衰退の物語。DOCUMENTARY OF AKB48to be continued-10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう-

March 03 [Thu], 2011, 12:01
かての僕の部署札幌リクエストセンターでは、月日に紅白歌合戦を見ながら業務をする事が結果的に2年だけだったが、恒例になっていた。月日にもなると、コールセンターにわざわざ電話をかけてリクエストしてくるお客さんはほとんどおらず、充分にそれを楽しむ事が出来ていた。結果的に、みんなで見る紅白歌合戦の最後の年となった年、が紅白に出ていた。僕はそれを去年の紅白出場歌手が発浮ウれた時に知った。彼女達は年が初出場ではなかった。僕は、元々テレビを見ないのでこれまでの事をまったく知らなかった。前田敦子があっちゃんだと言うことも、たかみなという娘の見た目はヤンキーだが、心はガラスのハートだという事もまるで知らなかった。そんな僕が去年、のを新品で買い、カラオケで歌い、挙句、握手会まで参加したのは、板野さんが可愛かったからでなく、の楽曲にハマッたからだ。以下、しばらく楽曲の解説が続きます。そのきっかけとなった楽曲が、ポニーテールとシュシュ。少々込み入ったロリ話になるがこの曲のサビはマイナーキーで始まる。といった具合に進行する。僕は最初この曲をで聴いた時、てっきり、のメジャーキーから始まると思っていた。ポニーテールとシュシュというタイトル、ジャケット、水着で踊る女の子達。事前情報から察するにマイナーキーであるはずがないと思っていた。まず、そこで衝撃を受けた。そして、家ででイントロからしっかりと聴いてみるとさらに衝撃を受けた。この曲のイントロはピアャ高ゥら始まり、ブラスやリズム隊が加わるという2部告ャになっている。例えるなら、の的告ャだ。イントロ1のピアャ高ヘ、後のサビとなる進行と同じ、イントロ2はいわゆるカンで進行し終わるかと思いきや、メロのキーへの転調に向けて、というンダイアトニックコードが効果的に挿入される。これによって、にもあるような太陽が照らす上空から無人島で踊るをフォーカスする直前の海との境目の眩しさや爽快感をこの曲に与えている。この手法はポップスでよく使用されており、マイケルジャクャ唐フの1サビからコーラス目にいく際の短い間奏部分であったり、ママレードボーイのオープニング曲のだっからー、気になるから神様に入る前のタッタータターの部分が例として挙げられる。パートの変わり目にちょっとヒネりを加える時によく使われていると思う。要するにちょっと音楽やっている人が聴いたら、おっ、と思うようなツボをく仕掛けが込められているのが、このポニーテールとシュシュだ。僕はこのツボの刺激にまんまとハマり、を買った。この曲をきっかけに僕の中では音楽的に気になる存在になっていった。そして、ヘビーローテーション。正直、タイトルからしてそのクオリティに関して半信半疑だったが、それは取り越し苦労だった。秋元先生のネーミングセンスの寒さは、あずきちゃん第話いも話し中愛のホットラインでも分かるように最早、持病である。この曲は去年発売された数ある名曲を抑えて、見事僕の中の年ナンバーワンャ塔Oに輝いた。まさにヘビーローテーションした楽曲だ。この曲は、あいうぉんちゅー、あいにーじゅーと言った舌ったらずなキュートな魅力も然る事ながら、年代後期のやラルクアンシエルなどを彷彿とさせるバンドサウンドが良い。オケだけ聴くとそれが顕著だ。イントロのというで引っ張るコード進行なんて年のラルクの曲にありそうだ。そして、サビ最後のヘビーローテーションのくだりは、年代を代浮キるアイドル広末涼子のでする秒前の真夜中の五秒前とメロディが酷似している。当然秋元先生の確信犯だ。これは口ずさめば、誰もがあっと思うに違いない。ちなみに、この曲のカップリングである佳曲涙のシーメ[ゲームは広末のそれと同じくシュープリームスの恋はあせらずのリズムパターンを引用している。このポニシュシュからヘビーローテーション発売までの約3ヶ月間はにとって非常に重要な時期だったといえるだろう。何故なら、隣国の韓国からや少女時代といったコリアンアイドルの日本流入が本格化してきたからだ。ヘビーローテーションでキャリアのピークを迎えあった彼女達はすぐにこの現実と対峙しなくてはならなかった。そんな状況下でリリースされたは、前年に発売されたをアップデートしたを標榜したダンスナンバーに仕上がっている。フィルにオケヒオーケストラヒット※シャ乱のいいわけのイントロのやね。使用しているあたりは、モーニング娘。の流れを汲んだアイドルのダンスチューンという感じがして若干寒いが、イントロのヴォコーダー風のボイスサンプルやトランシーなシンセフレーズや、を使用したであろうベースラインは本国アメリカのトラックとも引け劣らない。前述の曲の流れとは一線を画するこの楽曲をこのタイミングでリリースしたのはアメリカ産の路線の楽曲をベースとするや少女時代と互角に戦うするためだったという事は想像に難くない。はファン受けの悪い楽曲というのが通説らしい。このは数ある楽曲の中でも、それと性質的に近い位置にあるはずだが、この楽曲はわずか1ヶ月足らずで100万枚近くを売り上げ結果的に、オリコンの年度年間1位となった。これは、秋元先生や本人達のみならず、ファンもコリアンアイドルの台頭に危機感を感じた結果の数字と言えるかもしれない。このように、は間違いなく年の音楽シーンのトレンドであった。音楽的に語れる要素が満ち満ちていたのである。僕がとやかく言わない訳がない。そして、を見に行った今日に至る。終演直後、ボイスにもぶやいたように、この映画は音楽的側面からを好きになった僕であったり、去年のファンになった新参者達は、開始分足らずで徹底的に排除される。のマークザッカーバーグも真っ青な非常に排他的要素の強い映画である。この映画には、ポニシュシュやヘビーローテーションを歌う彼女達の影はない。会いたかったやスカート、ひらりの影すら無いのだ。そこに在るのは、ただただミニマムな劇場で公演をする彼女達の日常だ。現に、映像の割は、この劇場のものだ。アリーナ公演であったり、大規模な握手会、驚異的なの売り上げなど、狂乱の渦中にあった年のにとってのマキシマムな話題は意図的に排除されている。よって、この映画を楽しむには、かなりのリテラシー、まりに対する濫知識が無いといけない。彼女たちのベースエリアである劇場とは一体、どういった類のものなのか、そこでは毎日何が起こっているのか、総選挙とは何か、チーム、チーム、チーム、研究生という概念。そして、そのチーム間で行われる人事異動に精通していないと、彼女達が何を夢見て、何に葛藤しているのかを理解する事は出来ない。これを分からずして、彼女たちの年後など知る由もないのだ。これらを理解しているという前提で彼女達は語り、物語は進んでゆく。例えば、劇場では度々、生誕祭という催し物が執り行われている。僕にとってみれば、生誕祭とは何を指しているのかまったくわからない。最初はその娘がチーム入りした生誕なのか、と思っていたがそれは違った。なんの事ない、誕生日の事であった。これを正確に、あぁ、誕生パーティの事なんだな。と理解するには、大島優子の生誕祭で彼女の口から今、初めて歳になった気がします。という言葉を聞くまで待たなければならない。このシーンに至るまで、1時間近くかかるが、その間に生誕祭は、回執り行われている。また、総選挙の順位に関する個々の言及にいては、年の順位のみならず、前回の順位も把握していないと彼女達が何を比較対照として語っているのは不明解である。位が悔しい。と言われても前回の順位がわからなければ、悔しさの度合いがわからない。そして、最も重要なのは、チーム間で行われている人事異動だ。そもそも、とはこのチームの集合体であり、あっちゃんや篠田さんはであり、チームである。ゆうこや板野さんは、であり、チームなのだ。そして、どうやら板野さんはどっかのチームから移籍してきているらしい。このチームという概念があってこそなのだ。公演も基本的にはこのチームで行われる。それ故、彼女達は各チームに対する帰意識が非常に高い。この人事異動が執り行われる様子は映画内でも重要なフックとして描かれており、度々彼女達が号泣したり、寄せ書きを書く姿が映し出される。僕はこれらの事を今日初めて知った。これだけ情報量の多い映画は珍しい。逆に言えばそれだけ事前情報を要する映画だ。冒頭で少し触れた映画メ[シャルネットワークは公開前、散々濫知識が必要だ、それじゃないと理解出来ないと言われた映画であった。しかし、実際見てみると青春群像劇という落としどころをくっているため、すんなり楽しむ事が出来た。何度も言って垂オ訳ないが、この映画にはそれが無い。劇場というコミュニティを共有せず、に触れる者にとってはまったくの外の世界の話だ。で言えば、ハッシュタグが付いているぶやきをいきなり見るようなものである。秋元先生、そしては何故、この人気絶頂の今このような分かりにくい映画をくったのか。今のになら、何処まででも分かりやすく多くのに触れる者達を楽しましせる事の出来る作品がくれたはずだ。しかし、それをしなかった。その理由は、秋元先生はもちろん、彼女達が既に衰退の物語を描き始めているからではないだろうか。衰退の物語とはもちろん、人気の凋落、現状のトップアイドルの座から緩やかにフェードアウトしていく事を指す。事実、あっちゃん、たかみな、ゆうこ、板野さん、篠田さん、峰岸みなみはこの衰退の物語にいて近い将来の事としてためらうことなく語っている。彼女達の共通の願いは、人は変われどという名を残す事。そして、劇場でこれからも変わらず公演をする事だ。誰1人として現状を謳歌し、今のピークを維持しようと考えている者はいない。秋葉原の劇場から始まったの実態は非常にミニマムなもので、メディアがそれをマキシマム最大化しているだけだという本質を彼女達は理解している。篠田さんのが売れなくなっても、公演はなくならない。という言葉はそれを象徴している。これは、従来のアイドルには無い感性だ。これは、ある意味でピークに対する拒絶反応であり、劇場というベースエリアへの回帰願望である。明日早番なので、この続きはまた。
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