生と死について

June 14 [Thu], 2012, 13:45
生とは、いわば死と直結した、官能的な関係性である。
死を意識した事の無い者にとっては、生とは道徳であり、死を意識した事のある者にとって生とは官能であるといえる。
生を見つめ直すときには、もっぱら、このような二項による意見や、思想の対立があるようにも見える。
生への意欲を削がれ、死へと赴こうとするとき、その者は思うだろう。
あらゆる物事に対してガラスのように響く感性にとって田中みなみ 22歳は、この世で生きる事自体、無意味なものなのだと。
ましては、そこら中に居るような愚かな者と一緒に、この世の物質を分かち合う事に、何の意味があろうか。
人間の感覚器は、五官を通じてでしか、世界を認識しているに過ぎなくて、この世に居るという事は、むしろマゾヒスティックな欲望に飢えた獣のような行為なのだと。
人間が感知するべく発達したそれぞれの五官は、いわば、最も敏感なものでも幾何級数的に、より鈍化された矮小なものであれば、それ以下の世界の開示しか見込みが無いのだ。
それに、幾何級数的な世界の拡がりが、我々の五官から発した電気信号の幻影に過ぎないのなら、いっそのこと、その五官に縛られ、身動きの取れない潜水服を脱ぎ捨て、いざ、天空に輝く真の太陽に、裸の手をかざそうではないか。
それに、その五官によって、人はどれだけの世界の有り様に触れているだろうか。
たとえ、五つの閉鎖的な器官でさえ、見える世界は十色以上に色鮮やかな世界を映し出してくれるのではないか。
そんな揩烽烽驍セろう。
しかし、生という営みの狭さには溜息が漏れる。
生とは、いわゆる死への気休めではないか。
たった五つの欲望のために、私は今、ここに居るのだろうか。
生きる事に絶望した。
生へのセーフティーネットは、愚かな道徳者によって封鎖され、自らの汚れた道徳によって、世界を席巻しようとしている。
故に鋭敏な感受性を持った弱者は貶められ、今にも狭義的な生の歓びでさえも、剥奪しようとしている。
街中に溢れる女の不潔ににやけた広告。
そこら辺を歩けば、馬鹿のアルコールに浸された白い顔の集団が、轟くような笑いを発しながら闊歩している。
それは一種の狂気だ。
感受性の鋭い人なら、この現象をいち早く嗅ぎ分け、嫌気がさし、薄暗い部屋の中に引きこもっている事だろう。
生きるとは何だ。
こんな馬鹿みたいな世界が、本当に、私の生きる場所なのだろうか。
そう自責してみても、湧いてくるのは、生きている自分への怒りと、浮ついた周囲への無作為な怒りの発作だけである。
生を鑑みる事のバカらしさ。
それに、道徳的規範の滑稽な実存主義に辟易している。
僅かな望みは死への希求の道しか無いのだろうか。
死はぼんやりとした口を開けて、私を待ち望んでいるようにも見えたのだった。
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