202回 ブログでコメンテーター「笑って過ごしましょう。」 

December 28 [Wed], 2011, 9:27

 先日、私たちの教会の建物があった地区の方たちが入居している仮設住宅の集会所に行ったときのことです。集会所には、これまで訪れた方たちの写真が掲示されていました。仙台市長の写真もありました。20枚くらいの大判の写真のなかに、フランク・シナトラではなく、フランク・サナ寅さんという方の写真がありました。渥美清さんが演じていたフーテンの寅さんと同じ衣装を身にまとった方です。どんな芸をしたのか、トークをしたのか全く分かりませんが、名前が面白いと思いました。尤も、フランク・シナトラを知っている、つまり、若くない人でないと、この面白さはわからないでしょう。

 私たちの教会は3.11大震災以後、海岸の近くから、今は内陸地に移転して、そこで教会の活動をしています。今年の夏に、ダジャレと言いましょうか、ユーモアが大好きなある牧師先生が訪ねて来られました。海岸近くの教会跡地に行きますと、そこは十字架の塔が立っています。建物は見事に流出し、塔しか残っていません。たいていの方々は、私に気を使うのか、それとも、状況を見てショックを受けるのか、皆さん一様に寡黙になられます。私もその方たちに合わせてベラベラと喋ることは控えます。しかし、そのT先生は言いました。「ここには十字架の塔しか無いなあ。塔しか無い。トウシカナイトウシカナイ。内藤だから塔しか無いか。」と言いました。そしてまたしばらくして、この十字架の塔はインターネットの写真では大きく見えるけど。実際に来てみて見ると、小さいぞ。ちいさいど。チーサイド。シーサイドチャペル。」と言いました。それほど面白くはありませんでしたが、何しろユーモアの大御所の先生ですので、私も苦笑いをしていましたが、どちらかと言えば、私も元々はユーモア大好き人間ですから、それまで頭の中にはあったものの、使えないジョーク(ダジャレ)ということで、ひそかに胸の中にしまっていたものを表に出すことになりました。私は「先生。もっと面白いのがありますよ。震災(シンサイ)を受けたので、シーサイドではなく、シンサイドチャペルというのはどうでしょう。」と言いますと、その先生「負けた。」と言って笑ったのであります。
 その後、そのT先生は、私が「シンサイドチャペル」と言って明るくしていたと、その部分だけ取って、T先生が牧会する教会の週報に載せていましたが、正確に言うと、T先生が二回もダジャレを飛ばすので、仕方なく(笑)T先生に合わせて、そう言ったのです。

 こういった話は出す時期や場所を間違えますと、お叱りを受けてしまいそうですが、明るく楽しく笑って生きることは決して悪いことではありません。最近のマジメな研究によっても、笑うと、体の中に善玉の細胞が活動するのだそうで、精神病などには一番効果があるようです。ですから、よく笑う人は長生きする可能性大と言えるようです。
「…真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32)」と聖書は言っています。案外、大真面目に会議などしているときは、色々気兼ねして、本音で物事を語りにくいところがあり、ストレスを感じたりするものです。しかし、ジョークを言い合える場ですと、本音で語るので、真実がそこにあり、自由を感じます。2012年、あんまりマジメになり過ぎないで、大いに笑って、楽しく元気に、そして真実に過ごしたいものです。

201回 ブログでコメンテーター「偶像礼拝への警告」 

October 31 [Mon], 2011, 19:33
 
 二か月ほど前のことでした。アメリカからある牧師さんが私たちの教会に来られ、色々とお話しをする機会を持ちました。しばらくお話しした後、その方が私に「あなたに神様からのメッセージをお伝えしたいが良いか?」と言われました。もちろん、良いも悪いもありません。神様のメッセージなら何をおいても聞かなければなりません。その牧師さんは私に言いました。「あなたは、偶像を打ち砕く(偶像礼拝が罪であるということを指摘するという意味で)メッセージを恐れずに語りなさい。」という内容でした。

 今年、和歌山県で台風による大きな災害があり、那智大滝にかかっていたしめ縄が大水で流されてしまいました。しかし、先日、新たにしめ縄を張り替える様子をニュースで見ました。滝にしめ縄ということは、滝が信仰の対象になっていたのです。私たちの国、日本の多くの人々は、八百万(やおよろず)の神々を信仰しています。木や石などによって形造られた神々はもちろん、自然の大木や滝も信仰の対象になります。信仰と言っても、その信仰の度合いがどの程度なのかは分かりませんが、そういった神々に対して手を合わせて拝む人は無数にいます。なぜ、そういった神々を拝むのか。それは、そうすることが信心深く、良いことであると聞いたり、教えられているからだと思います。

 ところが、聖書は、そういった八百万の神々を拝むことは、偶像礼拝という行為であり、天地を創造した全知全能で唯一の神様に対する反逆的な行為であると位置づけています。では、なぜ、偶像礼拝がそんなに悪いことなのでしょうか。それは、創造主である唯一で真の神様を否定することにつながるからです。ちょうど、自分の親を親として認めず、それどころか親でもなんでもない人を親と思って慕っていることと同じようなことです。もし、我が子がそんなことをしたら、実の親はどれほど悲しむでしょうか。聖書には「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。(出エジプト34:14)」とあり、人間を創造し、生かし、そして限りない関心をもって見ておられる真の神が、人間の偶像礼拝に対して、ねたむほどに心を痛めておられることを、私たち人間は知らなければなりません。

 直接的な偶像礼拝ではありませんが、占いや霊媒も天の神様が忌み嫌う行為として聖書(申命記18:10〜12)は警告しています。朝の民放テレビで、天気予報の続きのような軽快なタッチで占いを放送しています。テレビ局としては、その日、仕事に出掛けようとしている人などに役立つ情報だと思い込んでいるようですが、実はとんだ勘違いで、占いを通して視聴者から祝福を奪っていると言っても過言ではありません。なぜなら占いは、天の神が忌み嫌うことであり、その占いと関わることは、天の神からの祝福を遠ざけてしまうことになるからです。
 聖書の使徒16:18で、パウロは、占いの霊につかれた一人の女性からイエス・キリストの御名によって命じて、その霊を追い出しました。その霊というのは、真の神に敵対する霊であって、人間に幸いもたらすことはありません。偶像礼拝、占い、霊媒、それらは暗闇の世界からもたらされた偽りの教えです。

第200回 ブログでコメンテーター「原発事故と放射能」 

September 30 [Fri], 2011, 21:38

 3.11大震災後、原発事故が起こり、それに伴って、放射能汚染の問題が深刻であると言われています。ある品物を扱う業者さんが基準値を超える放射能で汚染された品物を発送したということで、非難を受けていましたが、おかしな話で、原発により、放射能汚染を受けた被害者であるのに、加害者扱いした報道をされているので「おやっ?」と思いました。こういった報道で、「基準値を超える放射能」と、単純な表現でひとくくりにしますが、実際に、出てくる数字がどういう意味を持つかを知っている人はあまりいません。

 先日、私の知り合いで、事故のあった原発の現場で犠牲を払って建設作業をした方からメールが届きました。その方はトータル数十ミリシーベルトの放射線を浴びたと言っていました。幸い、全く健康に問題ないということですが、浴びた放射線は相当量だろうと想像できました。しかし、その数字がどの程度のものなのか具体的に知りませんでした。そこで、つい最近、そのことをインターネットで少し調べておおよそのことを知るようになりました。関心のある人なら既に知っていることでしょうが、ここで改めて、私が理解した目安となる簡単な基準値を記しておきましょう。

 大きな数値からいきます。7シーベルトの放射線を浴びると100%の人が死に至るのだそうです。次に、4シーベルトでは50%の人が死亡、2シーベルトでは5%の人が死に至るのだそうです。それで、1シーベルトは千ミリシーベルトで、さらに、1ミリシーベルトは千マイクロシーベルトだということです。報道では原発から何十キロ圏内ではマイクロシーベルトという単位が使われていますが、即健康に影響するかどうかという観点からすると、マイクロシーベルトの単位なら問題なしと見てよいでしょう。その上の単位であるミリシーベルトになりますと、かなり多量の放射線であることは間違いありません。但し、原発などに関係なく、自然界においては元々放射線の存在があり、世界平均値において、年間総計で誰もがおよそ2.4ミリシーベルトを浴びているとのことです。

 テレビで、放射能測定器を持って計測している場面をよく見ます。すると、空中よりも地面に測定器を近づけると値が高くなります。また、民家などに行くと、雨どいから流れてくる雨水を受ける排水溝も値が高いようです。つまり、放射能(線)という存在が埃と同じように水によってある程度流動するということが言えます。それならば、ある一か所に深い穴を掘り、その穴に放射線を流し込むような形で、除染したい一帯に徹底的に放水をするという方法も多少の効果があると私は思います。

 また、原子力は、自然界にあるものを破壊し、その破壊から自ら修復しようとするエネルギーを応用したものであると、なにかで読みましたが、人間の技術によって生み出された害毒を同じ人間の技術によって取り除くことはできないものかと考えます。人間に与えられている知恵が、破壊や害毒を生み出すために用いるのではなく、修復と改善、そして平和のために用いられることを願い祈ります。「あざける者たちは町を騒がし、知恵ある人々は怒りを静める。(箴言29:8)」と聖書にありますが、技術面はもちろん、精神面においても、この問題が早期に解決されますように。

第199回 ブログでコメンテーター「もう一つのふるさと」 

September 12 [Mon], 2011, 19:45

 先日、ある年配の牧師さんとお会いしました。その方は、器用な人で、書道が達筆、そしてハーモニカが上手です。最近は老人福祉施設などに呼ばれて演奏するのだそうです。讃美歌も演奏するようですが、やはり、喜ばれるのは、お年寄りによく知られている民謡、歌謡曲、童謡などの懐メロです。歌謡曲の演奏は、前奏にも凝っていて、あの「チャッチャチャンチャン」という、いつになったら歌の部分のメロディーが始まるのかわからないほどの本格的なものでした。そういう中で根強い人気のある歌は「うさぎ追いしかの山」のふるさと、そして五木ひろしさんの「ああ誰でもふるさとがある、ふるさとがある」のふるさとなのだそうです。

 実は、この夏、私は、27年ぶりで生まれ故郷に行ってきました。17歳まで過ごした所です。驚いたことは、過疎化が進み、かつてあったはずの田んぼや畑が荒れ放題で、その原形をとどめることなく、見渡すことのできた山間(やまあい)の空間が雑木などで覆われてしまって、狭い空間が益々狭くなっていました。過疎化ということの実態を体感したと言えるでしょう。確かに、住みやすい所ではないのですが、自分が生まれ育った特別の場所です。ほかのどの地でも得ることのできない特別なものがありました。なぜ故郷は特別なのでしょうか。それは、それぞれの人生に刻まれる最初の新鮮な記憶としていつまでも残っているからなのでしょう。

 旧約聖書の創世記に登場するアブラハムという人は、もう一つのふるさとを持っていました。「彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11:16)」とあります。この地上のふるさとは過疎化や災害で変化したり消失することもあるでしょう。あるいは、その前に、私たち人間の側がこの地上を去らねばならないということもあるでしょう。ですから、私たちは、やがては無くなってしまうふるさとを必要以上に追いかけるということは賢明ではありません。いつかは消えて無くなってしまうものではなく、いつまでも続く、否、決して失われることのない、もう一つのふるさと、天の故郷を持つ者とされましょう。

 アブラハムの孫にヤコブという人がいます。彼は父母の住むふるさとを離れ、叔父の所へ向かいました。途中で日が暮れて、野宿することになり、石を枕にして眠りにつきました。すると、彼は夢を見ました。なんと、天から彼のいる所にハシゴがかかっていたのです。ヤコブは眠りから覚めて、「ここは天の門だ。」と言いました。天の門、すなわち天国の入り口、天の故郷の入り口がヤコブのすぐ傍らにあったのです。
 今日、天の門、天の故郷の入り口はどこにありますか。もちろん、肉眼で見ることはできませんが、確かに存在します。今から、約二千年前、イエス・キリストは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。…(ヨハネ10:9)」と言われました。イエス・キリストは天の故郷の門であり、入り口です。イエス・キリストの十字架の救いを信じる信仰によって、天の故郷、もう一つのふるさとを持つことができます。

第198回ブログでコメンテーター「教科書の地質年代表」 

June 25 [Sat], 2011, 11:22

 私は、当ブログの第102回で「進化論は世界一の大ウソ」という記事を書いています。あえてそういった挑戦的なタイトルにしたのは進化論から一人でも多くの方が目覚めて欲しいと思っているからです。学校に行って十数年も進化論と進化論を前提とした教育を受けている中で、進化論が真実であると考えても、それは致し方ないこととも言えますが、進化論が実は偽りの教えであると目覚めた者として、これを放っておくことは出来ません。進化論が科学だと思い込んでいる人にとっては、進化論を否定する人を科学を否定する非科学的な幼稚な人と思ってしまうのでしょうが、それでも、根気強く繰り返し進化論こそ実は非科学的な幼稚な教えであることを訴えなければならないと考えています。

 進化論を信じ込んでいる人にとって、その考えを支えるもっともらしい理論の一つに「地質年代表」があります。白亜紀、ジュラ紀、デボン紀、カンブリア紀、…いかにも学問的な名前で、これらの名前を知っていれば、地質学者にでもなったような気さえします。もし、教科書の記述が本当なら、例えば、全く、人の手が加わっていない土地を地下に向かって掘っていけば、白亜紀、ジュラ紀、デポン紀、カンブリア紀というふうに、順番に、これらの地層が出てこなければなりません。世界中の学校で、どこか近くの野山にでも行き、この実験(実際に地下を深く掘る実験などは簡単にできませんが)をするなら、教科書の地質年代表の通りの地層が現れてこなければなりません。

 今年、1月に「創世記の洪水コンサート」という本(Duranno Japan発行)が出版されました。サブタイトルに「創世記の洪水がもたらした地球の変遷」とあり、著者はイ・ジェマンという韓国ハンドン大学教授で地質学者です。つまり、これまで地質学を専門とする立場から、一般の教科書に出てくる地質年代を否定する人が私の知る限りでは現れてこなかったのです。その著書の中に「教科書にしか存在しない地質年代表」という項目があり、問題の地質年代表を紹介しているページの前のページで「地質年代表の最も根本的な問題は化石が次ページの図のような順序通りに発見される場所は、地球上のどこにもないという点です。」と言っています。また「地質年代表は水平に分布する化石を人為的に進化論の枠に合わせ、垂直に整理したものに過ぎません。」とも言っています。教科書の地質年代表通りの地層などは、地球上のどこにも存在しないのにもかかわらず、世界中の学校で教えたり教えられたりしているという不思議な現実があるのです。

 この著の中で、イ・ジェマン教授が中心的に語っていることは、あの水平の地層が美しく重なるグランドキャニオンは何十億年もの時を費やして形成されたものではなく、地球規模の大洪水によって、非常に短い期間によって形成されたということです。

 聖書は昔から「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』(イザヤ45:18)」と言っています。そして、さらに「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。(イザヤ45:22)」と、創造主である真の神が私たちすべてに語りかけています。

第197回ブログでコメンテーター「トラウマ」 

June 21 [Tue], 2011, 18:07

 最近、トラウマという言葉をよく聞きます。有名な精神分析学者フロイトが使い始めた言葉ということで、ギリシャ語で傷という意味なのだそうで、心的外傷という意味で使われているようです。3.11大震災で、そのトラウマを負った人は少なくないようです。例えば、大地震のあと「ボーッ」とすることが多くなった人とか、津波の恐怖を体験したことによって、お風呂の水に対して恐怖を感じる人などは、正にそのトラウマが影響しているのでしょう。

  先日のことですが、大震災に関連しての、あるキリスト教団体のセミナーに参加したときのことです。小グループでの分かち合いをしているとき、そのトラウマの話になりました。私自身は、大地震はもちろん、自分たちの建物が大津波の被害を受けたのですが、自分自身の中にトラウマを感じるということは無いので、「トラウマはありません。」と発言したところ、聞いていた人たちが、どうも納得しないらしく、誰かが「自分で気付いていないのでしょう。」と言ったら、それに対して一様に皆が同調するということがありました。被害の規模からしてトラウマがあって当然だと思われたのでしょう。もちろん、専門的な診断をすれば、自分で気づかないトラウマがあるのかもしれません。

 確かに、私は大震災の被害者には変わりはありませんが、トラウマは無いのですから、無いものをあると言うことはできません。そこで、なぜ無いのかということを考えてみましたが、私の場合は、恐怖体験が少なかったというのが第一の理由です。私の知り合いのある方は、二階建ての小学校の屋上から、電柱よりもはるかに高い津波が襲ってくるのを見ているのです。幸い避難した建物に近づく前に津波は低くなったようですが、生きるか死ぬかの土壇場の恐怖だったことでしょう。ところが、私が見た川をさかのぼってくる津波は高さ1〜2メートルの低いものであり、そのあと内陸に押し寄せて来た津波の先端を見ているものの、流れがゆっくりになっているものでした。

 もう一つの理由です。もし、私が、この世がすべてであると思っていたら、今のような精神状態とは違ったものになっていることでしょう。この世は一時的な場所であり、次の世こそ、完璧な場所であると思っています。聖書に「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。(ヘブル13:14)」と、書いてあります。もし、私が、この地上だけで終わると思っているのなら、たぶん、ショックを隠すことはできないでしょう。元々、この地上にあるものは全て消えてゆくものに過ぎません。本来、消えてゆくものが消えてしまっても、それは起こるべきことが起こったとも言えます。ちょうど、私たち人間の本体は肉体ではなく霊魂であるように、消えることのない、正に地震で揺れることのない堅い基礎の上に建てられた永遠の都があるのです。

 ある地震学者がテレビで言っていましたが、日本列島はちょうど吊り橋のようなもので、非常に不安定な揺れやすい島なのだそうです。「地震」、それは、ある意味で、創造主である全能の神が、揺れ動くこの地上に望みを置いてはいけない、もっと他に揺れない地がある、堅い基礎の上に建てられた永遠の都が別の場所にあるということを暗示しているのではないでしょうか。ですから、大事なことは、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され、天のいのちの書に名が記された者とされ、永遠の天の都に入る特権を得るということです。トラウマを軽減したい方、あるいはゼロにしたい方は、その特権を得ることが有効であると信じます。

第196回ブログでコメンテーター「なぜ?の答え」 

May 27 [Fri], 2011, 23:53

 しばらく前の河北新報という新聞に、「3.11大震災は、なぜ起こったのか?」というテーマで、フリージャーナリストの立花隆さんの記事が掲載されていました。その記事の中で、ローマ法王と日本の少女との会話が紹介されていました。少女が法王に「なぜ、大震災が起こったのですか。」と問うと、法王は「私には分かりません。私もなぜなのかを神に祈り求めています。でも、神様はいつも私たちと共にいます。」と、そのようなやりとりがあったようです。そして、立花氏は、記事の最後を「なぜ?と、問い続けることが大事だ。」と結んでいました。

 哲学者や文学者は「なぜ?」と問い続けることが、その務めかもしれませんが、それだけでは何か腑に落ちない思いも拭いきれません。やはり、答えが欲しいというのが本音でもあります。私は、その答えを聖書の中に探しました。新約聖書のローマ11:33〜36にその答えがあるように思います。残念ながら単純明快な答えではないのですが、33節に「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」とあり、全知全能の神様のお考えを理解することは容易ではないことが分かります。ですから、分からないことを無理矢理分かろうとする必要も無く、分からないことは分からないままにしておいて、あとは神様にお委ねするということが最も賢いことであると言えるでしょう。

 もちろん、分からないから何もかも神様にお委ねして、あとは何もせずにいて良いということはないでしょう。34〜35節には「だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。」とあります。三つのことを言っていますが、ちょっと分かりにくいので、分かりやすく理解するために、逆説的な表現を元に戻して、直接的に言い直しますと、@主のみこころを知りなさい。A主のご計画にあずかりなさい。B主に与えなさい。となりますが、これだと分かりやすいでしょう。

 つまり、私たちの人生、そして、この世界は分からないことだらけではあるけれども、はっきり言えることは、この世界を創造した全知全能の聖なる神様がおられることを信じるべきであり、神様のもとから来られた救い主イエス・キリストを信じ受け入れ、罪の赦しと永遠のいのちにあずかるべきであるということです。全ての人は、やがて神の審判の前に立つ時が来ます。そのとき、私たちは何を持っているでしょうか。お金も知識も名誉も学歴も、もちろん、それまで積み上げた良い行ないさえも役に立つことはありません。イエス様の十字架と復活を信じる信仰によって、罪の赦しを得ているかどうかということだけが問われるのです。

 そして、私たち一人一人に、与えてられている神のご計画に自分の人生を重ね合わせていくべきなのです。さらに、もう一つ「主に与えなさい。」ということですが、私たちが持っているものは元々、神様から与えられたものに過ぎません。自分の命もそうです。自分のものは自分の思う通りにするというのが、普通の考え方でしょう。しかし、自分の思い通りに生きるというのは、自分勝手な生き方であり、結局、それは、自分を幸せに導くことはありません。私たち一人一人に命を預けてくださった真の神様に、自分自身をお捧げして生きる生き方を、実は、神様ご自身が望んでおられるのです。

第195回ブログでコメンテーター「ターニングポイント」 

May 16 [Mon], 2011, 20:43

 人それぞれに人生のターニングポイントがあると思うのですが、この春の3.11大震災は、多くの人にとっては、共通してそのターニングポイントになったのではないかと思います。私自身もその中の一人で、震災前と後とでは生活が大きく変わりました。それまで住んでいた家は無い、来ていた服も無い、コレクションをしていたわけではありませんが、自分なりにお気に入りで使っていた様々な生活用品も全て無くなってしまうのですから、変わらないはずはないでしょう。

 先日のことでしたが、キリスト教関係の新聞記者より被災した跡地で取材を受けていますと、ちょうどそこに地元のテレビ局がやってきて、取材を申し込まれました。海の側の教会で、ひっそりと静かにしていた者なのですが、こういったことで、ある意味、表舞台に引っ張り出されて、若干、複雑な気持ちを伴いながらインタビューに応じました。複雑な気持ちと言いますのは、例えばプロ野球選手ならば、サヨナラホームランを打って、大活躍した選手としてインタビューを受けているのではなく、本塁打の通算新記録を打たれてしまった投手としてインタビューを受けているのと似ているのかもしれません。しかし、聖書を見ますと、使徒パウロは「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(第一コリント11:30)」と言っているのですから、弱い立場にいるからこそ、インタビューを受ける恵みに与り、却って人々の前に出るようになったのでしょう。

 旧約聖書で、出エジプトしたイスラエル人が40年間シナイ半島を中心とした荒野でテント生活をし、いよいよヨルダン川を渡って、ギルガルという地に滞在し、エリコの城を目前にしていたときは、正にイスラエル人のターニングポイントでした。この時のイスラエル人のリーダーであるヨシュアの前に主の軍の将(全能の神ご自身か、主の使いか?)が現われ、ヨシュアに神への服従を迫ります。言うまでもなくヨシュアは神に服従し、イスラエル人のリーダーとして、エリコを皮切りにして、カナンの地を次々と占領していくことになります。

 この度の大震災で被災した多くの人々にとっては、今、正に、人生のターニングポイントに立たされていると思います。お金、物、家も財産も、そして、明日の命さえもどうなるか分からないということを、この大震災で身をもって体験したのでないでしょうか。ですから、今、全てのものを創造し、それを統べおさめておられる全知全能の聖なる神、すなわち、十字架で私たちのために命を投げ出し、贖いの代価を支払ってくださったイエス・キリストの父なる神に、全ての人が立ち返るときです。イエス様は、私たち人間が、たとい死んでも、罪の赦しと永遠のいのちを与えるために、十字架で死に、墓に葬られ、三日目に復活して、今も、この時も、生きて、いっさいの権威を持っておられます。

 また、すでに、イエス・キリストの十字架の救いを受け入れた者は、当時のヨシュアのように、神に服従し、いよいよ聖なる神様に仕えていきましょう。もちろん、当時のヨシュアとイスラエル人のように土地を征服するのではなく、人々のために、とりなしの祈りをまずささげ、福音の種まきをし、多くの人々がまことの救いを受けて、真理を知るようになるためにです。

第194回ブログでコメンテーター「五つのパンと二匹の魚」 

April 07 [Thu], 2011, 21:41

 東日本大震災後、そろそろ一ヶ月を迎えます。私が住んでいる仙台市宮城野区周辺ですが、コンビニはまだ開店していない所が多くあるものの、大きなスーパーマーケットは通常営業している店が多くなり、生活物資がほぼ行き渡ってきました。何キロも並ばないと給油できなかったガソリンスタンドもようやく並ばないでも給油できるようになりました。もちろん、この状態は私が住んでいる地域のことで、電気、水さえも来ていない地域がまだまだ多くあります。

 この度、私たちは、住宅兼教会堂流出という被害を受けました。ご存知のように、キリスト教会は世界中にあります。私がこれまで関わってきた教会はもちろん、私の知らない日本全国、さらに外国の教会からも私たちのために、様々なご支援をいただいております。実は、流出した教会の跡地に、十字架部分は無くなったものの十字架の塔が斜めに倒れて残っていたのですが、4月5日、関西方面から来られた韓国の牧師先生方を含む男性10名の人力で、十字架塔を再建しました。十字架は私が前日、手製で作成したものを間に合わせました。土台のコンクリート部分が思った以上に重く、所定の位置に移動するのに難航しましたが、心を一つにし、掛け声を掛け合い、力仕事の中にも喜びの中で、再建しました。主は一つ、信仰は一つです。私は今、主イエス・キリストにある世界中の教会が一つであることを実感しています。今後、十字架塔がクリスチャンはもちろん、地域復興の希望の光になることを願っています。

 次に、今回の大震災は、創造主である全知全能の神が許されて起こった出来事でもあります。すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです。私たち人間の小さな知恵では、全てのことを理解することは出来ません。しかし、神は、人間の思いをはるかに超えるご計画を持っておられるのです。特に、全知全能の神を信じるクリスチャンは、人間的な小さな視点で物事をとらえるのではなく、神の大きな視点で、今回の大震災、そして、今後の神の導きをとらえていかねばならないでしょう。

 もちろん、そうは言うものの、私たちには毎日の生活があり、小さなことを一つ一つ行なっていかなければなりません。一方では偉大な神様に仕えていきたいと願っています。そこで私は、聖書の次の箇所を思い起こしたのです。

 イエス様のあとを追った5000人の群集が夕方になって、食物を必要としていました。そのとき、少年が差し出した五つのパンと二匹の魚をイエス様が受け取られ祝福し、パンを裂いて弟子たちに与え、弟子たちが群集に配ると、人々はみな食べて満腹しました。5000人に対して五つのパンと二匹の魚ではあまりにもわずかです。しかし、そのわずかなものが神様の祝福を受けるならば大きなものになるでしょう。人それぞれに与えられた能力や賜物は違います。小さなことでも自分にできることをすればよいのではないでしょうか。お父さんお母さんに、お兄さんお姉さんに、子供に、孫に、そして、友達に、知人に、もちろん、初対面の人にも、小さくてもよい、愛の行ないをするとき、それが大きなものに広がっていくのです。イエス様は「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。(ヨハネ15:17)」と言われました。2000年前、十字架の上で私たちに、この上ない大きな愛を示してくださったイエス様を思い、小さな愛(思いやり)でも、それを実践していきたいものです。

第193回「想像を越える大津波」 

March 29 [Tue], 2011, 18:15

 3月11日の東北関東大震災後二週間以上経過しました。そこで、今一度整理し、192回記事に引き続き、その時の状況を改めてお伝えしたいと思います。

 大きな地震には予震と余震があるようです。3月8日、本震の3日前に震度5前後の予震がありました。また、それだけではなく、本震の前二週間ほどに渡って静かながらも不気味な微震が昼夜連続して起きていました。
 そういった背景のなかで、3.11の本震があったのです。これまで体験したことのない揺れで、ただごとではないと思いました。しかし、私の中で、即、それが大津波の襲来と結びつくまでにはいきませんでした。私は水と電気が止まったことを確認したり、建物破損状況を調べたり、二階から海と七北田川の水位を観察していました。もちろん、通説の通り、津波襲来前ですので低い水位でした。そんなこんなしているうちに、車で外に出ていた私の妻が帰ってきました。妻はテレビ付きの携帯電話で大津波警報を聞き、夫である私を救出して内陸に逃げようとしていたのです。このとき私は、屋根より高い大津波が近づいていることを全く知らずにいました。

 とにかく、私の運転で妻と二人で、そこから3キロほど内陸の子供らがいる住居に向かいました。そこに着くと子供らは先に逃げていて、私たちは、さらにそこから内陸に車を走らせました。道路は車が渋滞しています。私は、渋滞を避けるために進路を北から西に変えて田んぼ道に出ました。その時です。正に信じられないことが起こっていました。海岸線から3〜4キロも離れた田んぼにゴミを伴った海水がゆっくりと内陸に向かってくるのです。
 ようやく、この時点で私のモードは注意から緊急事態に切り替わりました。エコ運転からカーレースのような運転に変わり、元の路線に戻りました。渋滞も確かにありましたが、運転手のいない車も多く、追い越していくと、意外に道路は空いていました。かなり内陸に入り、自分たちの身の安全だけは確保したような次第です。その後は、分散していた子供らと一緒になり、無事を確認しました。

 誰も彼も携帯電話の不通、電池切れなどがあり、それまで当たり前のように使っていたライフラインも遮断されてしまいました。コンビニには売るものがありません。電車は動かず、ガソリンスタンドは長蛇の列です。その後は徐々に回復しつつありますが、現実に起こったことです。「大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ21:11)」という聖書のことばが実際的なものとなり、今後も予断を許さない状況です。しかし、恐れることはありません。イエス様は、世をさばくために来られたのではなく、私たちを救うために来られました。今こそ全ての人が救い主イエス様に立ち返るときです。また、すでにキリストにある人、私自身こそそれですが、やがて来たらんとしているそのとき、イエス様の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈って(ルカ21:36)いましょう。
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