日高屋

April 16 [Fri], 2010, 18:15
私がまだ20代だった頃、埼玉県の大宮市にあるビルの管理会社で働いていたことがある。

現在は、さいたま市になり地名は変わってしまったが、つい数ヶ月前に車で近くまでいく用事があり前を通ってみた。

まるで変わっていなかった。

私が勤務していた当時のままである。

感慨深げになったわけではないが、2年以上私はその会社で働き、やはりいろいろなことがあった。

私が本格的に酒をおぼえたのも、その時期だった。

「小林君、今日、帰りに寄っていくか?」

「いや、今日は、やめておきますよ」

「何で?」

「いや〜 ここんところ毎晩じゃないですか・・・」

「いんだよ、いいんだって、毎晩だって」

「いや〜」

彼は私の背中のあたりを、ばんばん叩きながら、

「行こうよ、行っちゃえよ」と言うのであった。

私と、先輩の山本さんとの会話である。

仕事の終わりの時間が近づいてくると毎日こんな感じだった。

そして、私はこの会社で働いている間、ほとんど毎日、山本さんと大宮駅の近くにある養老乃滝で飲んだ。

大宮駅から会社までは距離があり

養老乃滝はいつも混んでいた。

山本さんと私はいつも閉店までいて、最後の客になることが多かった。

若かったせいか私たちは、会社への不満よりも、自分の将来について語りことが多かった。

お互いの夢を閉店まで、大いに話した、しかも大声だった。

2歳上の山本さんは、そう見えなかったが、中学校時代物凄い不良少年だった。

山ちゃん今はあれだけど昔は物凄かったんだぜ、と私と年齢が一つしかかわらない同僚から聞かされたことがあった。

「怖かった」と同じ中学校を卒業した彼は言っていた。

一度だけ家にいった時に、当時の写真を見せてもらったことがある。

学らんは長ランで、髪の毛は剃り込みの入った短いリーゼント、数名の友人達とカメラのレンズを睨んでしゃがんでいた。

中学校を卒業したと同時に、暴走族もやめて、的屋の何とか一家というところに住み込みで働き始めた。

たこ焼きか何かを毎日、作って売っていたらしい。

その的屋の一家が温泉旅行に行った時に、宴会で親分に言われてそこにいた宴会芸者と大勢の見ている前でセックスをさせられたと山本さんは言っていた。

「やれって言われて、女とやったんだ、怖くて、いやですとは言えなかったぞ、びっちり背中に刺青があって、オレがやっている横で見ていて、高い声で笑ってるんだよ」

的屋から夜逃げした山本さんは、日高屋、当時の大宮駅近辺にあった来々軒で働き始めた。

そこで日高屋の社長と直接会ったことがあり、社長は若い従業員の話をよく聞いてくれたらしい。

「アイディアがあったら、言ってくれっていわれて、言ったよ、真夏にエアコンの思いっきりかかった場所でラーメン食べるのが、オレは物凄く美味く感じるんですって、そしたら社長が、それはいい、直ぐにそのアイディアを取り入れよう、って言ってくれたんだ」

日高屋の社長は、餃子のアンコを絞った布の袋を持って大勢の人が行き交う南浦和の駅前を、自転車で走っていたことを山本さんに話した。

「そんなだったけど、銀行が金借りてくれないかと言って来た時に、分からない漢字があったんだ、でもなその銀行員はオレの前で笑えなかったんだ、分かるか? 商売で成功するということは、そういうことだ」

山本さんは、いずれフランチャイルズのラーメン屋をやることが夢であるということを何度も言っていた。

小林君いっしょにやろう、とも言っていた。

あれから何年もたった。

私は大宮のビルの管理会社をやめ、山本さんは私がやめる数ヶ月前違うビルの管理会社に移って行った。

私の足はめっきり養老々滝から遠のいた。

山本さんが会社をやめる時にくれたキャノンの一眼レフのカメラは、今で大事にしている宝物だ。

「中華食堂 日高屋」という本を読んだ。

社長である神田正氏が書いたもので、著書の中、確かに山本さんが言っていたように情の深い人であることが見受けられた。

私は山本さんに長く会っていない、彼はどこかでラーメン屋を経営しているだろうか。

時々、日高屋と養老乃滝の前を通ると、彼の言っていた夢を明確に思い出す。

友情の本質的なものとは、そんなものなのかもしれない。









日本の中の閉鎖感

March 26 [Fri], 2010, 15:28
最近の私の最大のテーマは、デパート業界の再編とそこで働く人々だ。

戦後長く小売の王様として、日本経済を牽引し、景気の動向を知るには経済企画庁の発行する経済白書で、百貨店業界の数字が参考にされてきた。

だが、それは今ではすでに過去のものとなり、百貨店業界の数字に見向きする者はいなくなった。

「最大の原因は、黙っていてもお客様が来店してくれるという、謂わば殿様商売的なところが大きい。危機感の欠場ともいえる」と東京都内の大手デパートに勤務する女性は語る。

デパートの合併が進む日本社会で、何をどう変革すれば良い方向へ行くのか、景気回復の兆しの見えないまるで灰色の霧の中経営陣も、そして従業員の生活も迷走している。

まさに、細い道をいくつもない選択肢を、躊躇しながら選んで歩んでいる。

この百貨店業界の先行きの見えない状況は、日本の経済や政治にも現れてると言っていいと私は考えている。

このままでは日本経済は、壊滅状態になるのではないかとマスコミはまるで自国経済を他人事のように報道し続けている。

バブル経済真っ只中の頃、日系平均株価は3915円あり、現在は10824円(’10年現在)に落ち一時は7054円(’09年3月)まで下落したこともあった。

平均株価だけで景気全てを語るのは、やや強引だが現在アジアの国々で景気が悪いとされるのは、日本と北朝鮮だけである。

さらに、データーを参照の為紹介すると、一人当たりのGDP;2003年3位→2008年23位、世界GDPに占めるシェア:1990年14.3%→2008年8.9%、IMD国際競争力順位:1990年1位→2008年22位、全て後退している。

政治では経済はもうよくならないと言う人もいるが、マクロ経済で見る中で、日本のとってきた政策が間違っていたとしか考えられない。

例えば先進国は近年法人税を下げてきた。

外需を頼りとしている日本が国際競争に、諸外国と勝つのは至難の業。

例えば、商事会社が石油の買い付けをした場合、法人税は大きな企業活動の足枷以外のなにものでもない。

稼がば稼いだだけ企業が国に払わなければならないのが、法人税。

自民党政権下、一時的に特別減税というかたちであったものの、その後はまるでない。

そして、民主党政権下では、まるで法人税の引き下げという概念は存在しない。

商法の一部とされていた会社法の改正は、株主優遇し企業経営者が新しいものにチャレンジしずらい状況を作り、そして派遣法の改正は企業活動を、さらに縛るものとなるだろう。

世界経済の中心、マーケットが次第にアジア(中国・インド)に移ってきている中、アメリカや日本の企業は価格の安さに押されている。

つまり中国やインドでは日本の製品は、品質も高いが価格も高いとされている。

韓国の景気が上向いている背景には、インドの家電用品の約6割が韓国製品。

日本を代表する企業PanasonicとSONYの利益合わせても、韓国のサムスンの方が上となっている。

日本の製品がインドで使われいるのは5%以下、韓国企業のコスト・パホーマンスで勝るというのだ。

何故か、第一の理由として日本の法人税の高さ、負担があるのではないだろうか。



1990年代後半に護送船団方式と揶揄された日本の企業は、金融界に訪れたビッグバーンとともに、規制緩和と自由化がされた。

それまで、つまり1990年代に入ったばかりの頃は、為替における常に円安、銀行さえ潰さなければ企業は助けてもらえるという考え方(間接金融資本主義/護送船団方式)、企業が土地や株などから得られる含み益の高さなどがあった。

円安/護送船団方式/含み益経営→プラザ合意/自己資本比率規制/IMF国際会計基準の導入

日本が変化に対応する政策をとってこなかったかと言えば、そうではない。

上記したように、’90年代後半日本はビッグバーンを行い、金融の自由化をしていきている。

当時、金融はロンドンが第1位で、NYが2位だった。

このまま、日本の経済が浮上しなければ、3位は上海、ついでシンガポールに持っていかれてしまう。

15年間デフレが続いている日本、私は漠然とだがもしこのデフレ状況を脱出した時に、デパートの輝く時代がくると予感している。

デパートにこだわる必要があるのでしょうか? と言われることもある、しかし敢えてそこのいデパートの再生を考える意味がある。
 
デパートの時代再来とそこで働く人々の取材を続けていくつもりでいる。













新宿 思い出横丁

March 16 [Tue], 2010, 18:11




社会に私が出たばかりの頃、新宿の南口でビルの管理人をしていたことがあった。

一日に2回ビルの中を巡回するだけで、あとは8時間何もしなくてよかった。

私は、ひたすら読書をして過ごした。

社長と二人きりの細長い、妙な形をした事務所で、まるで映画「家族ゲーム」のように机を横に4台並べて座っていた。

私は、アメリカに行きたいが為に働いていたが、夜間の仕事は断っていた。

夕方になると同世代の大学生がやって来て、当直をする。

時間的にすれ違いではあったが、出来るだけ私は当直をする大学生達と仲良くするようにしていた。

何人か集まる事もあったし、その時には社長が一万円札を何枚か差出、京王デパートの地下で美味しいもの買ってこいと言ってくれた。

日本がバブルで、私も社会に出たばかり。

全てが新鮮だった。

新宿の高層ビル郡の影が直ぐそこに見える、その妙な事務所の窓から、よく社長は外を長い間眺める事があった。

「俺が、九州から出てきた頃と、全く新宿は変わったな。多分、君も俺くらいの年齢になったら、また新宿は変わったなと言わざろうえなくなるよ」

写真は新宿の昔の姿を唯一残した場所と言っていいだろう。

4年ぶりに行ったが、何も変わってはいなかった。

こういう場所はあって然りだと思う。

それとあの社長はまだ元気だろうか。

本業の仕事はまるですることがなく、中国人の知り合いと漢方薬を一生懸命うっていたけど、社長の顔はまさに酒焼していていかにも肝臓がわるそうだった。

漢方薬は効かなかったみたいだ。




ではまた・・・


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小林征司 プロフィール
  • アイコン画像 ニックネーム:小林征司
  • アイコン画像 誕生日:8月8日
  • アイコン画像 現住所:東京都
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