DTM

April 05 [Sun], 2009, 23:00
この言葉が使われ始めた1990年代前半当時狭義のDTMはパソコンの使用を前提とし、かつ日常的な環境においてある程度限定された規模での音楽制作を指す場合が多い。ローランドのSCシリーズ等を始めとする音源モジュールをパソコンと接続し、その音源モジュール1台にボーカル以外のすべての演奏を任せるというシステムがDTMの一般的な形であった。

DTMはパソコンを使ったホビーの一種という定義から、パソコンを使わず、シーケンサー専用機やシーケンサー内蔵シンセサイザーを使用する場合はいわゆる打ち込みには含まれるがDTMとは通常呼ばれない。

ユーザーが楽曲制作上で中心的に操作するのは演奏データを入力し、自動演奏を行うパソコンのシーケンスソフト[1]である。パソコンのシーケンサーソフト上に表示される譜面に、マウスで音符や休符を置くといった作業、または音源モジュールと接続されたMIDIキーボードを演奏して、シーケンサーソフトにリアルタイム入力をするといった作業によって自動演奏データ/カラオケデータを作成していくのである。

このDTMに対して高価な機材やソフトウェアを導入したり、プロユースに耐えうる本格的なシステムを構築したりする音楽制作の環境をデジタルオーディオワークステーション(DAW)と呼んでしばしば差別化する。ただし昨今のコンピュータの高性能化やソフトウェアの進歩、ハイエンド環境のコストの低下、それらに伴うDTMを取り巻く状況の変化などから、互いの決定的な違いはレコーディング環境程度になってきているとも言える。このため昨今では「DTM」が「DAW」を内包する、より広義な意味で使われる事も少なくない。

コンピュータミュージックとDTM [編集]

両者はほぼ同じ意味で用いられることが多いが、コンピュータミュージックという言葉のほうが、DTMより歴史が古く、80年代から使われていたのに対し、DTMという言葉が使われるようになったのは90年代に入ってからである。また、コンピュータミュージックはシーケンサー専用機を使ったシステムもその意味に含まれる。他にもコンピュータミュージックには、現代音楽の1ジャンルとして自動作曲におけるコンピューターを利用したものを指す場合や、テクノ・ハウスといったジャンルの音楽の総称としての意味、さらにはイエローマジックオーケストラなどに代表されるテクノポップや、後のTM NETWORKなどに代表される打ち込みやシンセサイザーサウンドが目立つJ-ポップの意味にも用いられることがあり、話者によって、コンピュータミュージックのニュアンスが異なることがあるが、DTMはパソコンを核とした音楽演奏形態で使われ音楽のジャンルを意味しない。従って、DTMで演歌や民謡といった典型的なシンセサイザーサウンドと対極にあるジャンルの音楽を再現することも可能である。

また、DTMのことを指してMIDIと呼ぶことがあるが、MIDIは電子楽器間の通信プロトコルのことであり、厳密には音楽の使用形態を指す言葉ではない。これは、MIDI規格が登場する以前に主にPCの内蔵音源をコントロールするための規格として、BASICなどのプログラム言語に拡張命令として含まれていたMMLと呼ばれる電子記譜法が普及しはじめていたため、これと対比して外部音源をコントロールする規格であるMIDIを、その普及とともに「外部音源を利用したPCによる音楽制作」そのものの呼称として使用するようになっていった。さらに、パソコンショップでDTM機器を扱っているコーナーをMIDIコーナーと呼ぶケースがあったことや、パソコン雑誌もDTMについてのページをMIDIと紹介したことなどもあり、「外部音源を利用したPCによる音楽制作」としての「DTM」=「MIDI」という転用がなされる機会が増えていったものと思われる[2]ちょうど、これはWWWのことをインターネットと呼ぶ関係に近いと思われる。

前述の通り「打ち込み」というのはDTMだけでなく、シーケンサー専用機やワークステーション型シンセサイザーで自動演奏MIDIデータを作成することも含まれる。

とっとり

April 02 [Thu], 2009, 10:35
鳥取市(とっとりし)は、中国地方の北東部、鳥取県東部に位置する市。同県の県庁所在地。

山陰地方唯一の特例市であり、鳥取都市圏を形成する。しかし人口密度は全国の県庁所在地の中で最も低い。

江戸時代は池田氏の治める鳥取藩32万5千石の城下町として栄えた。 その後鳥取大震災、鳥取大火等の困難を乗り越え現在に至る。

本市は世界最大級の液晶工場を擁するなど、山陰随一・中国地方有数の工業都市でもある一方で、鳥取砂丘や白兎海岸などの豊かな自然に恵まれた都市である。目次 [非表示]
1 地理
1.1 隣接している自治体
1.2 人口
2 歴史
2.1 江戸時代まで
2.2 明治から第二次大戦まで
2.3 第二次大戦後
3 行政
3.1 本庁
3.2 総合支所
3.3 市民課証明コーナー
3.4 その他
3.5 地域と地区
4 経済
4.1 商業
4.2 金融機関
5 姉妹都市・提携都市
5.1 国内
5.2 海外
6 学校
6.1 大学・短期大学
6.2 高校
6.3 中学校
6.4 小学校
6.5 特別支援学校
7 交通
7.1 空港
7.2 鉄道路線
7.3 バス路線
7.4 タクシー路線
7.5 道路
7.5.1 高速自動車国道
7.5.2 高速代替国道
7.5.3 一般国道
7.5.4 主要県道
7.5.5 一般県道
7.6 船舶
8 名所・旧跡・観光スポット
9 祭事・催事
10 出身人物
10.1 政治家
10.2 官僚
10.3 実業家
10.4 学者
10.5 文化人
10.6 スポーツ
10.7 芸能人
10.8 その他
10.9 ゆかりある人物
10.9.1 居住経験者
10.9.2 鳥取城北高校出身の相撲人
11 その他
12 関連項目
13 外部リンク


地理 [編集]

鳥取砂丘

鳥取平野を中心に市街地を展開する。日本海に面し、沿岸には日本最大の砂丘地、鳥取砂丘が広がる。
平野:鳥取平野
山:久松山、毛無山
川:千代川
池:湖山池

隣接している自治体 [編集]鳥取県
岩美郡岩美町
八頭郡智頭町、八頭町
東伯郡三朝町、湯梨浜町 兵庫県
美方郡新温泉町
岡山県
津山市、苫田郡鏡野町


人口 [編集]
鳥取市と全国の年齢別人口分布図(比較) 鳥取市の年齢・男女別人口分布図
■紫色は鳥取市
■緑色は日本全国 ■青色は男性
■赤色は女性
1980年 184,601人
1985年 190,836人
1990年 195,707人
1995年 197,959人
2000年 200,744人
2005年 201,740人

総務省統計局 / 国勢調査(2005年)


歴史 [編集]

江戸時代まで [編集]
834年(天長11年) - 摩尼寺が慈覚大師・円仁により創建される
1545年(天文14年) - 久松山に鳥取城が築かれる
1581年(天正9年) - 羽柴秀吉による鳥取城攻め
1650年(慶安3年) - 鳥取藩主池田光仲により、観音院庭園の作庭が開始される。

明治から第二次大戦まで [編集]
1884年(明治7年) - 北海道釧路国開拓移住のため鳥取士族(105戸513人)が賀露港を出帆。鳥取村(現在の釧路市の鳥取地区)を開墾開拓。
1889年(明治22年)10月1日 - 市制施行。
1907年(明治40年) - 仁風閣が竣工し、皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設となる
1943年(昭和18年)9月10日 - 鳥取地震 日本震災史上でも有数の大地震で古い町並みは壊滅

第二次大戦後 [編集]
1949年(昭和24年) - 北海道鳥取村は釧路市に合併
1952年(昭和27年)4月17日 - 鳥取大火 中心街を焼き尽くした
1995年(平成7年)7月7日 - わらべ館開館
2000年(平成12年)7月1日 - 鳥取市歴史博物館(やまびこ館)開館
2004年(平成16年)11月1日 - 岩美郡国府町・福部村・八頭郡河原町・用瀬町・佐治村・気高郡気高町・鹿野町・青谷町を編入合併。気高郡は消滅。
2005年(平成17年)10月1日 - 山陰初の特例市に指定される

零食

March 28 [Sat], 2009, 17:47
この食品は水分や油脂が凍結・凝固する程の低温にすることで微生物の活動を抑え、長期間(社団法人日本冷凍食品協会[1]によるとマイナス18℃以下であれば製造後1年程度)にわたって保存できるのが特徴。調理済みないしは下ごしらえ済みであるため調理の省力化に役立つことから、飲食店から一般家庭まで広く普及している。また、冷凍時に急速冷凍することで食品の鮮度を保つように配慮されており、長期間、いつでも新鮮な状態を味わうことが可能である。

冷凍前にあらかじめ調理がしてあり、食べる前に冷凍状態のまま油で揚げたり、電子レンジや湯煎で加熱したりするだけで盛り付けできるようになっているものが多く、また料理の食材として、冷凍状態のまま調理できるものもある。中には常温や冷蔵庫で解凍するものもあり、正しく解凍すれば、非冷凍の食材・料理と見分けが付かない場合もある。

商品としては野菜・果物・魚介類などの下ごしらえ済み食材のほか、フライ・うどん・ピラフ・ピザといった調理済みで後は盛り付けるだけの料理など、バリエーションに富む。また近年では電子レンジの普及に伴い、盛り付け済みで専用容器付きの冷凍食品も多数存在しており、これらは多忙な現代にあって重宝されている。

最もこれらを消費しているのはアメリカ合衆国である。同国内ではスナックフード・軽食、果てはランチやディナー向けなど、様々なニーズに対応した製品も多く、紙箱を冷凍庫から取り出し、電子レンジに入れて指定の時間温めれば、あとは蓋を開くだけでステーキやポテトサラダ、パンにデザートまでが、プラスチック製の付属フォークとナイフで食べられる製品まで存在する(こうしたものは俗に「TVディナー」と呼ばれている)。

なお、保存温度の「マイナス18℃」は0℉(華氏0度)に由来する。さらに温度を下げれば、魚に寄生するアニサキスのような寄生虫を殺すこともできる。

歴史・動向 [編集]

冷凍食品は、1900年代頃にアメリカ合衆国において、あまり日持ちのしないジャム加工用のイチゴを輸送に適するために冷凍にしたのが興りだと言われている。もちろん当時は家庭用冷凍冷蔵庫もなく、一般家庭に広まるのは冷凍冷蔵庫の普及し始めた1920年代(日本では1930年代)以降となるが、当初は果物などを保存しておくためのものだった。1950年代のアメリカでは、冷凍食品が「未来の食品」としてもてはやされ、冷凍食品を専門に出すレストランまであったという。

本格的に冷凍食品が広く普及したのは1960年代(日本では1965年)以降で、家庭においてテレビなどの娯楽が増えたこと、また食生活が豊かになり、様々な料理が幅広く受け入れられるようになったことによる部分は大きい。この当時、冷凍みかんが駅などで売られるようになり、旬と逆の夏場に、少し凍った食感のまま食べることが、新しい味覚として受け入れられた。

当初は冷凍技術の問題や適切な解凍方法がないことから、歯応えが悪いとか味が落ちると敬遠されることがあった[2]。しかし、クラレンス・バーズアイによって急速冷凍技術が開発され、また、水産物を船上で冷凍するなどの技術改良もあり、食味の向上が行われた。日本では1964年の東京オリンピックを機に、冷凍食品に適した解凍、調理法が研究され、外食産業分野で利用が始まった。1970年代には、冷凍冷蔵庫や電子レンジの普及、セントラルキッチン方式のファミリーレストランチェーンの拡大により、業務用とも大きな伸びを示すようになった。

また1980年代以降には電子レンジの低価格化に伴う家庭への普及があり、同時に家庭用の冷凍食品も広く受け入れられるようになった。特に1990年代からは、電子レンジでも焼いたような焼き焦げまで付けられる解凍技術も発達したことから、従来はオーブンレンジで解凍しないと美味しくないとされていたピザやグラタンなどの焼き物料理も多様化した。

技術の向上によって種類も多様化する傾向にあり、今日では、喫茶店等で出されるモーニングセットやケーキ(ホットケーキやチーズケーキ、ショートケーキにいたるまで大抵は揃う)、ホイップクリームの類もあり、業務用冷凍食品として流通している。

また、あらかじめ骨を取り除いたものや高圧調理済みの冷凍焼き魚が病院食や学校給食のメニューに取り入れられるといった動きもあり、従来にはなかった食材としての商品も出始めている。中には弁当に凍ったまま入れ、お昼にちょうど食べごろの解凍状態になって手間要らずでかつ保冷の役目を果たすというものも登場した。

古代

March 19 [Thu], 2009, 10:22
日本における最古の寺院法制は、推古天皇12年(604年)に聖徳太子が定めたとされる十七条の憲法とされている。仏教尊重を国家の方針として打ち出し、仏教信仰と国家形成が密接に結び付けられたこの法については『日本書紀』作者の創作説もある。ただし、創作説を採るとしても『日本書紀』成立は聖徳太子の時代から100しか経ておらず、初期国家の仏教観を知る上では貴重な史料である。

太子没後の推古天皇32年(624年)には、中国南朝の制度を元にしたとされる僧正の制度が定められ、百済から来日した僧侶観勒が任じられた(僧官制度のはじめ)。続いて、大化の改新後に十師・法頭の制度が設けられ、その後一部制度の改革を経て大宝律令において僧尼令(神社に対しては神祇令)が出され、国家による僧侶・寺院に対する統制が行われた(律令法は形式上においては仏教や神道そのもの統制ではなく、それに従事している人や組織に対してのみ統制を行った)。僧尼令は厳格な規定の一方で、僧綱側の要求で施行が一時停止されるなど、その位置づけは不安定なものであった。その後編纂された延喜式の玄蕃寮式も後世の統教権に基づく規制の典拠とされた。又、特殊な形態としては菩提寺・氏寺として創建した創建者あるいはその一族によって定められた規則も統教権の変形であると言える。

治教権に基づく本格的な寺院法は従来からの僧伽内の規制、僧尼令をはじめとする統制や鑑真によって本格的に伝えられた戒律の影響を受けて形成されたと考えられている。最古のものとされるのは、最澄が弘仁9年(819年)に記した『山家学生式』である。これは延暦寺に戒壇を設置できるように朝廷に申請するために作成されたものであったが、同時に延暦寺の僧侶にも僧侶として相応しい姿を示すように求める性格も有していた。その後、延暦寺では良源によって天禄元年(970年)に起請26箇条が定められ、内部規範の確立が進められた。また、真言宗においては空海が死去の際に遺した『御遺告』が同宗の僧侶・信徒の守るべき規範として重要視された。その他個別の寺院の規則としては貞観10年(868年)に真紹が禅林寺に導入した禅林寺式15箇条や元暦2年(1185年)に文覚が神護寺に導入した神護寺45箇条起請などが知られている。また、伊勢神宮にて延暦23年(804年)に作成とされている『皇太神宮儀式帳』(『延暦儀式帳』)も神社における治教権の反映であると考えられている。

オーストラリア

March 17 [Tue], 2009, 23:06

アイジュエルブルージルコン



40000〜45000年前(60000年前、更にそれ以前とも言われる)、更新世の何回かの氷河期の結果海面が100〜150m下降した更新世末期の、今日より海面が低い時にアボリジニがニューギニア方面からオーストラリアに渡って先住民となったと考えられている。

沿岸はティモール海域、ニューギニアに伸び、オーストラリアとともに一つの陸地(サフル大陸)であり、アラフラ海、カーペンタリア湾、トレス海峡をつないでいた。スンダ列島から海の短い距離の部分を渡って Sahul へ、続いて陸橋を渡ってオーストラリアへ来たと考えられている。

考古学的証明では、西オーストラリアのスワン川上流に40,000年前、タスマニア(タスマニアも当時大陸に繋がっていた)には30,000年前に人類居住跡が見つかっている。また約42,000年前とされる人類の化石もニューサウスウェールズ州で発見されている(例: ムンゴマン)。

オーストラリア、ニューギニアとインドネシアでの動物・植物種の共有は、当時の陸橋の結果である。最後の氷河期の終わりに海面が上昇し、オーストラリアとニューギニアの間は海でへだてられた。海面レベルは6000年前から現代までほとんど同じである。

人類の居住以降

木炭の発見から、火の使用も確認されている。狩猟採集民族は森林、硬葉樹林を開拓するためなどに使用した。耐火性の高いモクマオウ、ユーカリ、アカシアなどが残った。

動物種では人間より大きい巨型動物類は絶滅し、多くの小型動物もいなくなった。ディプロトドン(全長3m、有袋類の草食動物で史上最大の有袋類、カバに似ている)、数種の大きな飛べない鳥、肉食のカンガルー、5mの長さのトカゲ、小型自動車ほどの大きさの亀などを含む、約60種の脊椎動物が絶滅した。

大規模な絶滅の原因は分かっていない。火、狩猟、気候変動などと考えられるが、最も大きな原因は人間の介入だと思われている。

ヨーロッパ人による侵略以前の人口は分かっていない。

氷河期の終焉

13,000年前に更新世末期、氷河期終焉を迎え、トレス海峡、ヴィクトリアとタスマニアの間のバス海峡、カンガルー島との間に海面が広がった。

アボリジニの伝説によると、氷河期の終焉は早く(あっという間に訪れた)、海面の上昇(陸地の失現)とともに、魚が天から降って来た、津波があったと伝えられている。

そのとき以来、タスマニアアボリジニは地理的に孤立し、9,000年前にバス海峡の島々とカンガルー島の人間は消滅した。

オーストラリアとオーストロネシアの人々との交流は長期にわたってあったと言語学、遺伝学的に証明されている。

うーむ

March 09 [Mon], 2009, 21:59
現在、駅前や街の中心にある商店街の店が次々と閉店に追い込まれており、そのことが大きな問題となっている。そうして活気をなくし多くの店が閉店(シャッターが終始下りた状態になっている)商店街をその寂れた様子からシャッター街(シャッター商店街)と呼ぶ。この問題が注目され始めたのは1980年代後半からだ。原因は大まかに言うと以下の二つだ。一つ目は1970年頃から進展しだしたモータリゼーション(道路のインフラ整備の進展や大衆への自動車の普及により自動車が生活必需品化すること)により消費者の行動範囲が一気に広がり、今までは距離的な都合から行けなかったところへ気軽に足を伸ばせるようになったこと。二つ目は2000年の大規模小売店舗法の改正に伴い全国各地の郊外に建設されるようになった大型デパートである。
問題を解決するための提言へと移る。まず一つ目の原因であるモータリゼーションであるが、現在シャッター街となっている商店街では車社会に対応できずに決定的に不足しているものがある、駐車場だ。今やほとんどの家庭が車で買い物に行く時代だ、駐車場がなければ話にならない。これは自治体と交渉し近くに駐車場を確保すればよい。二つ目の問題である郊外の大型デパート問題だが、多くの商店街の店は個人あるいは家族経営の店がほとんどだ、全国チェーンの大型デパートに対し店舗の規模・価格・品揃えで勝つことはほぼ不可能に近い。同じ土俵で戦ってもジリ貧になることが目に見えている。ならば大衆向けの展開をすっぱりと諦め、商品のジャンルを一部のマニア向けの、デパートでは扱いきらなかった商品がここでなら手に入る、かゆいところに手が届く店を目指すべきである。    
今まで何年も続いてきた商店街の店々がつぶれていくのには確実に理由がある。それは駐車場不足であったり、各店の個性のなさであったりする。全国にシャッター街が千あれば千通りの、一万あれば一万通りの原因とそれにあった解決策がある。だがすべてに共通して言えることは時代のニーズをこれからもずっと汲み取り続けなければ、仮に今経営を持ち直してもいずれまた廃業に追い込まれてしまうということだ。昔の古き良き時代の面影はもうどこにもないのだと理解し、常に嗜好をこらし客を飽きさせないよう努力する、その心がけを怠らなければ日本中にまた活気に満ち溢れた商店街が絶対に帰ってくる、私はそう信じて疑わない。

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March 02 [Mon], 2009, 21:57
今からしゃべくり007.

はいはい

ぬおおおお

靱帯

February 27 [Fri], 2009, 13:39
靱帯切れて内っぽいです。

一時はどうなるかと思いました。

はぁー良かった。

感じ

February 22 [Sun], 2009, 9:23
じゃなくて漢字

漢検問題は未だ解決せず・・・か。

旅館

February 21 [Sat], 2009, 18:21
二匹の鬼のつれづれという旅館に泊まりました。

結構いい感じの旅館でした。

また行きたいです。
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