March 30 [Wed], 2005, 8:02
パリ市内の桜が満開だった。レ・アル付近
People cannot gain anything without sacrificing something.
You must present something of equal value to gain something.
That is the principle of equivalent trade in alchemy.
We believed that was the truth of the world when we were young.
人は何かの犠牲なしになにも得ることは出来ない。
何かを得るためには同等の代価が必要になる。
それが錬金術における等価交換の原則だ。
その頃僕らはそれが世界の真実だと信じていた。
「鋼の錬金術師」のアニメを見ている。こっちで見ているので英語の字幕つきのを見ている。上記は毎回、アニメの冒頭で主人公の弟エドが語ることばだ。「鋼の錬金術師(通称ハガレン)」は去年から今年にかけて俺のもっとも気に入った漫画、そしてアニメになった。
去年の夏に「グッバイ・レーニン」というドイツ映画を見た。どんな体制の中で育ったとしても、どんな環境で大きくなったにせよ、その周囲から受けた影響は自分の一部となる。そして、それはある時にひとつの価値体系として大きな意味を成すようになる。
「僕ら」は「あのころ」
「それ」が「真実」だと思っていた。
そういうせつなさを感じながら「ハガレン」をみる。そして今、あのころ本当に大事だったものは「それ」という「真実」を通すことなく実現できることも知った。自分の弱さや限界を引き受けながら、自分の価値を追及する。それはやっぱり強さだと思う。
March 09 [Wed], 2005, 4:24
那覇市壺屋の「南窯(ふぇーぬかま)」の登り窯と『しっぱいのツボ』
いま一つの手ごたえを感じている。もう少しで手が届きそうな感じ。
2年前台湾にいる時に台北市青年公園プールというところに毎日泳ぎに行っていた。太陽がさんさんと照りつける中、屋外の50メートルプールの水中から見上げる水面は明るく、みずいろに輝いていた。俺は腕で水をかきながら思った「もう少しで、もう少しで手が届く」。
何に手が届くのか。それは、俺のからだが、どこにいてもいたずら心で満たされるのを感じる時、答を手にしている自分に気づくのだろう。
February 03 [Thu], 2005, 2:36
先日トルコから遊びにきていた友達と話をしていると彼が俺にいった「また出たー。三平太の『飽きた病』!」。俺の真の姿をある意味で理解し、そのまま受け入れてくれているのは彼なのかも知れない。自分に正直などといえば聞こえはいいが、ようは飽きっぽいのだ。しかし、この『飽きた』とか『つまんない』という感覚が、次の行動の原動力ともなっていくわけで、一概に軽視するわけにもいかない。飽きっぽいからといって別に困ることはなさそうだが、苦しいのはもうすでに飽きてしまっているのに、それを終わらせなければいけない時だ。
ようはわがままなのだな☆
まぁ、いいや。自分をだまさずにわがままを自分に通そうというんだから、つきあってやるか(笑
そうそう、飽きたことといえば「『西洋』と『東洋』」とか「『日本』と『欧米』」にまつわるコンプレックス。きれい事ではなく、こういうのはなかなか自分の中から抜けない。俺的には「先の大戦での敗戦以降、蓄積された民族的トラウマが云々」と言うのを主な原因に考えているが、どういう原因であれ、もういちいちそういうことに煩わされるのがいやでしょうがない。『世界のどこにいても、日本人であるとか関係なく、自分が自分のままでいられる』とか言ってみたいけど、今の状態では無理なので、とりあえず引き上げる。
日本に帰ると、こっちの期待を裏切るように日本人に「じゃあ、お前は負けて帰ってきたのか」とかなんとか、また小学生のようなことを言われそうだ。だけど、もうこんな意地悪なことを言うやつらとは付き合ってやんない(笑) 日本に帰ってきたんだぞ! 日本人ぐらい日本人に優しくしろ!(爆)
いや、最近思うんだけど、日本人ってもっとたくましかったんじゃないかと思うんだよねー。自分のことだけど、特に男は、もっと気概があったんじゃないかなぁと思うわけだ。俺も、文化の違いに対する引っかかりというか心のつっかえみたいなものが、もう少しでなんとか自分の中で折り合いつきそうなんだけどな。そういうわけで今、西洋に暮らすのはなかなか苦しいが、大学の卒業を以て撤退できるのはしあわせといえる。
写真はロンドンのミレニアム観覧車『ロンドン・アイ』から撮った『王立水泳競技場』、、、(下の「つづきを読む』をクリック)