君こそスターだ 

2004年10月03日(日) 3時32分
 湘南の鵠沼海岸を走り抜ける。そんなサウンドを作り続けてきたサザンオールスターズ。デビューしてから20年以上、彼らの音は今も変わらずにある。「茅ヶ崎」、「えぼし岩」、「江ノ島」「稲村ガ崎」「鎌倉」といった湘南の地名が歌詞にたくさん盛り込まれ、彼らの曲を聴くと懐かしく、あの「江ノ島」や「サザンビーチ」を思い出す。茅ヶ崎から鵠沼、稲村ガ崎へと続く海岸沿いの国道を、太陽に反射してまぶしい海を横目にして目を細めながら走ったいくつもの夏が彼らの曲を聴くと毎回よみがえってくる。

 彼らの曲を聴くと強烈に「夏」「ビーチ」といった印象を抱くのはやはり彼らが長年培ってきた音とイメージにある。毎年新しい歌を新しいメロディーで作りながらも「湘南」というイメージを彼らは決して忘れなかった。明るくはかない夏をテーマにしたポップな曲と、しっとりとしたバラードの2つの路線をくずさず曲作りをしてきた。だから江ノ島の花火も、鎌倉のあじさいも、茅ヶ崎のBig Waveも曲を聴くとまざまざとよみがえってくる。

 今回の新曲「君こそスターだ」もまさに「夏・太陽・ビーチ」をテーマにした彼ららしい曲に仕上がっている。テンポ良いバックサウンドと桑田佳祐の荒れた声は今年もまた太陽の季節がやって来たということを教えてくれる。01年に桑田のソロアルバムとして出された「波乗りジョニー」のサウンドに似た出だしは3年前の夏の思い出を遠くから呼び起こし、それでいて「稲村ガ崎」から始まる歌詞は新たに今年の夏を盛り上げてくれる。彼らの描き出す「夏」はいつも情熱的だがはかなく終わっていく姿である。しかし明るいメロディーがそんなひと夏を明るく笑い飛ばしている。まさしく今回の歌詞にあるような、「ケセラセラ」な感じが湘南にはしっくりくるようである。

ホテル ビーナス 

2004年10月03日(日) 3時30分
静かだがあたたかい映画。そんな印象を受けた。しかし最後まで見ただけにちょっと裏切られた、という気もしないでもない。

何も起きそうにない静かで平穏なホテルビーナス。ドクターとワイフの喧嘩も、ボウイの持つ拳銃も、別にどうってことない。お互いが干渉せず、わけありの事情を抱えて生活している。そんな折、ビーナスが営んでいる小さなカフェにやって来た男と少女。「ビーナスの背中を見せてください。」この合言葉からホテルビーナスの住人たちに新しい動きが生じてくる。そして彼らの生き様はそれぞれにどこか私たちが共感する部分を含んでいて無関心ではいられない。

生きたって死んだってどっちでもいいといいながら住人の世話やカフェのウェイターをしているチョナン。しかし死を選ばない彼はつまり生きたいと願っているのである。酒浸りのドクターと、彼の再起を願いホステスをしながら生活を支えるワイフ。なさけない姿に変わり果て、お酒におぼれるドクターを見て怒り狂ってもワイフは決してドクターのもとを離れようとしない。ドクターにつかみかかり散々彼をたたくワイフは、一見彼を見放してあきらめているように見えるが、彼女は彼のよさを忘れたわけではなく不器用ながらに彼を愛している。ピストルを常に持ち歩き「オレは強いんだ」と自負しているボウイは本当の強さとは何かを必死で捜し求めていた。そう、ホテルビーナスの住人はだれもが心に持っている感情を上手く扱えていない人たちであり、その分純粋であり必死で生きているのだ。だから彼らの泣き叫ぶ声に共感し、喜ぶ顔に自分も答えを見つけたような安心感を得られるのだ。

ただ、唯一気になったのは友情出演的なキャストの登場である。哀しくて温かいストーリー展開が、最後一気に現実に引き戻される。ラストの彼の出演が、残念ながらチョナンが「チョナンカン」という15分の深夜番組から生まれたのだということを思い起こさせてしまった。

ピノッキオ 

2004年07月19日(月) 3時20分
嘘をつくとお鼻が伸びてしまう物語といえば、誰もが知っているピノキオ物語である。冒険、勇気、愛情がたくさん詰まったこの童話を、原作に忠実なストーリーで創り上げた映画「ピノッキオ」。イタリア、トスカーナ生まれ、母国を愛する男、ロベルト・ベニーニ監督、主演により、この映画はイタリアならではの芸術とファンタジーが一体となった作品となった。
 
 『ライフ・イズ・ビューティフル』から4年。ロベルト・ベニーニは新しいイタリア芸術を一気に集約させこの映画に持ち込んだ。子供が思い描く、自由で奇抜な、何が起こってもおかしくないようなファンタジーの世界。一本の丸太から生まれるやんちゃな少年、一日中遊んで暮らせる夢のような国、あやつり人形、大きくておいしそうなキャンディー。これらのどのシーンもカラフルなセットや衣装で満ちている。ベニーニは、子供らしいファンタジーあふれる世界を作り出すためにこの国出身のデザインアイディアで有名かつ優秀なアーティストを多数集め、完璧なまでのイタリアファンタジーを作り出した。また、撮影はトスカーナの広大な風景の中で行われた。そして、主演のベニーニのみならず、青い妖精役のニコレッタ・ブラスキ、ジェベット役のカルロ・ジュフレ、ルシーニョロ役のキム・ロッシ・ステゥアートなど、多くのイタリア出身俳優によってこの映画は構成されている。この、ベニーニの徹底さがこの作品をイタリア映画としてまとまりをもたせている。
 
 そもそもこの映画は、50歳といういい大人が、無邪気でやんちゃなピノッキオを演じるということ全く抵抗を感じさせない。それどころか、ベニーニが本当にやんちゃで奔放なピノッキオそのものに見えてくる。彼はトスカーナの大地をとびまわり、冒険し、感動し、そして強さを身につけていく。そして最後にピノッキオは愛を知ることになる。ベニーニの演技、そのほかの俳優の動作、そのひとつひとつが、今までのような愛情に満ちた温かい気持ちになる彼の作品と同じように、見るものを幸せな気持ちにさせるのだ。

参考文献:「ライフ・イズ・ビューティフル」(映画)
     PINOCCHIO公式ホームページ

ビッグフィッシュ 

2004年07月14日(水) 3時17分
  一面の黄色い水仙の中で向き合いながら腰をおろしている男女。ファンタジー、愛と感動。私の中で、ビッグフィッシュの映画像は、「ファンタジーに描かれた愛の物語」として、映画館に行く前に出来上がっていた。ダニエル・ウォレスの小説「ビッグフィッシュ」を映画化したということで、映画は読書という人間の無限の想像を超えないだろうとも勝手に思っていた。そのため、なぜこの映画は、ティム・バートンの最高傑作なのだろうという疑問を見る前に抱いていた。
 
 そもそも、ファンタジー映画と言われたら、私は何を挙げるだろうか。私が思うファンタジー映画といえば、「オズの魔法使い」である。ドロシーはある日突然台風によりオズの国へ飛ばされてしまい、オズを探す道中、3匹の悩める動物や道具に出会う。そしてそれぞれは最後に自分の本当に大切なものを見つけるのである。ドロシーは「自分の幸せは身近にあるのだ」ということを学ぶのだ。このストーリーに基づいて、映像はかなりカラフルでかわいらしく出来ており、実際に起こり得ないものがたくさん出てくる。でも、この「オズの魔法使い」のストーリーは最終的に“オズの国での出来事は全て夢だった”という結末である。
 
 そう、今まで見てきたファンタジーは、全てが空想の世界の話だったのだ。おとぎの国のようなカラフルでいかにも幸せそうな光景は、空想だからこそ再現できたと言ってよい。誰かの空想を、人間の理想と合わせてかかれたのが私の中でイメージしていたファンタジーなのだ。そういう意味でビッグフィッシュは現実とファンタジーを上手くひとつに織り込んでいる、私の中でのファンタジーの考え方に変化をもたらしたすばらしい作品である。ファンタジーだと思われていた世界は、エドワード・ブルームが夢を見ていたのでもなんでもなく、映画の中での実際のストーリーなのである。実際にある父子、妻との愛の話におとぎ話が織り交ぜられ、最後に父と子が分かり合える時、おとぎ話は真実となるのである。

アメリ 

2004年06月11日(金) 3時27分
 ちょっとした仕掛けで誰かが幸せな気持ちになる。その姿をこっそり見るのがまた幸せ。誰もがそういう気持ちになることがあるだろう。サプライズパーティーをやって友達を驚かせたり、友達の恋のキューピット役になったり。ばれないように密かに案を練っているとき、相手が結果に対して喜んでくれるとき、おもわずにんまりしてしまう。

 「うふふ」ってにんまりと笑う顔がとてもかわいらしい。なにかたくらんでいるなって、わかってしまう。他人を幸福にする喜びに目覚めるアメリは、いくつものすてきでかわいいトリックを仕掛ける。カフェの店員とお客さんをくっつけたり、お父さんの大切にしていた人形をこっそり盗み出し、各地を旅させて写真を送ったり、未亡人のおばさんのために旦那さんになりすまし手紙を書いたり。終盤全てが完全なる大スケール、ハッピーエンドで終わるハリウッド映画にあるような幸せよりも、もっともっと個別で本当に小さな幸せを作り出している。モンマルトルの街中の小さなアパート、ちょっと落ち着いた赤の家具に囲まれて生活しているアメリはまさにメルヘンの世界の女の子。彼女のすきなこと。クレーム・ブリュレのカリカリのやけ目をスプーンで壊すこと。恋をしても内気でなかなか想像の世界から飛び出せない。そんな、彼女の好みと行動にとても共感がわく。なかなか好きな人の前に姿を現せなかったり、勝手に想像して悲しんだり。きっとほとんどの女の子は彼女の一風変わった行動を理解できるだろう。そしてだからこそアメリが生み出す小さな幸せと、小さな勇気をほほえましく感じるのだ。

 誰かを喜ばそうと思うと、おもわず顔がにんまり。他人にちょっとした幸せを与えるのって、自分も幸せになれる。アメリのみならず、みんなそのことを知っているのだ。だからみんなは、アメリを見ると幸せな気持ちになれる。

モダンって何? 

2004年06月02日(水) 3時14分
  芸術家じゃないから普段、芸術について考えたり「モダンって何だろう」と思ったりすることなんてない。だからこそ、電車内や新聞で目にした広告で展覧会を知り、ふらりと美術館へ足を運ぶのが好きだ。以前MOMAを訪れたのも、観光の途中で広告を手にしたからで、そんな衝動でつい出かけたくなるのは、美術館は私にとって非日常であり、異空間であるからだ。
 
 現在、森美術館で開かれている「モダンってなに?」は、ニューヨーク近代美術館展であり、タイトルの通り近代美術をどう捉えるかという一つの視点を見る者に与えている。近代から現代にかけての芸術は多様性に富んでいるが、その歴史的な流れを追って新しく「近代美術」というカテゴリーが与えられている。しかし今回、森美術館では時代の流れや技法にとらわれず作品を4部にわけて構成し、さまざまな表現によって表されている美術の根源をさぐろうと試みている。

 故意に暗がりを強調し、不安や孤独、死を表す影と無人の空間を描き出したジョルジョ・デ・キリコや、キュビズムに代表されるピカソ。第一次世界大戦を引き起こした社会を背景に、精神、理想を追い求め、抽象的な作品を生み出したポロック。戦後の革新的なスタイルをもつポップアート。大量生産による加工品の機械的消費を表したキャンベルスープバリエーション、マリリンに代表されるマスメディア支配のアメリカ大衆文化、これら日常をアートにしたアンディー・ウォーホル。そして芸術は平面的な絵画を超えて、ソル・ルイットのように作品の形態よりも概念を重要視するものになっていく。
 
 このように芸術が訴えかけるものについて考えてみたが、普段芸術についてこんなに考えることなんてあるだろうか、と思うのだ。日ごろ芸術について考えることのない人は、ふらりとこの六本木、森ビル53階の美術館に立ち寄って異空間の中でMOMAによる問いかけに対して考えてみると面白いのではないだろうか。


参考文献:森美術館ホームページ: http://www.mori.art.museum/index02.html

Erick Clapton "Me &Mr.Johnson" 

2004年05月10日(月) 2時54分
CDショップに、「お薦め!― クラプトンが敬愛する伝説的ブルースマン、ロバート・ジョンソンのカバーアルバム。」と書いてあった。クラプトンといえば、最近見られる少し落ち着きのある穏やかな、それでいてポップの要素を含んだメロディーが私のお気に入りであった。そのためにロバート・ジョンソンの演奏を聞いたことがない私にとって、はたしてこれはクラプトンの作品として楽しめるのだろうか、ということが一番の関心事だった。

しかしCDをかけて最初から聞いてみると、聞いている途中で、やはりエリック・クラプトンのアルバムだなぁ、と安心できた。彼の少し脱力したようなやわらかな声とギターとピアノ、心地よいテンポのドラムなど、私好みのテイストになっていたからである。しかし、何度も聞いていると、私好みのクラプトンとは少し違うテイストがあるような気がしてきた。なんとなく、内にこもったような感じがした。

そこで、インターネットでこのアルバムに対する意見を調べてみると、面白いことが書いてあった。「期待はずれだった。ロバート・ジョンソンはこんなものじゃない。ブルースはもっとすごい。売れるか売れないかなんで考えずに、全力で演奏して欲しい。」、「ロバート・ジョンソンを知らない人に聞いて欲しい。ロバート・ジョンソンを一般の人に広めるには最高の仕上がりだと思う。」、「自分の作品をきっかけに、ロバート・ジョンソンに興味を持ってもらえたらいいなという、聞きやすい作品である。親切なレコードである。」など。つまり、ロバート・ジョンソンを知っている人に言わせると、これはロバート・ジョンソンではない、と。かなり一般の人向けに作られているらしい。

こんなことを聞くと、さらに嬉しくなってくる。そう、私はロバート・ジョンソンを知らないもの。このアルバムを聞いて、はじめに、あぁ、エリック・クラプトンだと感じた。そして何回か聞くとクラプトンらしさと少し違うものを感じられた。だからこのアルバムは、ロバート・ジョンソン通にはいろいろな感情を持つに値し、彼を知らない人には楽しめるCDになっていて、それはクラプトンが狙ったところかどうかわからないけれど、いいのではないかと思う。


参考:Amazon.co.jp:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0001AE43S/qid=1084163603/sr=1-3/ref=sr_1_10_3/249-6034419-9385925

トリビアの泉 

2004年04月14日(水) 3時09分
 意外なことを聞くと、つい、「へぇ」といってしまう。その内容をそのまま番組にしてしまったのが、フジテレビ系列で放送されている「トリビアの泉」〜すばらしき無駄知識〜である。もともと深夜番組だったこの「トリビアの泉」、ゴールデンタイムに進出してからの成長はいちじるしく、今では「トリビアの泉」の本まで発行されているという人気ぶりである。
 
この人気の秘訣はどこにあるのだろうか。まず、内容が意外性に富んでいるということである。あまり知られてない内容なら何でもいい、というわけではない。あんなにマジメな人物が意外にも間の抜けたことをしていた、とか、まさかそんなことがあるわけないだろうと勝手に高をくくっていたことが覆される、とか、つい、「へぇ、へぇー。そうなんだぁ。」と驚いてしまうような意外性を持った話題を集めることが、視聴者を飽きさせることなくしている理由のひとつである。
 
しかし、この「トリビアの泉」人気の最大の理由は、かるいタッチでぷよぷよと動き、「へぇ〜」と無機質な声を出すあのボタンにあるのではないか。例えば、あのボタンがクイズ番組の「ピンポン!」という音でもいやだし、はたまた、欽ちゃんの仮装大賞の採点みたいにパネラーがボタンを押した分だけランプが光っていくというのでも、面白みがわいてこない。あくまであのパネラーの右側にあるボタンはたたかれた分だけ「へぇ〜」と言うあのボタンでなければならない。それは「ほぉ〜」でも「ふ〜ん」でも、「え〜!!」でもいけない。あの人間の声と思えないような無機質な「へぇ〜」を発するボタンによって、この番組は成り立っているのだ。
 
番組を見ていると、私自身もつい「へぇ〜」と言ってしまっていることが多い。意外なことを受け入れるときは、全てこの「トリビアの泉」のように簡単に、「へぇ〜」ですませられたらいいのに、と思う。

CHEMISTRY"One ×One" 

2004年04月14日(水) 2時43分
恋愛を歌ったバラードは、たくさんの人の心をつかむ。だが、音楽はせつない曲だけでは満足できない。

TV番組「ASAYAN」の男子ヴォーカリスト・オーディションで勝ち抜いた二人が結成したグループ、CHEMISTRY(ケミストリー)。2人の歌声が重なりあうと化学反応を起こし、今までにないパワーや魅力を生み出すということでつけられたのがこのグループ名の由来である。パワフルなイメージのある川畑と、繊細で甘い雰囲気のある堂珍、全く対照的な2人が生み出すハーモニーはお互い主張しながらも綺麗に重なり合っているため、多くの人が彼らの歌声に魅了された。
 
テレビCMで使われるBGM。彼らの歌声は、どこか少し影をもったせつないけれど美しい映像と共に流れている。彼らはいつも少しせつなそうに、辛そうに歌う。それが私たちの心を代弁してくれている気がするのかもしれない。そのために彼らの曲に惹かれる人が多いのかもしれない。  

さて、このアルバムを聴いてみるとどうだろうか。確かに彼らの特徴を生かしたメロディーや、ハーモニーは随所にみうけられる。しかしアルバムというのは全ての楽曲をひとまとめにするのであるから、ある程度最初の曲から最後の曲までの、「流れ」というものが必要である。どのコンサートでも、初めの曲からしめの曲まで、ずっと同じパターンを通すことはあまりない。イントロダクションから始まり、終わりの歌まで、どのような曲をどのように配置するか、それはアルバムにおいて重要なことである。Beatles(ビートルズ)が、音楽界で初のコンセプトアルバム(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts club Band)(1967)をリリースした後、アルバムというのは、ただ曲をよりあつめたものという域を超えた。

このアルバムを聴いていると、大体の曲のテンポ、調、ハーモニーの仕方が同じように聞こえてしまう。もっと彼らの美しい声を引き出せるように、曲調を変えてみることで彼らはさらなる化学反応を起こすのではないか。
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