源義経と米沢
義経が何度も訪れた米沢・佐藤兄弟の館
明治の中ごろ、米沢駅から100mほど西に位置する常信庵の境内から、偶々、古い棺が掘り出された。中には歳月を経たミイラの女性が横たわっていた。そこに記されていた、梅唇尼という名前にその場の人々は強い衝撃を受けた。過去の常信庵の尼のなかで、梅唇尼という名はただ1人、八百年前、源義経に従って西国で戦い死んだ佐藤兄弟の母親の名であった。それまで伝説と思われていた、佐藤兄弟が米沢に実在したこと、また源義経が佐藤兄弟の母とここで対面したという言い伝えは事実だったのである。

源義経
京都を出奔し、金売り吉次に連れられて義経は1174年秋に平泉に到着している。藤原秀衡は義経を庇護し、義経は六年間をそこで過ごすことになる。平泉で、義経は自分と性格の似た、佐藤継信・忠信兄弟と親しくなった。兄弟は、実家のある米沢に何度も義経を誘った。義経も窮屈な平泉から、喜んで兄弟と一緒に馬を駈けて米沢を訪れた。家族の暖かさを知らずに育った義経にとって、兄弟の母である梅唇尼、妹達に歓待されて過ごした佐藤館での滞在は格別なものであった。義経は、美しい佐藤兄弟の妹に強く魅かれ、妹は後に義経の正室に迎えられた。兄弟の父は既に他界していた。

1180年、頼朝の挙兵に呼応して義経が平泉を離れる際に、佐藤兄弟は秀衡に、義経に従う事を熱望して許され、以後、義経と行動を共にする。母の梅唇尼は米沢からの兄弟の出立を頼もしげに見送った。義経は宇治川、一の谷、屋島などで戦うが、ともすれば義経の大胆な奇襲戦法に怯みがちな鎌倉武士を、常に義経の左右に控える佐藤兄弟が威圧して、義経の意図に沿うよう仕向けた。

一の谷の合戦
テレビの大河ドラマに、義経のいわくありげな郎党の中で、服装、態度とも最も侍らしい兄弟の姿をみることができる。有名な弁慶は架空の人物であり、実際に弁慶の役割を果たしたのは佐藤兄弟であろう。
兄の継信は屋島の戦いで、義経を狙って、強弓の平教経の放った矢が義経にあたる直前に、義経の前に身を挺して死んだ。この身代わりに矢を受け戦死する場面は、歴史上の名場面として語り継がれている。

佐藤継信の最後(NHK大河ドラマ)
平家追討の大任を果たした義経は、その後、頼朝に疎まれ、頼朝に追われる身となった。吉野の山中に逃げ込んだ義経一行を敵が囲んだとき、弟の忠信は“我こそ義経なり”と叫んで敵の注意を引き付けた。その隙に義経一行は吉野から無事逃げおおせた。忠信は後に京に潜んでいるところを、兵に囲まれ、奮戦したのち討ち死にしている。この間のくだりは、歌舞伎「義経千本桜」となって今なお演じられている。
吉野での危機を脱した義経一行は、平泉を目指して逃亡の旅を続けた。勧進帳における“安宅の関”は虚構であり、実際には、義経は吉野から比叡山、次に越前の平泉寺を経て、能登へ向かった。当時、北陸道は通行困難な難所が多かったため、能登からは、海路佐渡ヶ島へ渡り、佐渡から庄内に上陸したと思われる。庄内に上陸した義経一行は、船で最上川を遡り、米沢へ向かった。
米沢へ到着した義経を、佐藤兄弟の母の梅唇尼が常信庵で迎えた。義経は涙ながらに、兄弟の最後の情況を仔細に述べ、自分のために二人を死なせてしまったことを梅唇尼に深く詫びた。梅唇尼は武士の妻だけに、義経に対し、“かねて覚悟の上のこと”と気丈に対応した。
この涙の対面の情景は知られざる日本史の名場面であろう。義経は米沢を離れて平泉に向かい、二年後に死を迎える。

常信庵
常信庵からさらに100mほど進むと、小さな公園がある。公園の中心には蓮で覆われた池があり、泉が湧いている。大きな桜の木が印象的である。佐氏泉公園という。ここに佐藤氏の居館があり、佐藤兄弟はここで生まれ育ったのである。池を前にすると、八百年の昔、義経と佐藤兄弟、梅唇尼、妹たちがここで談笑していた姿が自然に思い浮かぶ。

佐氏泉公園
鎌倉時代の武士は一所懸命、即ち、自分の土地を守るために命を賭けたのである。自分の利害を超えた佐藤兄弟の心意気は当時の武士の心を強く打ち、兄弟の逸話が後世まで伝わったのであろう。
米沢は義経の足跡が濃く残った街でありながら、義経好みの松尾芭蕉も当地を訪問していない。上記の話を彼が知っていれば、必ず米沢を訪れ、後世に残る一句を残したと思われるが。
なお、常信庵で義経、佐藤兄弟と米沢とのゆかりを知った当時の米沢の人は、常信庵前に「源九朗義経公接待の地」と石柱を建て、それは今も見ることができる。また現在でも毎春、義経、佐藤忠信、継信の三人を祭る行事が常信庵で続いている。

義経と佐藤兄弟、三人の祠 (常信庵)
佐藤氏に関しては、福島市飯坂に佐藤氏の本家があり、米沢は分家筋にあたる。そのせいか、飯坂のほうが有名であるが、兄弟の生誕地は実際は米沢である。なお、市内芳泉町には、弁慶岩があり、弁慶が追っ手に矢を射るために足を掛けた岩と言い伝えられている。
ちなみに、歌舞伎「白波五人男」にでてくる忠信利平は佐藤忠信をモデルにしている。佐藤兄弟の剛勇ぶりは昔から広く世に知られていた。また、「義経記」では、義経が平泉に佐藤兄弟の母を呼び寄せ、そこで礼を述べたとされている。しかし、老人を遠隔の平泉まで呼び寄せるのはいかにも不自然である。平泉へ向かう義経が、佐藤兄弟の母へ礼を述べるために米沢へ寄ったとみるべきであろう。
日本歴史上、屈指の英雄、源義経の人生に及ぼす米沢の人、風土の影響を鑑みると、感慨深いものがある。

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義経が何度も訪れた米沢・佐藤兄弟の館
明治の中ごろ、米沢駅から100mほど西に位置する常信庵の境内から、偶々、古い棺が掘り出された。中には歳月を経たミイラの女性が横たわっていた。そこに記されていた、梅唇尼という名前にその場の人々は強い衝撃を受けた。過去の常信庵の尼のなかで、梅唇尼という名はただ1人、八百年前、源義経に従って西国で戦い死んだ佐藤兄弟の母親の名であった。それまで伝説と思われていた、佐藤兄弟が米沢に実在したこと、また源義経が佐藤兄弟の母とここで対面したという言い伝えは事実だったのである。

源義経
京都を出奔し、金売り吉次に連れられて義経は1174年秋に平泉に到着している。藤原秀衡は義経を庇護し、義経は六年間をそこで過ごすことになる。平泉で、義経は自分と性格の似た、佐藤継信・忠信兄弟と親しくなった。兄弟は、実家のある米沢に何度も義経を誘った。義経も窮屈な平泉から、喜んで兄弟と一緒に馬を駈けて米沢を訪れた。家族の暖かさを知らずに育った義経にとって、兄弟の母である梅唇尼、妹達に歓待されて過ごした佐藤館での滞在は格別なものであった。義経は、美しい佐藤兄弟の妹に強く魅かれ、妹は後に義経の正室に迎えられた。兄弟の父は既に他界していた。

1180年、頼朝の挙兵に呼応して義経が平泉を離れる際に、佐藤兄弟は秀衡に、義経に従う事を熱望して許され、以後、義経と行動を共にする。母の梅唇尼は米沢からの兄弟の出立を頼もしげに見送った。義経は宇治川、一の谷、屋島などで戦うが、ともすれば義経の大胆な奇襲戦法に怯みがちな鎌倉武士を、常に義経の左右に控える佐藤兄弟が威圧して、義経の意図に沿うよう仕向けた。

一の谷の合戦
テレビの大河ドラマに、義経のいわくありげな郎党の中で、服装、態度とも最も侍らしい兄弟の姿をみることができる。有名な弁慶は架空の人物であり、実際に弁慶の役割を果たしたのは佐藤兄弟であろう。
兄の継信は屋島の戦いで、義経を狙って、強弓の平教経の放った矢が義経にあたる直前に、義経の前に身を挺して死んだ。この身代わりに矢を受け戦死する場面は、歴史上の名場面として語り継がれている。

佐藤継信の最後(NHK大河ドラマ)
平家追討の大任を果たした義経は、その後、頼朝に疎まれ、頼朝に追われる身となった。吉野の山中に逃げ込んだ義経一行を敵が囲んだとき、弟の忠信は“我こそ義経なり”と叫んで敵の注意を引き付けた。その隙に義経一行は吉野から無事逃げおおせた。忠信は後に京に潜んでいるところを、兵に囲まれ、奮戦したのち討ち死にしている。この間のくだりは、歌舞伎「義経千本桜」となって今なお演じられている。
吉野での危機を脱した義経一行は、平泉を目指して逃亡の旅を続けた。勧進帳における“安宅の関”は虚構であり、実際には、義経は吉野から比叡山、次に越前の平泉寺を経て、能登へ向かった。当時、北陸道は通行困難な難所が多かったため、能登からは、海路佐渡ヶ島へ渡り、佐渡から庄内に上陸したと思われる。庄内に上陸した義経一行は、船で最上川を遡り、米沢へ向かった。
米沢へ到着した義経を、佐藤兄弟の母の梅唇尼が常信庵で迎えた。義経は涙ながらに、兄弟の最後の情況を仔細に述べ、自分のために二人を死なせてしまったことを梅唇尼に深く詫びた。梅唇尼は武士の妻だけに、義経に対し、“かねて覚悟の上のこと”と気丈に対応した。
この涙の対面の情景は知られざる日本史の名場面であろう。義経は米沢を離れて平泉に向かい、二年後に死を迎える。

常信庵
常信庵からさらに100mほど進むと、小さな公園がある。公園の中心には蓮で覆われた池があり、泉が湧いている。大きな桜の木が印象的である。佐氏泉公園という。ここに佐藤氏の居館があり、佐藤兄弟はここで生まれ育ったのである。池を前にすると、八百年の昔、義経と佐藤兄弟、梅唇尼、妹たちがここで談笑していた姿が自然に思い浮かぶ。

佐氏泉公園
鎌倉時代の武士は一所懸命、即ち、自分の土地を守るために命を賭けたのである。自分の利害を超えた佐藤兄弟の心意気は当時の武士の心を強く打ち、兄弟の逸話が後世まで伝わったのであろう。
米沢は義経の足跡が濃く残った街でありながら、義経好みの松尾芭蕉も当地を訪問していない。上記の話を彼が知っていれば、必ず米沢を訪れ、後世に残る一句を残したと思われるが。
なお、常信庵で義経、佐藤兄弟と米沢とのゆかりを知った当時の米沢の人は、常信庵前に「源九朗義経公接待の地」と石柱を建て、それは今も見ることができる。また現在でも毎春、義経、佐藤忠信、継信の三人を祭る行事が常信庵で続いている。

義経と佐藤兄弟、三人の祠 (常信庵)
佐藤氏に関しては、福島市飯坂に佐藤氏の本家があり、米沢は分家筋にあたる。そのせいか、飯坂のほうが有名であるが、兄弟の生誕地は実際は米沢である。なお、市内芳泉町には、弁慶岩があり、弁慶が追っ手に矢を射るために足を掛けた岩と言い伝えられている。
ちなみに、歌舞伎「白波五人男」にでてくる忠信利平は佐藤忠信をモデルにしている。佐藤兄弟の剛勇ぶりは昔から広く世に知られていた。また、「義経記」では、義経が平泉に佐藤兄弟の母を呼び寄せ、そこで礼を述べたとされている。しかし、老人を遠隔の平泉まで呼び寄せるのはいかにも不自然である。平泉へ向かう義経が、佐藤兄弟の母へ礼を述べるために米沢へ寄ったとみるべきであろう。
日本歴史上、屈指の英雄、源義経の人生に及ぼす米沢の人、風土の影響を鑑みると、感慨深いものがある。
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