ニュージーランド−高校−10 

February 16 [Fri], 2007, 20:18
 ホストファーザーが大声で何かを捲くし立てている。首が定期的に上と下と交互に反復しているさまは、正しく話を聞いている様に見えるだろう。そんな時の「僕」の回避能力は天才的だった。だから「僕」に任せて俺は静かに潜む。
 昔は、そんな自由に入れ替えが聞くわけでもなかった。今でもそれほどまだ気ままに出たり入ったり出来るわけでは無いが。それでも逃げ道を確保する程度に交代は出来た。
 「俺と僕」。そこに恐らく相互関係は無いのだろう。俺にとって僕の存在は当たり前だが、俺が僕と真逆である以外に違いは無い。
「ネガティブとポジティブ」
 頭の中で呟いて、一人またポジティブこの上無い思案に浸る。きっと今この状態で誰か可愛い女の子が偶然俺を訪ねて来て、それも偶然俺にかかわりが無い事をやたらとうまく説明してくれて、かつホストファーザーがその説明を受け入れて俺を釈放し、ありがとうって言うと同時に告白される筈だ。
「いや、むしろそりゃ妄想に近いな」
 不可能で意味の無いストーリーを組み立て、頭の置く深くにまで響いてくるホストファーザーの声を退ける努力をしてみる。
 そんな時だった。不意に僕と入れ替わったのは。
 同時に、大連人の囁きが聞こえる。
「馬の耳に念仏ってね」
 沈黙。暫く意味を把握しあぐねていた時を経て、柱時計の鐘の様な大きな声で俺は叫んだ。
「いや、自分だけはゆうたらあかん!!」
 刹那に振り向く全員。しまった、とスタスタ逃げ出そうとする俺。襟元に誰かの手が伸びる。咄嗟の回避行動。
 間に合わない。
 引っ掛けられた指を辿ると、そこには怒りに歪んだホストファーザーの顔があった。
「おまえはここに残れ、他のやつははやく自分の部屋戻って反省してなさい」
 ニヤニヤ笑うほかの面々。
 巻き込んだ張本人の香港人、狸寝入りの努力も実らなかった台湾人、正直このアホがいなければ問題なかったベトナム人、そして悪の大元凶大連人。
「大連人・・自分あとでいてこます・・」
 力なく囁いた声を聞き流し、みな逃げる様に去っていった。

ニュージーランド−高校−9 

December 17 [Sun], 2006, 1:01
「あー呼び出しされてるよ」
 その怒涛に眉毛ひとつぴくりとも動かさず、まるで人事として呟くベトナム人。それを慣れた事として二本目の煙草がチリッと小さい音を立て必死の時間稼ぎを志している。
「せやなぁ」
 そうした返答にも気持ちなどこもってはいない。あるとすればやはり「ひとごと」のリアクションだろう。無関係を決め込む二人。恐らく上階では台湾人も寝たふりに精を出しているに違いない。
毎日毎日のコピーの様な日々。大連人に巻き込まれる俺たちの心は既に図太くなり、それなりの事では動じなくなっていた。平成大不況のさなか、毎年やってくるボーナスカットの様なものと考えてもらえれば納得もいくかも知れない。不況とは、簡単に言えば先の見えない未来の恐怖に備え、人々の貯蓄額が増える事により散財するタイミングを失った景気後退期。それがスタグフレーションであれば、銀行預金が更に増加し、必然的に金を使う全体量が減るという仕組みである。この時、そこで民間投資を増加させ経済に流動性を持たせる最終手段として小渕政権下、ゼロ金利政策措置が日本銀行によってとられた。平成大不況がデフレーション下にあったからこその政策とも言えるが、それでも流動性の罠による民間企業への更なる圧迫も危惧される事となる。
 よほど一般的な高校生には関連性の薄い経済に思考を寄せ現実逃避を図るが、その策略ももう一人、関係ない筈の兄貴分、香港人によって軽く打ち破られた。
「おまえら、呼ばれてるぞ」
 聞こえないふり。煙草が最後の命を燃やしきる。
「はやく来い。大丈夫、おまえらは怒られないから」
 香港人の優し過ぎる一言が俺らの沈黙を破る為の手段であることは間違いない。だが、その罠にベトナム人はまんまと引っかかる。
「え、ほんと?」
「このアホ・・」と、おれは悔しげにうめいた。勝ち誇った様な香港人の顔。
「あーうっとうしい!しゃあない、行くか」
 覚悟を決めた俺は火の消えた煙草を灰皿に放り込み立ち上がった。

ニュージーランド−高校−8 

December 04 [Mon], 2006, 17:19
 11月の真夏日だというのに、プールは僅かに濁りを見せていた。夜の闇を考慮に入れても、その濁り方は、用無しプールの哀愁を漂わせている。街に出ればハーバー、バスで10分ほどのところにも海岸が続き、コバルトブルーに輝くこの国にある種最も必要の無いものが此のプライベートプールなのかも知れない。
 プールサイドに腰掛け、其処に足を浸しながら煙草に火を灯す。風の強いニュージーランドからすれば珍しく一度で点いた。或いは其れは此のプールの様な用無しを示す幸先の悪い呪怨が具現化したのかも知れない。だが、だからこそ人生に深みが出来る。「深みに嵌る」わけでは無い。ただ其処に身を任せる事でこそ強弱の波が面白みを持たせるのだろう。
 家の中の喧騒は遠く離れ、煙草の燃揺る音が何十にも渡り耳の奥まで聞こえて来た。隣では本人曰くモテないあまり苦し紛れに染めた金髪が揺れるベトナム人が静かに鎮座する。どこと無く、俺を急かす様な雰囲気を漂わせながら。
「ほんで、なにがあったんや」
 なるべく尊大に尋ねる様に心掛けた。そうでもしなければ、いつの間にやら問題の中心に身を置かされる事となる。
「あいつ、今度は何やったんや」
 言葉とは裏腹に笑みを浮かべながら。其れが「俺」であり俺が俺で在り続ける所以。
「あっと」と、ベトナム人が言葉に詰まった。彼は話をまだ纏めていなかったようだ。
「あの馬鹿、ココナッツ買ってきたんはいいんだけど」
 一呼吸置いて彼は続けた。煙草の煙がチリチリとその命を終える。
「中身飲もうとして、机に叩きつけて割ったらしい」
「はい!?アホかあいつ・・」
 恐らく渦中の机であろう残骸を指しながら「まったくだ」と言わんばかりにウンウンと頷くベトナム人を唖然とした顔で見つめながら俺は嘆息した。
「んな事したら机潰れるん決まっとぉやん・・」
「あいつ机と一緒に面子が潰れたとか爆笑してたけどね」
 苦笑いするより他にリアクションが思い浮かばず、俺はもう一度嘆息する。
「ほんで、それはわかったけんど、それどうやったらおれらまで巻き込めんねん」
「みんなで割り方決めた事にしたっ!!」
 元気よく挙手しながらプールよりも必要の無い台詞を堂々と吐くベトナム人。
「あほかーーーーーーーー!」
 こちらも意味も無く気前よく叫び対抗する。
「でもまぁ、そんなたいした事やのぉてよかった」
 それほど大きくない机の大破が大した事あるかどうかは俺の判断基準には無い。それならば割り切って考えてしまえばいいだろう。
「あーまぁええわ。どないしょっか・・」
 ぼやいた刹那の事だった。
「おまえら!!集合ぉぉぉおお!」
 ホストファーザーの雷の様な怒号が聞こえたのは。

ニュージーランド−高校−7 

November 23 [Thu], 2006, 21:14
「なんや?!」
 其れに驚いて挙げた言葉は恐らく、家中に響き渡ったであろう。呼応するかの様に叫び声が止まる。叫び声、と言うよりは寧ろ奇声に近かったその声はリビングから消え静寂が訪れる。それとほぼ同時にゲーム好きな台湾人が二階よりそーっと降りてきた。そしてまた、言い争いの様なものが始まる。
「何があったん?」
 少し声のトーンを落とし、俺は台湾人に尋ねた。
「いや、おれもさっきの変な声が気になって降りてきたところ」と、台湾人は言う。
台湾人、ベトナム人と香港人、そしてホストペアレンツとその娘、彼氏の部屋は二階にあり、一階に住んでいるのは大連人と俺だけだった。
隠れるように言い争いの中心地、リビングを覗き込む二人。其処にはホストペアレンツと残りのホームステイ三人。奇声をあげたのはその内の一人大連人。また何かを言おうとして、香港人に止められている。
「また、喧嘩か」
 小さなため息と共に台湾人が誰ともなしに呟いた。其れが聞こえたかどうかは定かでは無いが、ベトナム人が俺たちに気がつく。
「やばっ!」
 とりあえずリビングを覗いていた顔を引っ込めるも、ベトナム人は含み笑いを持たせながらリビングを出てきた。
「大丈夫、他のみんなはあんたらの事気づいてないから」と、ベトナム人が声を潜める事も無く言い放つ。
 確かにその様だった。幸い、皆の言い争いは熾烈を極め、誰一人こちらを気にするものはいない。
「まぁ何があったかは聞けへんけど、俺らを巻き込まんでな」
 キリスト教徒である台湾人を代弁する様に祈りながら言った俺の其の言葉は、ベトナム人にいとも簡単に潰された。
「あ、それは無理。ぼくも巻き込まれた側だし、悔しいからもう既にみんな巻き込んどいたよ」
「なんしてくれとぉねん!いつもん事とはいえ・・」
 そう、台湾人の呟きにもあった通り、大連人が喧嘩を売るのはいつもの事だった。寧ろ、喧嘩を売らない彼が存在すれば、其れは世界のバランスを崩す事にも成りかねない。
「はぁ・・どないしよっか・・」
 台湾人はそう言うと、二階へと逃げるように去って行った。
「あ、逃げた」
 ベトナム人の嘆息も、俺には嫌がらせにしか聞こえない。
「とりあえず、一服しながら内容教えてや」
 俺はそう告げると、リビングを避けながらばれない様に遠回りをしつつプールのある庭へと出た。

ニュージーランド−高校−6 

November 16 [Thu], 2006, 20:24
 夜中の一人歩きというものは時に不思議な感覚をダイレクトに伝えてくる。薄暗い空間自体に生まれる僅かなズレ。本来星明りの下にのみ浮かぶ筈の影は、恐怖から逃げる人々の性か運命か、20メートルにひとつ点在する電灯によって幾重にも重なり合っていた。そんな影の数だけ在る自分。先ほどの言葉と相反するが、結局のところ、自分は自分では無いのかも知れない。否、全てが自分なのだろう。其れでも、寝起きの感触の様に精神は宙に浮遊し、未だ夢の中に居ると錯覚させられる。それが、夜。
 そんな時は、何も考えずに済む。良い事も悪い事も。寧ろ世界の善し悪しさえどうでもよくなり、いつ世界は滅ぶのかと、あえて苦笑する様な陳腐な妄想さえウキウキと頭の中を過ぎる。
 電灯がひとつ、後方へと退いた。其れと共に影が前方へと競り出し、俺が一歩一歩踏み出す前に危険が無いか判断してくれる。だから俺は未だ生きている。影が見守り、電灯が居場所を照らし、星明りから守ってくれた。
 実際には何も起きていない、世界が滅びない様に闘う影と電灯。だからこそ危険からは最も遠く掛け離れた世界に身を置いておけるというものだ。
 電灯がまたひとつ、後方へと退く。前方に新たな電灯。過去と未来を暗示する其れはやはり、俺自身の軌跡と道しるべなのだろう。だからこそ、それぞれがワンポイントで照らしていた。人は、永遠の暗闇の中では、等しく気が狂う。其の恐怖を克服出来るものは、世界に神しか居ない。
「神かぁ、俺なれんやろなぁ。あ、でも神さんって八百万おるんやっけ。ほんなら八百万飛んで一人なってもわからへんやんな。俺もなれるかもっ。神さんなったらなんになろう」
 無駄に楽しそうに独り言を吐きながら帰路に就く。其れは或いは一種の催眠術の様なものかも知れない。傍らに潜むネガティブな心が突出した後の「俺はポジティブだ」と言わんばかりの明示。他人から見れば、明らかに無理をしている様に見えるかも知れない。だが、其れも俺自身。
「あーでもやっぱ神さんよりドラえもんがええな」
 独り言に一頻り区切りがついた丁度其の時、俺は玄関へと辿り着いた。鍵はまだ開いている。もう夜中の11時と時間は遅い。そっと扉を開けると同時に、居間の方から誰かの叫び声が聞こえた。

ニュージーランド−高校−5 

November 09 [Thu], 2006, 17:25
「お嬢・・・」
 滑稽で。馬鹿で。ビー玉がカチカチと頭の中を転がってる。
 ジャラジャラ五月蠅い。かち割って取り出したい。
 頭痛がする。腹が痛い。心臓がねじ切られている。
 気管を酸素が通らない。冷え切ったトマトジュースが変わりに逆流して、一面は赤く染まっている。
 左手がいかれていた。そこら中の看板にアザが残って破片が飛び散って。包帯の上に更に包帯を巻いて隠さないと。誰にも何も見せたくない。
 じんじんと響く。ぴくりと指の動きに合わせて、髪の毛が逆立った。何周も何周も渦になって、大きな船も飲み込んで。深く地の底まで引きずり降ろされる。
 剥けた皮をもう一度体中に被して表情を見せずに。感情無く静かに諭す。心は震えていても、表情に現れる事は無い。
 生きていく価値などいくらでも見つかるが、命を掛けられるものは一つだけ。大事そうに箱にしまわれた、それよりも大事なもの。其の箱は開けられず、中のものは音を聞いてでしか判断が出来ない。それでも――大事なものと言い切れる。
 捨てられない。手放せない。それでも、手元にない。
 手品師に消され、口車に乗せられ、単細胞を発揮し、髪の色は白く剥げ落ちる。恐怖とは時に人の表情まで作り上げ、引きつった笑顔を絞り出すのかもしれない。
 失う恐怖。冷や汗など流れない。ただ淡々と、物事は進み。常に笑った顔がしがみつく。
「あかん・・・」
 俺は俺だった。誰よりも俺自身の筈。だが、何故に人の心はこんなにも脆い。
「せやから、昔ん事思い出しとぉなかってんなぁ・・」
 これならば、「僕」と何の違いがあろう。小さく切り裂いたその断片ですら、俺と僕に違いは無い。
「まぁ、たまには凹む事あってもえっか」
 いつもこうなるわけでは無い。俺と僕の違いなんて考えても埒が明かない。寧ろ、自分の中に住まう存在とはいえ、他の誰かとの違いなど図ったところでしょうがない事は分かっていた。
「とにかく、誰かの前で笑えればええや」
 軽く考えにやりと笑うと、俺は家路についた。

ニュージーランド−高校−4 

November 08 [Wed], 2006, 16:44
 その年の九月、日本では小泉純一郎が訪朝し、それにおいて日朝関係の大きな変化が見られるのでは無いか、と沸いていた。過去との引き合い。未来の予想。それはニュージーランドから見る日本のインターネットでも文字が幾場所にも躍り、それから2ヶ月経った今でも、何度も何度も新しいニュースが更新された。何も変わらない事を怖れるかの様に。
 過去の引き合いに、何の意味があるのだろう。未来の予想も然り。生きていく上で最も重要な事は何か。未来は誰にも分からない。過去はいずれ朽ち果てる。だからこそ、今を笑う事が不可欠では無いのか。過去に縛られて生きたところで、人の想いなど枯葉の様に脆い。だから、今まで「今」だけを見つめて生きて来た。過去に縛られ、俺が未来に憧れを抱く様な輩であれば、日本の高校を何の躊躇も無くやめて、ニュージーランドになど来やしない。今に意味など無いのかも知れない。だが、笑顔に意味はあろう。
「理由」と、俺は小さく呟いた。その呟きは直接頭蓋骨を伝導し、「僕」へと伝わる。
「そう、理由。自分がどうして笑っとぉんか、覚えてへんって言わせへんで」
 僕が囁いた言葉は、必要の無いほどに心に染み込んだ。
「理由、笑顔の理由、此処に来た理由は、なんや」
 俺はもう一度呟く。今度は、頭蓋骨に響かないようにそっと。
 全てを笑い飛ばす必要が俺にはある。其れは理由では無い。ただ、心の底から笑いたい。其れでも、時には遥かな雲を眺めつつ、夜風に、したたる雨に身を任せた。星のない夜空は全てを包み込む優しさを持ち合わせ、日々の悲しみを変わりに運んで。故に旅人は足を止めるのではないだろうか。そしておれも同じように、足を止める。垂れる水玉を払おうとせず、目から止め処なく流れる汗を隠して。
「自分自身を誤魔化す必要は無いねん。なんで、そんな強がろうとするんや」
「俺は強がってへんわ!これが俺自身や!」
 俺は「僕」に必要以上に反発した。図星では無い。俺が笑う理由はひとつだけ。みんなの笑顔が見たいから。笑顔と一緒にいるだけで楽しい事は、昔の経験から誰よりも理解しているつもりでいた。
「昔?昔は関係あれへん。今やん今。昔なんて、覚えてへん」
 俺は目を大きく見開いた。部屋が姿を現す。小さなベッド、パソコン、両壁についた扉。右側は煙草仲間大連人の部屋に直接繋がり、もう片方はだだっ広い廊下に続いている。
 ベッドの上で、俺は目を閉じていた。最も意味嫌う筈の一人きりの暗闇の世界で「僕」との会話。
「図星ちゃうわ!」
 恐らく大連人の部屋にまで声は届いたであろうが、気にする余裕などない。ただ、我武者羅に部屋を飛び出し廊下を突き抜けた。ホストペアレンツが不思議そうにこちらを眺める。それを目の外に押し出しながら玄関もとおり抜け夜の闇に飛び出した。ただただ、目に付くものを手当たり次第にぶち壊しながら。

ニュージーランド−高校−3 

November 07 [Tue], 2006, 6:15
 高校前の語学学校に二ヶ月通い、俺はイギリス人夫婦の家にホームスティを変えた。それ程深い意味があったわけでは無い。ただ、語学習得を目指す16歳にとって、日本語を喋る事も出来る家の環境はやはり、悔しさもあった。先天的なものか後天的なものかは不明だが、元来の負けず嫌いも影響したのだろう。
 語学とは、環境である。飲めば飲むほど太るジュースの効果に似ている。喋らずして習得出来るものなどありはしない。元々人の10倍は軽く喋る俺にとって、ニュージーランドにおける日本語の環境など必要性は皆無に等しく、それ故に英語を母国語として操る彼らの処にホームスティを変える事は最低限の努力。其れは努力嫌いな俺がこの国に来て初めて起こした努力と言っても過言ではない。
 それでも、その頃の二ヶ月は非常に大きいものらしく、その頃にはボディラングエッジは必要性を減らし、それどころか辞書を持ち歩くことも少なくなっていた。また、その語学学校での友達たちは、高校入学を目指すという同じ目標があった為か、長い付き合いを予感する。柔道金メダリストの息子、マンション経営の息子、香港資産家の娘に韓国人家族での移住者。日本の中流の中の中流階級で育った俺とは見てきた世界は違いすぎたが。
 彼らがポツポツと語学学校の輪から抜け出して行った10月、俺も高校へと移動する。其れは新しい家から徒歩僅か7分の処にある大きな高校だった。日本人の数も少なく、所謂理想的な環境。家に帰れば、イギリス人の夫婦、大学生の娘、キーウイの彼氏。キーウイとは、ニュージーランド人を指す総称である。飛べない鳥、キーウイを誇りにする彼らの様々な意味での足掻きだろう。その感覚は、嫌いでは無い。何も誇れるものが無い俺にとって、キーウイの気持ちは痛い程よく分かった。悔しくて、喋り続けて、大見得を張り、常に笑顔を誇りとするおれとそっくりな彼らのこの地は、ある種、行ったことも無い古い心の故郷を彷彿させる。小さい男だとは思うが、其れに絶望した事は無い。或いは、「僕」なら年中絶望感と共に生きているだろうが。
 その家には他に、俺を除いて四人の高校生がホームスティしていた。クラスが同じの煙草仲間大連人、ひとつ年上でみんなのリーダー格香港人、ゲームが大好きで常に部屋に閉じこもる台湾人、そして年下でやんちゃなベトナム人。
 彼らとの生活は非常に楽しいものがあった。全員が男でかつ年が似通っているせいか、台湾人を無理矢理外に連れ出して五人で酒を飲む。時に静かに、時に大騒ぎ。部屋で歌い、学校で喧嘩し、庭で煙草を吸いサッカーをし、仲直り。ある時は共同戦線を張りイギリス人夫婦と大喧嘩。野球の選手会がフロントに対して出す要望の様なものだと思ってくれて構わない。恐らく構図は似たようなものだろう。
 阪神が例年通り優勝を逃した、涙と汗の滲む2002年10月の終わり、そうして、俺たちの戦いは始まった。

ニュージーランド−高校−2 

November 06 [Mon], 2006, 6:34
 真夏の日本から来た俺にとって、ジャケットを着込んでなお寒い8月が異様なものに映った事は言うまでも無い。
 「僕」の思考、思い出話が僅か10分で霧と化したのは気の毒と言うしか無いが。着陸した飛行機が俺たちを押し出す事で、前に進む事が出来る。心臓の鼓動は一分間に120回を数え、今が平常である事を伝えていた。俺の鼓動は無駄に早い。運動してもそれ程跳ね上がらないが、通常で100回から120回を数える。
 今年二回目の冬を肌で感じ、煙草に火を点した。青白い吐息と、真っ白な煙が虚空に消える。何処までが息で何処までが煙なのか、何処からが孤独で何処からが期待なのか、其れすらも曖昧になるこの感覚は嫌いではない。其れでこそ心に安らぎが出来ると言うものである。ネガティブに考えた処で何も始まらない事など、「僕」を見れば嫌という程解る。余談だが、高校2年生の俺と僕が煙草を吸うからといって、ヤンキーという訳ではない。嗜好品のひとつとして、若しくはポジティブやネガティブの反動とも言うべき心理的な落ち着き故の行動である。煙草を始めた当初の理由など、覚える価値すら無いが。
 そういえば嘗て読んだ本に、ヤンキーの語源というものがあった。其れはアメリカ人の俗称ヤンキーからでは無く、大阪河内の人々が喧嘩越しになる際頻繁に使用する「〜やんけ」という語尾が変化したものである。有力な諸説のひとつでしか無いが。韓国語でヤンキーを指すヤンアチは、日本語が海を渡ったものだろうと思う。確証は無いが。ちなみに、俺の出身地でもある神戸で使う「〜やんけ」は喧嘩を売っているわけでは無い。其れ自体が信頼を示す標準言語である。小さい頃、大阪、八尾出身の母と其の事でよく喧嘩した。彼女にとって、その語尾は許されざるものだったのだろう。
 思考に没頭しているうちに、煙草は根元まで燃え尽き、正しく灰となった。砕けて細かくなった灰が灰皿に寂しげに落ちていくのを目で追いながらシャトルバスを探す。
「さむっ!」
 シャトルバスが空港の駐車場に入ってきたのは丁度呟いた時だった。手挙げて乗りたいという動作を示すものの、英語などテストでも赤点しか取ったことも無く「乗りたい」という言葉さえも出てこない。高校1年の時にイギリスで過ごした1ヶ月の英語などとうの昔に忘れた。運転手が降りてきて何かと捲くし立てるが、分かる筈も無い。
「ははははろろー、あい、あいあいあむじゃぱにーず」
「fdffdknzmsnIf☆hd」
「い、いえすいえす」
 辞書は鞄の中。必死に探すが見つからない。初めから解り切った話、用意しておけば良いものを。心臓の鼓動は120から、恐らく200近くまで跳ね上がる。俺は自分を呪い、少し絶望したが、考え直して神のせいにした。これはきっと神が与えた試練に違いない。英語を話せない俺に、ノリと勢いと根性で乗り切れ、という事だろう。
 それからのボディラングエッジは其れこそ神業だった。飛行機の中で何度も反復して覚えなおしたホームステイの住所も緊張で忘れていたが、どうやったか記憶にも無い内にジェスチャーで伝えきる。体内、体外全てのエネルギー表現で初めてのニュージーランドライフを伝え、俺は目的地へと辿り着く事が出来た。或いは、運転手はジェスチャー会話の達人だったのだろう。移民の国ニュージーランドには英語の喋れない人々がたくさん生活している。空港となればその数は飛躍的に伸びる筈だ。となれば、各国のボディラングエッジのひとつでも覚えていないと商売にすらならないのかも知れない。ともあれ、俺は彼のその達人度と、俺自身の全身全霊の表現に心の底から感謝した。

ニュージーランド−高校− 

November 05 [Sun], 2006, 9:10
 一人になると、俺は「僕」となる事がある。
 2年生になった1学期、僕は何の躊躇いも無く日本の高校を辞めた。其れは『俺』の仕業。そして今、新天地を眺めおろしている。畏まりなどしない。ただ、見つめた其の姿さえ、鏡に映るネガティブな僕自身を見つめている様で。
 そんな窓から見える一面の冬の光の輝きは、南半球の7月の星空と交わるまで途切れる事を知らない。街灯、車のサーチライト、家々の生活光明。何ものよりも遙かに芸術的な碁盤目状に並び、ときとしてカーブを描く。機械の様に緻密に計算された、否、地表が機械としてしか見ることができないほど、光は地球を浸食していた。すでにこの澄んだ青い球体の真実の姿はそこには無い。限りなく続くこの壮大なルミナリエは確かに綺麗ではあったが、また、其れと同時に恐ろしくもあった。
 僕は今、雄大な空を飛んでいる。飛行機という翼をつけて。下の光の発展無くして、かつて人間が望み、幾つもの神話にまでなったこの頂点を極めた最大の発明は為しえなかったであろう。そして僕にはそれが不透明な科学の進歩の恐ろしさを具現しているように感じた。もしエジソンが、アインシュタインがこの世に存在していなければ、僕たちはまだ幸せな世界を体感する事が可能だっただろう。
 もし自然を壊すならば数秒、もとに戻すならば数百年、数千年掛かると言われる。人類は、たった五〇年程でなにもない荒野から見渡す限り金にざわめく世界を作り出した。とすれば、人類の栄光もほんのコンマ数秒で破壊する事ができるのである。そして、なにも無くなった地表は炎天下へと晒され、やがて痕跡さえも残さず消滅するであろう。その前に手を打たねばなるまい。
 だからこそ、其れを機として僕は思う。本当にここまでする必要があったのだろうか。遥か遠くまで見渡す限り連なる網目状の光の大河。海の上を静かに走る大型、小型、様々な船の光。どこにも、原型と呼べるものはない。
 嘗て地球上にあった、日本、オークランド、もっと限定的に言えば生まれ故郷の関西にすらあった暗闇。其の一つ一つ全てを消し去る必要があるとするならば、それはまさしく人間の傲慢、本能的衝動からきたものであろう。
 実際に見たことはないが、ニューヨーク等の大都市と呼ばれるものはみな、暗闇を無くしていると確信する。今日の人間に可能な事は、最低限の科学の発達で暗闇を取り戻すことだろう。
 飛行機は、何処か寂しげな音を立てて着陸態勢に入った。機内が騒々しくなり、人々までが新たな道に心掻き立て、ゴソゴソと動き出す。本を畳み小さな鞄に詰め、気圧の変化故か空気の変化故か泣き出した赤ん坊をあやす婦人。「着陸だ!」はしゃぎ出す子供。そんな隣に座る子供のシートベルトを確かめるお父さん。
 僕は新たに感じた不安を落ち着かせる為に瞼を下ろした。暗闇が世界を支配する。何も無い、継時的な出来事さえ何処か遠くへ押しのけてしまう暗闇。その深く真っ黒な世界は、僕にとってそれ程不快なものでは無かった。落ち着きを取り戻せる本来の居場所。人は生まれる前、暗闇の中に存在していたのでは無いだろうか。言葉すら無いその世界で、伝える術を求めるが故に生まれて来る。ともすれば、実は伝える事に意味が無いのかも知れない。僕たちは、伝える必要の無い暗闇から生まれたのだから。言葉に意味が無ければ、僕たちの旅は終わる。また、暗闇に戻る事が出来るのだから。先ほどの赤ん坊がけたましく泣く事も無いだろう。
「何アホな事言うとうねん」
 唐突に聞こえた言葉は、僕だけの暗闇の安らぎを引き裂く「俺」からだった。
「暗闇から暗闇とか、人は太陽の下でしか生きられへんねん。そんなウジウジしとうからおまえは何時まで経ってもネガティブやねんて」と俺は言う。
「でも、その暗闇があれば僕らはこの腐り切った社会とあかちゃんの泣き声から逃げる事ができるねんよ」
 僕は反論した。ネガティブと言われる事には毛ほどの嫌悪感も無いが、僕は何時もおちゃらけている彼が嫌いだった。恐らく、彼も僕の事は嫌いだろう。彼にとってネガティブとは笑いと最も掛け離れた考えなのだから。故に僕らは何時も喧嘩する。
「確かに腐った世界かも知れんけど、俺らは其処で色んな人に出会っていっぱい笑おてきたんちゃうんかい。赤ちゃんがなんで泣くかしっとうけ?最後に笑う為やん。幸せと悲しみをひとつひとつ数えていってみい。最後にひとつ幸せが勝つから」
「でも・・」と、僕は反論しようとして止めた。彼には何を言っても無駄だろう。代わりにニュージーランドに来ようと決めた理由を更に深い闇の中で思い出す。彼の言っている事が本当なら、僕は今海を越えた季節すら真逆の国などに居ない。