私がまだ子供の頃、当時は、木琴と称したが、外来語では「シロフォン」である。日本で、イチバンのシロフォン奏者として一世を風靡したのが「平岡養一」でした。

March 03 [Thu], 2011, 7:37
私がまだ子供の頃、当時は、木琴と称したが、外来語ではシロフォンである。日本で、イチバンのシロフォン奏者として一世を風靡したのが平岡養一でした。たまたま、この度昨日かえさんこと朝倉香絵さんをにお迎えできて、その嬉しさと共に私の心に浮かんできたのが、このお方、左様、平岡養一でした。そこで、彼のProfileに改めて接してみたくなりました。その前に、マリンバとシロフォンの違いをお話しなければなりませんね。そもそも論になりますが、マリンバは、そのルーツであるアフリカから中南米をへて、アメリカへ渡って完成した楽器ですが、シロフォンはインドネシアなど東南アジアで発生した木琴が南のシ脚フェチ官能クラブルクロードを通ってかなりの年月を経過してヨーロッパに渡って、そこでようやく完成した楽器です。また、響きも全く違います。この2の楽器が使われる場面が多いのは吹奏楽だと思いますが、主にシロフォンの場合は、音色が硬く、目立音色。木管楽器などと一緒に細かい動きが多いのです。一方マリンバは、音質がやわらかく、奏者も聴く人にも心身に溶け込む様な優雅な音色。共演する中低音の楽器に、丁度美しい花が開く様な効果を加えます。更に、マリンバの特徴は共鳴管パイプで、そのパイプにより独特の響きが生まれます。また、ステージ映えするように、綺麗な形作られたパイプもあります。では、改めて、平岡養一のProfileに訪れてみましょう。平岡養一ひらおかよういち、年月日年月日は、日本のシロフォン奏者。兵庫県尼崎市出身。慶應義塾大学経済学部業。平岡精二はいとこの子。元来、東京の家系であるが実業家の父寅之助が赴任した尼崎市で生まれる。父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡ひろしで、養一少年も野球の特訓を受けながら育が、体格的に不向きであるとわかり野球の道は断念。小学校在学中に東京へ移住し、慶應義塾大学の中等科普通部に入学。この頃ピアを始めるが、手が小さいためピアにも不向きであるとわかる。それでもハーモニカなどを演奏し音楽を楽しむうちに、銀座の映画館コンパル館で無声映画の伴奏をしている木琴シロフォンに魅せられるようになり、映画館に通う日々が続いた。中学年の時に円の木琴を買い、独学で練習を重ねる。慶應義塾大学の莱ネに上がる頃には学生主催のパーティーでの演奏を始め、円の輸入品の木琴に買い換え本格的な演奏活動へと入っていった。大学は経済学部に進学。この頃には平岡は多くのレパートリー曲を持、木琴のスペシャリストとなっていた。年月、帝国ホテルにて最初のリサイタルを開催。年には当時檜舞台とされていた日本青年館でリサイタルを開催し、成功を収める。年月、父に促されアメリカ合衆国へ留学。レコード録音で稼いだ片道ぶんの旅費にあたる円のみを所持しての旅立ちだった。そして月に受けたのオーディションで、人の中から選ばれ合格。翌年、分間のテレビ番組への出演が決定。この番組は好評を博し、放送回数は回に及び、アメリカ全土の少年少女は、ヨーイチヒラオカの木琴で目を覚ますと言われた。戦時中はを通して日本国内でも放送された。年月、ニューヨークのタウンホールにて独演会を開催。演奏は成功を収め、ニューヨークタイムズも絶賛した。この成功を受けて、相手の両親の許可を得ることができ、年月に結婚。年月、戦争のため日本に帰国。日本ビクターと契約しレコードを発浮キると、日本でも平岡の存在が知られるようになった。また、戦時中から国内を演奏活動して巡り、年までに回を超える演奏会を行った。年後の年月、ニューヨークフィルハーモニーの独演者としてカーネギーホールへ日本人として初の出演。翌年、アメリカの永住権を取得し家族と共にカリフォルニア州に移住。年後には市民権を獲得。日本とアメリカを行き来しながら精力的に演奏活動を行った。年、胃癌により胃を全摘出。月、勲四等瑞宝章を受章。年、歳で生涯を終えた。平岡養一のモットーは幸福と成功は努力して得ねばならぬであった。通崎睦美との再会のこと年、平岡養一が自身で改造を重ね愛用していた年製の木琴が、マリンバ奏者の通崎睦美に譲られた。その経緯は以下の様になっている。平岡が年に行った京都の公演で、当時歳の通崎は合唱団の一員として舞台にいた。通崎が当時からマリンバを習っていたことにより、急遽その公演において演奏することとなり、そこに平岡も参加。歳のマリンバ奏者と歳の世界的木琴奏者の共演となった。年後、第回東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会において、年に紙恭輔が平岡のために作曲し、平岡が初演を務めたシロフォンと管弦楽のための協奏曲を平岡の木琴を用いて再演するという試みが指揮者の井上道義によって企画され、そのャ潟Xトに抜擢されたのが通崎であった。この演奏が成功を収めたのち、客席から見ていた平岡の家族と通崎が交流した結果、平岡の木琴を託せるのは通崎しかいない、と家族が確信。平岡の木琴、楽譜、マレットの全てが譲られることとなった。以降、通崎は平岡の軌跡をたどる音楽的探求を開始。現在も平岡の木琴は通崎によって音を奏でている。補足通崎睦美うざきむみ、年は日本のマリンバ奏者、木琴奏者、随筆家。京都市出身。京都市立芸術大学大学院音楽研究科修了。彼女は、京都市下京区にて風呂敷の縫製を生業とする家に次女として生まれる。歳よりマリンバを始める。年にコンサートデビュー。これまでに、ピア、ヴァイオリン、アコーディオン、箏、三弦など様々な楽器やダンスとのデュオを結成。また、マリンバトリオでの演奏や、オーケストラとの共演なども行っている。デビュー以来、セルフプロデュースのもとマリンバ演奏のコンサートを続けてきたが、年月、東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会井上道義指揮にて、年に紙恭輔が作曲し平岡養一が初演を務めた木琴協奏曲を平岡の木琴で演奏。それがきっかけで、その木琴と曲以上もの楽譜やマレットを譲り受けることとなる。以後、木琴を用いて平岡の軌跡をたどる新たな活動を開始。年月、京都市交響楽団の演奏会下野也指揮において、林光による楽曲木琴協奏曲夏の雲走る初演を務めた。月、木琴による初のを発普B銘仙を中心としたアンティーク着物の収集家としても知られている。年より浴衣ブランドメテユンデのプロデュースを始める。年から年にかけては、着物から現代美術まで通崎の好みの品々を展示する通崎睦美選展通崎好みをアサヒビール大山崎山荘美術館など数カ所で開催した。年には、ほぼ日刊イトイ新聞の企画により、腹巻きとブランケットのデザインをプロデュース。着物に関する著書も発浮オている。賞歴京都市立芸術大学大学院賞年通崎睦美2夜連続マリンバコンサート年青山音楽賞通崎睦美マリンバリサイタル年大阪文化祭賞、京都府あけぼの賞年、藤堂音楽褒賞年ャ塔Oスフロムエイジア年年届くことのない通の手紙年年年2月24日のコンサートのご案内は、下記RLで会場裏千家センター階ホール日時木開場、開演※コンサートは約分住所京都市上京区堀川通り寺之内上る裏千家センター内
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