トルコ辺境の旅(15)架け橋

July 08 [Thu], 2010, 1:32
ハサンケイフからミニバンに乗って15〜20分ほどの奥地に小さな村がある。
そのミニバンは町から通う先生たちの通勤バスだった。
こちらが校長先生、こちらが国語の先生、こちらは数学・・・ぼくは戸惑いながらも狭い車内で握手を繰り返した。

バンが学校の前に到着すると、既に生徒たちはグラウンドで整列して待っていた。
規律を重んじるのがトルコの教育スタイルらしく、その挨拶や先生への敬意は実に徹底されている。

心地よい朝礼が始まった。
規律で張り詰めた空間に子どもたちの声が響き渡る。
そして朝礼も落ち着いた矢先、数十人の子どもたちのまなざしは一人規律のなく立っていた日本人に注がれた。

彼ら彼女らの興味の眼差しを一身に浴びて、ぼくは本当に学校に来てしまったことを実感していた。

教員室に招待された後に、1時間目はSerdarの教える英語の授業だった。
中学生の英語の授業は、簡単な会話が交わされるほどのもの。

外国人としての僕の存在は、まさに英語授業のモチベーションを高めるものだっただろうか。

みなが恥ずかしそうに、でも笑顔でいきいきとしているのが、なんだかとてもうれしかった。


そしてとうとう、僕も教壇に立つ。
かつて塾で2年ほど授業を担当した経験があるため、チョークも黒板も違和感はない。ただ、バカンスで訪れたこのトルコでチョークをにぎりしめて、生徒たちのまっすぐな眼差しに囲まれるとは思いもよらなかった。
思わず照れ笑い。


彼ら彼女ら一人一人と実際に英会話をすることにしてみると
 「My name is・・・」
 「I am from Japan」 
 「My father's job is.....」
みな、すらすらと教えられた表現を口にした。

先生としての僕に当てられると、生徒たちはすっと起立して、一生懸命に質問に答えようとしていた。
この一生懸命さがまた僕にはうれしかった。

壁に掛けられた地図に、小さく描かれた日本。
その場所を指しながら、ぼくは日本という場所の良さを簡単な単語をつなげて説明し、
そして同時に、この短期間でトルコのどんなところが好きになったかも説明した。

その一言一言に彼ら彼女らは笑顔で応えてくれた。

45分はあっという間に過ぎ去った。
その間、ぼくはこれまで感じたことのない自分の中から湧き出てくる想いを感じ取っていた。

これまで大きなプロジェクトを手がけることを通じて、新興国にベネフィットを与えることに楽しさと誇りを持ってきた。
けれど、それとはまた異質の楽しさがある。

この小さな一人一人の将来に、日本人の僕が小さく関われていること、そしていつかその種が日本とトルコの間で花開く可能性があることに、小さな架け橋になれたような気持ちになった。

トルコ辺境の旅(14)出会い

July 08 [Thu], 2010, 1:11
早朝の散歩から戻ってきたら、もうSedarは迎えに来ていた。
彼は自宅から持参したチーズと玉子をもって、ホテルのはすむかいにある町のパン屋へと足を運んだ。

その空間は、焼きたての香ばしいパンの香りが立ち込めていた。

大きな窯の前にはこの道22年のパン屋のご主人が陣取り、息子が黙々と練りこんだパン生地を手際よく窯の中に出し入れしていた。町のパン屋は朝が大忙しなのだ。

Sedarは持参したチーズと生卵を、練り終わったパン生地の上にまぶし始めて僕はようやく意味が理解できた。
石窯でピザパンを焼いてもらおうという粋なはからいで、パン屋の中はまた一段と香ばしく焼け焦げた香りを漂わせた。


ぼくらはできあがったばかりのチーズ玉子パンをほうばりながら、この日の訪問地について話をしていた。

Sedarは前の晩に、川上レストランで出会った地元の小中学校の先生だった。
2002年サッカーワールドカップでトルコ対日本の熱戦や、これまでの旅について会話を重ねるうちに、高かった太陽はあっという間に沈んでいた。ずいぶんと長居したなぁと思った矢先に彼からの提案があった。

「明日ぼくの小学校に来てみないか。ぜひ日本について教えて欲しい」

あまりの突然の予期せぬ誘いに一瞬戸惑ったが、とりあえず、Yesと返事をした。
まだ旅の先は長かったし、何より彼の本気度を図りかねていたからだ。


そんな夜を過ごした翌朝、ぼくは彼の振舞ってくれるチーズ玉子パンに舌鼓をうっている。
話半分に聞いていた招待は、現実のものになった。

トルコ辺境の旅(13)沈む町

July 08 [Thu], 2010, 0:01
ディヤルバクルは美しい街だった。
事前の知識は有効だけど、余計なバイアスをもたらしかねない。このバランスがなんとも難しい。。今更ながら、そんなことを考えながら、ボリューム満点のランチを食べていた。

街の人々の親切に助けられながら、12時半頃にはミニバスでオトガルへと向かい、Batman経由でハサンケイフには15時に到着していた。

ハサンケイフはティグリス河の沿岸に広がる古代都市で、その歴史は紀元前にまで遡る。
現在残る多くの建築物が11〜12世紀のもので、ティグリス川に置き去りにされた巨大な橋げたは当時の栄光を想起させる。


川岸の街を見下ろすように崖上には14世紀に建てられたという城塞が残っているが、ここからの眺めはとにかく素晴らしい。
青い空に突き出るように地層をあらわにした崖、緑や黄色で覆われた土地は古代文明を育んだ大河の恵みを受けて美しく、青緑に輝くティグリス河の流れは、悠久のときを感じさせる。

自然と文明、そして時の流れを同時に感じられる美しい場所。


斜面によってだろう錯覚が起こされているのだろうか。かつての城塞は見た目以上に巨大で、うっかりすると迷路に迷い込んだようになってしまう。

当時の生活の名残があちこちに残されているが、時とともに朽ちていく石造りの建造物とそれを覆うように広がっていく草木の融和が、また寂しさと風情を感じさせてくれる。




川沿いに木と藁で建てられた水上レストランで、目前で採れた魚のグリルを食べながら河の流れに目を落とすと、時の流れを遡っていくかのような感覚につつまれた。何千年も前から流れていた川の前で、今自分は生きている。

本当に沈むのか。。
歴史的価値のある町は、ティグリス沿岸のダム開発計画で水底に沈むことになっている。

これが時の流れなのか・・・・それとも流れに逆らっているのか・・・
なんとも言えないやるせなさは、これからの出会いでさらに強まっていった。

トルコ辺境の旅(12)親切

July 07 [Wed], 2010, 1:53
城壁で囲まれたディヤルバクルの旧市街の中心にUlu Camii。
セルジューク朝時代の1000年にも及ぶ歴史を刻む、この地域の最古のモスク。
早朝の静まり返ったモスクは、昼過ぎには多くの人の訪問で賑やかになっていた。


Safa Camiiは1532年に建立され、その装飾の美しさは真っ青な空によく映える。


Surpagab Kilisesi.アルメニア教会の柱の数々。


見所の多いこの街は、治安があまりよくないと言われていた。
何かの情報で、子どもたちにバクシーシ(施しの金)をねだられる。とも書かれていた。

何か身構えていたのだろうか。
城壁やモスクを案内してくれた15歳と7歳の彼らとの楽しい時間は、時が経つにつれて悩みの時間に変わっていった。
トルコ語を話せない僕と英語を話せない彼らとのコミュニケーションは、トルコ語会話本と顔の表情だけで数時間が過ぎるほど、楽しいものだった。

お昼近くになって、彼らは小さな売店でジュースとsimikを買ってきて、ぼくにも分けてくれようとしたが、僕には受け取ることができなかった。多くの国で何度となく自称ガイドにつきまとわれてきた経験が、自分の心を狭くしていたからだろうか。
楽しい時間を過ごしたあとに、"Money"と言われるのが怖かったからだろうか。

受け取った後の、彼らの顔と声をどう予見してよいものか判断がつきかねていた。
もしお金を要求されたら?払えばいい?でも、それは本当に彼らの役に立つのか?
それ以上に、親切心からの差し入れだったらどうするんだ?
答えのない問答がアタマのなかで繰り返されていた。

結局、最後まで彼らの口からは、最後までMoneyという言葉は出てこなかった。

あのsimitとジュースを受け取った方がよかったのだろうか。
何度旅しても学習できない僕は、今でもまだ答えを出せないでいる。

トルコ辺境をいく(11)クルド人の街

July 02 [Fri], 2010, 0:20
朝6時半だというのに、明るく青い空に太陽が力強かった。
夜行バスは、クルド人の都ディヤルバクルに到着していた。

ディヤルバクルの歴史は古く、紀元前1500年に遡る。
城壁で囲まれた街の外側には、チグリス川が流れ、川沿いに緑の木々が立ち並んでいた。歴史の教科書に出てきた、イラクへと続くあのチグリス川だ。

アナトリアとペルシア、そしてシリアの思惑が交錯したこの地は、時代の流れに翻弄されてきた街なのだろう。その落ち着くことのない歴史に人種は混じり、今ではクルド民族の中心地として栄えている。


クルド人は、国をもたない最大民族と呼ばれ、トルコ、イラン、イラクなどに少数民族として存在している。
歴史は少数民族に対して概して厳しいが、不平等な扱いを受けて独立を望むようになり、その望みを弾圧された反発によって反政府運動へとつながっていく一連の流れは、クルドにも決して例外ではない。

イラクではフセイン政権時に少数派民族として弾圧され、化学兵器で虐殺されている。イランでも少数派としての扱いをされ続けた。そしてトルコでも、建国の父アタチュルクは、国の安定はトルコ人がもたらすとしてクルド人の文化を否定し、20世紀後半までは言論弾圧までしていた。EU加盟を目指したトルコがはっきりとNoを伝えられた理由はクルドに対する人権問題だった。今でもクルドに対する風当たりは強く、ディヤルバクルを中心としたトルコ南東部は反政府組織の活動拠点にもなっていて、最近も爆破テロが起きたりしている。

それでもここは南東部の中心都市。

街は活気にあふれている。
トルコといえばオリーブ。

そして輸入されたバナナなども。

頭にナンを載せる姿はユーラシアの西部ではおきまりの景色だ。

チャイ屋もちょっと現代風。


さすがにこの写真は、トルコ人にも笑われた。
この頭蓋部分は何料理に使うのだろう・・・

やはり大きな町は市場が面白い。

トルコ辺境をいく(10)

July 01 [Thu], 2010, 23:31
Vanを出発して45分ほどで、Van湖へ。
湖の入り口の町ゲワシュから少し先に行ったところから、アクダマルのボートが出る。


いい天気だった。
標高4000mを越える山々に囲まれた湖は強い風で波立っていたが、10時頃には既に強い陽射しが照り付けていた。

もともとそれほどメジャーでないことに加え、まだハイシーズンではないからだろうか
ボート乗り場には誰もやってこない。

燃料代を理由に、10人が集まらないと走らないのはバスもボートも同じ。
乗客の多寡に関わらず運行している日本の快適さを、既に稀なことと知ってしまった旅人には待つのもまた楽しみな時間さ。

ところが、1時間ほどした後にイタリア人と地元のおじいさんおばあさんがやってきた他に、乗客は来る気配を一向に見せなかった。まだ5人。この後にツアー客でもやってこない限りは、この日は運行しない雲行きになってきた。

3時間ほど待っただろうか。
結局、時間が限られているぼくとイタリア人は、ぼくらが少し多く負担してあげることで10人分の船賃を5人で負担することを地元のおじいさんおばあさんに提案して了承してもらい、なんとか船に乗ることができた。

湖の中にある小島に今から1100年ほど前のAD921年にAkdamar Kilisesi 教会が建てられた。


Ani遺跡でも見られたアルメニア様式の教会で、茶色い円筒形に三角屋根をかぶった独特の外観。
壁面のレリーフが美しく、内部にはフレスコ画も保存状態よく残っている。


何より、この絵葉書のような景色が素晴らしい。
芝生に腰を下ろして青い空と白い雪面の残る山を眺めると、おとぎの国にいるような気分にもなってくる。

でも、ここはトルコなのだ。

トルコ辺境をいく(9)湖畔の町

May 24 [Sun], 2009, 0:54
ホシャップから戻った夜は、ルーマニア人の彼らと近くのカルフールで購入した缶ビールで語り合った。

ルーマニアからみると、トルコは黒海をはさんだ対岸に位置し、15〜19世紀にかけては大帝国オスマンの統治下にもあったこともあるなじみの国なのかもしれない。
彼らはトルコに対する知識が豊富で、中東の旅経験も多く、中東文化や歴史にとても詳しかった。何よりも見識が広く、貧困問題や様々な現代の課題に対しての問題意識と興味があり、日本文化に対しても関心を持っていた。その豊富な知識と思慮分別のある言動に、夜も更けてお互いの旅の安全を祈りあう頃には、僕はすっかり彼らを好きになっていた。


翌朝はこの町の名物だという朝食街へと向かい、少し贅沢な朝食をとった。
やはりチーズとハチミツが旨い。


町のはずれにはVan城がそびえる。紀元前800年代に作られたという歴史ある城の上部は土砂で塗り固められていたようで、風雨によって溶けて崩れてきているのが時の流れを感じさせてくれる。


城の上まで登るとその景色は素晴らしく、Vanの街並み

そしてVan湖を眼下にのぞむことができる。この日は湖から吹く風がとても強かった。


さらに、かつてのウラルトゥ人の住んでいた城下町の荒れ果てた姿は、切り立った岩肌の上に建つ城からは一目に見て取れる。ここは第一次世界大戦中にさらに廃墟と化したらしい。

今では地元の人たちのピクニックの場としてずいぶんと賑わっていた。
それにしても平日なのにこの賑わい、いったいいつ学校や仕事に出向いているのだろう・・と思い巡らせるほどの盛況ぶりだった。

遺跡の中を地元の小中学生が通学路として横切る姿もまたトルコらしくてよいのかもしれない。

トルコ辺境をいく(8)イラクへの道

May 23 [Sat], 2009, 22:52
朝9時。
バスターミナルという名の小さな発着所へ向かうと、次の目的地Van行きのミニバスが満席になるのを待っていた。最後の数席は補助イスだが、日本の銭湯のイスのような固く小さなプラスチックのイス。2.5時間程度なら耐えられるか・・・

湖畔の町Vanは意外と大きく、賑やかに見えた。宿探しも面倒だなと思いながら車窓からの町並みを眺めていたが、隣に座っていたルーマニア人旅行者が紹介してくれたホテルアスランに向かうことにした。彼らは1週間ほど前にこの町からグルジアに登山へと向かい、ちょうどこの日に戻ってきたところだった。

ホテルに荷物を置き、3人で近くのピザ屋に入る。
刻んだ肉と香草が香辛料のソースとともに香ばしいトルコ風ピザは口に何枚でも入るが、イスラム圏のお決まりで肉はラムでちょっとクセのある香りと味がする。それを塩味の飲むヨーグルト、アイランで流し込むと、クセと油っぽさが特徴のラム肉の風味をマイルドにコーティングして中和してくれる気がした。

腹ごしらえのあとに、Baskale行きのミニバスに乗ってホシャップ城へと向かう。

Vanからホシャップ城までは約1時間だが、さらに南へと下るとBaskaleを越えてHakkariへとたどり着く。そのすぐ先は、イラクだ。
北イラクからこのトルコ南東部は反政府武装組織クルド労働者党(PKK)の活動がさかんな地域で、トルコ軍は、PKK活動拠点のあるイラク北部への越境攻撃も行っている。軍と反政府組織の衝突も多く、2008年10月にも国境付近で大規模な衝突が起きて、多くの死者がでている。

村上春樹の紀行「雨天炎天」には、このハッカリの様子が描写されている。TVにソウルオリンピックが映っていたという記述があることから、今から20年も前のことだが、当時も変わらず最も治安の悪い地域と言われていた町で「空気がどことなくぴりぴりとして、不穏である」と紹介されている。

程度の差はあれ、20年変わらぬ姿なのだろうか。ホシャップ城のすぐ横には軍事基地が物々しい雰囲気で鉄条網を張り巡らせ、入口の護衛からは厳しい視線が浴びせられているのが感じられる。その緊張感とともに、ひっきりなしに軍のトラックや戦車がHakkari、イラク方面へと走っていった。


ホシャップ城は17世紀後半にクルド人領主によって建てられた城で、小高い岩盤の上に建っていた。


この日は内部が崩れているということで閉まっていたが、入り口のライオンをえがいた門が印象的な城だ。このあたりにかつてライオンがいたのだろうか。


はるか先には雪をかぶった山脈が連なる。方角的に東のイランか、南のイラクか…
いずれにしても、画一的なメディアを通して観ていた中東の地とはまるで違う姿がここにはある。
地理的にも文化・民族的にも想像を遥かにしのぐ多様性に、この地への興味は日に日に膨らんでいく。

トルコ辺境をいく(7)天空の城

May 17 [Sun], 2009, 22:26
夕陽に染まりゆくイシャク・パシャと眼下の町。
遥か先には、ノアの箱舟がたどり着いたとされる聖なる山アララト。
少しの雨が止み、曇の間から陽の光が降りそそいだ瞬間。

天空の城。
様々な出会いとタイミングがこの瞬間への立会いを許してくれたことに感謝する。

トルコ辺境をいく(6)タイミング

May 17 [Sun], 2009, 21:17
忘れ去られ、時が止まったかのような雰囲気を持ちながら、アルメニアとトルコの国家間対立の最前線にたたずむ、まさに静と動が交錯する遺跡、アニをあとにKarsの町へと戻ると、Igdirの町行きドルムシュがまさに出発せんとしているところだった。タイミングよく最後の1人としてドルムシュに飛び乗り、風光明媚なアナトリアの大地を進んだ。車窓からは、緑が流れていく。緑の先には切り立った黒っぽい山々が連なり、そのはるか先には雪をかぶった壁のような山々が連なった。

山道峠道を行くこと約3時間、乗り換えの地Igdirのバスターミナルに到着すると、ほぼ1時間おきに出ているという目的地Dogubayazit行きのミニバスが目前に止まっていた。ドルムシュから荷物をおろし、ミニバスに乗り込むと、ぼくらのドルムシュを待っていたかのように、これもまたタイミングよく出発。約45分ほど16:30頃にDogubayazitに到着した。

ここDogubayazitはイランに程近く、わずか35kmほどでイランートルコ国境となる。この日の宿のお兄さんが優しい笑顔で、「今日はイランから来たのかい?」と尋ねるほどに、ペルシャとアナトリアを行き来する旅人や商人が頻繁に立ち寄るクルド人の町。
この日の宿もトルコにあって、Hotel Tahranと名づけられていた。

荷物を置いて、早速目当ての遺跡イシャク・パシャ宮殿へと駆け足で向かう。クローズまであと1時間弱なのに急いだ理由は、宮殿が他のトルコの文化遺跡と同様に翌日の月曜日が休館日にあたるためだった。宮殿は丘の上にあるため、町に止まっていたバンにお願いして急いで登ってもらう。

乗り継ぎタイミングが上手くいかなかったら月曜日に外から眺めるだけで終わったであろうイシャク・パシャ宮殿は、素晴らしい建築物だった。

17世紀に建てられたこのIshak Pasa saraiにはオスマン、アルメニア、ペルシャ、グルジア、セルジュクなど民族や文化の十字路としての要素がふんだんに詰まっている。中庭から見上げるドームは特に美しい

手前の三角屋根をかぶったお墓にはセルジュク文化とペルシャ文化が同居する。

高く、絢爛に彫りこまれた門や

繊細なデコレーションが施された壁に息を飲む。

そして様々な文化の美しいところが凝縮して組み合わされたダイニングホール。


このオレンジ色の砂岩に囲まれた空間、そしてちりばめられた一つ一つの装飾に息を飲む連続。

トルコ辺境をいく(5)Ani −静と動の間

May 15 [Fri], 2009, 2:59
Karsの町の東に45km、約50分ほどの距離に素晴らしい遺跡がある。

アニ遺跡。

961年、アルメニアのBagratid王朝が首都として構えたこの町は、1045年にビザンティン帝国、1064年にセルジュク朝、その後グルジア王やクルド人王朝の町としても栄えた。多分にもれず、モンゴル帝国の征服にあっているが、現在の姿は主に14世紀の地震による崩壊によるところが大きいという。
ここに都が置かれたのは、その地の利から貿易行路の中継点となっていたこと。
ここはまさにシルクロードの上にある町だった。




広大な草原に点在する荒れ果てた建物の数々から、このような物悲しさが伝わる遺跡も珍しい。
晴れていたらきっと違った印象だったに違いない。この地はもう少し暖かくなると一面に花が咲き乱れるだろう。





この地はトルコとアルメニアの国境にあたる。川をはさんで手前側がトルコ領、反対側がアルメニア領。
かつては遺跡内に兵士が常駐していたというから、その緊張度がうかがえる。

この遺跡を訪れて初めて知ったことだが、トルコとアルメニアとの関係は決して良好とは言えない。
トルコの北東部は旧ソ連国であるグルジアとアルメニアに接し、アルメニアの東にはカスピ海に面したアゼルバイジャンが位置する。1991年に独立したアルメニアはアゼルバイジャンと戦争を起こし、トルコは親交国であるアゼルバイジャンのサポートを目的に1993年アルメニアとの国境を閉鎖した。かつて遺跡に兵士がいたというのは、そのためなのだろう。


なお、さらにさかのぼると、第1次世界大戦時に、オスマントルコがアルメニア人を大量虐殺していることが、トルコとアルメニアの仲を引き裂いている深層だとも言われているらしいが、こうした過去の歴史が今の国と国との関係に影響を及ぼし続けていることは、なんとも悲しいことだ。

トルコ辺境をいく(4)Kars

May 15 [Fri], 2009, 2:05
Karsの町は雲に覆われていて、どこか暗い感じがした。この町から遠くない距離にトルコとアルメニアの国境があるが、かつてロシアと領有権を争った町だという。様々な民族が混じりあう、まさに国の境目の町だ。

雨の中で安宿を探したが、訪れたいくつかはどれもガイドで紹介されている値段よりもあがっていた。1日に2−3便しか発着しない空港から町までのタクシー料金も、かつての相場から結構値上がりしていた。トルコの歴史上は史上最低のインフレ率を更新している、すなわち経済運営が正常化の過程にある国ではあるらしいが、どうやらこの先は予想よりも高いコストを想定しておかなければならなそうだ。

結局、最初に部屋を見せてもらったホテルに戻って1泊することにした。他に観光客は宿泊していなそうだったのと、完全な個室タイプだったのとで他の旅行者に出会いそうもない。


この町には歴史あるKars城が高台に建っていて、町を一望できる。12世紀に建てられたこの城は、モンゴル帝国の来襲で壊された後にオスマン時代に再建され、第1次大戦後はロシア、アルメニアの手に渡った末にトルコに戻ってきた、時を刻んだ城でもある。

それにしても大陸を旅すると、かつてのモンゴル軍に頻繁に遭遇する。概して、かつての建築物が破壊されたという事実によって遭遇するのだが、行く先々で多くを跡形もなく破壊するスタイルには、後世の人間としては残念な感が否めない。根城を持たない遊牧民族らしいと言えばそうなのだろうが・・・

石橋もまた一度破壊されているが、こちらは地震によるという。トルコを旅すると地震で破壊されたという遺跡に案外多く出会う。


町の目抜き通り(といっても1車線だが)には、名産のハチミツとチーズのお店が数点並ぶ。
どこもショーウィンドウにハチミツとチーズを並べているのだが、このなんともいえない妙な収まり具合に思わずカメラを向けてしまった。


ホテルの部屋に戻るや否や、ドアをノックする音がした。
Lonely Planetに、"ホテルロビーで英語の堪能なプライベートガイドに出会うだろう”と書かれていたが、まさに彼のことだった。

どこから聞きつけたのか、いや、この小さな町で外国人が目立つのか。こんな訪問者は初めての経験だが、翌朝アニ遺跡へ車を出してくれるという。
アニ遺跡へはクルマで1時間弱かかり、公共の乗り物で行くことはできない。車はシェアしたほうが当然一人あたりが安いのだが、他のホテルに泊まっているオーストラリア人と合計2人での旅路になりそうだった。

この小さな町に新たな旅人が到着する可能性は薄そうだったが、かすかな望みとともに翌朝8時30分の待ち合わせをして布団をかぶった。

トルコ辺境をいく(3)行先変更

April 30 [Thu], 2009, 21:46
早朝4時に起床した。
空港へのシャトルが5:50にホテル近くにピックアップに来る予定だ。

が、10分待っても20分待っても来なかった。なんどとなくタクシーを拾おうと思ったものの、すぐに拾えるわけもなく、ただ待つしかなかった。そんなこんなでシャトルが迎えにきたのは予定ピック時刻の約30分後・・・

既にシャトルには大勢の旅行者が乗っていた。これだけの人がピックされたら予定より遅れるわけだ。
はやるこちらの気持ちはさておき、シャトルはまだ人を詰め込むべく、いくつかのホテルを回った。

空港に到着したときには、既に出発時刻まで1時間をきっている。
走ってチェックインカウンターに向かうと、そこには現地トルコの人たちの長蛇の列。。。これはまずい。

私  「7時30分の飛行機なんだけれど、先にチェックインさせてください」
係1 「並んで待ってください」
私  「でも時間ないです。お願いします」
係2 「もう離陸まで1時間きっているから、チェックインはムリだ。飛行機を変えなさい」
私  「そんなことないでしょ。誰か他にいないの。これ乗らないとダメなんだけれど」
係3 「ダメだね。もうチェックインはCloseした。飛行機を変えなさい」

・・・なんだそりゃ。話す相手を変えても対応は変わらず、嘆いても事態は変わらず。
ここは旧社会主義体質の残る国か・・・キルギスを思い出すぞ。。

あきらめてチケットの買い替えにすることにした。とはいえ、次のトラブゾン行きは夕方。空港で夕方まで9時間も待つなんて、できない。
こうなったら、行き先を変えるしかない。

時刻表と地図を交互ににらみながら、行き先をトラブゾンよりもさらに東、カルス行きへと変更し、差額を支払った。フライトまでの時間は、地図を見ながらの旅程の組みなおし。

飛行機は雨上がりでどんよりとした重たい雲に覆われたカルスに約20分遅れで到着した。
機内ではいつまでも止まない子どもの泣き声が響きわたり、いつしかロックし忘れたipodからはバッテリーがなくなっていた。

ついてないねぇ・・・

全身を包むような霧雨の中で宿を探し、人気の少ない小さな町へと繰り出した。
昼だというのにあたりは暗い。

町はずれには教会がぽつんと立っていた。アルメニアとの国境が近いことを知らせてくれるアルメニア教会だろう。装飾の少ない石の壁は、素朴さと同時に雨に濡れた薄暗い寂しさをかもしだす。

なんだか、この日に似合っている気がした。


トルコ辺境をいく(2)凝縮のイスタンブル

April 30 [Thu], 2009, 0:48
イスタンブルのスルタン・アフメット地域には、特色のある歴史的建造物が集中している。
これほど圧倒的な存在感の建物のいくつもを凝縮させた場所は、これまで経験したことがなかった。

トプカプ宮殿。
隆盛を極めた頃の皇帝や王が建造する城や宮殿はグローバルに観ると、雰囲気が似ていると感じてしまい、細部にこだわらなければどれも一緒に見えてくる。規模が大きければ大きいほど・・
いつか再訪したときにじっくり観たい。


ブルーモスク。
いまやトルコのシンボル。ドームと半ドームを組み合わせ、鉛筆のように細く尖ったミナレットを何本も配置するあのシルエットは一度観たら忘れないだろう。中では敬虔な信者の祈りが、メッカの方角を示すミフラーブに向かって捧げられていた。


アヤソフィア。
時間がなくて、いや時間配分を間違えて結局訪問できなかった、この地区ではおそらく最も歴史的な背景が詰まっているであろう建築物。帰国後に「コンスタンティノープルの陥落」などいくつかのイスタンブルに関する書籍を読んで、再訪必須との想いを強くした。


地下宮殿。
アヤソフィアのすぐ近くにローマ帝国時代の地下貯水池が眠っている。規則正しく並ぶ柱でできた薄暗い空間。いくつかの柱の土台に描かれた大きなメデューサの顔がこちらをにらむ。1500年以上前の視線を前に、不思議な感覚が身を包む。


もともとイスタンブルを観光する予定がなかったために、その価値や歴史的背景は帰国後に知ることとなったが、それらの存在感が、ただ歩くだけでトルコの雰囲気を堪能させてくれた。今となっては最も見ておくべきだと感じているアヤソフィアへは時間がなくて訪問をあきらめたのも、あの場の雰囲気に飲まれたからかもしれない。

あっという間に夜の闇が訪れた。

トルコ辺境を行く(1)アジアの先・欧州の先

April 29 [Wed], 2009, 15:26
Day1

関空深夜発のカタール航空に乗り込んだ。

ビジネスクラスが評判でも、YクラスはYクラスということらしい。1年ほど前のエミレーツ航空A320機体のキレイな機体の残像を描いていたが、この日の記憶は今となっては多くを覚えていない。
およそ10hでドーハに到着し、トランジット後3hほどでイスタンブルに昼頃に到着した。

今回の旅は、東部アナトリア地方を回ることを決めていた。黒海沿岸の町トラブゾン行き国内線は夕刻発で間がよくない。今からイスタンブルの街に出るほどの時間はないが、かといって数時間も空港内で過ごすのは時間が惜しい。

迷った挙句、翌朝のトラブゾン行きのチケットを購入し、この日は半日イスタンブルに出ることにした。
ここまではよかったのだが・・・結局この地には降りられないことになる。


それまでトルコを中東ととらえていた僕を、イスタンブルの街並みはNoサインを送っていた。近代的な地下鉄と路面電車を乗り継いで旧市街スルタンアフメット地区にたどり着くまでの1時間ほどの景色は、どことなくヨーロッパを想起させ、乗り降りしてきた現地の人たちはどこか洗練されているように見えた。
そして、その想像と目前のギャップは、夜も更けた頃に、観光客でごったがえすレストランが立ち並ぶ風景とメニュー表記された値段によってより強いものとなった。


ここはEU加盟を目指す国の最前線の街だった。

2008年5月のこの時期、F1トルコ・グランプリ開催でホテルの多くは満室だった。トルコでF1が開催されていることに多少の驚きを覚えたが、国の力が上がってきている証左だろう。2005年から開催されているというこのイベントを観るための人たちも混じってだろうか、多くの欧州人らしき旅行者が街にあふれ、宿探しは難を極めた。

一帯のホテルをくまなく回ってようやく見つけたのはシングルで1泊70ユーロでクイック宿泊には勿体なかったが、最上階の部屋をゲットできた。テラスからはマルマラ海とブルーモスクが見渡せて心地よい。

さて、市内に出よう。

風のパタゴニア

April 28 [Tue], 2009, 21:45
憧れのパタゴニアへ。


そして最南端の街でペンギンくん、こんにちは

美しき砂のナミビア(20)

December 06 [Sat], 2008, 17:30


世界は広くて 
知らないことだらけ

それを知ることが 
一番大事なのだよね

美しき砂のナミビア(19)

December 06 [Sat], 2008, 17:12
イギリス、カナダ、アメリカ、ドイツ、そして日本

旅人たちがアフリカの大地に集まって

飲んで、語って、そして感動をシェアした日々

ひとりもいいけど

ひとりじゃないのもいいよね

美しき砂のナミビア(18)

December 06 [Sat], 2008, 17:05


大自然に目を見張ってばかりの日々

文明に出会うとふと思い出す

そういえばヒトは

この大陸に起源を持つと言われていることを。

美しき砂のナミビア(17)

December 06 [Sat], 2008, 16:40


共生には、ある種芸術的にも思える距離感が必要なのかもしれない



密猟、獣害対策、自然破壊

広大なNational Parkで見られる動物たちの世界のすぐ横で起こっている事実の数々

人間と動物との距離感は、芸術的には程遠い
■プロフィール■
SATOSHI

オンで途上国と日本をつなぎ
オフでふらりとひとり旅。

感じることも異なるはず。

旬と瞬を大切に。

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