日常の鏡としてのフェミニズム
July 18 [Mon], 2011, 12:48
男女は異なった存在なのか同様の存在なのか、って、フェミニズムはいまだにこんな話ばっかりしてると一部で思われがちだなあと思う。
んなもん、違ったところもあれば、同じところもある。それ以上に個体差がある。そんなもんでしょう。実際。
それよりむしろ、性差として理解される「何か」に、「誰か」が勝手な意味づけ(この辺がジェンダー→よく言われるように、誰かによる意味づけだから社会や歴史によって異なる)をして、その意味を、その「性差っぽい何か」を持つほかの誰かに押しつける、それによってその人の生き方を制限する、って「おかしさ」が批判されるべきであって、フェミニズムは基本的にはこういうことを問題視してきたのでないの?と思う。
だから、個人よりもクニとか集団とかが大事だから、人間の自由も制限されて当然、と考えている人はある程度仕方ないけど、ヒトは基本的に皆尊重されるべき、なんて考えてる人はフェミニズムと相容れないってことは、本当はないはずだと思ったりする。
もちろん、誰が、どんな「おかしさ」を問題視するか、って話にもなって、この世には無数に、誰かが誰かに不自由な思いをさせる「おかしさ」が散らばっているから、全ての人間が全ての「おかしさ」をナントカしよう、と思わなければいけない、というのは、それこそおかしいし、無理がある。基本的に、フェミニズム的問題は、まずはその「おかしさ」を経験した個人が主に考える問題だと私は考えている。もちろん、誰かの感じた「おかしさ」に共感するヒトが集まって声を挙げていく事は必要なことだけど、自分が「おかしさ」を感じるレベルと同じものを他人に求める、解決に向けての同じ苦労を求めるってのは、それはフェミニズム的ではない。個人的な問題を、より広い政治的な問題として扱う際には、誰が、どう扱うか、その問題をめぐって誰が尊重されて誰が尊重されない(ことが起こりうる)かを、他者への敬意とともに慎重に考えないといけないと思う。
「おかしさ」を感じる経験への共感というのは、連帯につながるわけで、よくフェミニズムはオンナ同志の連帯を求めるとかいうけど、オンナだから無条件に連帯できるなんて幻想はもちろん幻想でしかなく、オンナとして扱われるヒトが同じような経験をする、もしくはその経験に共感するケースが多いから、結果として女同士が連帯することが多かった、てだけだと思う。
だから、フェミニズムがオンナであることのみに拘ってるように言う人って、どんな社会構造があって、それが個人のどんな経験につながるか、って問題を無視したいのかな、とさえ勘ぐってしまう。
ところで、こないだ、レディ・ガガがフェミニズム的だと書いたけど、そもそもなんで思ったかというと、Born this WayのPV見て思ったんだけど、あれって、私の目には、経験を共有、共感した上でのオンナ同志のつながりを描いているようにどうしても見えてしまう。アメリカ本国での議論なんかは知らないし、お詳しい方が紹介して下さったらいいと思うけど、別に議論のレビューしてるわけじゃないので、あくまで自分の見た感想。
「異形」(そういえば車椅子のパフォーマンスで批判されてたけどこのビデオもそういう意味ではちょっと微妙なとこもあるけど)の母親(ガガ)から生まれる「異形」の娘(これもガガ)。母は、敬意(「人格を無視した上での賛美」とは違う)を持って女神のように描かれているが、子を「産む」以外はほとんど動かない。しかし、その娘は自分の足で歩き回る、そして多くの、この社会から排除されてきたであろう人々と手をとって前に進む。母は娘に多くの可能性を語り、娘の人生を応援する。
最後の場面で母が流す涙は、JudasのPVの最後にマグダラのマリア(役のガガ)が流す涙と同じ、オンナとしての経験を取り巻いてきた悲しみなのかな、とも思う。
Judasは単なる聖書の物語をもじった、イエスと、裏切り者ユダの間で揺れるマグダラのマリアのラブストーリーかと思ってたけど、こちらのブログ見て、ジェンダー構造への批判とも読めるとわかって、感心した。不貞を起こすと女だけが責められ迫害される社会、その悲しみ(ラストの涙)を示唆しているそう。加えていうなら、ラストのガガさんの衣裳は、花嫁(この場合ジーザスの)になれなかった女は社会の一員とも見なされず石を投げられる、ということを意味しているのか。また、意志を持ち自己主張をするヒトとして扱われない「娼婦」であるマグダラのマリアをそのものを力強く演じることで、「花嫁・主婦/娼婦」というオンナの二分法を批判しているとも読める。そう考えたら、総じて超が着くほどフェミ的。
そこまでファンじゃないけど、なんか、ジェンダー論の授業を一年受けるかとかより、ガガさんのPV2、3本(意識しながら)見たほうがジェンダー、フェミニズムについてよく理解できるのかも、と思ってしまう。でも、フェミ的だとしたら、なんとなくフェミニズム後の時代を生きる女性、て位置づけよりはかなり確信犯的なような・・。
んなもん、違ったところもあれば、同じところもある。それ以上に個体差がある。そんなもんでしょう。実際。
それよりむしろ、性差として理解される「何か」に、「誰か」が勝手な意味づけ(この辺がジェンダー→よく言われるように、誰かによる意味づけだから社会や歴史によって異なる)をして、その意味を、その「性差っぽい何か」を持つほかの誰かに押しつける、それによってその人の生き方を制限する、って「おかしさ」が批判されるべきであって、フェミニズムは基本的にはこういうことを問題視してきたのでないの?と思う。
だから、個人よりもクニとか集団とかが大事だから、人間の自由も制限されて当然、と考えている人はある程度仕方ないけど、ヒトは基本的に皆尊重されるべき、なんて考えてる人はフェミニズムと相容れないってことは、本当はないはずだと思ったりする。
もちろん、誰が、どんな「おかしさ」を問題視するか、って話にもなって、この世には無数に、誰かが誰かに不自由な思いをさせる「おかしさ」が散らばっているから、全ての人間が全ての「おかしさ」をナントカしよう、と思わなければいけない、というのは、それこそおかしいし、無理がある。基本的に、フェミニズム的問題は、まずはその「おかしさ」を経験した個人が主に考える問題だと私は考えている。もちろん、誰かの感じた「おかしさ」に共感するヒトが集まって声を挙げていく事は必要なことだけど、自分が「おかしさ」を感じるレベルと同じものを他人に求める、解決に向けての同じ苦労を求めるってのは、それはフェミニズム的ではない。個人的な問題を、より広い政治的な問題として扱う際には、誰が、どう扱うか、その問題をめぐって誰が尊重されて誰が尊重されない(ことが起こりうる)かを、他者への敬意とともに慎重に考えないといけないと思う。
「おかしさ」を感じる経験への共感というのは、連帯につながるわけで、よくフェミニズムはオンナ同志の連帯を求めるとかいうけど、オンナだから無条件に連帯できるなんて幻想はもちろん幻想でしかなく、オンナとして扱われるヒトが同じような経験をする、もしくはその経験に共感するケースが多いから、結果として女同士が連帯することが多かった、てだけだと思う。
だから、フェミニズムがオンナであることのみに拘ってるように言う人って、どんな社会構造があって、それが個人のどんな経験につながるか、って問題を無視したいのかな、とさえ勘ぐってしまう。
ところで、こないだ、レディ・ガガがフェミニズム的だと書いたけど、そもそもなんで思ったかというと、Born this WayのPV見て思ったんだけど、あれって、私の目には、経験を共有、共感した上でのオンナ同志のつながりを描いているようにどうしても見えてしまう。アメリカ本国での議論なんかは知らないし、お詳しい方が紹介して下さったらいいと思うけど、別に議論のレビューしてるわけじゃないので、あくまで自分の見た感想。
「異形」(そういえば車椅子のパフォーマンスで批判されてたけどこのビデオもそういう意味ではちょっと微妙なとこもあるけど)の母親(ガガ)から生まれる「異形」の娘(これもガガ)。母は、敬意(「人格を無視した上での賛美」とは違う)を持って女神のように描かれているが、子を「産む」以外はほとんど動かない。しかし、その娘は自分の足で歩き回る、そして多くの、この社会から排除されてきたであろう人々と手をとって前に進む。母は娘に多くの可能性を語り、娘の人生を応援する。
最後の場面で母が流す涙は、JudasのPVの最後にマグダラのマリア(役のガガ)が流す涙と同じ、オンナとしての経験を取り巻いてきた悲しみなのかな、とも思う。
Judasは単なる聖書の物語をもじった、イエスと、裏切り者ユダの間で揺れるマグダラのマリアのラブストーリーかと思ってたけど、こちらのブログ見て、ジェンダー構造への批判とも読めるとわかって、感心した。不貞を起こすと女だけが責められ迫害される社会、その悲しみ(ラストの涙)を示唆しているそう。加えていうなら、ラストのガガさんの衣裳は、花嫁(この場合ジーザスの)になれなかった女は社会の一員とも見なされず石を投げられる、ということを意味しているのか。また、意志を持ち自己主張をするヒトとして扱われない「娼婦」であるマグダラのマリアをそのものを力強く演じることで、「花嫁・主婦/娼婦」というオンナの二分法を批判しているとも読める。そう考えたら、総じて超が着くほどフェミ的。
そこまでファンじゃないけど、なんか、ジェンダー論の授業を一年受けるかとかより、ガガさんのPV2、3本(意識しながら)見たほうがジェンダー、フェミニズムについてよく理解できるのかも、と思ってしまう。でも、フェミ的だとしたら、なんとなくフェミニズム後の時代を生きる女性、て位置づけよりはかなり確信犯的なような・・。







