浅井長政と織田信長

January 27 [Tue], 2015, 20:25
信長はもちろんすんなりと天下統一への道を歩んだのではない。桶狭間で今川義元を破って後、苦闘の歴史が続く。周りは敵だらけ。そしてこの時点での最大の敵は、美濃の斎藤だった。
 美濃を平定した斎藤道三は、信長の岳父だった。しかし、息子の(血縁はないとも言われる)斎藤義龍は道三を討ち、信長にとっては脅威の存在となる。ここいらへんを書き出すとキリがないので端折るが、道三の死により斎藤家との盟約を破棄した信長は美濃へ攻め込むこととなる。
 これも、「清洲同盟」があったればこそである。今川義元の死により、その傘下にあった徳川家康は、今川側から寝返り信長と同盟を結ぶ。これで後顧の憂いがなくなった信長は美濃平定に集中できたとも言える。
 信長にとって幸運であることに、義龍は程なく没する。そして息子の龍興が継ぐこととなる。しかし信長が美濃を手中にしたのは桶狭間から7年経った永禄10年だった。そして信長はついに天下を意識し始め、「天下布武」の印章を用いるようになる。

 さて、少し時間を遡って、浅井長政である。長政は北近江を領する戦国大名である。父久政は弱腰であり、南近江を領する六角家に半ば臣従していた。しかし15歳で元服し父久政を隠居させ家督を相続した長政は、六角氏から離反しこれを打ち破る。そして北近江を磐石にし、隣接する美濃の斎藤龍興と戦闘を繰り広げていた。
 この長政に注目したのが信長である。まだ斎藤との戦争に決着のついていない信長は、若いのに勇猛果敢で将来性のある長政と同盟を結ぶことにした。そして、信長の妹で絶世の美人とされるお市の方を輿入れさせる。
 これはよっぽど長政を買っていたのだろう。信長はめったに身内を政略結婚に使わない。使っても養女とかである。その信長にとってお市の方は切り札とも言える存在。これは、美濃攻略、そしてその後に控えていた上洛の安全だけを考慮してのことではないようにも僕には思える。15歳で父を隠居させ六角氏と縁を切りこれを退け、戦国大名に成り上がった長政に自分を見ていたのかもしれない。斉藤道三が娘の濃姫を信長に輿入れさせたのと同様に、長政を自分の同盟者として手を携える。東に家康、西に長政。そうすれば、天下への道が見えてくるように信長は確信したのだろうと思う。

 しかし、この政略は後に破綻することになる。
 信長は美濃を平定し、稲葉山城に入り城下を「岐阜」と改名しここを本拠地とする。同時期に伊勢にも出兵しこれを降す。そしてついに足利義昭を奉じて上洛する。背後には武田その他の脅威があるが家康が歯止めになる。心配は越前に居る朝倉氏であったが、北近江には同盟者である長政が居るため安心である。通り道である南近江には六角氏がまだ居たがこれは蹴散らす。そして信長はついに京で天下に号令することになるのである。美濃を平定してまだ一年。そのスピードに加速がついた。すぐに三好三人衆その他を駆逐して畿内平定。松永久秀も投降した。
 義昭を将軍職に就け、岐阜に引き上げる。ここまでは順風満帆である。
 さて一年後。伊勢の北畠氏も降伏し、三好三人衆の残党も平らげ、再び京に上った信長はついに、「天下静謐執行」という名目で統一に乗り出す。その第一弾は、越前の朝倉義景征伐である。
 このため信長は全国の(実際は周辺の)戦国大名に集合令を出す。もちろん建前は朝廷と幕府のため、ではあるが信長の戦略であることは見え見えだ。この命令に従わなければ敵となる、ということ。後の秀吉の「惣無事令」の原点を見て取れる。
 朝倉義景がこんな命令に従うはずもなく、信長は3万の軍を率いて越前征伐に乗り出すこととなる。
 これが成功していれば、信長は朝廷と幕府の名の下に次々と「天下静謐令」をもって戦国大名を次々と平らげていったに違いない。ひとつ成功すれば次のステップが見える。戦力も増える。加速がつけば、戦わずして降伏する大名も増えるだろう。そして天下統一への道は早々に見えていたかもしれない。それは後の秀吉の「惣無事令」を見ればよくわかる。

 しかし、信長にここで思いもよらぬ出来事がおきる。信頼していた「義弟」の浅井長政の裏切りである。
 手始めに信長は敦賀を攻め、たった二日で天筒山城、金ヶ崎城を陥れ、木の芽峠を越えて朝倉を追い詰めようとした。しかしここで信長に「浅井裏切り」の一報が入る。
 信長はなかなか信じなかったと言う。よっぽどこの義弟を信頼していたのだろう。しかし事実は事実。信長は挟み撃ちの状況となった。
 この状況は圧倒的不利で、信長は討死していてもおかしくない状態だった。しかし、ここから信長は逃げに逃げる。北近江は浅井の本拠地であり封鎖されているため、若狭から朽木を通って脱兎の如く退陣した。ここにも多くの「if」があるが(松永久秀や朽木元綱のこと)、とにかく信長は生き延びた。京にたどり着いた時信長の周りには10騎ほどしか残っていなかったという。

 ここから信長の足踏みが始まる。再び信長は朝倉・浅井連合軍を攻めるが倒せず(姉川の戦い)、そうしているうちに造反勢力がどんどん結集し出す。呼応するように阿波から三好三人衆が(またか)、そして石山本願寺をはじめとする一向宗の決起が、そして比叡山延暦寺が朝倉・浅井と結び、ついに甲斐から武田信玄までもが動き出した。もぐら叩きのようにあっちを叩けばこっちが顔を出す。
 この「信長包囲網」の背後には足利義昭が居たという。年号で言うと「元亀」の三年間は、実に信長にとって疲れた年月だっただろう。比叡山を焼き討ちしたが一向一揆には苦しめられ、信玄には三方原で散々に打ち破られる。これで信玄が死んでいなかったらどうなったか。義昭主催の「包囲網」が成功した可能性もある。

 この浅井の裏切りに端を発する一連の動きは、信長の天下統一を完全に足止めした。
 それまで信長は順調だった。桶狭間で今川を倒した後、美濃平定には時間がかかったものの、それ以降は伊勢平定、六角氏を蹴散らし畿内平定。将軍義昭を奉じた信長という新興勢力は相当の早さでここまでやってきた。この勢いで越前も平定すれば、日本のかなりの部分が信長に靡いただろう。しかし、「天下静謐」のための最初の戦でつまづいたために信長はかなりの回り道を強いられることとなる。信長も敗れるのだ。このことは足利義昭にチャンスと思わせ、武田信玄までその気にさせた。
 結局信長の統一の道は、ひとつひとつ抵抗勢力を潰していくという方法しかなくなる。威光で信長に靡かせることは叶わなくなったからだ。苦しい元亀年間が過ぎ、年号は天正に代わってようやく天下統一も軌道に乗り出したが、最後まで戦に明け暮れた。そして天正10年、本能寺に斃れる。

 あの裏切りがなければ、すんなりと越前を平定していたら、もう少し天下統一事業は加速したのではないか。包囲網を形成する間もなく、武田、上杉、毛利も靡いていた可能性もある。少なくとも元亀年間の3年は完全な足踏みだ。あれがなければ、信長の統一は40代半ばで達成されていたかもしれない。少なくとも信長の青写真はそうだっただろう。そして唐入りも、信長の手で行われていたか。
 そうなれば、本能寺もあったかどうかは難しい。
 浅井長政は、おそらく信長の同盟者として徳川家康と並ぶ両輪となっていただろう。
 越前は朝倉滅亡後、長政に与えられていたかもしれない。そして家康が信玄の歯止めとなった如く、長政は謙信の歯止めとなる。そして、上杉謙信も信玄同様に早く死ぬ。これも、家康と同じ状況。つまり信長についていけば、後に相当の存在に成りえただろう。
 想像が羽ばたけば、天下の芽もあったかもしれない。
 信長の死後、紆余曲折を経て家康が最終的には天下人となった。家康と長政は同等とみて良いとすれば、可能性はある。長政は若かったのだ。歴史はどう転ぶかわからない。

 浅井長政は何故裏切ったのだろう。
 父久政は六角家との抗争で朝倉家には恩がある。なので義理立てした、というのがかつては定説だったが、しかし隠居させた父親の言うことを長政が聞くだろうか。また、長政本人はお市の方を娶ったことで既に朝倉とは一線を引いているともとれる。織田と朝倉の関係はとてもいいものではなかったからだ。近年は、裏で足利義昭が糸を引いていたという説もあるが、それもどうだろうか。義昭と信長は既に不仲ではあったが、まだ双方に利用価値を認めていた。勝ち馬に乗る義昭は、信長敗戦の後に包囲網を仕掛けたと思っている。また義昭が仮に長政を唆したとしても、長政が乗らなければ終わりである。いったい何があったのか。

 朝倉は最終的に信長に破れ滅亡。既に叡山は落され、信玄も没しており、長政は孤立無援となり小谷城に籠城した。このとき信長は降伏を勧め、秀吉も使者として説得にあたり、一命を助けるだけでなく領地換えで許そうとした場面もあったと言う。どこまで本当か知らないが、信長は長政を認めていて、惜しいと思ったのではないかというのが僕の想像である。
 しかし長政は首を縦に振らず、お市の方と3人の娘を投降させて自らは切腹して果てた。享年28歳とも29歳とも言われる。
 その後の浅井の血が数奇な運命を呼び、その娘は淀殿と秀頼、崇源院と家光とになって天下を分け、最終的に徳川将軍に血を残したのは有名な話。浅井の血は天下に深く絡んだのだ。
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四歳の時脳出血に倒れる手足が麻痺に成るその後医療ミスでカウザルギー&灼熱痛になり再生不良性貧血&肝炎を発病しました

脳外科&ペインクリニックの旦那様が脳出血の後遺症を治してくれた

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しかし今の旦那様が家に居てくれるかなぁとなぁ誘惑して来て誘惑に負けて仕事等を捨てる

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