劇作・演出、童話の創作活動の傍ら、人材交流に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

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佐野語郎プロフィール

1944(昭和19)年1月23日、神奈川県横須賀市生まれ。
早稲田大学第一文学部文学科演劇専修卒。
劇作家・演出家、童話作家。日本演劇学会会友。演劇ユニット 東京ドラマポケット代表。 主な戯曲に、「街頭のリア王」「ドンキホーテ、森にあらわる」「DIARY―追想●アンネ・フランク」「冥界の三人姉妹」「音楽演劇 オフィーリアのかけら」「Shadows〜シャドウズ〈夏の夜の夢〉に遊ぶ人々〜」「全体演劇 わがジャンヌ、わがお七」「ミニオペラ 悲戀〜ハムレットとオフィーリア」ほか多数。出版に、「まあくん おひるね」「まあくん おしっこ じゃー」(偕成社)、「ほしのこピッカル」(ひさかたチャイルド)、「サンタさんへのてがみ(読み聞かせ えいご えほん5)」(くもん出版)ほか、雑誌掲載多数。 日本演劇学会・研究発表に、「神奈川総合高等学校類型科目『基礎演技』の教育実践」(日本大学)「単位制総合高校における演劇の授業」(関西学院大学)「戯曲にみる聴覚効果と音楽演劇の多層性」(大手前大学)「演技の自立性と舞台制作の実践例」(日本橋学館大学)「演劇ユニットの形成過程と共同体としての特質」(大阪市立大学)「『全体演劇わがジャンヌ、わがお七』の創造過程と上演の意味」(慶應義塾大学)ほか。
語られる歌と歌われる音楽(終) / 2017年10月09日(月)
 演劇ユニット 東京ドラマポケットvol.3『全体演劇 わがジャンヌ、わがお七』(2012年/東京・両国シアターχカイ提携公演)を最後に演劇上演活動の幕を下ろした私は、『悲戀〜ハムレットとオフィーリア』(2016年/東京・虎ノ門JTアートホールアフィニス)によって「東京ミニオペラカンパニー」を立ち上げることになった。その経緯については、ブログ記事「音楽演劇からミニオペラへ」(2016年5月・6月)に詳しい。
 さて、言わずもがなのことではあるが、演劇の中心は「言葉」であり、音楽は声楽であろうと器楽であろうと「音」によって成り立っている。言葉には意味があり母国語といわれるようにその民族に属するものだが、音楽はその出自が民族にあろうとも、言語的意味のツールではないため、ユニバーサルなものとしてどの国民にも享受できるものになる。
 言葉は意味を伝え、音楽は感情に直接訴えることができる。私がオペラ(歌劇)に関心を抱いたのは、俳優によって語られるセリフよりもソリストによって歌われる音楽としての言葉のほうに惹かれたからである。
『ハムレット』第四幕第五場「オフィーリア狂乱の場」。相思相愛だった王子ハムレットの変貌と突然の別れ、王子による父(内大臣)ポローニアスの殺害、オフィーリアの精神は衝撃のあまり現実の軛(くびき)から解き放たれ、穏やかな狂気の世界に彷徨う。
思い出の花ローズマリーはどこ? 
貞淑で忠実なスミレはどこ?
ローズマリー 花言葉は 変わらぬ愛
  恋人の まことの心 まことの愛の 見極めを
あの人は あの世に去りぬ
あの人は はかなく去りぬ
どこなの どこなの デンマークの美しいお妃様は?
…あなたには悲しみ悔いるヘンルーダ 安息日には恵みの花
忠実なスミレもあげたいんだけど
お父様が亡くなったとき、みんな萎(しお)れてしまったの
幸せなご最期だったんですって
思い出の花ローズマリーはどこ? 
貞淑で忠実なスミレはどこ?
 以上は、オペラ『悲戀〜ハムレットとオフィーリア』の最後に歌われるアリアの詞(小田島雄志訳による)だが、女優が口ずさむより歌手が情感豊かに歌う方が聴衆の胸に響くに違いないと思えたのだ。もちろん、優れた俳優による台詞のリアリティは演劇でしか味わえない魅力だ。一方、実力派ソリストの歌唱がもたらす感動にも強く深いものがある。
 現在、新作オペラに取り組んでいる。「東京ミニオペラカンパニー」に参加されたソリストの皆さんの魅力を最大限に生かすために書いた『雪女の恋〜二幕〜』だ。二年かけて執筆し今夏脱稿した台本は作曲家のもとに渡りオペラ作品に生まれ変わろうとしている。来年夏には総譜完成、秋から稽古に入る予定である。

※写真右は、東京ミニオペラカンパニーvol.1『悲戀〜ハムレットとオフィーリア』より。写真左は、上演台本・創作オペラ『雪女の恋〜二幕〜』(脚本・詞/佐野語郎)。
 
   
Posted at 18:56 / 創作活動 / この記事のURL
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語られる歌と歌われる音楽(2) / 2017年09月03日(日)
 「語られる歌」を聴かせてくれた歌謡界の女王・美空ひばりを想うとき、私たちは日本から世界に目を移すことになる。「語られる歌」といえば、やはりシャンソン。わが国でも宝塚出身の越路吹雪がその代表格だが、本家のフランスへ渡って打ちのめされる。「シャンソンの女王」エディット・ピアフの圧倒的な実在感や歌の表現の深さに言葉を失ったのだ。
 「愛の讃歌La Vie en Rose」をはじめとして今でも歌い継がれる曲を残し悲劇的な生涯を送ったエディット・ピアフが「世界で最もよく知られたフランス人アーティスト」だとすれば、恋に生きた人生という点では一歩も引けを取らないギリシャ系アメリカ人マリア・カラスは「20世紀最高のソプラノ歌手」として世界の歌劇場を股にかけオペラ界に君臨した。「椿姫La traviata」「トスカ」などの歌唱は、「…技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で際立っており、多くの聴衆を魅了すると共にその後の歌手にも強い影響を及ぼした。」(フリー百科事典ウィキペディア)
 歌謡曲やシャンソンが音楽的には「大衆歌謡/世俗歌曲」というジャンルであるのに対して、オペラは「クラシック音楽」の一分野であり、演劇においては「歌劇」として位置づけられている。この西洋の芸術音楽を志す者は音楽学校において知識や技術を身につける必要があるが、オペラ歌手も例外ではなく専門的な声楽教育を受けなければならない。
 「大衆歌謡/世俗歌曲」やアメリカで生まれた「ミュージカル」においては心のままに歌うのだが、オペラでは<歌う>というより<演奏する>と言ってよい。人間の体を楽器としてとらえ、本人の声域範囲でいかに美しく声の音楽として大ホールの隅々まで響かせるかが求められる。しかもオーケストラの音圧に負けない生の声で歌唱するのである。マイクロフォンやスピーカーを用いる前者とはこの点でも異なる。イタリアで生まれた<ベルカント唱法>は、「人間が持つ感情の喜怒哀楽を最も美しく表現するためのものとして編み出された、100年以上の歴史を持つ発声方法」だと言われる。「歌われる音楽」という所以がここにある。
 しかし、こうした歌唱法をマスターしたからといって、聴衆の心を打つ歌を歌えるかとなると、それはまた別問題だ。歌には言葉がある。言葉の背景には主人公の人生やそこで描かれている情景や心情がある。それらを理解し実感できる歌手でないとリアリティのあるアリア(詠唱)にはならないのだ。それを体現できたオペラ歌手だけが歴史に名を残すことになる。前述のマリア・カラスがいかに稀有な存在だったか、それは音楽によって人間を表現できたことに尽きる。
 さて、この数年、私は創作オペラの台本を書きその上演に意欲を燃やしている。半世紀以上、演劇(ストレートプレイ)のみに関わってきたので、オペラは縁遠い存在だった。しかし、以前から演劇における音楽は大切にしてきた。大学4年の秋に上演した『ガラスの動物園』(T.ウィリアムズ作)の際は、東京文化会館・資料室まで出かけ、音楽協力者にイメージを伝えて選び出された曲をヘッドフォンで視聴しながらイメージにぴったりする部分を指定し、後日、彼女とその友人に演奏してもらって録音した音源を本番で使用した。
 その後、録音したものを劇場のスピーカーから流すことに飽き足らず、演奏者を舞台に上げて「音楽」を生演奏とすることで、単なる劇伴としてではなく、劇そのものを支配する「神」の役割を担わせた。また、ギリシャ古典劇に欠かせないコロス(合唱舞踊隊)を登場させ、合唱によって劇の世界を展開させる手法をとることで、声楽を演劇に取り入れる上演形態を生み出した。このことがやがて「オペラ上演」に関わることになった現在の土台を成しているのだろうと認識している。





※(舞台写真の内容)2005年『冥界の三人姉妹』(神奈川総合高等学校創立十周年記念)2007年『オフィーリアのかけら〜予告篇〜』(横浜創造界隈ZAIM別館ホール)2008年『音楽演劇 オフィーリアのかけら』(新宿シアターサンモール)2010年『Shadows<夏の夜の夢>に遊ぶ人びと』(北沢タウンホール)2012年『全体演劇 わがジャンヌ、わがお七』(東京・両国シアターχカイ)
 
   
Posted at 18:15 / 創作活動 / この記事のURL
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語られる歌と歌われる音楽(1) / 2017年08月06日(日)
 以前9年間にわたって、慶応義塾大学文学部(三田校舎)で「映画演劇論」の担当講師を務めた。春学期・秋学期と年間を通しての講義となったので、学部生(2・3・4年)、大学院生、聴講生、留学生と多くの学生に接し、充実した時間を過ごすことができた。
 カリキュラム内容は、ギリシャ古典劇・日本の伝統演劇・小劇場演劇、名作映画創作の秘密と多岐にわたったが、任用期間の後半に力を入れたのは、「作り手と受け手・創造と鑑賞の関係」だった。映画では黒澤明や溝口健二、演劇では劇団民藝『夜明け前』や文化座『炎の人〜ゴッホ小伝』などを対象に、作家・監督・演出家たちの映像や舞台を通した深い精神を観客がどう受け止めたか。また、観客の目に直接さらされるのは俳優たちだが、彼らが演じる人物はなぜあのような存在感を持てたのか。その(感動の)根源的要因について問いかけたものである。
 作り手と受け手の関係は、映画や演劇ばかりではない。音楽の場合、演奏者や歌手が舞台で表現し、聴衆が客席でそれを鑑賞する、そこに感動が生まれる―それは全く同じ相互作用である。2006年度(秋学期)講義表には【「感動の要因」D―2娯楽性・別世界と自己投影〜宝塚歌劇団と美空ひばり〜】があるが、感動の要因のうち「娯楽性」の側面から対照的な二つの例に光を当てる試みだった。
 宝塚歌劇は言うまでもなく演劇の一分野であり、生の音楽とダンス・歌と芝居による華やかな世界を繰り広げるエンターテインメントである。歌舞伎に「女形」があるように宝塚歌劇には「男役」があり、100年の歴史を刻んでいる女性だけのプロ劇団は世界に例がない。本拠地の関西とともに東京宝塚劇場にも多くのファンが押し寄せるのは、現実世界からひと時離れ、その美しくも華やかな憧れの世界に身を置けるからだ。
 一方、美空ひばりは「離れる」のではなく、現実世界そのものに身を置いてそこに沈潜する。その時代と社会に生きる大衆が味わう辛さや痛み、憧れや夢、悲しみやあきらめ、そして、いたわりの心情をその人物になり切って歌う。昭和は歌謡曲から演歌へと推移していくが、歌手が詞の世界に主人公として存在できたのは美空ひばりただ一人である。今後も出ない。理由はいくつか考えられる。時代と個人史と芸歴と稀有な才能。
 敗戦直後にデビューしてから戦後の復興、高度経済成長期とひばりはステージに立ち、ヒット曲を飛ばし続け、NHK紅白歌合戦のトリを務めるなどテレビ番組にも出演する。病魔に倒れ、52歳で死去(1989年)するまで40数年歌い続け、レコーディング曲数は、1,500曲にのぼった。娯楽の乏しかった時代、歌で一世を風靡した美空ひばりは、いつも大衆の心に生きていた。また、興行上の問題や一家の大黒柱としての悩み、短い結婚生活、事故や傷害事件など、不運や不幸に見舞われ続けながら歌い続ける姿はファンたちの心をとらえて放さなかった。
 10歳の頃、横浜で行われたのど自慢大会終了後、作曲家古賀政男は、その子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った、という。
 映画界もこの少女スターをすぐ起用することになった。出演作品も時代劇・文芸映画など150本を軽く超えていて、この世界でも彼女はその才能を開花させ、演技力に磨きをかけて行った。
 「歌は三分間のドラマである」という言葉がある。声量があって情感たっぷりに歌う演歌歌手はいくらもいるが、詞の世界に描かれている女の切なさを生きた人間として一人物として表現できるのは美空ひばりのみなのである。
 慶應義塾での授業で「美空ひばり」を取り上げた時、前年にNHK教育テレビで放送された「私のこだわり人物伝 美空ひばり〜泣くことの力」(宗教学者・山折哲雄)を用いた。そのVTRの中で山折氏の語りとともに、ひばりの歌が何曲挿入されたいた。
 私は今の学生諸君に演歌が伝わるか心配したが、授業内試験の答案に『初めてきちんと聴いた』『歌に感動した』という感想が書かれていて、正直嬉しかったことを覚えている。
 「感動の要因―娯楽性」で、宝塚歌劇の「別世界への飛翔」に対して、美空ひばりは「分身への自己投影」とした。戦後の多くの日本人は、横浜で生まれ激動の一生を送った加藤和枝を「美空ひばり」に重ね、さらに詞の主人公を自分の分身としてとらえて聴き入ったのである。負の状況に置かれた大衆が歌謡界の女王の「演じられ語られる歌」で慰められるとき、それは立派な娯楽であった。
 
   
Posted at 16:26 / 創作活動 / この記事のURL
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歌への情熱58年間、友だちへのご褒美(後) / 2017年07月17日(月)
 塩崎君の「聖唱位認定証」を目の当たりにした時、58年前、NHKのど自慢大会の予選が行われた横須賀市民会館(現・よこすか芸術劇場)での光景が脳裏に浮かんだ。戦災からかろうじて焼け残った会館は老朽化していて、当時人気絶頂の漫才コンビ、コロンビアトップ・ライトが『日本でいちばん古ぼけている会館』と言ったとか…。塩崎君は当時初々しい高校生でこの予選を突破している。歌は『津軽追分』(作詞:矢野亮・作曲:桜田誠一・歌:三橋美智也)だった。
 「四人会のメンバー」が出会ったのは横須賀市立商業高等学校だが、クラスがいつも一緒だったわけではなく、課外活動もバレーボール・陸上競技・バドミントンと所属する運動部は別だったし、生徒会・文芸部などの文化活動もそれぞれだった。クラスを超え部活を超えて四人を結びつけたもの、それが「歌」だった。
 私たちにとって、「歌」は単に口ずさんだり鼻歌で楽しんだりするものではなく、自分を精神的に支え、生きる上に欠かせない各々にとっての宝物だった。敗戦後、日本は経済復興を遂げたが、私たちの親は生きるのに精いっぱいだった。子どもたちをなんとか高校まで上げようと必死だった。貧しさや生きる切なさを肌で感じながら、少年の私たちはすでに孤独を知っていた。その孤独感を埋めるために、ラジオから流れる歌謡曲を覚えひとり遠くへ向かって歌った。
 カラオケどころか素人が人前で歌を歌うという習慣そのものが一般的でない時代、私たちは三橋美智也や春日八郎の歌を、故郷を離れた都会暮らしの切なさや思いを寄せる相手との別れの嘆きを、つまり大人の孤独に自分を託して歌った。
 だから、まさか自分より「歌」を知っている同級生がいるとは思えず、お互いを知った時には本当に驚いた。塩崎君は三橋美智也の他に映画スター小林旭のレパートリーも持っていた。彼は高い音程を軽々と出せたからだ。映画の主題歌といえば、石原裕次郎と赤木圭一郎のヒット曲はすごかった。河崎君は久里浜の日活映画館に入りびたりで、裕次郎のほとんどの曲を甘く優しい低音で歌う。加藤君の「大利根無情」(歌:三波春夫)を高校一年の文化祭で聴いたとき、その歌の上手さにびっくりした。講堂中に響き渡るその美声に先生や生徒たちは目を丸くした。
 自分と同じように、いやそれ以上に「歌」を愛している者がいる。この一点で四人は結ばれたのであった。高校を卒業し社会人となっても、私たちは毎週のように集まった。久里浜駅裏の河崎君宅で、飲みかつ語りそして何曲も歌った。職場では楽しいことばかりはないし、個人的にもつらいこともある。けれど、お互いの歌を聴いている時は幸せだった。
 『春日八郎を歌わせたら、佐野の右に出る者はないよ』と仲間は言ってくれる。18歳から19歳まで私は羽田空港で肉体労働をしていて、収入は同期生の2倍あった。そこで、秋葉原でレコードプレーヤーを購入し、三橋と春日の新曲が出るたびに買い集め、みんなで聴いた。場所は、鎌倉・稲村ケ崎にあった屋敷の陽の当たらない六畳一間。母が住み込みで社長一家と従業員のための家政婦をして母子二人の生活を守り、息子の友人たちを迎えてくれた「小さな城」だった。
 
   
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歌への情熱58年間、友だちへのご褒美(前) / 2017年07月03日(月)
 6月27日、横浜市旭区施設サンハート(大ホール)にて「全国歌謡段級位認定大会」(主催者本部:希望ヶ丘ミュージックプロモーション内)が開かれた。午前中は一般部門→課題曲部門→ゴールド部門で終わり、午後からはいよいよ段位挑戦部門が始まる。まずは3段→4段→「5段に挑戦」と進められ、その段位をクリアしてきた者が次のステップ「名唱位」→「王唱位」に挑戦できる。歌うのは一人1曲2コーラスと決められていて、選曲は参加者自身に任されている。そして最後に「聖唱位に挑戦」の関門が待っている。審査員席には、日本作曲家協会・日本作詞家協会所属の会員や大手レコード会社ディレクター、作曲・編曲家など音楽関係者が陣取り、参加者一人一人の歌唱審査をきめ細かく行っている。
 この大会に高校時代からの親友塩崎君が出場した。定年退職後、彼は本格的に歌に取り組んできた。この大会に参加していることを知ったのは数年前だが、「名唱位挑戦」では私の意見を取り入れてくれて『渚の女』(作詞:山口洋子・作曲:平尾昌晃・歌:五木ひろし)が選曲された。その前日に山口洋子の訃報に接してヒット曲の数々が脳裏に浮かんだからである。金沢文庫駅近くのカラオケルームで彼が歌った『渚の女』は素晴らしかった。イントロ・サビ・エンディングまでの起伏ある構成が豊かな情感で歌われその作品世界を描き切っていた。
 直後に開かれた大会で『渚の女』を歌い終わり客席の方へ戻ってくると、参加者の一婦人が彼のもとに駆け寄り感動の言葉をかけ手を取った。午後6時過ぎの成績発表で、彼は「名唱位」に認定された。審査員であり主催者でもあるY氏から『五木ひろしはもう卒業でしょう』と声を掛けられたそうだ。それまでの段位認定で五木ひろしの歌が続いたからだ。
 そして、最高位に次ぐ「王唱位に挑戦」で彼が選んだのが『女のしぐれ』(作詞:たかたかし・作曲:弦哲也・歌:細川たかし)だった。昨年、私は創作オペラ公演『悲戀〜ハムレットとオフィーリア』(9月3日・東京虎ノ門・JTアートホールアフィニス)で忙しくこれは聞き逃した。1回目の挑戦では「認定」に至らず、2回目の歌唱で「王唱位」を手中に収めたという。
 審査員からのコメント・アドバイス「曲の雰囲気と声質が合っているかどうか」「音の高低の正確な出し方は」「言葉の強弱とメリハリ」「聴き手に詩の世界を言葉としてどう伝えるか」をきちんと受け止め、研究したうえで、仲間の前で歌いこんだ結果だった。
 そしてついに、最高位「聖唱位に挑戦」の日を迎える。
 「聖唱位」は挑戦1回ではまず通過できない。しかし、ダメ元で自分なりに仕上げた『女のしぐれ』を歌おう。肩の力が抜けていたこと無欲だったことが、歌唱そのものをのびのびとさせた。客席で聴いていた私と二人の仲間は聴きほれた。
 成績発表で主催者は『合格は一人です』と言った。挑戦者12名の中で、塩崎君は初めての挑戦だったから、<一発合格は無理>と思って2回目の挑戦を考えていた。
 ところが『合格者は、塩崎輝城さん!』だった。私たち仲間は<当然>と思っていたが、本人は意外も意外で信じられない様子だった。
 帰りがけ、横浜駅近くの店で四人会のメンバー(塩崎・佐野・加藤・河崎)は祝杯を挙げた。たった一人の聖唱位合格者に対して審査員諸氏はほぼ満点近い評価を与え、歌唱審査表には「合格」の印が押されていた。
 次の段階は「聖唱位卒業課題曲部門」。審査員から本人に直接課題曲が与えられ(作曲家の事務所で受け取る)、それを大会で歌唱することで晴れて「聖唱位認定者メンバー入り」となるのである。塩崎君は今から自分にはどんな課題曲が与えられるのか楽しみにしていて、私たち歌好きな仲間もまた応援に一層熱を入れたいと思っている。
 
   
Posted at 13:01 / 随想 / この記事のURL
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パラレルワーカーと二足のワラジ / 2017年05月23日(火)
 テレビの情報番組で「パラレルワーカー」が取り上げられていた。
 「平行的・並行的/労働者」の語の意味するところは、「一人の人間が勤務日時をずらして、A社/B社/C社で仕事をする勤労者」のようだ。会社サイドとしては必要な時に必要な人材を、被雇用者としては「会社社会」に縛られずに自分のスキルを活かして生活するメリットがある。これまでも、週末や勤務時間外に他の仕事をすることはあったが、それはあくまでも「内職」であって、正社員として会社に籍を置きながらのことであった。
 『ああ、時代が大きく変わったな』との思いを深くした。終身雇用・年功序列社会では、「転職」が悪だったし「中途採用」もほとんどなかった。高校卒業後、3年間社会人を経験した私の場合、大学卒業時にNHKを受験しようとしたら門前払いを食らった。新卒が前提なので、25歳は対象外だとされた。『3カ月後に生まれていたら、ぎりぎり受験資格があったのですが』と極めて官僚的な姿勢で、社会の壁を感じざるを得なかった。
 それから半世紀近く経って「社会の壁」は溶解した。護送船団方式のシステムは崩れ、少子化が進行し年金制度も持たなくなり老後の保障はあてにならなくなった。雇用者側は能力のない者を一生面倒見る余力がなくなり肩たたきが日常となった。大学進学率の急上昇は大学・大学生のインフレ状態を招き、「大学卒」の肩書きは輝きを失った。時代も世界情勢も大きく変化したのに、権力者(政治・行政・実業)には先見の明はなく、今何をすべきかという本質的な思考もせず、ただ場当たり的に対応するのみで、国民や社員のことなど眼中になかった。ただ己の欲望や保身にのみ忠実なため今日の危険な事態を招くに至っている。
 与党はあの思想弾圧の恐ろしい結果を招いた「治安維持法」に道を開く法案成立に狂奔しているし、憲法に保障されている「生存権」を奪うような事態を招いた政府・東京電力も口を拭い、過労死自殺を引き起こした電通をはじめとする大企業も根本的な改革から目を背け、東芝(私の叔父は63年前に自殺に追い込まれた)も今存亡の危機にある。
 所属する機構による保障が期待できないこんな時代なので、会社におんぶにだっこの道を捨て、自ら培った技能・技術によって社会とつながり生計を立てる生き方を選ぶ若者が出てきても不思議ではない。テレビを見ていて、自分の半生とつながることに気づいた。「会社におんぶにだっこの道を捨て」たのは、同じだ。ただ私の場合は、プログラミングなどの技能を持って会社を掛け持ちするのではなく、収入の道は一つ。かつては正規の学校事務職員、今は塾の臨時講師で生計を立て、勤務時間外にライフワークの演劇活動・創作活動に身を投じる―いわゆる<二足のワラジ>を履いてきた。会社人生からドロップアウトしたのは、20歳だった。自分にできることは何か、自分のしたいことは何か、それを考えるために銀座の貿易会社を辞めた。大学の4年間、仲間と演劇活動に没頭した結果、これをやり続ける人生を選ぶことになった。
 「パラレルワーカー」のTV番組は、「個人の自立」と「社会の成育」を考えるキッカケを与えてくれた。

※写真上は、会社の慰安旅行(20歳)。写真中は、現在の新橋駅地下横須賀線プラットフォーム。かつては東海道線と共に地上にあった。写真下は、現在の新橋から銀座の風景。
 
   
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馬込は「地元」となりつつある / 2017年04月30日(日)
 四月第二週。東京では早や桜が散り始めたころ、四国高松はゆったりと桜花爛漫、空気はしっとりしていて地方を訪れた者を慰めてくれた。
 マンション管理会社主催の「研修ツアー1泊2日」に、われわれ管理組合理事会役員数名が招待を受けたのである。この会社は本社を高松に置き、全国各地に営業所を広げ、ハウジングサービスをはじめホテル・サービスエリアなどのエンタープライズ事業を展開している。
 特筆されるのがその研修施設だ。管理業務を委嘱されている各マンションの管理員を全国から集めて宿泊研修を行い知識および技能の向上徹底を図っている。各階にはコールセンター、マンション設備の部分展示(アクリル板から透けて見える排水管の実際など)、体験できるベランダの間仕切り破壊、防災訓練プログラム…業界では類を見ないこの「PMアカデミー館」はNHK番組にも取り上げられるほど充実したものだった。
 さて、研修の翌日は<ご当地巡り>。金比羅宮参詣と讃岐うどん賞味、高松空港から羽田へ飛び立つまでの時間を心ゆくまで楽しむことができた。

 わが理事会は、何かとトラブルが生じがちだった以前の管理会社との契約を打ち切り、この現在の会社に業務委嘱したことを「正解だった」と考えている。担当のスタッフの誠実な対応と堅実な仕事ぶりは理事会役員との信頼関係を深めているからである。
 馬込を終の棲家と決めて、早や八年になる。最寄り駅からもバス停からも徒歩1分、都内をあちこちと行き来する身にとって居を構える条件に適っていた。駅の出口の並びにバス停があり、コンビニとスーパーが隣接している。その石段下にわがマンションはある。
 八年にもなると、その土地での生活に慣れるだけでなく、顔なじみも増え人間的な付き合いも広がっていく。入居して2年目だったろうか、マンション管理組合の総会に出席したことがキッカケで、理事の末席(監事)を汚すことになった。理事長・会計をはじめ個性豊かで温かく魅力的な方たちばかりだ。年期もののマンションだが、皆オーナーとしてこの建物を愛しており、住民の状況を把握しながら管理会社と手を携えて維持管理に努めている。
 馬込図書館から依頼された「朗読講座」も3年目に入って、入門コースに加えて研究コースも開くことになり、その準備に取り掛かっているところだ。大田区発行のシルバーパスを胸ポケットに入れ、バスや都営地下鉄を利用しまくって「地元」となった馬込を拠点に活動できるのは幸せなことである。
 
   
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弟子の報恩〜天上で味わう師匠鳴戸親方の幸せ / 2017年04月03日(月)
 13日目を迎えるまでは、新横綱の連続優勝の色が濃かった。相撲の師・鳴門親方(元横綱・隆の里)が現役時代に果たした全勝優勝での恩返しも現実味を帯びていた。しかし、今場所初めて当たる横綱との一番から思いがけないドラマが始まった。
 日馬富士は、この新横綱・稀勢の里との合い口は悪くなかったし、その速攻相撲で対戦成績もやや上回っていた。加えて、同部屋でともにモンゴル出身の弟弟子の援護にも燃えていた。大関・照ノ富士が11勝1敗、星一つ差で稀勢の里を追っていたのだ。
 稀勢の里に油断があったとは思えない。しかし、12戦全勝の取り組み内容を見ると、土俵際での勝負も多く、<相撲が大きい>という印象は否めなかった。立ち合いの踏み込みと腰の備えがなお必要に感じられた。私の危惧は当たってしまった。先輩横綱の低い姿勢からの鋭い突っ込みと一気の寄りであっという間に寄り倒されてしまったのである。
 『ああ、これで大関と相星、分からなくななったな』と思った瞬間、土俵下に転落した稀勢の里の様子がおかしい。左肩近くの胸を抑えて苦悶の表情、低いうめき声を上げ、しばらく立てなかった。花道を下がるときには、痛めた箇所に右手を当て、額には脂汗が浮かんでいた。その後、応急処置され、救急車で病院に緊急搬送されたという。どうみても、優勝どころか出場絶望の状況だった。ふと、少年時代に夢中になった北海道出身・吉葉山潤之輔が脳裏をよぎった。1954年初場所全勝優勝で横綱になったものの、戦争で受けた古傷や持病を抱え万全の体調で土俵を務められず、間もなく引退するに至った悲運の横綱(後・宮城野部屋創設)だ。
 しかし、ああ、しかし、稀勢の里は違った。勝負のドラマはここから始まったのだ。
 翌日の14日目、なんと新横綱は土俵に現れたのだ。ただいつもなら、サポーターやテーピングを一切つけないきれいな体で土俵に上がることを信条としている稀勢の里が、この日だけは負傷した箇所に目立たないように「処置」がしてあった。この日の相手は、横綱・鶴竜(モンゴル)。状況が状況だけにやりにくかったろうが、そこは勝負事、左の使えない新横綱をなんなく寄り切った。これで2敗目、13勝1敗となった大関・照ノ富士の優勝が濃厚となった。なぜなら、大関の勢いと新横綱の現状をもってすれば明日の直接対決の結果は推して知るべしだし、万が一、稀勢の里が本割で勝っても、数十分後の13勝2敗同士の優勝決定戦にも臨むことは不可能と誰しもが思うところだった。
 嗚呼、しかし、なんとしかし、「見えない力」に守られて、稀勢の里は逆転優勝してしまった。本割では、窮余の策で<突き落とし>、決定戦では土俵際まで持っていかれながらも使える右腕の<小手投げ>で照ノ富士を倒した。
 この千秋楽に立ち会えた見物客は、生涯二度と見ることはないだろう「相撲の妙、力士の姿勢と気迫」を目の当たりにできた幸運に手を合わせたに違いない。
 稀勢の里には弟弟子・高安がいる。同郷・常陸の出身で、鳴門部屋(現・田子ノ浦部屋)の<出稽古禁止>の方針のもと、先代親方に共に鍛えられた間柄だ。関脇・高安も優勝争いに加わって12勝を挙げ、来場所は「大関取り」の場所になる。
 稀勢の里の怪我が快復し、来たる夏場所で更なる活躍を見せ、高安が大関に推挙される成績を残せたら、天上にいる師匠・鳴戸親方はどんなに幸せだろう。弟子たちに向かってひとり献杯するに違いない。
 生きる歓びは、生きた証を残せたときに湧き上がる。自分の魂を次の世代がしっかり受け止めて「弟子たち」が充実した人生を送るとき、幸福に包まれるのである。
 
   
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青春は続く〜同窓仲間1962/2017.3 / 2017年03月18日(土)
 3月13日。わが横須賀商業(現・横須賀市立横須賀総合高校)の仲間9名が久しぶりに故郷に集まった。母校を卒業後、金融・保険・製造・航空などの民間会社にみな就職した。激動の55年を経て、高齢者となった今、会社勤めはお役御免の身、月曜日であっても日程調整はたやすい。参加者全員が、午後2時、京急・馬堀海岸駅改札に顔をそろえた。
 会合は題して「わが町歴史散歩と出版祝賀の宴」。
 その第一部が昼下がりの<わが町歴史散歩>である。三浦半島の横須賀に生まれ育ちながら、「この地が古代の歴史に重要な足跡を残し、幕末の国難に直面した際には海防の役割を担い近代国家の礎を築いた」についてぼんやりした知識しか持ち合わせていなかった。初等中等教育における郷土史教育の欠落に遠因がある。その<欠落>を埋め、わが横須賀再発見に導いてくれたのが、今回の歴史散歩のリーダー・玉井幸雄さんだ。玉井さんは私より一学年先輩で半世紀以上のお付き合いになる仲間で、定年退職後に横須賀史跡ツアーガイドを務められ、10年経過した現在はガイド仲間の責任者となられて、先日もTV番組にも登場された。
 久しぶりに歩く海辺。静かに打ち寄せる波、海の匂い潮の香。親しい先輩が語る東京湾・浦賀水道に刻まれた歴史に耳を傾ける。古事記・日本書紀に残る「走水」の地名。『日本武尊が東征のため房総半島上総国を目指す途上、暴風雨に遭遇。荒れ狂う海を鎮めようと最愛の妻・弟橘姫命が入水すると、海は穏やかになり海面を走るように進むことができた』『横須賀高女(現。神奈川県立横須賀大津高校)の同窓会名「橘会」はこれに由来している』/敗戦後、米海軍のアジアにおける重要基地が置かれた横須賀は、幕末以来明治・大正・昭和と、国防の最前線であり、海軍の街として知られていた。『江戸(東京)に入るにはこの狭い浦賀水道を航行しなければならない。外国の侵入を防ぐために、東京湾中に海堡、沿岸に砲台などの要塞を築く必要があった』私たちは普段は見ることもない「走水低砲台跡」の砲座跡や弾薬庫の存在に触れて、歴史におけるわが町の位置づけを改めて認識した。
 夕暮れ。一行はバスに乗って25分、繁華街・横須賀中央にある居酒屋へ入った。第二部<出版祝賀の宴>が始まるのだ。昼の部の玉井さんから主役は柳田勇君に交代する。「庚申の詩 庚申塔とその周辺の石像たち 〜横須賀 三浦 鎌倉〜」(神奈川新聞社刊)について感想と批評を述べ、友人の自費出版を祝う会である。
 柳田君は文芸部の仲間だった。彼の書く詩のセンスは抜群で、高校時代からカメラも手にしていて私たちはよく被写体になったものだ。その詩文と写真の力がこの著書に結実している。定年後13年、自由になった時間を生かして横須賀を中心に三浦半島や鎌倉を歩き回った。ペンを手にカメラを肩に、石仏を訪ね向き合い対話し、それを記録し続けた。極めて気品のある愛情のこもった一篇一篇がページを繰るごとに現れる。そこには歴史の風雪に耐えた野仏や庚申塔に対する敬意と時代の変遷に対する筆者の感慨、そして自らの人生や家族への思いが「写真の対象」と重ね合わされているのだ。
 『子供の頃路傍の片隅に建っている野仏に興味があった。それらがなんという野仏かは知らなかったが、永い時間を経て現在あることは子供心には解った。難しい文字が書いてある石塔や、不思議な像が彫刻され手が何本もあり、昔の人は何故このような石塔を彫って後世に残そうと考えたのか疑問で仕方がなかったのである。』(あとがき)より。
 私たちは一人一人自分が特に感銘を受けた数篇について語り、筆者の柳田君もその話の輪に加わって、55年前の文芸部を彷彿させるような場が出来上がっていた。
 
 玉井さんも柳田君も、会社勤めは卒業しても社会との接点を持ち「青春」を生きている。18歳から20代前半の頃、私たちは親友河崎君宅で飲みかつ語った。劇団を作って公演をし小旅行に出かけた。私は母校のバドミントン部で主将を務めていたが、ダブルスのパートナー宮崎君はなんと今でも現役である。全国大会シニアの部でダブルス優勝を勝ち取っている。今年も福島県郡山で開催される全国大会に出場するそうだ。いつも穏やかな表情を絶やさないかつてのパートナーは半世紀以上「青春」を持続している。
 
   
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馬込図書館「連続朗読講座」の定着 / 2017年02月07日(火)
 地元馬込図書館主催の2回目の連続朗読講座が開かれた。1回目(平成27年秋)は「『美しい日本語』名作文学を語り味わう」で、川端康成の小説・片山廣子の戯曲にシャルル=ペローの童話を加えたプログラムだった。大田区の観光スポットの一つにもなっている「馬込文士村」に縁のある作家を取り上げ、その文章に親しむと同時に受講者自らが朗読を学び発表するという参加型講座である。
 今年はその2回目(1月14日・21日・28日の各土曜日午後)だが、「馬込文士の文学と名作童話を味わう」という表題で、村岡花子の随筆・山本周五郎の小説に、新美南吉の童話をテキストの素材とした。講座の趣旨は前回同様なので、テキスト作りから三週連続の講座運営までスムーズに進めることができた。これは、主催者サイドの図書館館長およびスタッフの主体的積極的な準備のお蔭である。
 1日目は「朗読の表現を学ぶ」で、読書と朗読の違い・朗読の基本(解釈と表現)。2日目は「講師と一緒に読む」で、各グループによる自主練習と講師の助言。3日目は「みんなで朗読会」で、各グループ通しの練習と発表会。
 なお、受講者には事前に希望する作品(3作品のうち一つ)および部分(テキストには1作品を4ピースに分けてある)を提出してもらい、それをもとにグループ分けと配役を決定する。ただ、3回連続参加を原則としても、中には都合がつかない日がある受講者もいる。その場合は、相談をして柔軟に対応することになる。
 今回は受講者数21名で、以下のようなアンケートが寄せられた。回を重ねるごとに運営もスムーズになり、受講者=参加される区民の皆さんも意欲的になっていて、今後の展開が楽しみになっている。
〇実際に本番で経験してみると難しさを感じた。もっと上手になってボランティアをしてみたい。
〇意義のある講座でした。これから馬込文士の作品を勉強したい。
〇みなさんと一つの作品を分担して読むことは初めてだったのでとても楽しかった。 他の作品を聞かせていただく機会があったのも良かった。録音されているようなら音声だけでもほしい。
〇3日間楽しかった。先生の話も面白かった。
〇声にするには作品を理解して深める、そのうえで表現できるそのむずかしさを改めて感じました。気持ちがあっても、アクセント(これが苦手)、立てる場所、間、言葉を繋げる、呼吸の大切さなど。
〇マイクや音響を準備いただいて本格的にアフレコしている気分を味わうことができた。緊張しましたが初めての経験でわくわくしました。グループでお互いに読みあって教えてもらったり、発表されているのを聞いたり先生のコメントなどすべて勉強になりました。
〇マイクの前で緊張しました。みなさん上手でした。
〇具体的に指導いただけると、なるほど!と納得し次に活かすことができますさらに勉強したい。
〇楽しかった。少し時間が足りなかった。できれば定期的に開いてほしい。もう少し掘り下げて勉強したい。
〇緊張しましたが良い機会となりました。練習してきましたが、先生のアドバイスで作品に奥深さを感じました。他の作品にも触れてみようと思います。
〇楽しかったです。他の参加者の声の味わいに感動しました。適度の緊張感が脳にいいです。声に出して物語の世界に入り込むことは新しい感性の世界が自分なりに作り出されて充実感を味わうことができました。
 
   
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日本人の歓び〜新横綱・稀勢の里の誕生 / 2017年01月28日(土)
 1964年初の東京オリンピック、私は20歳、銀座の貿易会社を辞め大学受験を目指していた。時代は高度経済成長期の真っ只中、東海道新幹線の開通・高速道路の網羅・高層ビルの建設ラッシュ…そして、また二度目の東京オリンピックが開催されるという。この間、日本人社会は急激に変貌した。三世代同居の家は雲散霧消して、核家族という文化の継承を拒否するような社会単位に分裂した。地域社会ごとの祭りも消え、年末年始の穏やかでゆったりした時間も味わえない。かつて大晦日の国民的行事の一つ「紅白歌合戦」も変質し瓦解した。近年の見識ないNHK会長ばかりでなく、趣向の多様化に迎合した番組を制作し続けた芸能局職員の姿勢もそれに輪をかけたに違いない。また、年齢層の幅広さに加えて価値観がバラバラな状況では、国民の気持ちが一つになって共に楽しめる対象など望むべくもないだろう。ところが、今月、それが出来(しゅったい)したのである。
 日本大相撲初場所における大関稀勢の里の優勝、それに続く新横綱の誕生に国中が湧きかえった。千秋楽で東の正横綱白鳳を破り14勝1敗、年間最多勝を挙げ横綱審議会満場一致での推挙だった。中学卒業と同時に15歳で入門、故鳴門親方(元横綱隆の里)の厳しい稽古によってとんとん拍子で入幕を果たしたが、大関昇進後、優勝まであと一歩というところで足踏みし、ファンの期待に肩透かしを食わせ続けた。奇(く)しくも30歳での横綱昇進は師匠と同年齢、ただし、新入幕から73場所目の横綱昇進は歴代横綱の中で最も遅い出世だったのである。「耐えて耐えて、最後に花を咲かす」―その道のりが日本人の心を揺さぶるのだろう。
 しかし、それだけではない。魅力は他にもある。色白であんこ型の力士の見本のようで昭和の大横綱北の湖に似ているとも言えるが、私の世代では同じ雲竜型のどっしりとした土俵入りが印象に残っている鏡里を彷彿とさせる。いずれにしても立派な体格である。稀勢の里は、師匠が二子山部屋所属だったこともあり、大師匠の若ノ花(初代若乃花)の化粧回しを着けての土俵入りとなった。二所ノ関一門ということで、相撲博物館所蔵の現物を貸し出してもらえたそうだ。連綿と続く国技の体現者ともなったのだ。
 日本人横綱としては19年ぶりだそうだが、「日本人だから」ということでなく、その土俵上の在り方が美しく立派なことが相撲を愛する者の心を惹きつけるのだ。稀勢の里はサポーターなどつけたことがない。神聖な土俵に無様な姿で上がることはなく、これまでの15年間休場は0である。天性の体の強さと自己管理がしっかりしている証左だ。加えて、感謝の心と品格を重んじる精神をも身につけていることがわれわれ見物たちの気持ちを魅了してやまないのである。相撲は古来から神への奉納を第一とし、力士はその土地の邪気を踏みしめ退散させる点で守り神ともいえる。スポーツとしてよりも、むしろ神様を喜ばせそのお相伴として人間もそれを愉しむ芝居など「芸能」に近いのである。
 体に恵まれ心優しい新横綱はどうして出現したのか。その土台は、常陸・牛久の故郷である。第一に謙虚な人柄で共働きの両親、第二には近所の老夫婦の存在がある。両親が帰宅するまで萩原寛(ゆたか)少年を家で預かった。少年はおじいちゃんが大好きだった。おじいちゃんは少年を愛し、相撲への道を指し示してくれる。
 肉親だけが子どもを育てるのではない。稀勢の里にとって、故郷のおじいちゃんと相撲部屋の師匠は他人ではあるが「親」である。素直な心と感謝の気持ちはこうして育まれ、その四股名「稀なる勢い+里」に込められた師匠の祈りは長い時間を経て天に届いたのであった。私たち日本人はここに打たれるのである。現代が失った何かがここにあるからだ。
 
   
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演劇学会、ついでに京都いつもの味めぐり / 2016年12月21日(水)
 12月3日〜4日、2016年度日本演劇学会秋の研究集会が開かれた。テーマは「シェイクスピア ローカル・グローバル」で、シェイクスピア没後400年記念となっている。偶然ではあったが、9月3日に東京ミニオペラカンパニーvol.1「悲戀〜ハムレットとオフィーリア」をプロデュースしたこと、その上演を京都産業大学(研究集会の主催校)の鈴木雅恵教授が観劇してくださったこともあって、久しぶりに都に上ることにした。
 3日は「前夜祭」で、『新作能オセロ』が大江能楽堂で上演された。四大悲劇の名作を日本に移し替えた夢幻能で、作品そのものにも随所に工夫がみられたが、何よりも印象に残ったのは、烏丸通から押小路通に入った街並みに佇む大江能楽堂だった。長い歴史を刻んだ古式豊かな建築が能楽発祥の地・京都にふさわしく溶け込んでいたからである。
 翌朝、7時半に境町通り三条の「イノダコーヒ本店」で朝食タイム。かつては、大島渚監督(京大出身)ら文化人の姿を目にする知る人ぞ知る店だったが、今や情報誌やネット社会の趨勢で、早朝から行列ができる有名店となってしまった。長身の老給仕が立ったまま高い位置から注ぐコーヒーとミルクが懐かしくも心豊かな思い出だ。
 地下鉄とバスを乗り継いで、会場校へ向かう。途中、京都精華大学を通り過ぎ、山懐に抱かれるように静かな環境の北区上賀茂・京都産業大学に到着。午前から午後にかけて12の研究発表と2つの講演が第1・2・3セミナー室で行われる。「ドイツにおけるハムレット受容史」「福田恆存の『有間皇子』に見られる芸術観」「シェイクスピア受容の日中比較試論」「データから見る現代日本のシェイクスピア上演」の発表に参加した。意見を述べたり発表者と交流を持ったり、また何人かの研究者と旧交を温めることができるのも「研究集会」という機会の有難さである。
 やや早めに会場を後にして、地下鉄「国際会館駅」からはやや遠回りだが祇園までバスを利用した。予報通り雨が落ちてきたが、車窓から見える八つ橋発祥の店や京都大学など市内のたたずまいを見ながら祇園の目抜き通りに降り立つ。立ち寄る店はいつも「権兵衛」と「いづう」と決まっている。釜揚げうどんを食した後は、鯖の棒寿司を持ち帰る。
 新幹線の時刻が迫ってきたので、京都駅までタクシーを利用することにした。年配の運転手と気が合い、車中でかつての歌舞伎俳優と映画スターの話が次から次へと出て、あっという間に駅に着く。運転手に教えてもらった「羅生門模型」(駅前に設置されている)を写真に収め、帰路につく。京都訪問にはそれなりに費用が掛かる。研究集会には意義を感じたものの、<味めぐり>の方はどうだろうか。数十年前に初めて接した店の味や雰囲気は、やはり変わった。魅力ある未知の店を探すことにしようと思う。
 
   
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超個人的「一泊一人旅」の研究 / 2016年11月20日(日)
 「一人旅…」という語感からは、<北へ向かう演歌の世界>か<世界放浪に身を投じる青年>を連想するが、これが「一泊一人旅」となると、感傷や浪漫の影は消える。また、若い女性がつかの間の休暇を楽しむネット情報満載の<お得グルメ旅>とはかけ離れた高齢男性の一泊一人旅となると、やや特異な目で見られるのではなかろうか。高齢者の一泊旅行は、少子高齢化社会を迎えて盛況である。しかし、家族や知人仲間と同伴する場合がほとんど、老人が一人ポツンと食堂にいる光景はあまり見かけない。私はその稀有な例に入る。四人掛けのテーブルで一人、箸を動かしているのだ。
 「一泊一人旅」を始めてから十年は経過している。最初は自宅マンションを離れてシティホテルの部屋を取りそこで自宅にはない雰囲気を楽しみ、時折、箱根のリーズナブルな価格のホテルへ投宿したこともある。しかし、ここ最近は、その頻度が大幅に増えた。理由は、新作の構想を練る機会が増えたのと、日常から非日常へ移りたい気持ちが潜在的にあるからである。しかし、一月に1〜2回にもなると経費もばかにならない。わずかな小遣いでは贅沢はできない。そこで、1万円程度で宿泊可能で、関東圏に点在する宿泊施設を対象とした「一人一泊旅」の研究を始めた。
 初めはネットで国内旅行のサイトにアクセスしていたが、最近は下記の施設を利用することが多くなった。一人も二人以上も同一料金、平日も休日も同一料金。低料金であるためセルフサービスが中心となるが、かえって気楽でよい。
1. 伊東園ホテルズグループ
   老朽化したホテルを買収してチェーン化し、サービスは均一。
   料金:7800円/夕朝食ともバイキング/夕食時のアルコールなどは無料。
   浴場:天然温泉/15時〜12時
2. ルートインホテルズグループ
   ビジネスホテルの買収+新築あり。チェーン化し、サービスは均一。
   料金:シングル7000円〜/夕食無し(同じビル内の料理店利用)
   バイキング朝食無料。
   浴場:人工温泉(天然温泉の施設もあり)/15時〜10時
3. 四季倶楽部グループ
   会社の保養所の買収委託管理(オーナー以外の利用)。チェーン化し、サービスは均一。
   料金:8000円(一泊二食付き)※食堂での配膳などは職員が担当する。
   浴場:天然温泉/15時〜10時
 群馬(伊香保)・栃木(鬼怒川)・埼玉(羽生)・神奈川(横浜・箱根・湯河原)・静岡(大仁・伊東)など温泉や大浴場のある施設を泊まり歩いたが、やはりバイキングではない食事やじっくりデスクに向かって仕事ができる条件を考えると、私の場合は、3.四季倶楽部グループの利用が今のところベストかな、という研究結果である。
 この旅におけるもう一つのポイントは、往復の列車は普通グリーン車を利用することだ。ラップトップのPCでゆっくり原稿入力をする。温泉へ向かうそして温泉から帰る、この「半拘束時間」が好きなので、また「一泊一人旅」に出掛けることになる。
 
   
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東京ミニオペラカンパニーと創作ミニオペラ公演C / 2016年10月15日(土)
東京ミニオペラカンパニーvol.1『悲戀〜ハムレットとオフィーリア』
(2016年9月3日/東京虎ノ門・JTホールアフィニス)

第一部 プレトーク「シェイクスピアと新作ミニオペラ」(30分)
第二部 ミニオペラ『悲戀〜ハムレットとオフィーリア(一幕)』(55分)

♢物語  デンマーク国の王子ハムレットと内大臣の娘オフィーリアは、身分の差を超えて愛を育んでいた。しかし、突然国王が変死する。叔父が王位を継ぎ、母が王妃として再婚する事態にハムレットは混乱する。やがて亡霊が現れ、真相が語られる。何も知らされないまま、オフィーリアは恋人に去られ、父を失い、狂気にさまよう…。悲恋を見つめるハムレットの学友ホレーシオとオフィーリアの侍女――
♢人物(登場順)  ホレーシオ(布施雅也) 侍女(加賀ひとみ) オフィーリア(宮部小牧) ハムレット(藪内俊弥) 
ピアノ  水沼寿和

Prologue
『お城で生まれた恋』 ホレ―シオ・侍女
Scene 1
『このときめきを』 オフィーリア
『いとしきオフィーリア』 ハムレット
『神の祝福を』 ハムレット・オフィーリア
〜『神の祝福を』 ホレ―シオ・侍女・ハムレット・オフィーリア
Scene 2
『その日が来るまでは』 ホレ―シオ・侍女
〜『そして、その日が…』 ホレ―シオ・侍女
『こんなことになろうとは』 ハムレット
〜『心弱きもの、汝は女』 ハムレット
『亡霊が現れた』 ホレ―シオ・侍女
『王子さまに、何が…』 オフィーリア
『生きるか、消えるか』 ハムレット
『父の言いつけを守ったために』 ホレ―シオ・侍女
〜『尼寺へ行け』 ハムレット・オフィーリア
Epilogue
『運命の激流のままに』 ホレ―シオ・侍女
『花言葉と狂気の正気』 オフィーリア


※上演記録DVD制作:ミューズハウス/堀 衛氏
 
   
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東京ミニオペラカンパニーと創作ミニオペラ公演B / 2016年09月24日(土)
2016年9月3日(土)午後5時30分、東京虎ノ門・JTアートホールアフィニス。
東京ミニオペラカンパニーvol.1「悲戀〜ハムレットとオフィーリア(一幕)」開演。

 この創作ミニオペラ作品は、上演まで3年もの紆余曲折を経なければならなかったが、だからこそ、これ以上望むべくもない出演者とスタッフ体制を調えられたという点で幸運な誕生を迎えられたとも言える。台本作者としてプロデューサーとして満足と感謝の気持ちでいっぱいである。
無名の団体であり、産業界とのつながりもなく、一切の助成金を受けないとなれば、チケット収入を経費支出が大幅に上回ることは当初から明らかなことである。しかし、この上演に参加された皆さんの充実感を目の当たりにし、チケットを買って聴衆・観客となってくださった方々の好評に接すると、主催者として乾いた地面が恵みの雨に潤されるような思いになる。
 アンケートの一部を紹介する。

 ・一時間という短い時間の中で、こんな素晴らしい感動を味わいました。初演で終わってしまうのは本当にもったいないので、是非またどこかで…ありがとうございました。
 ・すばらしいピアノ演奏と響き渡る歌声に感動しました。歌だけでなく表情や動きで、ストーリーがよりリアルに伝わってきました。城の風景や花畑の様子がみえてきたような気がしました。ステキなオペラありがとうございました。
 ・これまで拝聴していたハムレットのオフィーリアのアリア“狂気の場”(作曲家アーンによる)とは違い、緑や花に囲まれるオフィーリアの姿をとても感じました。とても美しかったです。
 ・小さな会場だったので舞台との距離が近くて迫力があった。オペラ=イタリア語やドイツ語といったイメージが私の中で勝手にあったのでとても新鮮でおもしろかった。
 ・とても洗練された作品で、すばらしかったです。日本語であったためよく理解できました。すばらしい時間をすごしました。ありがとうございました。
 ・シェイクスピアの長い作品のエッセンスを的確にとらえ1時間にまとめたのはさすがとしか言いようがありません。曲もドラマチックでよかったです。もちろん歌唱も。ホレーシオと侍女ももっと歌ってくれたらもっとよかったです。
 ・斬新さにひかれます。
 ・全て初めての感動でした。

 作者としては、2007年・横浜で2008年・新宿で上演した「オフィーリアのかけら」を土台としたオペラ作品だったので、その主役を務めてくれた女優・甲斐田裕子(神奈川県立神奈川総合高校一期生)が会場に駆けつけてくれたのは嬉しかった。終演後のロビー。オペラでのオフィーリア役・宮部小牧さんとのツーショットは私だけでなく、女優、歌手としても記念になったにちがいない。
 ホール退館後、近くのレストランで「打ち上げ」が始まる。関係者にゲストも加わって食事を共にしはじける笑顔と語らいが続く。その日、集合写真をもって激動の一日が終わった。

 
   
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東京ミニオペラカンパニーと創作ミニオペラ公演A / 2016年08月20日(土)
 本番まで残り二週間となった。これまでは順調に来ている。
 代表をお願いした宮部小牧さん(ソプラノ)がソリストの皆さんの中心となってカンパニーにおける意思疎通を図りつつ、制作責任者の私と作曲・ピアノの水沼寿和さんとの連携にも心配りをされているからだ。出演者それぞれにプロ意識があり誠実に課題に向き合ってくれるので、上演準備が滞りなく進行するのは当然かもしれないが、有り難いことである。
 練習スタジオでは、楽譜に対してピアノと歌唱の合わせが進み、細部の修正・確認がほぼ終わり、いよいよ立ち稽古の段階に入った。これまでは制作担当者としての仕事が主でソリストたちと練習上関わることはなかったが、これからは演出家として直接やり取りをすることになる。
 台本に書かれているキッカケの確認や立ち位置や登退場のタイミングなど、舞台演出責任者としての出番になった。演劇公演の場合と音楽劇とは稽古の進め方が異なる。今回のミニオペラでは、作曲家兼ピアニストが歌手たちと音楽を作り上げていき、それが進められた後に、演出家にバトンタッチされる。舞台面での表現を具体化する段階に入るからだ。私はソリストたちに事前に「演出台本」なるものを渡しておいた。演出意図や各人物の解釈などをまとめたいわゆる演出メモである。
 限られた回数の稽古であるため、立ち稽古に入る前にその人物を理解し表現する準備をしておいてほしかったからだ。例えばホレーシオの場合、ハムレットの学友であり悲劇の結末に立ち会う人物だが、その基本的な人物像やこの創作ミニオペラにおける場面ごとの状況、台詞の裏の心理まで記述した。登場人物全員の内容を合わせると、かなりの長さになった。音楽劇とは文字通り音楽と演劇の合体であるから、音楽表現の魅力にとどまらず、演劇としての深い味わいを表したい思いがあったからである。
 さて、私が長らく舞台公演活動に携わってきた理由の一つに、観客(聴衆)との人間的交流がある。人々が集う場として、興行主やプロダクションが主催する商業的な劇場やホールではない非商業的で自前の場が大切ではないだろうか。「冠婚葬祭」や同窓会とは別の機会、日常から少し離れた場で芸術を通して美や人間の本質に触れる時間を共有すること、そこには人生を豊かにする作用があると信じている。
 友人・知己に180通ほどDMを送付した。その返信がちらほら届いている。『今回は夫婦で』が三組ほど、また、京都や信州上田から上京される方もいる。『残念ながら、その日はイタリアに帰っていて』『パリにてご成功を…』という葉書もあった。
 公演は経済的には相も変わらず「持ち出し」になるだろう。しかし、芸術の時空を自前で提供し続けること、そこにはお金には代えられない人間としての喜びがある。
 
   
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東京ミニオペラカンパニーと創作ミニオペラ公演@ / 2016年07月18日(月)
 「東京ミニオペラカンパニー」という芸術制作団体もプロデュース集団であるため、自律的な行動を推進できるかどうかにその存在の成否がかかっている。構成メンバーのソリストやピアニストたちがふだんは別のコンサートなどの仕事に追われており、この自主制作企画のために時間を割いて集まり上演準備を積み重ねるのはよほどの信頼関係と結束力がないと絵空事になってしまう。
 「東京ミニオペラカンパニー」の誕生については前述の通りだが、その後、無事に育ち元気よく活動できるかどうか、責任者のリーダーシップと参加者からの信頼感を問われることになる。
 カンパニーの代表者は二期会会員の宮部小牧氏であるが、それをお願いしたのは制作責任者の私である。声楽家としての才能ばかりでなく、誠実で責任感のある人間性を見込んでのことだった。ソリスト全員が東京藝術大学大学院の同窓で親密な間柄であったことが宮部さんを中心としたアンサンブルの土台になっている。また、作曲家・ピアニストの水沼寿和氏も東京芸大の出身で、宮部さんの名前を知っていたことも幸運だった。宮部・佐野・水沼のトライアングルが綿密に連絡を取り合い意思疎通を図ることで、このカンパニーの自律性は醸成されつつある。宮部さんがソリストをまとめ、佐野が全体の制作進行を担う形だが、もう一つの柱であるマネジメント担当の込山咲子氏(東京二期会事務局)との連携が心強い。ソリストたちとのつながりもさることながら、そのプロとしての行き届いた対応が安心感を与えてくれるのだ。

 現在、上演準備は予定通りに進められている。
 公演チラシとポスターも出来上がり、東京二期会のホームページ「コンサートラインアップ」には、プログラム内容の詳細、チラシ(PDFファイル)、ご予約・お問合せなどが掲載されている。チラシは、チケット取扱いの東京文化会館、会場となるJTアートホールアフィニスをはじめ、東京芸大・早稲田大、都内の劇場(一部)にも置かれている。招待状も出され、関係者からのDMも発送中だ。チケットも少しずつ出ている。『悲戀〜ハムレットとオフィーリア』ということで、西洋比較演劇研究会の例会でも購入してくれた会員がいたことは嬉しい。
 こうした制作面に沿うように練習日程も確定し、いわゆる「合わせ」も二度ほど行われている。ソリストとピアニストによる借用スタジオでの「楽譜と演奏、歌唱の確認」だ。来月からは本格的な練習や立ち稽古が5回ほど行われ、プログラム曲の演奏時間が確定した段階で「進行表」の作成、「ホールスタッフ打合せ」と進み、そして9月のゲネプロ、本番を迎える。
 演出家として、近々「演出プラン」を出演者に提示する。作品世界を共有し演奏表現をさらに深めてもらうためである。
 
   
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「音楽演劇」から「ミニオペラ」へ(後) / 2016年06月12日(日)
 上演活動を終えた「東京ドラマポケット」は、≪演劇ユニット≫であった。主宰者(脚本・演出・制作=佐野)を中心に、舞台監督・美術・照明・音響・制作統括のメインスタッフは固定メンバーだったが、出演者は公演ごとに声掛けをし参加してもらうことになる。一つの公演を目指す数十人の有機的集合体を形成するのはかなり困難な作業だ。
人間関係や経済的な問題以上に、スケジュール調整がことのほか難しい。プロデュース集団の場合、各自がそれぞれの仕事場や帰属する劇団から集まってくるので、稽古日程を立てるのに一苦労する。例えば5人の場面。3人はOKでも、だれかとだれかが来られず、その日の稽古は出来ない。いきおい、稽古期間は数カ月におよび、役者の拘束期間が長くなる事態が発生する。そうした条件下で芝居のアンサンブルを作り上げるのは並大抵のことではない。
 さて、<無名の小団体>による小オペラであるが、脚本と作曲という創作面での進行はスムーズに運んだが、いざ上演態勢へという段階で種々の問題が表れた。その小団体は、クラシック歌手たちを集め彼らのレパートリーをプログラムに組みこんでコンサート活動を続けていたのだが、本格的な創作オペラは経験がなかった。「名曲コンサート」の場合と異なり、たとえ小オペラとはいえ創作ものとなると、暗譜に時間をかけたり、集まってピアニストと練習したり、全員でリハーサルをしなければならない。経済的にもスケジュール調整の上でも、<持ち歌>をぶっつけ本番で歌うのとは大違いなのである。結局は、事務所所属のしばりなどスケジュール調整不能によりこの企画は白紙となった。
 こうして1年かけた台本と楽譜が宙に浮いてしまったが、なんとか上演の道はないか、できれば小規模の音楽専門ホールで…私と作曲家は動き出していた。そうした中、偶然あるコンサートで一人だけ心に残る詠唱を聴く。ショーソン『果てしなき歌』を歌われたソプラノ宮部小牧氏だった。私はその後宮部さんと会う機会を得て、台本と楽譜をお渡し、声楽表現中心の「ミニオペラ」上演への協力をお願いした。
 上演の成否は、まずソリストの皆さん(テノール・バリトン・ソプラノ・メゾソプラノ)が親密な関係にあることだった。宮部さんは東京芸術大学音楽学部卒業のご友人、ごく親しいソリストの方に声をかけてくださった。そのお蔭でメンバーはそろうことになったが、もう一つの鍵となる公演制作の実務をどうするかが問題だった。しかし、これも後日、ソリストが所属する東京二期会の事務局により「後援・マネジメント」公演としての許可が下りた。
 こうして紆余曲折を経た「ミニペラ『悲恋〜ハムレットとオフィーリア』公演」は、東京二期会のコンサートラインアップに加えられることになり、9月3日(土)東京虎ノ門「JTアートホールアフィニス」(午後5時開場)にて幕を開ける。これからチケット販売などの制作活動、スタジオでの練習、ゲネプロ、本番…とエネルギーを要する日々が続く。この公演を皮切りに立ち上げた「東京ミニオペラカンパニー」は、やはりプロデュース集団であるため、多忙なソリストたちのスケジュール調整が一筋縄ではいかない。それでもプロ意識をもって充実した稽古が積めるに違いない。
 「音楽演劇」から「ミニオペラ」へ、演劇から歌劇へ。俳優の演技から歌手の演唱へ。これまでと比べ、演出上、音楽の表現が前面に出ることになる。舞台美術(装置・照明・衣装)が捨象され、演奏会形式に準じた歌唱とピアノ演奏のみになるからだ。
 
   
Posted at 13:59 / 創作活動 / この記事のURL
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「音楽演劇」から「ミニオペラ」へ(前) / 2016年05月05日(木)
 ライフワークとしての演劇を振り返ってみると、青春期におけるリアリズム演劇の上演および演出経験から始まり、それにかぶるように大学時代に出会ったブレヒト・ベケットによる「叙事詩的演劇・不条理演劇」、そして、70年代にかけての「運動の演劇」の影響を受けての劇作修業・上演活動が続いた。
 やがて壮年期からは、「メタシアター・劇中劇構造」に関心が向き、合わせて、物語の四次元的再現としての演劇を忌避するようになった。ストーリーの絵解き、戯曲の立体化しての演劇ではなく、「俳優の演技を中心とした美術・音楽などの表現要素が重層的に融合する世界の創造」を目指した。それは、「演劇ユニット 東京ドラマポケット」(2006年〜2012年)の創設趣旨でもあった。演劇の文学からの自立という観点は「歌舞伎」から、また、本歌取りをはじめとする劇世界の設定は「能狂言・人形浄瑠璃」から強く影響を受けたといえる。
 さて、老年期に入って心血を注いだ東京ドラマポケットの上演活動は、『オフィーリアのかけら〜予告篇〜』(横浜創造界隈別館ホール)『音楽演劇 オフィーリアのかけら』(新宿シアターサンモール)『Shadows<夏の夜の夢>に遊ぶ人びと』(北沢タウンホール)『全体演劇 わがジャンヌ、わがお七』(両国シアターカイ)で幕を下ろした。
 音楽をいわゆる劇伴ではなく「劇」そのものを支配する<神>の位置に設定した「音楽演劇」や、紀元前のギリシャ古典劇の合唱隊を基にした「コロスドラマ」、演技と舞踊と音楽を劇世界の中でポリフォニックに融合させた「全体演劇」…と、実験性を重視した舞台活動を展開してきた。全て、現代演劇活性化の一例を示したかったのである。
 こうして振り返ってみると、まさに近代劇から現代劇へ移行する芸術思潮の流れに身を置いてきたことが分かる。さて、演劇活動にピリオドを打ってしばらくした頃、「コロスドラマ」で出会った仲間とのつながりから「創作オペラ」に脚本・演出スタッフとして関わることになった。無名の小団体だったから、もちろん本格的なグランドオペラではなく、1時間足らずの演奏会形式に準ずる小オペラである。
 私にはクラシックの素養は不足しているが、山本安英主演の『夕鶴』(木下順二・作)で音楽を担当した團伊玖磨が作曲、伊藤京子が主演した『オペラ 夕鶴』は、上野の東京文化会館(1966年2月)で観ている。そこで受けた印象と思いが強く残っていて、「日本語が西洋音楽で歌われること」が自分にとっての舞台芸術の一課題となっていた。
 その思いに耳を傾けてくれる相手とその<無名の小団体>で出会った。ピアニストで作曲家の水沼寿和氏である。若手ながら謙虚な人柄と芸術への真摯な姿勢に惹きつけられた。“この人となら出来る”と直観した私は、『ハムレットとオフィーリアにしぼった台本はどうでしょう?』と問いかけたところ快諾を得たので、具体的な作業に入った。台本の素材は自分が熟知しているもの、となれば、ストレートプレイで上演してきた「オフィーリア」になる。重要なのは素材ではなく、日本語の歌唱による作品そのものである。
 台本の初稿は二年前の12月、楽譜は昨年の8月下旬に脱稿、その後の創作面のやり取りを経て「確定稿」に至ることになる。
 
   
Posted at 16:17 / 創作活動 / この記事のURL
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あの日がなかったら〜駆け付けてくれた先生(2) / 2016年04月06日(水)
 親子三人であったため三食に事欠くということは無かったが、母による微々たる収入では生活はひっ迫していったのだろう。父は緑が丘の家を売却し当座の生活資金に充て、坂本坂上の魚屋の裏に引っ越すという手に出た。一日中陽が当たらない六畳一間の暮らし…横須賀市立坂本中学校に入学して一年後のことだった。
 母は芯の強い人だった。細身だったが丈夫で寝込むことは一度もなかった。どんな状況でも明るさを失わず、息子と夫のために働いた。住居が変わるたびに、幼稚園の給食係、食堂の住込み店員、社長宅の住込み家政婦…。一方、父は相変わらず外に出て働くことは無かった。お坊ちゃん意識が抜けず、人に使われる立場に身を置けなかったのだ。好転しない生活環境の中で、父は追い詰めらていきやがて精神病院に入院するようになった。小説家・宮本輝氏が父親の入院している閉鎖病棟に面会に行った思い出を語っていたが、その体験は私のものでもあった。映画監督・小栗康平による『泥の河』(原作:宮本輝・1980年モスクワ映画祭銀賞)に私は泣いたが、両氏とも私と同世代で、父と子の関わりにおいてどこか通底するものがあり、昭和30年代を少年として過ごし父親世代を見つめていた点を共有していたからかもしれない。
 私は、いったんはあきらめかけた高校進学を母親に訴え、昭和34(1959)年、かろうじて横須賀市立商業高校に進むことが出来た。戦後のバラック校舎であった中学校では2,500名の生徒数だったが、わが横須賀商業(現:横須賀市立横須賀総合高校)は各学年4クラス、600名が集う白い木造建築の学び舎だった。校風は自由で、勉強はほどほどに、文科系と体育系の一つずつの部活動に参加することが当たり前とされた。就職した際に、応用力のある人材を育成しようという実業高校としての方針だったのだろう。
 私は1年D組、英語部(後に文芸部へ)・バドミントン部に所属し、“夢の高校生活”がスタートした。作曲家・遠藤実が高校へ進学できず、その憧れを曲にぶつけた『高校三年生』がヒットしたのは昭和38年である。住込み先ではあったが母との同居が叶い、アルバイトしながら送る高校生活は楽しかった。担任は、新婚間もない鈴木和昭先生。新潟県出身で横浜の国立大学へ進まれた先生は、善悪の区別には厳しかったが、苦学されたこともあって人間味があり、横浜鶴見のご自宅をお訪ねすることもあった。
 高校二年になり、小学生の時に抱いた「外交官」の夢が頭をもたげてきた。教科書に載っていた新渡戸稲造の『太平洋の懸け橋になりたい』が忘れられなかったのだ。父が若い頃欧州航路の船会社に勤め、ロンドンから持ち帰った毛布やインド象の置物が身近にあったことも影響したのだろう。私は大学進学を模索し始めた。経済的には学費の安い東京外国語大学を目指そう…横須賀久里浜から東京北区にあった外大まで出かけ前年度の入試問題を入手し、また、東京大学のウィンタースクール(大学院生による冬期講習)にも通った。手ごたえを覚えると同時に、実業高校の学習レベルとの差を感じた。この学校にこのまま通い時間を無駄にしてよいのか。そんな疑問が湧いたとき、文部省主催の「大学入学資格検定試験」が開始されることを知った。『これに合格すれば、大学を受けられる』―私は、職員室へ行き、先生に『僕は学校を中退して、「検定試験」を受けます』と告げた。その日の夕方、ペリー記念碑横の家に先生がいらした。『お母さん、佐野君が学校をやめると言っていますが…』と問いかけると、息子の意思を尊重する母は、反対はしなかった。『でもなあ、佐野。もしその「資格試験」に失敗したらどうする?大学入学資格なら、あと一年学校にいれば取れるんだぞ』その一言を聴いて、数学など不得手科目がある現実を思い起こした。私は『…そうですね。分かりました。学校に残ります』と頷いた。
 その後、大学はいったん断念することになった。経済的なこともあったが、外交官とは全く別の「演劇」や「上演行為」に関心が向くようになったからである。その原動力となったのが、文芸部への途中参加でありそこで企画上演した劇であり、卒業後も継続した文芸部仲間とのつながりであった。
 もし、あの日、鈴木和昭先生が駆け付けてくれなかったら、今の私は無い。高校時代からの「生涯の友」にも恵まれなかったし、「演劇」というライフワークにも出会えなかったに違いない。学校に残ったからこそ得られた「宝」は先生の差し伸べた手の賜物である。先生は、その後、横浜市立の高校を経て、東京家政学院大学教授を最後に退官され、現在は書家としてご活躍である。

※写真上…高校卒業アルバムから/3年C組教室(1962年)
写真中…先生と教え子たちの小旅行/長瀞・養浩亭(1963年)
写真下…佐野英(母)お別れの夕べでのご挨拶/新横浜グレイスホテル(2009年)
 
   
Posted at 16:49 / 随想 / この記事のURL
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