分断「させられる」社会と「ほどよい」連帯 

June 05 [Tue], 2012, 12:50
私が思う(ぐらいだからそんなたいしたことないかもな話)フェミニズムの課題っぽいことって、とりあえずジェンダー化された社会で生きる人々間の分断と、それを乗り越えての、ほどよい連帯をどう考えるかってことだと思う。


様々な立場の人々、社会の中で、オンナとして扱われる人々、オトコとして扱われる人々。
考え方も価値観も置かれている状況も様々だし、そういう多様性、およびその尊重は、タテマエ的には、まともな人たちには疑いのない問題として共有されていると思う。



でも、それでも起こる分断は、やはりそのメカニズムと、分割して統治、じゃないけど、分断があることで何が見えなくされているか、議論されなくされてしまっているか、そういうことから見ていく必要があるんじゃないかと思う。「わかりあえない」多様な人々間だけの問題として議論するのは限界がある。その影で、誰かが笑ってるかもしれないし(陰謀説的なW)。



連帯は、私は、「わかりあえない」多様な人々間の葛藤や軋轢、衝突や、場合によっては心が血を流すような経験なしには、ありえないものだと思っている。過去のフェミニズムだって、そうやってきたし、フェミニズムをふりかえるということは、そういう、多様な「女たち」(男を巻き込めなかったとかは部外者がいうならまずその人のポジショナリティを問いたい衝動にかられるけど、ジェンダー構造のある社会を考える上での必要なプロセスとして多様な「女たち」を考えるというステージが必要)のあいだの、そういう動的な関係性をふりかえるということなんじゃないか、と私がずっと確信し続けている。連帯は、一つの価値観の押し付けではない、だからこそ、どこに落としどころをつけるかの、ほどよい連帯を求めて、しんどい経験が起こる。でも、そもそも人が社会の中で生きるとは、そういうことだと私は思う。




ていうか、フェミの現場ちょっと観たら、毎日複雑な関係性で血を流したり流させられたり、そういう感じばっかだし。社会のこと考える他の動きのなかもそうなのかもしれないけど。まあ、メディアの中のフェミしか知らない人から見たら、発狂してるとか矛盾してるとかいがみ合ってるようにしか見えないのかもしれないけど、それは、ある意味、社会を考える上でとても有用に思える豊かな「軋轢」が見えないし、残念なことだと思うけど。



人としてアカンと思う思考ひとつ 

June 05 [Tue], 2012, 12:42
不快な下ネタを嫌がったら、真面目すぎると諌められる。

不快な下ネタでも喜んだら、そういう女はヒく、とか言われる。


てことは、相手に不快であろうことを言って、その相手がほどよく嫌がる(恥ずかしがるとか)ことを期待するってことやんね。


人として、最底辺の価値観の持ち主じゃね?
そんなん、あたりまえと、とか、仕方ないやん、とか疑いなく思うやつは(もちろん大人だからわざわざ声挙げないこともあるし悪いのはそもそも向こうだからそれを批判される覚えはないけど)、社会の一員として他者と関わるというマトモな人間として生きたいと思ってるなら、猛省したほうがいい。そうじゃないなら、今すぐ社会から消えて。


差別だなんだの言うけど、結局は二重基準ってものが諸悪の根源。あほみたいに騒ぐとかそんな損なことはしないけど、見てみぬフリは絶対してやらないし、コバカにしながら、まあ、幸せに生きておりますけれど。

【催し】発達障害と女性の問題〜日本女性学研究会 2011年9月例会案内 

September 05 [Mon], 2011, 20:37
日本女性学研究会で、今度の土曜、以下の催しを開催させていただきます。よろしくー

最近、個人的に気になっているのは、関係性としてのケアとコンフリクトは表裏一体なんじゃないかということ。
もちろん、注意深く考えないといろいろ問題が起こりそうだけど。

あ、それは自分自身の中だけの話で、例会は、それとは直接関係ないですー。





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日本女性学研究会 2011年9月例会案内

「発達障害と女性の問題」

*と き:9月10日(土) 13:30〜17:00 (開場:13:10)
*ところ:ドーンセンター(大阪府立男女共同参画・青少年センター)4階 大会議室
      http://www.dawncenter.or.jp/shisetsu/map.html
*参加費:一般/800円(当日お支払いください) *日本女性学研究会会員/無料
申し込みは不要です。お気軽にご参加ください。

<内容>
障害のある子どもの子育てにおける母親役割、ケア役割。虐待リスク。
片付けられない女。コミュニケーション力。DV夫。思春期問題。就業問題。
二次的障害…さまざまな角度から発達障害と女性の問題について考えてみたいと思います。

発達障害そのものについても概略の説明をいたしますので、発達障害についてあまり詳しくご存じない方も、どうぞお気軽にご参加ください。

☆おはなし:話題提供
◎ 発達障害とジェンダー/フェミニズム……松本 澄子 <日本女性学研究会会員>
発達障害とジェンダーの問題、また、発達障害のある子の親(母親)であること、その母と子の関係性について、そしてフェミニズムの課題について、ずっと考え続けてきていることをお話しします。

◎ 発達障害の子どもの母親にジェンダーの視点を!……大島 善江 <親の会代表、日本女性学研究会会員>
地域の発達障害児(者)の親の会の活動にかかわる中で、母親たちがもっとジェンダー視点をもつことでラクになるだけでなく、適切な子育てにも資するのではないかと、強く感じています。

◎ 発達障害とフェミニストカウンセリング〜医療の現場から〜……荒谷 靜 <フェミニストカウンセラー>
精神科医療において、「ジェンダーの視点」「発達障害の理解」をもって患者さんに接することの大切さを痛感しています。事例を通して、日ごろ考えていることをお話ししたいと思います。

●主催:日本女性学研究会  http://www.jca.apc.org/wssj/
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300日って言葉さえ聞き飽きたにもかかわらず 

August 04 [Thu], 2011, 14:00
「再婚禁止6カ月は違憲」=20代女性、国を提訴−岡山地裁



まー予想どうり、罵詈雑言の嵐ですが。ネットでは。


6ヶ月再婚禁止は生殖医療的に見て客観的な根拠があるのか
婚姻関係が破綻していないということは人間関係も破綻していないことを意味するのか


男女間の権力関係(その逆も)どころか、まともに人と関係することさえできな人たちは、そういったことを想像することさえできないんでしょうかね。

貞操、尻軽、便利な言葉ですね。道徳に訴えりゃ、社会や、力関係を含む人間関係に言及しなくて済む。
そんなに簡単に女性が地位向上しちゃ困りますよね(笑)。。ほんとは女性だけの問題じゃないですけど。


もちろん、本気で不倫を誤魔化そうとするなら言語道断。そういう例も身近にあったし、他人事ながら結構腹立ったしー。

多少無責任に思うこと 

August 02 [Tue], 2011, 19:17
高岡蒼甫やふかわりょうの発言は権力批判という意味では支持したいけど、高岡を「日本人の誇りだ」「男だ」と持ち上げる一方で山本太郎は叩くヤツラの浅薄さが気持ち悪い。高岡も山本もどっちもあんまり好きじゃないけど(ふかわりょうは普通
)、まだ山本は「現場」で活動してるし。あ、「運動嫌い」な資本主義っ子たちだしは仕方ないか。まー「日本人」も「男」も価値が低くなったものやね。


ちなみに、私が、「韓流推し」があんまり好きじゃないのは、別に嫌韓とかじゃなくって、1990年代初頭の、本当にリスペクトからの、前向きで心強いと思えたアジアンポップスブームの思い出があるので(当時中学生だったけど本当に新鮮だったしその中で多少政治的なこともちゃんと考えさせられる風潮もあった)、それと比較してのメディア主導の気持ち悪さを感じてのこと。

そして、20年近く前の、「その頃」の雰囲気を作ってくださった中村とうようさんのご冥福をお祈りいたします。

日常の鏡としてのフェミニズム 

July 18 [Mon], 2011, 12:48
男女は異なった存在なのか同様の存在なのか、って、フェミニズムはいまだにこんな話ばっかりしてると一部で思われがちだなあと思う。

んなもん、違ったところもあれば、同じところもある。それ以上に個体差がある。そんなもんでしょう。実際。

それよりむしろ、性差として理解される「何か」に、「誰か」が勝手な意味づけ(この辺がジェンダー→よく言われるように、誰かによる意味づけだから社会や歴史によって異なる)をして、その意味を、その「性差っぽい何か」を持つほかの誰かに押しつける、それによってその人の生き方を制限する、って「おかしさ」が批判されるべきであって、フェミニズムは基本的にはこういうことを問題視してきたのでないの?と思う。

だから、個人よりもクニとか集団とかが大事だから、人間の自由も制限されて当然、と考えている人はある程度仕方ないけど、ヒトは基本的に皆尊重されるべき、なんて考えてる人はフェミニズムと相容れないってことは、本当はないはずだと思ったりする。


もちろん、誰が、どんな「おかしさ」を問題視するか、って話にもなって、この世には無数に、誰かが誰かに不自由な思いをさせる「おかしさ」が散らばっているから、全ての人間が全ての「おかしさ」をナントカしよう、と思わなければいけない、というのは、それこそおかしいし、無理がある。基本的に、フェミニズム的問題は、まずはその「おかしさ」を経験した個人が主に考える問題だと私は考えている。もちろん、誰かの感じた「おかしさ」に共感するヒトが集まって声を挙げていく事は必要なことだけど、自分が「おかしさ」を感じるレベルと同じものを他人に求める、解決に向けての同じ苦労を求めるってのは、それはフェミニズム的ではない。個人的な問題を、より広い政治的な問題として扱う際には、誰が、どう扱うか、その問題をめぐって誰が尊重されて誰が尊重されない(ことが起こりうる)かを、他者への敬意とともに慎重に考えないといけないと思う。


「おかしさ」を感じる経験への共感というのは、連帯につながるわけで、よくフェミニズムはオンナ同志の連帯を求めるとかいうけど、オンナだから無条件に連帯できるなんて幻想はもちろん幻想でしかなく、オンナとして扱われるヒトが同じような経験をする、もしくはその経験に共感するケースが多いから、結果として女同士が連帯することが多かった、てだけだと思う。

だから、フェミニズムがオンナであることのみに拘ってるように言う人って、どんな社会構造があって、それが個人のどんな経験につながるか、って問題を無視したいのかな、とさえ勘ぐってしまう。


ところで、こないだ、レディ・ガガがフェミニズム的だと書いたけど、そもそもなんで思ったかというと、Born this WayのPV見て思ったんだけど、あれって、私の目には、経験を共有、共感した上でのオンナ同志のつながりを描いているようにどうしても見えてしまう。アメリカ本国での議論なんかは知らないし、お詳しい方が紹介して下さったらいいと思うけど、別に議論のレビューしてるわけじゃないので、あくまで自分の見た感想。

「異形」(そういえば車椅子のパフォーマンスで批判されてたけどこのビデオもそういう意味ではちょっと微妙なとこもあるけど)の母親(ガガ)から生まれる「異形」の娘(これもガガ)。母は、敬意(「人格を無視した上での賛美」とは違う)を持って女神のように描かれているが、子を「産む」以外はほとんど動かない。しかし、その娘は自分の足で歩き回る、そして多くの、この社会から排除されてきたであろう人々と手をとって前に進む。母は娘に多くの可能性を語り、娘の人生を応援する。

最後の場面で母が流す涙は、JudasのPVの最後にマグダラのマリア(役のガガ)が流す涙と同じ、オンナとしての経験を取り巻いてきた悲しみなのかな、とも思う。

Judasは単なる聖書の物語をもじった、イエスと、裏切り者ユダの間で揺れるマグダラのマリアのラブストーリーかと思ってたけど、こちらのブログ見て、ジェンダー構造への批判とも読めるとわかって、感心した。不貞を起こすと女だけが責められ迫害される社会、その悲しみ(ラストの涙)を示唆しているそう。加えていうなら、ラストのガガさんの衣裳は、花嫁(この場合ジーザスの)になれなかった女は社会の一員とも見なされず石を投げられる、ということを意味しているのか。また、意志を持ち自己主張をするヒトとして扱われない「娼婦」であるマグダラのマリアをそのものを力強く演じることで、「花嫁・主婦/娼婦」というオンナの二分法を批判しているとも読める。そう考えたら、総じて超が着くほどフェミ的。

そこまでファンじゃないけど、なんか、ジェンダー論の授業を一年受けるかとかより、ガガさんのPV2、3本(意識しながら)見たほうがジェンダー、フェミニズムについてよく理解できるのかも、と思ってしまう。でも、フェミ的だとしたら、なんとなくフェミニズム後の時代を生きる女性、て位置づけよりはかなり確信犯的なような・・。


lady gagaとフェミニズム 

July 11 [Mon], 2011, 11:34
って、すごい語りやすそうな組み合わせなのに、あんまし(日本では)話題になってない気がするね。

ところで、かつてマドンナを絶賛されてたポスト・フェミニストのカミール・パーリアさん、レディー・ガガはマドンナのパクリだってさ。

そうかなあ、巷で似てるって言われてる(リスペクト云々は別として)理由がイマイチわかんないけどなあ。
ガガさんのほうが、出すPVも全て、すごい正統派なフェミニズムにのっとってる気がするけど。
いうなれば、マドンナはポスト・フェミニズム(パーリアがそうだったように、もはやフェミニズムは時代遅れの不要物という考えに基づく「フェミニズム」…ただしマドンナはよう知らん)、レディ・ガガはサードウェーブ・フェミニズム(第二波を継承し、そこで提示された社会構造のモデルを否定せず新しい方法やポジショナリティや女性の同一性への疑問という観点を構築するようなフェミニズム…適当な解釈)、て感じかな、なんて思う。


しかし、そんなこと関係なく、今のニッポン、ガガさんフィーバーやねえ。


追記:
ぱーりあさんの言ってる「真のエロティシズムに欠ける」って言葉もアレやね。古臭い、古きよき時代を懐かしむ、勝ち組女性の男目線の延長っすかね。くだらん。あんたらの想像力の貧困さと、いつまでもダサい「美学」引きずってる思考停止の怠慢疑わずに、ジェンダーより個人の尊重や人間性に基づくような新たな美学を否定する(好き嫌いってのなら別)ってのは、この話に限らず、何様のつもり?と思う。

マドンナ否定しないけど、マドンナの美学って私は全然共感できない。価値付けするんじゃなく、どっちもアリってことでいいんじゃない?ま、マドンナのアルバムは持っててガガのは持ってないけど。ていうか普段聴く音楽のジャンルと違うのでそもそもはそこまで両方興味ないけど。


ところで、同じ「レディ」がつく人なら、DEEE-LITEのレディ・キアーさんのパフォーマンスが好きだったなあと思い出す90年代人間。。

脱原発運動は「福島の皆さんにたいし失礼だ」と言う方々へ、冷静に、 

April 17 [Sun], 2011, 13:02
今、ようやく、日本各地で、原子力発電にたいする疑問や、脱原発、原発の電力に頼らないための生活の見直し、という声が高まり始めている。

しかし、これまでの、日本全体の「大きな声」であった、原発推進の雰囲気に抵抗するのは、やはりこのような状況下にあっても簡単なことではない、とあらためて感じる。先の統一地方選挙では、多くの推進派議員が当選した。もちろん、現在の原子力政策の見直しとさらなる安全への対策が前提となっていることは、以前の時代に比べれば救われることなのかもしれないが、原子力を取り巻く現在の体制が大きく変わらない限り、そこに過剰な期待をするのはどうなんだろう、と個人的には思う。


そういった、民意全体の「変化のなさ」に加え、懸念されるのは、今回の地震や原発事故の「被害者」どうしの対立の構図が、意識的(誰の意識か知らんけど)であれ、無意識であれ、作られつつあることだ。

まず、「風評被害」という言葉。放射線は人体を通過するから、放射線を浴びた人が他の地域に移動しても、出会った人を被曝させることなんてまずないし、服や身体についた放射線物質なんて洗えば落ちる程度であると思う。しかし、ニュースによると、実際差別が起きているという。


食品にかんする放射性物質の汚染もまた、基準を下回る、もしくは検出されない食品までもが買い控えされる現状は、おかしいと思う。しかし、基準値の上限が意図的に引き上げられたり、実際目の前の食品がどの程度の放射性物質量なのかが不明な限り、安全だと感じられない人の感情もまた、自然なものではないかと思う。そういうことが可能なのかわからないが、小売店ごとに、放射性物質の量が測定できる機械を置いたり、全数検査でなくても、検査結果を数値として示したりしない限りは、安全性のアピールやパフォーマンスだけでは、東北や関東の食品のいわれのない差別を避けることになるとは思えない。例えば、海外が輸入停止した日本食品の産地が誤表記(日本全国危ない、ということになってしまっていた…まあ実際風向きとかでそういうこともあるかもしれないけど)だったり放射性物質の測定が間違っていたり、そういうニュースを積極的に流すほうが、形だけのパフォーマンスよりも、風評を避けるという意味では意義深いのではと思うけれど、なぜかあまり大きく報道されない感じがする。


風評被害に関して言えば、風評に乗せられ買い控えをする「都会」の方々対、現地の生産者の方々、という対立構造が作られているように思えてならない。人の善意につけこんで正確な情報が曖昧にされ、本当の問題が議論されないということになってはいけない。



それに加え、もう一つ懸念すべき対立構図がある。それは、今回の原発事故をきっかけに盛り上がっているとされる脱原発の気運(もちろん、本当に、注目されないだけで、反原発、脱原発の運動はずっとずっと続けられてきた)が、実際に地震や津波、原発事故の被害に苦しんでおられる福島の方々にとって、福島の現状をないがしろにし、それを踏み台に、他の地域がエゴを主張しているように感じられるのではないか、という話が聞かれることであり、脱原発運動対、福島の人々、という構図が作られることである。


大都市である東京の電力を福島の原発が作ってきた、という事実(実際はもうちょっと複雑な構図なんだろうけど)もあいまって、原子力のある現地に目も向けてこなかったくせに、今は、福島とは関係ない原発にたいする訴えを起こすのか、という怒りは理解できる。都市の住む人間は、やはり反省が必要だと思う。


しかし、やはり、労働者を恒常的に被曝させないと稼働が成り立たず、多くの危険な廃棄物を出し、さらに、使用済み燃料を無害化するのに多くの時間やコストがかかり、ちっともエコではない、CO2を出さないのは稼働時の一時のみで実際は廃水によって海の温暖化に影響を及ぼす、そして事故の際には多大な被害やコストを生む、という原発そのもののおかしさは、ずっと主張してきた人たちがいるわけで、福島の事故をきっかけに、どの立場の被害者も、原発を失くしていく方向に気持ちは向かわなければならないのではないか、とまず思う。

現実に被害を受けられた方々の救済と、原発への疑問の提示は、両方、同じように続けていかなければならないことであり、この二つを対立させることは、そもそもおかしい。福島の被害だけが復興すれば済む話ではなく、すでに矛盾が多く労働者の人権も守られていない、いつ事故が起こり新たな多くの犠牲者を生むかもしれない原子力発電にたいする訴えは、今まで無視されてきた状況が、わずかながらに変わりつつある今、起こしていかなければ、危険性や問題性は変わらない(むしろ地震活動の活発化によって酷くなる)まま、多くの人々に無視される状況に戻ってしまう以上、続けていかなければならない。


何度も言うが、地震、原発被害の救済、支援と、脱原発とは、日本の復興に向けての両輪であり、どちらが欠けてもいけない。ましてや対立させるなんてありえない。

今、極論かもしれないけれど、水俣病の例を出させていただくと、企業(チッソ)の廃水により水俣病が生じた際、チッソは、住民により保障金額に差をつけることで、住民同士の対立構造を作り出し、企業への怒りの矛先を分散させた。これと同じようなことが起こり、東電や政府、他の電力会社への怒りの矛先が、程度の差こそあれ、被害者である市民同士で向けられあってはいけない。もちろん、今まで原発を疑問に思わなかったことへの反省は必要だが、その事実が、責任の問題を曖昧にするきっかけになっては絶対にいけない。




もっとも、あくまで個人的な想像だけど、「福島はもう仕方ない、他の地域に同じような被害を生まないように、脱原発だ!」と主張する人がいるとするならば、これは許されることではない。ましてや、福島を、脱原発のための犠牲だなんて考える人がいるならば、それは、福島の方々にとっても、十分に怒りを向けられる対象になると思う。


しかし、脱原発運動には多くの主張が含まれていて、だから一枚岩的でない、と言えると思うけど、大きな動きとして、こんなに大きな事故を起こしておいて、いまだに一部の原子炉は引き続き稼働させようとする東京電力にたいする、福島の原発廃炉を求める動きがある。次に危ないとされる浜岡原発、多くの原発が集中し、絶望的なトラブル続きのもんじゅを抱える福井、それだけ見ても、もし同種の事故が生じた場合の被害は、今回は福島は関係ない、となるわけではなく、同様に再び被害を受ける可能性だってある。

脱原発は、福島以外の人の利益のためではなく、福島を含む日本全体の利益のために行われている主張である。もちろん、現実の被災者の支援とは両輪であるから、両方を考えていかなければならない。実際、脱原発の活動の中には、福島から避難されてきた方々の受け入れや、赤ちゃんや子どものいらっしゃる家庭の避難のサポートを続けれられるところも多くある。


なんとなく、福島VS脱原発という構図には、擬似当事者性の暴力、二項対立の暴力が、働いているように私には思える(勝手に作った言葉)。


実際、福島の方々が、脱原発のことをどう感じられているのか、総意はわからない。ネット上で見かけただけなので偏りはあるし信憑性もわからないけれど、自分たちは東電にも怒りがあるし、廃炉も含め脱原発の訴えをしていきたいが現状ではできないので、今安全なところにいる方々に訴えをしていって欲しい、と思われる方がいらっしゃる一方、自分たちはそれどころじゃないのに、福島を犠牲に切り離して、他の原発のことを考えている、と不快感を示される方もいると思う。


でも、先の構図を持ち出す人には、実際の当事者ではなく、当事者が脱原発を不快に思っている、という事実を根拠に、脱原発運動を批判したいだけの、推進、まではいかなくても、運動アレルギー、左翼アレルギー、みたいな人である人も多いのではないかと思う。原発の問題に関しては、福島の人も、福島以外の人も、同様に当事者であるから、福島の方の当事者性だけが重要視されるのは、申し訳ないけれど、問題がある、と私は思うけれど、福島の方の当事者性を自分たちの都合のいいように、それこそ「擬似」当事者性とでも呼びたいような代弁でもって利用するのは、はっきりいって、恥ずべきことだと感じる。


あと、さっきから、両輪で考えていくべき、と繰り返しているけれど、様々な角度から考えないと解決のしようがない問題を、表面的な主張を対立させて、イチかゼロかを迫り、問題の本質への議論を避ける方向に持っていくことも、褒められたものではない。国のエネルギー政策、電力会社、それらを疑わなかった国民、それらの問題性に食い込んでいかず、そのずっと手前で、福島の被害か脱原発か、なんて構図で足止めを食らわされるようじゃ、それらの議論に「食い込んで欲しくない」人々の思うツボだ。


単純な構図で議論して満足した気にならない、議論の本質、本当の怒りの矛先を見誤らない、自分自身の問題として全ての人が反省をしつつ考える、自分のメリットのために誰かに犠牲を強いることがないか想像力を持つ、こういうことが、私自身の意識や行動も含め、今後重要になってくることではないかと思う。

転送歓迎!【緊急】浜岡原子力発電所の運転の停止を願う要望書 

March 16 [Wed], 2011, 2:46
昨日、2011年3月15日の夜、静岡県を中心に大きな地震がありました。
まだ不安の続く福島の出来事を繰り返さぬよう、浜岡原発の停止に向けた要望書への書名をぜひお願いいたします。
一刻を争います。

浜岡原発の停止に向けた要望書を準備しておられるサイトのURLです。

http://www.geocities.jp/plumfield995/
3月17日朝7時までの受付だそうです。
できるだけ多くの方の、できるだけ早くのご署名をお願いいたします。

大っ嫌いなコピペ 

August 09 [Mon], 2010, 10:38
なんか、またとりとめないつぶやき(ツイッターはしてないけどw)ですが、よくあるコピペで、イチイチむかついたの。

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347 名前:仕様書無しさん[sage] 投稿日:2009/11/18(水) 10:16:46
知りあいの女の子と議論になったんだが、
彼女が言うには、「男がいろんな女と毎週寝たら伝説のヒーロー扱いなのに、
女が1年に2人の男と寝るだけで娼婦のような扱いなのは、公平じゃない」

だからこう言ってやったんだ。
「もしいろんな錠前を開けられる鍵があれば、それはマスターキーと呼ばれるが、
いろんな鍵で開いてしまう錠は最悪の錠だと言わなければいけない」

そう言うと彼女は黙った。

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まず、なんで男が鍵で女が鍵穴か、ていう、しょーもない例えを疑わんのか。この女バカか。黙るなよ。って、「バカ女のほうを責める」(BOHS←今名づけてみた)、最近のフェミ気取りの悪い傾向なぞっちゃいけないけど。

昔からそうだけど、形だけで権力関係が決まるって、難解な思想にせよ下ネタレベルにせよ、男女差別万歳にせよ男女差別反対にせよ、どんだけ低脳なたとえ話やねん、って話。結局、この流れに沿って言えば、鍵穴がないと「鍵」は満足できないから、適当に扱ってもいいような鍵穴(=娼婦)を制度化してきた、ってこともあるわけだし、とにもかくにも、他人を尊重しない「常識」を正当化するダブルスタンダードってのが一番嫌い。


あと、自/衛/隊に災害から助けてもらった女の子が、反対運動の市民の前でそのことを語って運動の人たちがポカン、みたいな感動コピペも大嫌い。そんなら、軍事目的じゃないレスキュー隊の配備急げっつねん。


あ、夏休み的な憂さ晴らしです。オトナゲナイけど。
P R
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共感半分。批判半分。理解まだまだ不十分。正直、感覚のレベルでフェミニズムを捉えることにしか、まだ興味が持てない。でも、お姉さま方への敬意を込めて、フェミニストと名乗らせていただきますね。