冨田の聖徳寺

December 24 [Tue], 2013, 14:24
     寺跡碑

織田信長のもとに濃姫を嫁がせた斎藤道三は、一度、聟(むこ)の信長と会見したいと思っていた。当時、信長の評判は「尾張の大うつけ(大ばか)」だった。
 1549(天文18)年4月、織田信長と舅・斎藤道三の会見が行われることになった。尾張と美濃を分ける木曽川河畔の起(おこし)にある、聖徳寺が会見場所に選ばれた。聖徳寺は湊が近くにある浄土真宗の大寺院で、両国の国境に位置し、道三が出向き、信長が出迎えるにふさわしい場所だ。この会見は小説や映画などで、信長のイメージチェンジの場として必ず登場するが、それらはすべて「信長公記」の記述によるものである。
 舅・道三の面談申し込みを快諾した信長は、当日船で起湊に向かった。信長より一足先に聖徳寺へ到着していた道三は、寺近くの町屋にひそんで、「大うつけ」と呼ばれる聟の姿を観察した。道三の前に現れた信長は、評判通りの出立ちで、片肌脱いで腰に荒縄を幾重にも巻き、火打石や瓢箪などをぶら下げて、馬に横乗りした異様なものであった。しかし、道三が驚いたのは、信長のその姿よりも、後に続く槍隊・弓隊・鉄砲隊の見事さで、道三の家来の装備よりも数段勝っていた。
 そして面会のとき、道三は信長の突拍子もない出立ちを予想し、驚かすために700人の家来を折り目正しい肩衣姿で整列させ、さらに対面所の縁側に正座させていた。信長は到着と同時に控えの間に入り、屏風をめぐらし着替えをした。屏風から出て来た信長は、髪を髷(まげ)に結びかえ、肩衣に長袴姿、腰は礼式用の脇差しだけで、涼しげな好男子に変身していた。道三との面会にも介添が促すまで、敷居の中に入らず、舅に対する礼を尽くした。これには道三も驚いたという。
 会見は短時間で終わり、信長は聖徳寺から起渡まで道三を見送った。美濃への帰り道、道三の家臣の一人が、信長はやはり評判通りの「大うつけ」でしたね、と言うと、道三は、信長は「大うつけ」でない。やがてわしの息子らは、信長の馬の轡(くつわ)をとる(家来になる)だろうといい、信長の非凡さを見抜いたという。
 この会見で、両者がそれぞれ相手の本質を知ったことで、以後、二人の関係は緊密になる。後に、道三は実子の義龍と対立し、1556(弘治2)年、二人は長良川を挟んで対戦する。このとき義龍方の兵力は圧倒的に多く、形勢不利で覚悟した道三は、戦死前日の4月19日、末子に遺言状残し、その中に、美濃国を聟の信長譲る書いたのだ。
 斎藤道三と織田信長の会談が行われた聖徳寺は、その後、度重なる木曽川の洪水により廃寺となり遺構などは残っていない。しかし、中川区万場にある臥龍山蓮華院光円寺(浄土真宗)山門は、聖徳寺山門を移築したものだという。


     光円寺山門


       武将・斎藤道三

斎藤道三といえば、一介の油売りから己の腕一本でのし上がり、美濃一国を手にした国盗り武将のイメージが強い。近年の研究によれば道三の国盗りは、彼一代ではなく、父・西村新左衛門尉との二代がかりで達成されたようだが、道三が成り上がり的な側面を強く持つ人物だった事は間違いない。裏切り、離反は日常茶飯事という戦国の掟を体現したような人生だった。なにしろ最期は我が子・義龍と長良川畔で戦い、戦死しているくらいなのだ。
 生年、生誕地ともに諸説があってハッキリしないが、代表的な道三の来歴をここに書いてみる。幼少時代には京都の妙覚寺に縁があったようで、11歳の春に法蓮房の名で出家している。だが道三は、おとなしく仏道に精進するような人間ではなかった。おそらくは、自らの体内に沸き上がるエネルギーをもてあましたのだろう。美濃へ向かう。ここで還俗(げんぞく)して今度は松波庄五郎と名乗り、油商人に転じたのだ。
 この油売り時代に、道三は有名なパフォーマンスを演じている。漏斗(ろうと)を使わず、一文銭の穴に油を注いで見せたのである。もしも油が銭を汚したらお代はいただきませんという謳い文句に、ひとびとは殺到した。アイデアの勝利だ。ここで道三は、人心を得るコツのようなものをつかんだ。だが、商人も柄ではないと気づいたのか、この後道三は武士になる。美濃国小守護代・長井長弘の家臣になるのだ。戦国武将としての道三の、最初の小さな足がかりはこうして築かれた。
 そしてここから道三は、胸のすくような快進撃をみせる。土岐頼芸を美濃国守護に擁立し、主家だった長井長弘を殺害、その所領と家督を奪う。そして、美濃国守護代だった斎藤利良が病死すると、その名跡をも継いで斎藤新九郎利政と名乗るのだ。頭脳も度胸も人並み以上だった道三は、こうして美濃国の国主にのし上がった。主家を滅ぼし、その所領を奪い、着実に勢力を伸ばしてゆくその歩みは、餌を丸呑みにするたびに身体を巨大化させてゆく蛇のそれに似ている。道三のニックネーム「」は、このような道三の生きざまからついたのかも知れない。


     ※岐阜城

     ※道三の時代の岐阜城は「稲葉山城」とよばれた

道三の国盗りが完成したのは1552(天文21)年のことだ。この年、かつての主家だった土岐頼芸を尾張へ追い出したのである。見事な下剋上人生といえよう。しかし、道三の隣国には恐るべき男が育っていた。
 尾張の織田信長である。1549(天文18)年に道三は信長に娘・帰蝶(濃姫)を嫁がせた。まだ、信長が「尾張の大うつけ」と呼ばれて、その破天荒な行状ばかりが喧伝されていた頃の話である。父として、我が娘を嫁がせる男を見極めたいと思ったのだろう。この縁談後に道三は、尾張富田の聖徳寺で信長と会っている。このとき信長は道三が驚愕するパフォーマンスをやってのけた。寺へ向かう途中はボサボサ髪に腰縄という非常識な扮装だったのに、道三と接見したときにはパリッと正装していたのだ。しかもこの会見で信長は、40歳も年上の道三を完全に風下に置いたのである。
 道三は唸った。そして信長という若き天才児の器を認め、将来、自分の子孫たちは信長に従うことになるだろうと予見した。この予見は後に、見事に適中する。下剋上の荒波をかいくぐってきた道三ほどの男にして、若き信長は計り知れぬ恐ろしさを秘めていたのだろう。
 道三は1554(天文23)年に家督を嫡男・義龍に譲り、隠居した。だが、その義龍との間に不和を生じさせ、1556(弘治2)年に長良川で義龍軍と交戦、戦死した。享年64。下剋上によって国盗りを成し遂げた男が、下剋上で滅んだのだ。


     道三塚

  ※道三が認めた男・信長が桶狭間の戦いで今川義元をやぶり、颯爽と全国デビューを飾るのはその4年後のことである。


    ◇聖徳寺 【所在地】愛知県一宮市冨田大堀
    ◇光円寺山門 【所在地】愛知県名古屋市中川区万場 2丁目
    ◇岐阜城 【所在地】岐阜県岐阜市金華山天主閣 18
    ◇道三塚 【所在地】岐阜県岐阜市道三町



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