見たい思いになって面白かった。」

 『弱さ』はどちらかというとあまり話しあいたくないテーマ。
それを五段階で一気に見てしまうので、「じゃ、自分はどの辺かな」
と気楽に自分の弱さを考えてしまう。『弱さ』の暗い所もあるが、
明るい所もある。そんな両方があるから、希望を感じながら
分かち合える。そんな雰囲気を僕も感じた。

 また、この五段階、まるで人生の旅の「道しるべ」
のようにも見えてくる。行ったり、戻ったり、ゴールを目指し
ながらの旅。しかし、どの時点でも、イエスという旅の道連れが
一緒におられるというだけで旅が一層面白くなる。旅の道連れに
気づかないで旅していた人も、その内に「なんだ、あなたは
そばにおられたのですか」と喜びの声を上げる時が来る。

●「同じ学校の先生方と分かち合ってみたい。」と言われた
先生に「どうしてですか」と聞くと「学校の先生や弁護士、警察など
日頃権威を持って行動している人々は、弱さを出せないで
病んでいるのではないかと思うからです。」

 仲間の先生と二人か三人(内容は口外しないという
条件付き)で分かち合えれば、お互い先生方の抱えている
大きなストレスが少しでも和らぐかもしれないと思われたからだと思う。
人は自分の弱さや心の問題を、分かち合える仲間がいたらすばらしい
と思う。僕の友人に、元牧師さんが「牧師たちも自分の弱さを分かち
合えないで悩んでいる」とその胸中を打ち明けられたそうだが、
僕にも少し分かるような気がする。



春、このテーブルを囲んで
どんなことを語り合うのだろう?

贅沢な春と冬のプレゼント

March 09 [Tue], 2010, 9:25
贅沢な春と冬のプレゼント





 2日から5日まで続いていたカンファランスの後、
12時25分軽井沢駅に到着する妻を迎えに行った。この日は
路地のあちこちに残っている雪がすべて溶けてゆくような暖かな
春の日となり、改札口から出てきた妻は開口一番、「軽井沢は寒いと
思ってきたのにこんなに暖かいとは」とびっくりしていた。この穏やかな
春の日は、腰を痛め、不自由な生活に耐えた妻には神さまからの
春のご褒美に違いないと感じ、僕も嬉しかった。

 妻と共に参加する次のカンファランスまでたっぷり時間が
あったので、胃が「そばモード」にセットされていた妻とそば屋を
探しに出かけた。ちょうど中軽井沢銀座とよばれる手前あたりで、
テラスでおいしそうにそばを食べている数人がいた店があったので
そこに入った。お店の雰囲気も、そしてそばも最高だった。帰り際には
「また来ますからね」とまで約束してしまったほどだ。

「人生に愛を」と題したこのカンファランスで、私は
「寄り添う愛」と題して短く語り、みなさんと共に語り合う時を
持たせていただいた。参加者の何人かとこの課題について
遅くまで深く語り合った。この後も人生を共にできるような
友人たちに会えて嬉しかった。





夜、雪に変わった。7日の朝、起きて外を眺めると、
なんと一面の銀世界! 春から一気に冬へ逆戻りしていた。
朝食前、こんなすばらしい冬景色を部屋の中から眺めているのは
もったいないと、カメラを手にし、散歩に出かけた。風景が僕の心に
何かを語りかけてくれるような所に来ると自然とカメラがそこに向かう。
聖書のことばと風景が一緒になって僕に語りかけてくるような
気がすると一緒に歩いてくださっている方、主イエスを
思い出す。妻もこの雪景色をとても喜んでいた。

短かったが、主から、人々から、そして自然から
たくさんの励ましをいただいた軽井沢の集まりであった。





「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、
決してやみの中を歩むjことがなく、
いのちの光を持つのです。」
ヨハネ8:12



今、僕が試されていること

February 16 [Tue], 2010, 9:32
「今、僕が試されていること」      

5日前、妻が突然「ぎっくり腰」となり、整骨医から
絶対安静7日間を命じられた。「かわいそうに。」と思いつつも、
僕の最初の反応は、妻の痛みに対する同情よりも、さらに山積された
「しなければならないこと」をどうやりくりするかの思い煩いの方が
勝っていた。いつもの僕のパターンで、まずい状態だなと思いつつも、
妻に配慮することば数が少なくなって行った。妻も見抜いて
「やさしくない」と思っていたに違いない。
(妻はそのようなことは口にしなかったが・・・)

やることが多いことに少し苛立ちを感じていた。
毎日の病院通いをしなければならない妻の世話、子猫“まな”
の避妊手術後の世話、老健にいる母の世話、さまざまな家事、
そして奉仕が集中している2月から3月上旬までのさまざまな準備と
日々の働き。これらを頭の中で整理し、どう組み立て、うまく
成し遂げるか。そんなことを考えていると口数が
少なくなるのはやむをえない。

こうした調整に慣れるのに2,3日かかった。状況への
見通しがつくにつれ、妻への配慮も自然体になり、会話もいつもの
通りになってきた。今回のようなケースでは、改めて僕にとって全体を
やりくりし、慣れてくるのに数日間の調整が必要であることが分かった。
この間、思い煩いを主にゆだねることで安心することの
大切さも教えられた。

今年は“寄り添うイエスに倣いて”を掲げて新年度を
スタートしていた矢先の出来事だったので、さっそく試されている
と感じた。(これまでの経験からこうしたことはよくあること)しかし、
よい勉強になった。僕は僕なりの寄り添い方があっていいと思うし、
ケースバイケースで同情の現し方も異なることを受け入れることも
教えられた。明日で1週間になるが、今は痛みも軽減してきた
ようで安心した。今後の1週間が鍵で、油断しないようにと
整骨医に注意されたという。

3月5日から7日のカンファランス参加の許可が
出たことで、希望も与えられ喜んでいる。
「悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。」伝道7:3
ここ数日の顔の曇りは、僕の心に新たな光を与えてくださったと、
主に感謝している。




中央公園の雪景色
まるで桜が咲いたよう に美しかった

「まな」の試練

February 06 [Sat], 2010, 8:46
「まな」の試練

「エリザベス・カラー」とか名前はずいぶんと
かっこいがいいが、子猫にとっては実につらいカラーに違いない。
2月1日に避妊手術を行ったので、傷が完全に癒されるまでの
10日間これをつけていなければならないという。餌も水も
思うようにとれないし、毛づくろいが大好きな猫のあの
しぐさができない。移動するにもあっちにぶつかり、
こっちにぶつかり、「ああ、かわいそう!」と
思わず叫びたくなる。

夜、妻と寝るときにはひやっとしたカラーが
彼女の顔に触れるので、妻も最初の晩は眠れなかったという。
後、4日間、まなと共にこの苦痛を耐える妻と僕である。
人が試練を共有することで絆が深まるように、まなとの
はじめての苦労、苦痛を共にすることで、我が家の
”娘”との新しい家族関係が築かれるのかも
しれないと思った。

・・・こんな風に思う僕は、猫好きなあの夏目漱石に
大分似てきたかもしれないと思う今日この頃である・・・



少しタフになったかな?

February 05 [Fri], 2010, 20:19
 少しタフになったかな

毎週、二回ほど介護老人保健施設(老健)に
入所している母を訪問しているが、最近気がついたことは、
母が家にいた頃に比べ気持ちに張りがあるようになってきている
ことだ。母によると「これまでよい人々に守られ『平和ボケ』して
いたけど、ここではいろいろな人と生活し、いろんな人の人生に
直に触れるでしょう。自分は自分らしくと思うからでしょうか、
少し元気になりました。」

そう語る母の顔を見ると、少し引き締まったような
感じがする。なんでも話せるお友達も与えられ、その方が
落ち込むと、支えてあげるという。「神さまにすべてをゆだねて安心
できる幸せ」を知っている母が、人のために少しでもお役に
立ってという幸せを見つけたようだ。

訪問すると、日当たりのよいところにあるソファーに座り、
いろいろお話を聞かせてもらう。そして「何か心配なことはある?」
と聞くと、「わたしのことは全く心配ないですよ。早苗のことが
心配なだけ。」と娘の病のことがやはり気になるようだ。

「この前の検査で数値は少し下がってきたから
安心していいですよ。」というとホットした顔をする。
母とはその後、聖書を読んでお祈りする。こうして私たちは
すべてのことを主の御手におゆだねする。お祈りとみことばによって、
安心はいつも愛する神から来ることを確認するひと時である。

最近、教会の婦人たちが二回も母を訪問してくれた。
人と人の温かい交流が続いていることが母に大きな元気を
与えている。長崎の教会の婦人からも時々、お手紙をいただく。
それらは宝のように大切にしておく。老健生活を送る母を見て、
申し訳ないなと思っていた私たちにとって、
この最近の変化は大きな慰めとなった。

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしは
そうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは
背負って、救い出そう。」イザヤ46:4


弱さの体温計10 「弱さを誇る」5度

January 27 [Wed], 2010, 17:21




 「弱さを誇る」5度

 「弱さの体温計」の1度〜4度までは僕たちの
経験の範囲内であっても、「弱さを誇る」ことは僕を含め
多くの人々にとって未経験の分野ではないだろうか。

「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」2コリ12:9と言い切れた
パウロは、「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」というキリストの
約束の力を味わっていたに違いない。彼のメッセージは、それまでの
弱さのイメージを払拭させ、本当の弱さは力であることを教え、
弱さを通して、だれにも人生に逆転勝利をもたらす
チャンスがあることを示してくれた。

パウロが、三度も取り除いてくださいと祈ったにも拘らず、
取り除かれなかった「とげ」。この独特の弱さのおかげで、彼は
高ぶることから守られ、謙遜にさせられ、キリストの完全な力を
いただき、愛の宣教を広げていくことができた。もし、僕たちに今も
なお取り除かれていない弱さがあるなら、「私の弱さは、私が無力
にされ、そこに神の力を招き、愛の実を結ぶ助けをしてくれる
個性である」と、一度明るく考えなおして見る
機会としたらどうだろうか。

 「弱さを誇る」こととは、自分の弱さを誇らしげに人に
語ることではない。そうではなく、反対に、自分をからっぽにして
神の御前で静まり、深い交わりに導かれることである
「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ行き、そこで
祈っておられた。」
マルコ1:35と書かれているのは、「自分
からは何事も行うことができません」
ヨハネ5:19と日々告白された
イエスの弱き姿であり、御前における静まりは、イエスにとって
父の御心を完全に行う力をいただく鍵であった。

そういうわけで僕たちも御前で静まり、弱いままで
イエスと共にあるなら、御霊の実である愛の力をいただくだろう。
己の力を誇らない、しかし、己の弱さを誇る。そこに神の力が
現わされ、神に栄光が帰する。これが神の約束なのだ。

「このすばらしい宝〔いま私たちのうちに輝いている光と力〕は、
こわれやすい器〔私たちの弱い肉体〕の中に入っています。 うちにある、
その栄光に満ちた力が、確かに神様から与えられたものであって、
私たち自身から出たものでないことは、だれの目にも明らかです。」

2コリ4:7(リビング・バイブル)



弱さの体温計 9 「弱さが益となっている」4度

January 26 [Tue], 2010, 20:17


 
弱さの体温計 9

 「弱さが益となっている」

弱さを受け入れることを助けてくれる4つの
提案を知ったとしても、どうしても受け入れることの
できない弱さというものがある。それが自分の体をなおも
苦しめたり、生活を不安定にしたり、まわりの人々や家族に
迷惑をかけたりしているならなおさらだ。そうした時、10ある弱さの
内のひとつでも受け入れられる経験をするなら、他の弱さも次第
に受け入れる意味を発見できる。こうして弱さを見る見方に、
少しずつ変化生まれてくる。小さな一歩は大きな変化を生み出す。
聖書もこう励ましてくれている。「期待が長引くと心は病む。
望みがかなうことは、いのちの木である。」
箴言13:12

Mさんは今も重度の障害を背負っており、介護する
方の助けなしでは普通の生活はできない。ところが、彼女は
イエスとの出会いによって、「今の自分が最も幸せ!」と躊躇せずに
告白できる人と変えられた。そのことばをはじめてお聞きした時、
その真意を疑ったほどだ。今彼女は、自分の弱さを自分の個性
として受け入れ、比較の呪縛から解放され、自分にしか
できない貢献をしようと行動している。

「自分は、障害者と健常者の橋渡し役になりたい」と以前
私に語ってくれた彼女は、小学校へ出向き、子どもたちに障害者
の生活を語り、自分の幸せを語る。そのことで子どもたちに
障害者に対する偏見がなくなり、豊かな心の持ち主に
なってほしいと願っている。

彼女は数年前に介護支援の会社を立ち上げ、福祉に
携わろうとしている大学生を育成することにも力を注いでいる。
Mさんはすでに70歳。どこからそのような力が沸いてくるのだろうか。
ひとつ確かなことは「弱さのうちにキリストの力が完全に
現わされている」
というイエスの約束が彼女のうちに
実を結んでいる、ということだ。

嘆きしかもたらさない弱さのイメージがある一方、
人々に幸いをもたらすプラスの弱さがある。弱さを恥じたり、
不安に思ったりした時、弱さは人と比較して感じる無力さや、愚かさ
であり、口からでるのは嘆きばかりであったが、弱さを受け入れた今、
「弱さは人が無力にされ、神の力がそこに注がれ、愛の実を
結ぶ助けをする独特の個性」となったと言える。

人にはそれぞれ肉体的、知的、社会的、経済的な違いがある。
以前僕は、その違いで他者をねたんだり、うらやましく思ったりした。
そんな思いに引きずり込まれそうな時、この新たな弱さがもたらす
ブラス面を思い出し、僕の弱さが僕独特の個性であると思うよう
にしている。今、この難病を僕の個性として受け入れている。
その個性から自由になる時もくるだろう。しかし、その時まで、
このことから学んでいる豊かさに感謝したい。
この経験がなかったら僕は弱さをいつまでも
恨んでいたかもしれない。



弱さの体温計8 

January 25 [Mon], 2010, 10:07




「常にある希望を糧とする」

 弱さを受け入れるようになるきっかけは、
人と自分とを比較する思いから解き放たれることによって起こる。
そのために、能力の有無にかかわらずある「存在価値」を認めること、
「イエスの弱さ」を知り、弱さがもたらす力、価値に目を留めることや、
比較から解放された「経験者の物語」に耳を傾けることなど
お話してきたが、大事なことをもうひとつ忘れていた。
それは「常にある希望」を糧とすること。

 不安という闇は、希望という光が訪れることよって
消え去ってゆく。僕が二度の大病で倒れた時、熱心に
「私の助けは、どこから来るのだろうか」(詩篇121:1)と求めたものは
希望だった。いやされるという希望、主がともにいて下さり、最善の
結果へと導いてくださるという希望。それらの希望は、回復を
忍耐して待つ信仰を強めてくれた。

 僕の希望は、神があらゆる事態に備えておられる
約束にある。将来の希望、死の後の希望など、それらに目を留め、
信仰によって受け入れるなら不安は小さくなり、抱えている弱さも
プラスに変えられるものとして受け入れられるようになる。
 
 見える世界に不安を感じるのであれば、見えない世界に
ある希望を求めるがよいと聖書は教えている。体力、知力、能力、
財力などなど、これらは一時的なもの。不安はいつもそこから湧き出る。
しかし、目に見えないもの、いつまでも続くものに心を傾けるなら、
そこにある希望は今の弱さを受け入れる勇気を与えてくれる。

「ですから私たちは勇気を失いません。たとい
私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠
の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えない
ものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、
見えないものはいつまでも続くからです。」
2コリ4:16~18

E.キューブラー・ロスは、人が死を受容するまでには否認、怒り、
抑鬱、取引、受容の5段階があるという。ロスはこの過程を歩む時
「希望」の必要性をこう述べている。「病気の段階がどうであれ、
対処機制がどの段階であれ、患者は最後の瞬間までなんらかの
かたちで希望を持ち続けていた。

チャンスをほのめかされることなく、希望を与えられることなしに
致命疾患を告げられた患者は、最悪の反応を示し、そうした残酷な
告げ方をした人とは決して和解することがなかった。
わたしたちの患者に関する限り、どの人もなんらかの希望を
持っていた。わたしたちはこれを忘れるべきではない。」
(「死ぬ瞬間」より)

 希望の中の希望、それは復活の希望である。
僕たちはその時、キリストと顔と顔を合わせ「キリストに似た者」
(1ヨハネ3:2,3)とされる。この希望をいただく時、
弱さを受け入れる思いは強められる。




弱さの体温計 7

January 15 [Fri], 2010, 13:33
 
冬の庭 蝋梅の花


 弱さの体温計 7
      
弱さを受け入れている 3

 「経験者の物語を聞く」

 パウロの経験が僕たちの目を開いてくれる
のと同様に、僕たちの周りにいるキリスト者の弱さの経験を
お聞きする時、弱さを通して働かれるイエスの恵みのわざを
覚えて励まされる。そうした方々の生きた物語は、「弱さは益となる」
と確信する次のステージに向かう上で勇気を与えてくれる。
それだけでない。弱さを仲介にして、お互いが結び合い、
共に成長してゆくという恵みをもたらしてくれる。

「弱さの情報公開」で知られている『浦河べてるの家』
のコミュニティーについて以前このブログでも書かせていただいた
ことがある。弱さを隠して生きるのではなく、互いに自分の弱さを
知ってもらい共に生きる障害者のコミュニティーだ。しかし、その
コミュニティーが発信する弱さの力は、弱さにおどおどしながら、
現わせないでいるばらばらのコミュニティーに、愛のある
コミュニティー再生の知恵を教えてくれる。
そのひとつを紹介しよう。



「弱さを抱えて生きている人も、これまで自分の弱さに
気づかずに生きてきた人も、自分たちがほんとうに弱い存在
として生きているんだと気づくところからコミュニケーションが
可能になってくる。コミュニケーションというのは、人と人の触れ合い
であり、人と人のつながりである。

『人間が弱さを絆にして出会う』というのは、
そういうことだった。弱さはコミュニケーションの基点である。
そこから、弱さを絆として、新しいコミュニケーションネットワーク
が生まれてくる。弱さを基点にして、ほんとうの人のつながりが
生まれてくる。だからこそ、弱さを大切にすることはすばらしい。
弱い人は、そこに存在するだけですばらしい価値がある。」
(「とても普通の人たち」四宮鉄男)

 僕も数人の弱さを分かち合う仲間がいることを
感謝している。「弱さの体温計」でお互いの弱さを分かち
合う仲間も少しずつ増えてきている。そんな仲間とともに、
弱さを受け入れ、自分をも受け入れ、互いに受け入れ
合うコミュニティーが生まれてくるのを
楽しみにしている。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。」
詩篇119:71 

弱さの経験は、さまざまな人に、自分の価値、
人生の意味を、そして人生を共に歩むために必要な
真理を明らかにしてくれる。弱さの中に隠された宝を
見つける喜びが始まるのもこの「弱さを受け入れる」段階からだ。


冬の庭 ゆり


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