人に何かをしてあげること

April 17 [Sun], 2011, 19:13
私は、比較的やさしい、思いやりのある人間だと自負していた。

長女で、忙しい両親に代わって妹や弟の面倒をみてきたことが習い性となったのか、頼まれごとをされれば、なんでも引き受けてしまうし、少しばかり自分の時間や労力を費やすことになっても、それを惜しむ気持ちにはあまりならない。

だから他人からは、面倒見がいいとか、気配りがあるとか、やさしいとか言われ、そう言われればもちろん悪い気はしないから、自分でも何となくそんな気になっていた。

そんなある日のことである。食事中に私は、友人から意外なことを言われた。共通の友人の窮地を見かねて、私が一肌脱いだ経緯を話し終わった時、彼は小さく溜め息をついて言ったのだ。

「君のやさしさってさ、自己満足的なところがあるよね」

私はカチンときた。「どういうことよ、それ」

「いや、だからさぁ、君は確かに相手のために何かをしてあげているんだろうけど、結局それは、自分の美学をまっとうするためって感じが、ときどきするんだよね。」

彼は言いにくそうに、けれどもきっぱりと私に言ってのける。

私は猛然と反論しはじめた。

「何かしてあげて、それで少しばかりこちらの気分がよくなったら自己満足なの?やさしくしてあげよう、と心掛けていることをしたのに、それは自分の美学を遂行したにすぎないって言葉で片づけるの?それって、あんまりじゃない。もちろん私は神でも仏でも聖人でもないんだから、そりゃあ無垢な心でやってる訳ではないけど、相手のことを思ってやっているのは事実よ」
 
黙ってしまった彼の前で、私はひたすら言葉を続けた。

「百歩譲って偽善でもいいじゃないの。偽善でやさしくできるほうが、何にもしないより少しはましでしょ?能書きばかり言って、あなたみたいに何もしない人っていうのが一番始末が悪いのよ」
 
こちらもついつい興奮して、刃の鋭い言葉を投げつけてしまう。彼は苦笑して私を見た。

「ごめんごめん。べつに君を批判してるわけじゃない。人に何かしてもらいたいってことばかり求めている人が多い中で、君みたいにしてあげることを喜べる人は、偉いと思ってるよ。ただ……。 そこで立ち止まっているのは君らしくないと思ってるだけ。」

話はそこで終わり、気まずいまま私たちは店を出て、ほとんど会話をすることなく駅まで歩き、そしてそのまま別々の電車に乗った。下り電車はまだ混んでいて、私は吊り革にぶら下がりながら、さっきの友人の言葉を思い返した。腹は立つのだが、何となく気になる。残念だが心の奥底が、どこかで彼の言葉を認めているような気もしはじめていた。

 


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ふと昔聞いた仏教説話を思い出す。

それは地獄を釈迦が歩いている時のことだった。地獄に落ちた人々が、釈迦に向かって口々に「食べ物をくれ!」と叫ぶ。釈迦はその言葉を聞き、大皿に食べ物を山のように盛り、人々の前に置いた。そしてこう言ったという。

「食べても良いが、手掴かみではいけない。この箸を使って食べるように」

差し出された箸は、重くて長い箸だった。人々は釈迦が歩み去るのを待ちかねて、箸に手を延ばし、食べ物を口に入れようとした。ところが箸は長いので、食べ物を箸の先が掴んでも、遠くてそれを口に入れることができない。ならば箸の下のほうを持って……と試みても、箸は重いので、今度は満足に操ることもできない。

結局、目の前に山のような御馳走があるのに、それらを口に入れることができないのである。人々が泣き叫んでいると、ある一人の老人が何事かを思いついた。

箸で食べ物を掴んだら、自分ではなく、目の前の人の口に入れるのである。食べさせてもらった人は、もっと食べたいから、その人も箸で食べ物を掴み、自分の口ではなく、目の前の他人の口に入れる。
 
自分ばかりが食べようとしている時には口に入らなかった食べ物が、人に食べさせることによって自分の口に入る。人を思いやることが、結局は自分に戻ってくることにつながるのだ……というような話だった。


こういう戒めはキリスト教にもある。聖書には「自分がしてほしいと思うことは、人にもそのとおりにせよ」という言葉がある。ごくごく基本的な「思いやり」の教えなのであろう。
 
けれども、あの仏教説話を聞いた時、確かその話をした人は、こんなことを付け加えていたのではなかったか。

「これは、思いやりは大切だという教えではありますが、もう一つ大切なことが隠されています。それは、人が誰かのために何かをするという行為は、所詮、自分への見返りを期待してのこと。仏の慈悲と同じだと思い上がってはいけない……ということです」
 
友人はこのことを言っていたのだろうか。自分の行為を仏と同等に扱ってはいけない。それは思い上がりであると言いたかったのであろうか。
 
私は決して、何かを人にしてあげる時、具体的な見返りを期待しているわけではないと思っているが、でも心の底には、そうする自分を見て満足するとか、人の評価を聞いて満足するというような、精神的見返りを持っているところが皆無とは言いがたい。 
 

私は窓の外に目を遣りながら、じっと考えた。聖書の中に、こんな言葉もあったっけ。

「人がその友のためにいのちを捨てること。それより大きな愛はない」

見返りを求めず、自分の身を投げうつことが愛というならば、私がささやかにしている行為など、愛の足元にも及ばない。
 

私は胸が苦しくなった。
 
してもらうことを望むより、してあげることの喜びを感じられるほうがいい。偽善でも見返りを求めるような気持ちがあっても、やさしさを表さぬよりは、表したほうがいい。

けれども、そこは第一のステップにすぎない。その上に、階段はずっと続いているのである。私はその階段があることに気づいていなかった。…いや、気づいていたのかもしれないが、面倒で、見ないようにしていたのかもしれない。
 
友人はたぶん、そういうことを言いたかったのだろう。
けれども、だとしたらいったい私はどうしたらいいのだろう。どんなふうにすれば、せめてもう一段、階段を上がれるだろう。

 

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帰宅後、私は思い余ってさきほど別れた友人に電話をした。電車の中で気づいたことを素直に告げた後、どうすればいいのだろうと尋ねたら、彼は笑いながら言った。

「感謝感謝」

「え?」

「神や仏の愛はもちろんだろうけれど、たとえば・・・・・

植物はさ、あなたのために無償で空気を提供してくれてるんだし、太陽はさ、何の見返りもなくあなたを暖めてくれてる。人は誰もみんな、気づいていないかもしれないけど、もの凄い『やさしさ』を与えられながら生きているわけよ。

それを思えば、君は誰かに何かをしてあげた時、きっと自己満足なんかしないと思う。
むしろ、あたりまえだと思っていた街路樹やこもれびにサンキューって言いたい気分になると思う。偉そうなこと、俺も言えないけどね」

 
私は体中が温められたような気分だった。

 
その友人は二年後に亡くなった。

周囲の人の殆どは知らなかったが、彼はずいぶん以前から重い病を抱えていたという。
もちろん私もそんなことはまったく知らなかった。
郷里に住む高齢のご両親にかわって、友人たちが彼のアパートの整理をした。そのうちの一人が、後日、私に電話をしてきた。

「彼の部屋は貼り紙だらけだった。テレビには『笑いに感謝』、流しの水道には『水に感謝』、トイレには『排泄に感謝』、ベッドには『眠りに感謝』、それに……薬の入った箱にまで貼ってあるの。何て書いてあったと思う?
『病気に感謝』って書いてあったのよ」

彼女はそういうと電話口で泣きだした。


人に何かをしてあげること。

それはもしかしたら、自分が目に見えぬ多くのものに守られ愛され支えられていることを素直に感謝する瞬間なのかもしれない。
 
次のステップはまだ遠い。でも私はあの友人のおかげで、ほんの少し心の階段を上ることができたかもしれないと思っている。

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