敷島隊の二一型はどこまで中古だったのか?

September 20 [Thu], 2012, 17:06
先日、零LOVERS 悪徳サイト戦に関しての日記を書きましたが、特攻の話で思い出した事があるので書きます。
フィリピン戦の頃と沖縄戦の頃では隊員の士気は全く違ったという話を読んだ事があります。
フィリピンでの敗北と沖縄戦の頃には特攻が恒常化していた事で、かなり雰囲気も変っていったというのです。
現代から見れば、勿tィリピン戦に日本の勝機などないのは当たり前なのですけど、当時の視唐ナは、まだ何らかの形で勝機があったと思われていた向きもあり、その中での特別攻撃だった訳ですが、沖縄戦の頃には当時の視唐ゥらも日本の敗北は覆しえない状況の中、特攻の大義は失われ、こうなれば死に甲斐が無いという様な状況に追い込まれた隊員の間には荒んだ雰囲気が蔓延していた部隊もあったという事なのですが、これで全てを説明しようとするのは乱暴かもしれませんが、一面的には事実なのだと思います。
となると、フィリピン戦の頃の特攻隊は士気旺盛だったのかという事になりますが、しかしながら、前回の日記で特攻に反対していた岩本徹三中尉の話を書きましたが、自著でこの戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。
垂ネらぬ身である。
生きる道あってこそ兵の士気は上がる。
表向きは、みな、つくったような元気を装っているが、影では泣いている。
こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか。
勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった。
と、フィリピン戦の頃を述懐してます。
勿ィ繧書かれた物なので、当時の世相や特攻に対して反感を持っていたという立ち位置からの言葉であろう事は換算するべきでしょうが、これもまた事実なのでしょう。
誤解を恐れずに言うならフィリピン戦の頃は空元気も出せる雰囲気もあったが、沖縄戦の頃にはその余裕も失われたといえるのかもしれません。
そんな特攻作戦だったわけですが、ここからが本題です。
先日の日記で私は関大尉の愛機が二一型だったのは有名だと思いますが、二一型だけに使古しの機体をあてがわれたと何かで読んだ記憶があります。
でも、半年前まで生産されていたのだから特攻だからといって古い機体とは限らないという事になる気もするのですが、どうなんでしょうまぁ製造されてからどれくらい経ったかもそうですが、ちゃんと整備されているか、何時間飛んだのかも問題なのでしょうけど。
などと書きましたが、これは二一型が昭和19年4月まで生産されていた事を知って、もしかしたらそこまで使い込まれた機体をあてがわれたわけではないのかもしれないいや、そうであってもらいたいと心の中で思ったからでした。
いくら特攻とはいえ、組織的に十死零生である特攻の一番槍にしようとしている搭乗員相手に、使い古しの機体ではあんまりだと思っていたのです。
そんな事言ったら、最終的には使える機体は新品だろうと特攻に使っているみたいだし、海軍ならば白菊や九三式中練で出撃しなくてはならなかった将兵や、果ては回天や震洋に比べればという事になるのかもしれませんが、せめて万全の調子の機体であって欲しいとは思わずにはいられません。
そんな気持ちから、そこまで古い機体であってもらいたくないと思ったのでした。
勿A平和な時代を享受している戦後世代の人間である私が偉そうに口にするべき事柄ではないのですがまぁ、そんな事を思い出しながら先日の日記は書いていたのですが、関行男大尉の乗機がどの程度使い込まれていた物だったのかやはり気になった物の、私はその資料を持ち合わせていないのですが、書き足りなくなって今回の日記になったわけです笑有名な写真なのでご覧になられた事のある方も多いと思いますが、関大尉率いる敷島隊の出撃時の写真です。
手前の爆装した零戦二一型に搭乗しているのは、関行男大尉と言われています。
そして、右端に左足をギプスを巻いて松葉杖を突いてる人物は、二一空副長玉井浅一中佐と言われる事もありますが、指令の山本栄大佐です。
特攻隊の編成を告げる為にマバラカットの二一空本部に着た大西瀧治郎中将に会う為、マニラの一航艦司令部に来ていた山本大佐は急遽、中島正少佐が操縦する零戦の胴体に同乗し、急ぎマバラカットへ戻ろうとしたところ、エンジン不調で不時着事故に遭い、重傷を負い左脚も骨折、入院して後を玉井副長に任せていました。
しかしこの日、従兵に抱えてもらい出撃を見送りに来たのだそうです。
この画像はニュース映画のキャプチャーだと思いますが、介添えされている人物が山本大佐で、左端が関大尉です。
山本大佐は戦後クリスチャンになったといいますが、こういうのを見ると送る側の気持ちを考えるのも辛い物があります。
話がそれましたが、上の零戦二一型の写真を見て以下の事に気づき、その当初はショックを受けたのを思い出します。
その理由とは、特攻機は中古の機体を使ったとは聞いてはいたが、この時期は既に旧式であった二一型であること、塗装が剥げた使い込まれた様な機体である事です。
やはり、この機体は使い込まれてそうですよね。
当時海軍で戦闘機は、飛行時間が100200時間程度を機体寿命として内地へ返納、処分するか後方任務に充てていたと聞いた事があります。
果たしてこの二一型は寿命ギリギリな期待だったのでしょうか私は、二一型が、この写真が撮られる半年前まで中島飛行機で生産されていたという事と、この機体が前の日記でいにしえさんもご指摘されてましたが胴体下部の塗装の塗り分け方から中島製である事を判別できたので、そこに救いを求めたのかもしれません。
しかし、この機体、やはり使い込まれてそうですよね。
当時海軍で戦闘機は、飛行時間が100200時間程度を機体寿命として内地へ返納、処分するか後方任務に充てていたと聞いた事がありますが、敷島隊の機体がそれに当たるのか気になるところです。
一応、二十五番を吊った爆装零戦は当初二一型だった事と、関大尉の戦果を確認したラバウルの魔王こと西澤廣義飛曹長が直後、乗機は特攻に使うからおいて行けという事で輸送機で空輸されてる途上で撃墜され戦死されてますが、こういうところを考えると、機体寿命ギリギリの機体をあてがわれた訳ではなかったと、個人的には改めて思ってはいますが、どうでしょう。
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