第217回 「大関稀勢の里への期待」 

June 13 [Mon], 2016, 10:17
大相撲五月場所は、13日目で横綱白鵬と大関稀勢の里が共に全勝同士で対決するということで、大いに盛り上がりました。私は、ほぼ毎日のように大関、横綱陣が登場する時間にテレビ観戦しておりましたが、非常に気になる放送の仕方をしていました。白鵬と稀勢の里の二人が全勝で並んだ十日目あたりから「大関稀勢の里の初優勝」という言葉が何度もアナウンサーなどから飛び出していました。別の力士同士が土俵に上がって仕切りをしているのに、支度部屋から土俵下まで来るまでの通路での稀勢の里の表情を長時間映すなど、それもこれも、稀勢の里に対する期待の大きさの表われということなのでしょうが、やはり、テレビカメラは、土俵に力士が上がったら、上がった力士を映すべきです。

稀勢の里は優勝経験ゼロ、白鵬は、その時点で36回の最多幕内優勝を誇り、全盛期を過ぎているとは言え、まだまだ、第一人者であり、白鵬に肩を並べて15日間を安定的に勝ち続ける力士は見当たりません。白鵬からすれば、「稀勢の里の初優勝」という言葉は、逆に彼の心を奮い立たせたのではないかと思います。一方、稀勢の里からすれば、取らぬ狸の皮算用ではありませんが、負けて当然の相手に、勝って当然のような言われ方をすればやりにくくてしょうがなかったのではないでしょうか。稀勢の里を優勝させたいと思うなら、「稀勢の里は、まだまだ力不足で、白鵬にはどうせ歯が立たないでしょう。」と放送すれば、逆に稀勢の里の心に火が点いたかもしれません。

たぶん、そんな背景が影響したのでしょう。13日目の二人の直接対戦は、横綱白鵬が鋭い出足で攻め立て、大関稀勢の里は、受けて立つという、どちらが挑戦者なのか分からない展開となり、白鵬は稀勢の里を土俵に転がせ、稀勢の里ファンをがっかりさせる結果となりました。もちろん、その日だけではなくて、白鵬は自分有利にする厳しい立ち合いを常に心掛けていますし、一方、稀勢の里の相撲は、良く言えば紳士的なのですが、悪く言えば、勝負に対して執着心を感じない良家のお坊ちゃんのような感じです。もう一つ、ラグビーの五郎丸選手やメジャーリーガーのイチロー選手がする最近ではルーティンと言われる稀勢の里の動作で気になっていることがあります。自分の顔面を左右から平手で打ちたたくのですが、どうも、これは、却って逆効果ではないかと思ってしまいます。顔面ではなく、せいぜい回しをポンポンと叩くくらいにした方が良いでしょう。

聖書には「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。(箴言27:1)」とあります。明日は何が起こるか分からないというのが、この世の定めです。今の状況では、白鵬に勝って優勝することよりも、明日太陽が上ることのほうが難しいとは、言い過ぎでしょうが、それほど白鵬に勝つのは難しいでしょう。今回の記事は、密かに稀勢の里の初優勝を望む者の控え目な応援メッセージでした。

第216回 「酒とタバコと少年法」 

September 25 [Fri], 2015, 20:39
今年6月には、公職選挙法が改正され、選挙権が18歳からに引き下げられました。来年夏の参議院議員選挙から適用されるようです。そのあとを追うようにして、今度は、酒とタバコも18歳以上になれば許そうという案が浮上しました。しかし、世論の反対が多く、この案は取り下げられたようです。ところで、一体全体そういった年齢引き下げ案が生まれる背景には何があるのでしょうか。

選挙権に関しては、若者の政治への関心を促進しようという狙いがあるのでしょうか。もしくは、各党がそれぞれ若い世代の支持を集めて、今後の選挙を有利に戦おうという思惑があるのでしょうか。もう一つは、少年法の改正のための足掛かりにしようとしているかもしれません。成人なら当然極刑となるような犯罪を犯しても、未成年であるがゆえに、免れることができるとするなら、その法の最大の弱点と言わざるを得ません。

聖書の中には少年法のような思想があるのでしょうか。私の知る限りにおいては、むしろ、逆です。旧約聖書の事例ですと、例えば、出エジプト21:15には「自分の父または母を打つ者は、必ず殺されなければならない。」とあります。同21:17には「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」とあります。今の日本ではとても考えられないことですが、逆に言いますと、自分の父母を打ったり、のろったりすることは、大犯罪に相当するということを知らなければならないのです。普段、家庭で父母に暴力をふるったり、暴言を吐いたりしているうちに、外で大きな犯罪を犯してしまう可能性は大と言えるでしょう。逆に、自分の最も身近な父母を敬いつつ生活している者は、外でも他の人々に対して同じようにするのではないでしょうか。

 今年のプロ野球パリーグはソフトバンクがリーグ優勝を果たしました。監督は今年初めて指揮を執る工藤公康さんです。工藤監督は就任直後、チームの全選手に対して、試合中のチューインガムと唾吐き禁止を言い渡しました。一見、小さなことのように思えますが、私は画期的なことだと感心しました。もちろん、ソフトバンクが強かったのは、総合的なチーム力とか戦術など計算されたものがあったのでしょうが、実際に、唾吐きはテレビで見ていて不快な気分になるし、食事中などは見ていられません。尤も、ソフトバンクはリーグ優勝を決めた夜、例のビールかけを派手にやってたので、ちょっとがっかりでした。バケツでビールかけするよりは、まだ唾吐きのほうが優しい。

 プロ野球のガムと唾吐き、未成年の酒とタバコ、小さなことのようですが、意外と社会への影響は大きいと思います。家庭での父母に対する暴言、暴力も無くなるようになれば犯罪は激減するでしょう。もちろん、親の影響と責任もあります。親は、子供を本当の意味で愛して、しっかりと躾をしなければなりません。

第215回 「U−18野球世界大会決勝での敗因」 

September 08 [Tue], 2015, 16:46
9月6日夕方から始まったU−18野球世界大会で、日本チームは接戦の末、アメリカチームに2対1で敗れました。敗因の一つは、前日の5日に行なわれたキューバとの戦い方にあったと思います。日本チームはキューバ戦の勝敗に関係なく決勝進出を決めているので、世界一を目指すのならば、キューバ戦には主力を休ませても良かったのです。もちろん、主力も控えも力に差はないのですが。特に、今夏の甲子園優勝投手の小笠原投手をアメリカ戦の先発に使ってほしかったのですが、なんと、キューバ戦に小笠原投手が先発し、そのほか高橋投手など4人による継投で、無失点に抑えて圧倒的な勝利でした。

キューバ戦のニュースを知って、最初に思ったことは、「ということは、翌日のアメリカ戦には、仙台育英の佐藤投手が投げるのか。これは難しい試合になるぞ。」でした。ご存じ、佐藤投手の力は誰もが認めるところなのですが、夏の甲子園大会では、だれよりも長いイニングを投げ抜き、今大会も最初のアメリカ戦とカナダ戦で2試合完投しています。相当な疲れが残っている上に、ここ一番の大事なアメリカとの決勝で先発で投げるのは厳しいと思いました。もし使うとしたら、最終回のストッパーで1イニング投げるくらいが最適だと思いましたが、先発で登場した決勝の試合は、私が予想したとおり、球数が多くなり、ランナーを出してピンチになる展開で、佐藤投手自らの失策もあって2点を先制されました。中盤で上野投手が二番手で出てきて、ようやく日本チームに流れが傾いてきましたが、アメリカチームは、しっかりと決勝に勝つということに照準を合わせて来て、身長190センチ前後の力のある投手三人のリレーで勝利をつかみ取りました。

今回の大会では、清宮選手とオコエ選手も話題になりました。清宮選手のバットの構え方は、バットのヘッドをピッチャー側に向けて構える典型的なこれまでの日本人選手に多い構え方です。一見、強打者に見えるカッコイイ構え方とも言えますが、単純に考えて、スウィングするとき一旦バットのヘッドを後ろに返さなくてはならないので、そのロス分、打ち損じにつながると言えます。清宮選手は体格も良く抜群の素質があるのですが、今後、高いレベルのピッチャーに対応するには、構えたときのバットのヘッドの位置をうしろにすることをお勧めします。つまり、今のイチロー選手のような構え方です。右バッターならばソフトバンクの松田選手、昔ですと、川上哲治さんのような構え方をされると、相手ピッチャーは、投げる球が無くなるほどになるでしょう。

ちょっと無理がありますが、当ブログは、聖書を土台としているので、最後に、聖書のことばです。「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。(第一コリント9:26)」

214回  「日本国憲法前文は名文か?迷文か?」 

May 05 [Tue], 2015, 20:05

5月3日の憲法記念日の夕方、護憲派と改憲派双方の集会の様子がニュースで流れていました。改憲派の集会では、大相撲で活躍した元力士で現・相撲解説者の舞の海さんが、「昨今の日本人力士の甘さは憲法前文の影響である」という珍説を述べたということです。つまり、日本人力士は、相手力士が紳士的な相撲をしてくれることを信じて、こちらも紳士的な優しい相撲を取って、結局は、成績が振るわない。ところが、外国人力士は勝つためには相手かまわず厳しい相撲に徹し、良い成績を上げている。日本人力士の甘い取り口は、憲法の前文の所為である、とまあ、面白いもののたとえをしました。日本人力士が御人好しの相撲を取っているかどうかは別にして、舞の海さんが、改憲派の集会ですから、日本国憲法の前文を問題視したいがために、そう表現したのでしょう。

さて、そこで、その日本国憲法の前文の一部、問題の箇所を見てみましょう。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」で、特に傍線を付けた「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という部分に問題があると改憲派の人々は見ているようです。

昔、まだ車が今ほど普及していない頃は、同じ方向に行くからということで、知らない人の車に乗ったり、乗せたりということがありました。しかし、最近では、そういうことは一切無くなりました。顔見知りで信頼できる人でなければ、その人が何をするのか分からない、そんな時代になりました。国と国の関係においても、近隣諸国が友好的、平和的関係が結ばれるニュースよりも対立するニュースのほうが多いように思います。

こういった時代の中で、いつまでも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」で良いものかと、改憲派でなくても考えてしまうところですが、逆説的にとらえると、平和を愛する諸国民以外は信頼できないわけですから、平和を厭うような信頼できない国に対しては別の手段が何とでも考えられるということです。むしろ、最初から、近隣諸国に対して敵対的な表現をするよりも、友好的な表現をしたほうが、賢い選択と言えるでしょう。聖書の箴言20:3には「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。」とあります。最初から諸国民を敵対視して敵を作るような言葉を使わず、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と表現する憲法前文は、日本人力士のように「甘い」のではなく、したたかな名文と言えるでしょう。

213回 「70年、70年、70年?」 

February 20 [Fri], 2015, 9:55
今年2015年は、日本にとっては戦後70年という年です。日本にとって、とても素晴らしい何かが起こる年になるのではないかと期待する方々もいます。70という数字は、旧約聖書で、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされてから70年が満ちる頃、再び彼らをエルサレムに帰らせる(エレミヤ29:11)という約束の年数として出てきます。実際的にBC586年にエルサレムが陥落して、その70年後のBC516年にエルサレムに神殿が再建されます。このとき再建された神殿を第二神殿と呼びます。

上記の第二神殿は、その後ヘロデ王によって改修され、かなり立派な建物(ヘロデ神殿)になったようですが、AD70年には、ユダヤとローマとのユダヤ戦争によりローマ軍によって再び破壊され、現在は、そこにイスラム教のモスクと言われるドーム型の建物が建っていて、多くのユダヤ人は、元の神殿に最も近い場所である西壁の前で祈りをささげています。仮にキリスト降誕年を素直に西暦紀元と解釈しますと、キリスト降誕後70年に第二神殿が破壊されたということになります。

南ユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされ、同時にエルサレムの神殿を破壊されてから70年後に第二神殿が再建され、次に、イエス・キリスト降誕から70年後に、その第二神殿が破壊されます。70年、70年とエルサレム神殿に関連した大きな出来事が起こるわけです。二度あることは三度あるかどうか、これは誰にも分かりませんが、三度目の70年は何でしょうか。今一番考えられることは、第三神殿の再々建です。1948年にイスラエルが建国されました。この年に70年をプラスすると、2018年になります。あと3年。あと3年で第三神殿が建つ可能性は、様々な障壁のゆえに難がありますが、何が起こるか分からない昨今の諸情勢から見て、全く不可能とも言えないでしょう。

第三神殿は、当然、ユダヤ人にとっては悲願の建物になるでしょう。かつての神殿が存在した最も近い場所である西壁を祈りの聖地とするくらいですから、どれだけ、本物の神殿を望んでいることでしょう。そして、第三神殿の建造は、ユダヤ人だけではなく、全人類にとって無関心ではいられない問題と言えます。なぜなら、第二テサロニケ2:3〜4には、キリストの再臨前には、不法の人(滅びの子、反キリストとも呼ばれる世界征服者)が現われ、彼は、神の宮に座を設けて、自分こそ神であると宣言するからです。つまり、逆説的に言いますと、全人類にとっての大問題であるキリストの再臨は、少なくとも、第三神殿が完成していなければ成就しないということになります。第三神殿が完成し、その後、不法の人が現われ、エルサレムの神殿に座を設け、「自分こそ神である」と宣言します。その後に、イエス・キリストがいよいよ再臨されるのですが、不法の人には不思議な力が伴うので、私たちは聖書をよく読み、惑わされないように備えなければなりません。

第212回 「最近の大相撲の立ち会い」 

November 20 [Thu], 2014, 18:24
 大相撲九州場所の真最中、その日の結果をインターネットのスポーツニュースで調べているときに、どういうわけか、大相撲の立ち合いに関するブログ記事に出会いました。それによりますと、横綱と対戦するときは、仕切りのとき、手を先に着いて待っていなければならない、横綱に対して後から手を着くことは傍若無人とまで言っていました。その記事の主は、自分のことを「われわれ玄人の相撲ファン」と言っておりましたので、嘘でなければ、それなりの専門家なのでしょう。

 相撲界に、そういったしきたりがあるのかどうなのか私は知りませんが、もしあったとしても、おかしな話です。そもそも立ち合いというものは、後先になるものではなく、同時に立ち会い、正々堂々と戦うべきです。一方の力士が先に手を着いて待っているところへ、もう一方の力士があとから自分の流れで土俵にチョコンと手を着くか着かないかぐらいで立ち会う場合、明らかに、先に手を着いて待っている力士は不利です。ですから、殆どの力士がそれを避けるため、そんきょを遅らせたり、そんきょの姿勢から立ち上がるのを遅らせたりして、少しでも相手より有利な立ち合いをしようとします。そのため、立ち合いがすんなりいかないケースが頻繁に見受けられます。

 私が最もおかしいと思うのは、先に手を着いて待っている力士が、あまりに相手が遅いので、待ちきれずに先に立ってしまって、ペコペコと頭を下げている場面です。ぐずぐずして遅い相手が悪いのですから、待ったなどしている相手を土俵の外に突き飛ばしてしまえばよいと思うのですが、〃玄人の相撲ファン〃に言わせると、傍若無人どころでは済まないでしょうね。長年相撲を見て(テレビでしか見たことはない)いますが、昔は立ち合いを意図的に遅らせるということは、あまり見かけなかったような気がします。最近の立ち合いは非常に乱れています。立ち合いで有利になろうとする考え方が既に間違っています。同時に公平に立ち合い、その上で正々堂々と戦おうとするのが本来の相撲道ではないでしょうか。横綱なら、なおさら模範を見せなければなりません。

 公平と言えば、選挙もそうです。昔は無かったのですが、今は政党助成金というものがあります。選挙をする前から、大きな政党ほど政党助成金を多くもらえて、当然、豊富な資金で選挙を有利に戦えるのですから、どう考えても不公平な制度です。サッカーの試合なら世界ランキング上位のチームほど先に点数を多くもらえるようなもので、そんな試合を誰も見る気はしないでしょう。この制度に反対した共産党は、政党助成金を一切受け取っていないようです。私は特に共産党支持者ではありませんが、この点、共産党は立派です。憲法第四十四条には「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。」とありますが、政党助成金制度は、どの政党に所属するかどうかで差別が出るのですから、憲法に抵触しないのでしょうか。聖書の箴言20:10には「異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。」とあります。スポーツも選挙も、そのほかどんなことでも、公正に行われなければなりません。

211回 「日本国憲法第九条にノーベル平和賞を!?」 

April 22 [Tue], 2014, 22:37
クリスチャン新聞で知ったのですが、「憲法第九条にノーベル平和賞を」と、本気でそう考えて、活動しておられる鷹巣さんという方がいます。鷹巣さんは「日本国憲法第九条にノーベル平和賞を授与してください。」と電子メールでノルウェーのノーベル委員会に送り続けたとのことです。やがて、その思いに共鳴した市民により実行委員会が発足し、受賞対象を「憲法第九条を保持する日本国民」として、ノーベル委員会への推薦を済ませたとのことです。そして、最近の情報として、とうとう、ノーベル委員会より2014年ノーベル平和賞候補として正式に受理されたという通知が届いたそうで、同候補は278件で、今年10月10日に受賞者が発表されるとのことです。もし、本当にノーベル賞を受賞したら、日本国民全員(護憲派も改憲派も)がノーベル賞の受賞者になるのですから、すごい話です。

ここ2年ほど、街を通りますと、安倍晋三首相の写真付きの「日本を取り戻す」という自民党のポスターを目にします。日本の何が奪われたのか。また、何を取り戻そうというのか。第二次世界大戦に敗北した日本が、その後、何かを奪われたというよりも、得るもののほうがはるかに大きかったと思います。基本的人権、自由と平等、経済的繁栄、一億総中流と言われた時期があり、相対的に国全体が好景気に包まれていました。そういう中で、この数十年の間、私が記憶している国会で決議された法案は、建国記念の日制定、元号法、国旗国歌法、防衛庁の防衛省格上げなど、現政権側から見れば、じわりじわりと自分たちの願うものを取り戻していると言えましょう。しかし、護憲派から見れば、せっかくの新憲法による解放感から旧憲法へ逆行するような法案ばかりが成立して、せっかくの暮らしやすい環境を、なんでわざわざそんなことを決めるの?となります。例えば、元号法、公文書は昭和や平成を使い、便利な西暦を使ってはならないということです。実際、市販のカレンダーの多くは元号が記してなくて、公文書に年月日を書こうと平成何年かを確認しようとしても西暦しか見当たらず不便を感じています。その背景には天皇制を強化するねらいがあるのでしょうが、なぜ、天皇制を強化する必要があるのでしょう。それは、この科学の時代に、天皇陛下が現人神(あらひとがみ)であると本気で思っているのか、それとも、かつてのように、有事の際、天皇の名の下に、国民を一致団結させるためなのでしょうか。

尖閣諸島に関連する中国との日中関係、北朝鮮による核問題など、対外的な不安材料は確かにあり、防衛力の存在も認めざるを得ず、9条と自衛隊の整合性の問題もあります。しかし、「剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26:52)」と聖書は言っています。海外でのPKO活動で、現憲法に妨げられて武力が行使できずに恥をかいた、というようなことを聞きますが、逆の見方をすれば、現憲法に守られて武力を行使せずに済んだ、とも言えるでしょう。最近の様々なメディアでは、あまりに改憲派の主張が大きく取り上げられ、護憲派の主張をまともに聞くことが少なくなりました。現憲法、特に憲法第九条の良さがあまりにも見過ごしにされているのではないでしょうか。

210回 「楽天リーグ優勝の立役者」 

October 01 [Tue], 2013, 22:34

 9月26日、楽天がリーグ優勝を決めた試合、3対1のビハインドの状態で、ツーアウト満塁から四番のジョーンズ選手がアウトコース低めの早い球を右中間に三塁打して逆転しました。そして、9回裏、ツーアウトから田中将大投手の投げた、やはりアウトコース低めの直球を西武の浅村選手は空振り三振となり、試合終了となりました。もちろん、バッターだけの比較ではなく、それぞれの投手の持つ球の力も関係しているでしょうが、ジョーンズ選手の力とか経験だけではなく、無理のないバッティングフォームが、ここぞという場面で花を咲かせたのだと思いました。

 ジョーンズ選手を初めて見たのは、確か、今年のWBCでジョーンズ選手がオランダ代表で出場していた時だったと思います。そのとき、素晴らしい選手だと思いました。それは、バッティングフォームが理想的だと思ったからです。日本人選手にありがちなバットのヘッドをピッチャー側に向ける、いわゆるミスタージャイアンツ長嶋茂雄さんのようなバッティングスタイルではなく、バットのヘッドをバックネット側に寝かせる自然体の構えです。ジョーンズ選手は打率は低いものの、四球が多く、出塁率は一時、四割以上を記録して、四番を打ち続け、楽天打線の柱となっていました。五番打者のマギー選手はジョーンズ選手よりも打率が高く、よく打っているのですが、それは、ジョーンズ選手が四番に座っているからこそ、リラックスして打てたのでしょう。

 今年の夏の甲子園大会が終わったあと、台湾で野球のU18という高校生の世界大会がありました。日本チームは松井投手や安楽投手などの活躍で決勝まで進みましたが、惜しくもアメリカに敗れました。日本とアメリカが決勝に残ったのは、やはり野球人口が多く、それだけ代表で出てくる選手たちのレベルが高いからだと言えるでしょう。決勝で、気になったことは、バッティングフォームです。日本選手のほとんどはバットのヘッドを真上に立てるかピッチャー側に向ける構え方です。一方、アメリカの選手たちは、いたって自然体で、バットを釣竿のようにバックネット側に寝かせています。結局、球の見極めも良く、松井選手得意の低めに落ちる球に手を出さず、松井投手が後半になって疲れたところを捕えています。逆に日本選手は、スウィングするとき、バットのヘッドを一旦、後ろに戻さなければならないので、その分、スピードボールに振り遅れる場面が目立ちました。実力的には、日本チームのほうが迫力があったような気がしましたが、アメリカチームの基本に忠実なバッティングが勝利を呼び込んだように思えました。

 最近、メジャーでは、クォリティー・アット・バット(Quality At Bat)という言葉が頻繁に聞かれるとのことです。日本語に訳すと、「質の高い打席」となるのでしょうか。四球を選んで出塁したり、凡退しても相手投手に球数を多く投げさせて疲れさせ、チームの勝利に貢献するということです。そういうバッティングをしているかどうかということをチームの監督さんは見ているのだそうです。聖書には「人はうわべを見るが、主は心を見る。(第一サムエル16:7)」とあります。私たちの人生も、うわべよりも、心を見ておられる天の創造主の前にどれだけ喜ばれているかが問われます。

209回 「半沢直樹最終回の終わり方」 

September 24 [Tue], 2013, 22:03

 NHKテレビ朝の連続ドラマの「あまちゃん」が高視聴率だということですが、それ以上に高視聴率で話題になっているのが民法テレビドラマの「半沢直樹」です。最終回の視聴率は42.2%を記録したようですが、主演の堺雅人さんの演技力、ドラマの展開のスピード感、そして、勧善懲悪の爽快感が視聴者の支持を得たのでしょう。

 ドラマの中では、二つのキーワードがあるということが一般のメディアで紹介されていました。一つは「倍返し」、もう一つは「土下座」です。最終回の後半部分で、取締役会における半沢と大和田常務の最終決戦とも言える場面で、倍返しと土下座が出てきます。自分の悪をもみ消そうとする大和田常務に対して、その悪を見事に暴いて、半沢が大和田常務に土下座をさせようとします。しかし、それを見ていた頭取は、「もうやめなさい。」と言うのですが、半沢は聞かず、常務に土下座をさせます。そして数日後という設定で、頭取から、半沢と大和田常務それぞれに裁定が下されます。大和田は常務から取締役へのわずかな降格に止まるだけですが、半沢は出向となります。最終回なので、頭取が半沢に「私の代わりに頭取になってくれ。」と言っても、ドラマですから許されるところですが、意外な展開になってしまって、「おやっ」と思ったわけです。ドラマの作者にどういう意図があったのか正確には知りませんが、見ていて首を傾げた人は多かったことでしょう。テレビドラマの最終回ですから、ハッピーエンドで終わってもよさそうなのに、ドラマの作者としては、視聴者にもっと深いところを考えさせようとしたのでしょうか。

 実は、「倍返し」と「土下座」、聖書の視点から言いますと、倍返しは復讐ということになり、復讐することを聖書は肯定していません。土下座は実際的には一つのパフォーマンスでもありますが、天地の創造主以外に平伏すことは偶像礼拝という罪に関わってきますから、土下座することも、土下座を誰かに強いるということも決して褒められることではありません。ドラマの中で、大和田が半沢に土下座したとき、爽快感を味わった視聴者もいたかもしれませんが、一方で、「そこまでしなくてもいいじゃない。」という感覚で見ていた人も多かったと思います。時代劇なら敵討ちというところなのですが、現代劇ですから土下座が使われたのでしょう。もちろん、それはドラマの設定上、父親を苦しめた人への復讐心が背景にあったということですが、復讐というものは、また新たな復讐心を生み出してしまうという問題点があり、結局、何の解決にもなっていないのです。ですから、頭取が半沢に対して出向を命じたのは、ドラマの作者が、そういった復讐心を決して是認せず、もっと高い倫理観を最後の場面で表現したかったからなのかもしれません。もっとも、続編のために含みを残したという説もあるようです。

 聖書のことばです。「復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19〜20)」

208回 「創造主訳聖書が出版される」 

July 12 [Fri], 2013, 15:20

 創造主訳聖書が出版されました。これまでの聖書では「神」と表記していたものを「創造主」と表記するということです。「神」というと、八百万(やおよろず)の神々も神であるし、聖書の全知全能、唯一で創造主である方も神としていたので、どうしても、混同してしまうというマイナス面がありました。しかし、これまで、神と表記していたものを創造主と書き換えるのですから、画期的と言いましょうか、今後どういう形で、その影響力が及んでいくのか、大いに期待するところです。

 一般の多くの日本人が持つ神概念は汎神論と言われる考え方です。元旦に初日の出を拝む、それは太陽を神と位置付けているからです。そんな大きなものでなくても大木にしめ縄を着けて、それを神として拝む、大木に神が宿っていると考えるのでしょう。最近、世界遺産に登録された富士山も実際に信仰の対象になっているようです。すると、登山をする人は神の上を土足で歩くことになるので、なんとも矛盾しています。また、そういった自然に存在するもののほかに神をイメージした形に刻んだ像などを拝む場合もあります。無神論、進化論教育の影響で、自らを無神論者と言いながらも、一方で、そういった神々を拝むという人は、日本人の大半を占めているのではないでしょうか。

 汎神論に対して、聖書が言っている創造論の違いのポイントは、創造主と被造物の区別化だと思います。ちょうど陶器師と陶器の関係のようなものです。汎神論的世界観では、陶器が自分を作った陶器師を無視し、同じ陶器仲間の誰かを神として拝むということです。しかし、いくら陶器師を無視しても陶器師がいなければ自分たちは存在すらしないのですから、全く見当違いのことをしていることになります。つまり、これまでの聖書における「神」という表記は汎神論的世界観を持つ人たちに対して戸惑いを与えていたかもしれません。「神」を「創造主」という表記に変えるということにおいて、本来の聖書が言っている創造論的世界観が無意識のうちに培われるという期待感があります。

 もう一つ、意外と言いましょうか、クリスチャンと呼ばれる人であるなら全てが聖書の創造論を信じているのではありません。甚だしくは、丸々の進化論者だったり、その中間的な立場である創造論的進化論者(進化論的創造論者?)も結構おられるようです。それだけ、多くの人が科学的根拠の無い(仮説に過ぎない)進化論に毒されているということです。逆に、丸々聖書の創造論をそのまま素直に信じているクリスチャンは全クリスチャンの50%いないかもしれません。30%、もっと低いかもしれません。ですから、丸々創造論を信じているクリスチャンにとっては、今回の創造主訳聖書の出版は、大きな励ましになるでしょう。特に、この聖書の出版に携わった方々にとっては、「ようやくここまでこぎつけた。」という感慨の中にあるのではないかと察するところです。

 最後に、イザヤ書45:18のみことばをご紹介しましょう。「天を創造した方、すなわち神(創造主)、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』」
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