<東日本大震災>厳しさ増す遺体捜索 手袋着用で感染症防止

February 16 [Thu], 2012, 11:41
<東日本大震災>厳しさ増す遺体捜索 手袋着用で感染症防止
震災から1カ月が過ぎ、行方不明者の捜索は厳しさを増すばかりだ。気温が上がれば遺体の腐敗も進行する。津波で多くの住民が逃げ遅れた岩手県大槌町安渡(あんど)地区で、捜索を続ける陸上自衛隊に同行した。 「ビニール手袋を着用しろ」。10日午前9時過ぎ、岩手駐屯地第9高射特科大隊第1中隊の佐藤茂夫中隊長(51)の声が響いた。緑色の革手袋を外し、薄青い手袋をつける5人ほどの隊員たち。感染症にかかるのを防ぐため、遺体を触る際はビニール手袋をつけるよう命じられている。中隊長の指示は遺体発見を意味していた。 「見つかったんだって」「何歳ぐらいですか」。近くの高台で避難生活する住民が集まってきた。がれきに埋もれた遺体は損傷の激しい場合もある。隊員たちは住民にショックを与えないよう、周囲を青いシートで覆った。「60代ぐらいの男性です。ベージュ色の服を着ています」と中隊長。心当たりのある住民数人がシート内に入り、身元を確認した。 捜索は3月末ごろから連日続く。津波が残した潮のにおいが漂う中、14人の隊員が高さ10メートルほどのがれきを重機と手で黙々と取り除く。発見できる遺体は1日1、2体だが「これほどのがれきの撤去はボランティアではできない」と住民たち。大船渡市出身の滝田真一2曹(42)は自宅が津波で半壊、友人2人が行方不明になっている。 「被災者の気持ちはよくわかります。一人でも多くの遺体をご家族に渡したい」【桐野耕一】<東日本大震災>殉職の父と同じ志胸に 岩手の新人記者
避難所となっている公民館で取材する東海新報の高橋信記者=岩手県大船渡市で2011年4月6日、工藤哲撮影 目の前で困っている人を助けたい−−。亡父と同じ志を胸に、被災地で歩み始めた新聞記者がいる。岩手県大船渡市などで発行する地元紙「東海新報」の高橋信(しん)記者(23)。この仕事を勧めてくれた父俊一さん(60)は県警大船渡署高田幹部交番所長として、住民の避難誘導を続け津波にさらわれた。入社早々、取材先の同署で知った父の殉職。だが避難所を回れば不自由な生活を強いられた被災者がいる。「その声を書くことが今自分にできることです」【工藤哲】【父・俊一さんが勤務していた】警察庁長官が交番訪問 岩手・大船渡署 生まれも育ちも盛岡市で岩手大に進んだが、祖父母の住む大船渡市が好きだった。気さくでおおらかな人たちに親しみを感じ、沿岸部の就職先を探していた昨年12月。「受けてみろ」。東海新報だけを挙げたメールが届く。「正しい日本語が載っている新聞で勉強しろ」が口癖の父の勧めだ。好きな地域やそこに住む人たちをもっと知りたい、とも思った。試験を受け内定した。 入社まで1カ月を切ったあの日、父は最後まで交番にとどまり行方不明に。捜しても手がかりさえなく2週間が過ぎた3月28日、編集局長に「給料は半分か、3分の1かもしれない。それでも、やる気があるなら喜んで迎えたい」と覚悟を問われた。東海新報も社員や読者、広告主が大きな被害を受けている。 むろん迷いはない。2日後、避難所で食事作りを手伝う地元婦人会の活躍ぶりを伝える初の記事が載った。題字を刷新した4月1日付の1面を、がれきの中で真っすぐ前を見つめる5人の子どもたちのカラー写真で飾った。「暗いことばかりだが復興させなければ」と願いを込めて撮った1枚。入社式もなく辞令を受けただけだけれど、新人記者が誕生した。 「記事を見たら喜んでくれる」と念じた父の悲報が直後に届く。記者の基本「署回り」で大船渡署を訪ねた8日昼、副署長に「死亡確認」を告げられた。「見つかったので良かった。仕事を頑張ります、と伝えたい」 大船渡市の避難所になっている中野公民館。「必要なものは何ですか」「生野菜だな。衣服は十分だ」。責任者に尋ね、答えをメモする高橋記者。何が足りず何が必要なのか、それを報じることが、被災者の助けになると信じて、赤い小型車で被災地を連日走り回る。 【ことば】東海新報 本社・大船渡市。陸前高田市や住田町も合わせ約1万7000部を発行する地元紙。1958年に創刊、社員40人(うち記者約10人)。震災当日は、自家発電でA3判1ページの号外2000部を印刷、動ける社員総出で避難所に配った。公式サイトは3月11日で更新が止まっている。津波を撮影に行った記者1人が行方不明。
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