『対話篇』読みました
2008.03.04 [Tue] 11:27

ことごとくツボにはまる。それは村上春樹なんかと比べてしまったらやっぱり劣ってしまうものだけれど、こっちはさらに(たぶん、わざと)若くて中くさくて、青くさくした少年の心のまっすぐな部分を的確に描き出していると思う。やっぱりいいものを持ってます、金城一紀。  物語的にはラストの「花」が一番完成度が高い。記憶に関する話なんだけど、もうせつなくてたまらない。最初の「恋愛小説」の冷たい空気も印象的だ。  ただ、「永遠の円環」は後半になればなるほど話がぐだぐだになっていってしまうので、あまりお勧めはできない。
 

『映画篇 』読みました
2008.03.04 [Tue] 11:23

いい!かなりいい!金城一紀の新作は、何よりもまず一映画ファンとして喝采と賞賛を送りたくなる快作だ。小説の世界で、映画や音楽のタイトルで綴られた連作集というのは稀に見られる。その中にはその題名のみを借用して“映画”や“音楽”について殆ど語られない犯罪的なケースもあるのだが(笑)、今作はタイトルとして使われている5つの映画がその物語に密接に関わり、しかも最後にはメビウスの輪の如く連環していくのが嬉しい。しかも、ここで描かれているのは、友情であり、心優しさであり、純粋さであり、切なさであり、そしてもちろん愛である。これって、まるで“映画”そのものじゃないか!金城版「帰らざる日々」の様な、しかし、こちらのラストは、“リプリーが生き残るような”ハッピー・エンドな「太陽がいっぱい」のノスタルジックでセンチメンタルなムードに胸が熱くなり、「ドラゴン怒りの鉄拳」での映画マニアのビデオ店員の優しさに心打たれ、「フランキーとジェニー」の主人公ふたりの若さゆえの脆さと鬱屈感の先に見える切なさと痛みと男気に泣き、「ペイルライダー」の片親の子供の淋しさと健気さと黒いライダーの映画的HEROぶりに心ふるえ、「ローマの休日」の気恥ずかしくなるような一途さに思わず微笑んでしまう。全編映画への愛で貫かれた今作の中で、唯一コケにされ続けた映画が果たしてどんなジャンルのモノであったか、筆者への共感を感じつつ、映画ファンは必読の1冊と言っておきたい。
 

『長崎乱楽坂』読みました
2008.03.04 [Tue] 11:18

舞台は長崎。性と暴力に渦巻く家に生まれついた2人の兄弟。彼らの住む家には、背中に美しい彫り物を施した男たち。ケンカと酒と女で、飽和状態になってしまった、この濁った水槽のような家で育つ二人は、その中でのみ、男を知り、女を知り、人生を知るしかない。 やくざの子といわれながら育つ二人だが、その血が濃く流れているわけではない、むしろ親族の中でタダ1人若くして自死したという噂の画家志望だった叔父の幽霊とともに、男たちをあるときは憎み、あるときは羨みながら、成長する。宿命に抗いながらも叔父の亡霊の住み着いた「離れ」から結局逃げだせない兄。その兄の庇護のもとに、結局は軽快に家を捨てていく弟。 成功や、未来や、夢などという、ボーナスポイントに全く縁のない兄の人生は、どうやっても水槽から浮き上がることはない。 でも、このおにいちゃん、私好きだな。そして、ちゃっかりした弟くんもかわいい奴です。作者の吉田修一は兄の駿でもあり、弟の悠太でもあるのだろう。 これっていつの話かなー、と思いながら読みましたが、文中のお店の名前とかから想像するにやはり私と10歳違いの作者と同じ時代を書いてますね。文だけ読んでいると、もうすこし前のような印象があります。(というのも私自身が長崎出身なので、吉田氏のほかのどの作品より、このお話への思い入れが最初っから強かったわけです。)長崎弁もなんのけれんもなく書かれていて、好感がもてます。
 

『ランドマーク』読みました
2008.03.04 [Tue] 11:14

吉田修一は最近では珍しい、“現代社会”と向き合う作家である。最近の小説は、「過去」と「現在」あるいは「現実」と「幻想」を行き来する“ヴァーチャル”で“おたく”なアプローチが流行りである。そんな中で吉田修一はあえて、“リアル”みたいなものにこだわっている気がする。浜崎あゆみの歌詞を引用する作家なんて他にはまずいないだろう。陳腐で同じ内容を呪詛のように繰り返す浜崎あゆみの歌は文学的には評価されないだろうし、出来れば目をつぶりたい存在だ。だがメガヒットも、求めている大衆がいるということも“リアル”である。良し悪しや好き嫌いではなく、現代社会の風俗をスーパーリアリズムに写し取る、というのがこの作者の姿勢だと思う。先行する作家に村上龍がいると思うが、村上龍初期のダイナミズムや、近年のギミックといったわかりやすさは吉田修一にはあまり感じられない。  本作は、まさに現代日本を象徴するような都市“大宮”のランドマーク・タワーの建築に携わる2人の人物が主役である。2人は同じプロジェクトに関わりながらお互いを知るわけではない。建築家と鉄筋工、妻帯者と独り者、都会人と地方出身者と対照的な2人の“リアル” は、しかしながらパラレルの関係にある。このランドマークが象徴するように2人のそれぞれの“リアル”はちょっとした設計ミスで弾け飛び、一気に崩壊してしまう危うさを抱えているのだ。  本作が残念なのは、現代社会の活写だけで読者に伝えるべきニュアンスに、時々作者の説明が蛇足的に加わってしまう点、そして小説の最後がまるで舞台演劇のようにシンボリックな終わり方をする点だ。  それでも、あえてヴァーチャルという手口を使わずに現代の“リアル”を捕捉しようとする作者の姿勢と力量は十二分に感じ取ることが出来る。紛れも泣く現代の“リアル”を描いた作品だ。
 

『うりずん』読みました
2008.03.04 [Tue] 11:11

歌謡曲の楽しみ方に「詞先?曲先?」ってのがあるけど、この佐内正史と吉田修一のコラボレーションも、「写真先?小説先?」ってのが、ちょっと興味あるね。「VS.」の連載読んでないんで、読んでる人にはネタバレなのかもしれないけど。いずれにしても、吉田修一の小説を読んでから、あらためて佐内正史の写真を見ると、写真だけ見たときとは趣が違って、2度楽しめるのは確かだ。写真と小説をセパレートにした構成はなかなか斬新である。  いやぁ、相変わらず吉田修一は巧いなぁ。この短編集を通じて考えさせられるのは“人生の相似性”と“人生の一過性”ってことだよね。人の人生は皆、少しずつ似ているってことと、人の人生は通過したらもう2度とその時点には戻れないってこと。そして、そうしたことって、どっちも、ある程度歳を取らないとわかんないってこと。悲しい存在ですなぁ。例えば、次のようなくだり。  「でも、こうやってられんのも、若いうちだけっすから」と、少年は言葉を続けた。ただ、その言い方からは、それが本当にそうなのだということを分かっていないのが伝わってきた。  そうそう、若いうちはわかんないんだよね。でもわかった頃には可能性も無くなっていて、それこそが辛い。例えば、次のような中年の独白。  「そうなんだ。ただ、あれからもう二十年以上経つんだなぁ。なんて、今、しんみりしてたところだよ。あのころはアメリカなんていつでも行けると思ってたんだけど、考えてみればもう二十年も行ってない。この先、死ぬまでにもう一度、自分が行くかどうか・・・・・・、いや、もう行かないんだろうなぁ。〜(以下、延々と続く)」  歳を重ねないとわからないことがある。重ねてしまってからでは叶わないことがある。ってことなのかな、人の世は。