レコードを買いに、2 

2005年02月19日(土) 2時44分
大学はレコードを買い漁る事に明け暮れたまま卒業してしまった。学生にしては考えられないぐらいの大金と時間を費やして集めたレコードだったが、革命的に優れた作品に出会うこともなかった。80年代という一つのジャンルが終わり、90年代というもう一つのジャンルが出現したにすぎなかった。時代の変化はごく僅かだったに違いない、大きく流れが変わったわけではなかったはずだった。しかし90年代の訪れとともに、レコードへの興味は薄くなってしまった。レコードからCDに時代が変わっていったことも気持ちが離れていったことの一つかもしれない。もともと音楽にすがっても感じ取るだけの感性がなかったのかもしれない。そしてある日突然、筆者のレコード収集人生は終わってしまった。結局レコード集めは一時の熱病にすぎず、筆者の人生までも変える事はなかった。ただ、それからの生活は心の中心が欠落したままだった。熱中するものを持たないまま将来がどうなるかなど誰に聞いても答えが返ってくることなどなかった。そのままレコードを買い続ける生活を成り立てさせればよかった。筆者以外のレコード収集家だったら即答することだろう。
 無情にも月日は流れた。無我夢中で通ったお滝橋通りを歩いてみる。ダイカンプラザは昔のままだし、汚いレコード屋もまだ残っているようだ。まだ時間が早いせいか公園の周りにはお客と思しき人達の姿はなく代わりに浮浪者が風景に溶け込んでいた。見かけによらずレコードに詳しい新宿レコードのオバちゃんはいなかった。早業を駆使してジャケットをチェックしているマニアはまだ居るのだろうか?ピンクのレコードジャケットにVINILとプリントされている看板の老舗から出てくる若者とすれ違った。「またもどってくるか?」と聞かれたような気がした。

レコードを買いに 

2005年02月18日(金) 0時18分
大学生になったばかりだった。特別に目的があったわけで大学生になったわけではなかった。それでは進学を希望した理由を聞かれると周囲の勧めが強かったというのが最大の理由だろう。
自分の両親は職人だった夫婦共稼ぎで自営店を切盛りしていた。朝から晩まで働いて唯一の楽しみは家族そろっての夕食と晩酌だった。両親が望んだことは自分たちが出来なかったことを実践してくれる子供になってもらいたいということと、家と職を持ち安定した家庭を築いてもらいたいということだった。どんな職業でも勤まるように学問を修めるまでは親には責任があると感じていたようだ。だから最終学歴に大学までは卒業させなくてはという覚悟があったに違いない。 
いざ本人が大学生になってみると今までとなんら変わらない日常があっただけだ。中学、高校のように制服が存在しないので、何を着ていくか考えるのが面倒だった。毎日同じ服を着るようになっていたので友人も筆者を容易に探すことが出来た。卒業するのに必要な授業単位を取続ける毎日が一年は過ぎた、なぜかその年だけは忙しかったが次年度になると急に時間をもてあますようになった。緊張感がなくなった。授業も代理出席という便利な事ができると気が付きたまにしか出席しなくなった。
ある日、学友と新宿で出会った。小田急線で新宿に行く途中に同じ車両で偶然出くわしたのだ。彼はレコードを買いに行くと言う。筆者は目的があって新宿を選んだわけではなかった。彼がこれから新宿にレコードを買いに行こうとしているということが、自分の中の漠然とした目的と摩り替わった。その日から自分は彼と一緒に見て回ったレコード店に通うようになった。
週に4回以上、新宿のレコード店を見て回るのが自分の習慣になった。貧乏学生は欲しいと思ったレコードをキャッシングしてまでも買った。手提げ鞄が一杯になるぐらい買ってきたレコードは一回ぐらい針を落とすだけでレコードの山に埋もれていった。部屋ではレコードを枕に眠った。
新宿で手に入れるレコードは世界で一枚の価値があった、当時の自分はそのよう信じていたに違いない。海賊版やプライベートレーベル、インディースレーベルに脚光があびだしたときには聴きもしないのに狂ったように買い漁っていた。

コマ劇場前 

2005年02月17日(木) 0時20分
よく仕事帰りに部下を連れて立ち寄っていた屋台があった。モーゼという黒人がやっていた。オレンジ色のバンにシシカバブを調理するキッチンが付いている。モーゼは筆者が二度目に立ち寄ったときに顔を覚えていてくれて「ボス」と呼ぶようになった。彼のつくるシシカバブは食いきれないぐらいに量が多かった。筆者にだけは特別大盛りにしてくれていたようだ。彼が真っ黒な顔をしているのは仕方の無いことだが、見ているほうが暑苦しくなってくるので何度が飲み物を差し入れしたことがあった。そのたびにシシカバブが大きくなるような気がした。
著者にも事情があり歌舞伎町を離れることになった。モーゼにはそれっきりあっていない、その後なんどかオレンジのバンがコマの前に停まっているのを見かけたが、屋台の中にいるのはモーゼではない黒人だった。
今は黒人の労働者を歌舞伎町やそれ以外の地域で見かけることは多くなった。最初に来た者が後から呼ぶ者のために住む場所と仕事を準備してやっているのだろう。モーゼの屋台も自分以外の者にシシカバブを焼かせることで商売がうまく行っているに違いない。屋台のアクセサリー屋もすぐに顔ぶれが変わる。次から次とカモになる労働者がやってくるからだろう。外国人を住まわせる場所も名義だけは日本人と言う場合がほとんどだ。大家も家賃さえちゃんと払ってくれれば誰が住んでいてもいいという考えなのだろう。築20年を過ぎた木造アパートなどは不動産屋すら案内したがらない、家賃収入が見込めるのであれば誰が住んでいようとお構いなしといったことなのだろう。
歌舞伎町は日本人の労働者で成り立っている町ではない。

UKエジソン 

2005年02月16日(水) 4時26分
大雨が降っていた。ズボンの裾もずぶぬれで、靴の中までみずびたしだった。もはや傘は役に立たない状況で差していることすら滑稽だった。そんな状況でも行列は続いていた。寒くもなかったし惨めでもなかった。皆、今日のお目当てを手にしようと開店前から並んでいるのだ。その光景からは熱狂的な信仰に近いものが発散されていたに違いない。思い思いのファッションからは何か共通の毒のようなものが見え隠れしていた。無言で集まっている人の目からは近寄りがたい光線が発光していたが、その場から離れてしまえば周囲を気にしてしまうほど不似合いで派手なメイキャップであることには誰もが気づいていた。
それでもUkエジソンが開店する時間まではみな自分が愛して止まないアーティスト遠藤ミチロウになりきっていた。おそらく頭の中には「おまえらのまずしさにカンパイ」などという歌詞が渦巻いているに違いない。
開門とともになだれ込む事もなく、けだるそうに店内に吸い込まれていく少年少女たちの気持ちは駆け込みたいほどドキドキしていたに違いない。しかし、心を支配している遠藤ミチロウがそれをさせなかったのだろう。「ここまで出終了です」エジソンスタッフがある少年の前で在庫分の整理券を回収した。目の前で締め切られた少年の悔しそうな表情は厚いメイキャップで読み取れなかったが人生で初めて味わう悔しさだったろうと思う。
しかしながら心の師と仰ぐスターリンの歌詞は常に惨めさと悲しさをうたう、噛み締める悔しさは冷蔵庫の臓物と一緒にしまいこまれるのがオチだと思いながら彼は満足していたに違いない。そしてミチロウは歌う「実践できて楽しいかい?」
雨の日に5000円で買った、中古版ザ・スターリンのファーストアルバム「TRASH」は現在では入手困難。限りなく購入不可能な商品になっている、ブートのCDですら数万円の闇値が付いている。

ゴールデン街 

2005年02月15日(火) 19時11分
新宿ゴールデン街の名前は三島由紀夫、澁澤龍彦の名前と一緒に本の世界にあった。新宿を舞台にした寺山修司の映画は何度見ても画面が揺れていて気持ち悪くなったし、吹き溜まりのような場所が写っていた、それでも皆がそこに行けば大人になれるような幻想が漂っていて子供ながらに近づいては穢れてしまう場所であるという印象を受けていた。
まさか自分が恐れていた場所で仕事をするようになるとは思っても見なかった。職場として新宿や歌舞伎町を捉えていたのだが、個人的にもよく利用した。買い物や食事、地元でお金をばら撒くよりも清々した。新宿にあるというだけで価値を感じたものだった。
歌舞伎町も探せば美味しい料理を出してくれる所も多いし、色んなものが混在しているところが町をよく知る人以外の立ち入りを禁止しているみたいで、会員制の町の気分に浸っていたところもあった。
歌舞伎町はよく知っているつもりだった。酔っ払ってふらふら歩いても安全な気持ちになっていた。いつもの通りでいつもの店が並ぶ中、自分は恐れながらも心の師と崇拝していたゴールデン街に足をむけてしまった。何を飲んでよっていたのか解らないまま、座ったカウンターは何処を触れても年月が染み出しているようだったし、常連の気配がこびりついていた。お客は自分と連れのもう一人だけだった。なぜこんなところに来たかと言ったら、単純に連れにいいところを見せようとしていただけだったようだ。
何一つ今に至るまで読みふけってきた作家の名前も出なかった。生き字引のような店主と交わす会話もなかった。何分くらい座っていたのか自分は居眠りをしてしまっていたようだ。ビールが二本とつまみ一品、二人で2万円とられたことに後で気が付いた。

新宿ロフト 

2005年02月14日(月) 18時38分
20年ほど昔、学生時代の友人たちと手に入れたばかりのフロンテで新宿を目指した。246号線も三宿を過ぎ道路が立体交差になると、始めて来たにもかかわらず新宿が間近だろうと感じだ。お滝橋通りにまだ新宿ロフトがありその隣の更地で立ちションベンをした。いざロフトに行こうと思って階段を下りるともう閉店だよとスタッフに追い返された。そもそも、新宿を目指したのはARBが好きな仲間でなぜか突発的に出た話題だった。当時熱狂的なARBファンの九州男児はこの企画に足が震えて参加できなかった。そのぐらいARBと新宿は関係の深い地域で四六時中ARBの歌を聞いているファンにとっては新宿に行くと聞いただけで人生最大のイベントになってしまうのだ。
歌の歌詞のように新宿ロフトで飲み明かすことはいきなり出来なかった。それではとロフト近辺の情報を突き止めていたTがARBの事務所に行こうと言い出した。
勿論皆はARBのスタッフに会える心底思っていたが、事務所の場所を確認しただけで終わった。
企画が貧弱でその後の行動が伴わなかった。自分たちのイベントは終わってしまった。
その後ありきたりの金の無い学生に戻った自分たちはお滝橋の公園に行き缶コーヒーをのんだ。何をするかと皆が一様に考えていたことを口にしたのは自分だった。皆もそれなりに何か考えていたところだったろうが、新宿をうろつくことには賛成してくれた。
平日の新宿など今でも活気は無い、いまでこそひっそりと深夜居酒屋やしゃれたバーなどがあるが当時は風営法のあおりでお店はどこも閉まっていた。
ポルノ映画館に学生がぞろぞろと入っていったが何か気分が悪くなってすぐ出てきた。
自分たちは夜が明ける前に学生寮に帰って昼まで寝た。

歌舞伎町ではたらく人 

2005年02月13日(日) 3時33分
職場にしている方々はたくさんいる。表向きには歓楽街といっていても沢山の労働者に支えられて街が成り立っている。無論、訪れる人を楽しませるために迎え入れる方たちは工夫し遊びの達人を装いはするが自らは遊べないのである。

また乱痴気騒ぎのお供をすることが実際の仕事でもありお客さんの送り迎えが終わった後は寂しい後片付けが残っている。そんな働く人達を癒すのも歌舞伎町の役割である。

特に歌舞伎町での営業業者専用ではないが皆からよく利用されるお店は多数ある。今は無いが「まっちゃんの屋台」もそういった癒しの場所だった。雑居ビルが商業の中心になる歌舞伎町ではさまざまなお店が雑居ビル内に店を構える。したがって癒しの空間もビルの外からはその存在すら気が付かない。また概観の不気味さと店内のアットホームさのギャップが都会のオアシスという表現にぴったりと当てはまる。某リービル内の健身○も筆者が訪れることの出来た都会のオアシスだ。
このようなお店には自分の心に秘めておきたい取って置きの場所のような価値観が芽生える。たとえそれが有名店になって誰でも知る存在になったとしても再び訪れたときは所々残る思い出に再会し感傷に浸れることだろう。歌舞伎町には一人でも入っていける自分だけの魅力的なお店も多いのだ。

椎名林檎 

2005年02月12日(土) 1時24分
哀歌エレジー。新宿歌舞伎町、哀歌がにあうのは故郷を捨ててこの町にきた人達の思いが強いからなのか?「東口をでたらそこは私の遊戯場、歌舞伎町」歌の歌詞にそぐわない真剣勝負の商売人が口元をゆるませて笑っている。歌舞伎町は商売人にとっては遊び場ではないし、心底遊べないからこそ歌舞伎町で仕事が出来るというものだ。椎名林檎だって歌舞伎町の住人として本気に見えないからこそ歌舞伎町的なのだと思う。
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