源義経と米沢

November 16 [Sun], 2008, 14:07
源義経と米沢
義経が何度も訪れた米沢・佐藤兄弟の館


 明治の中ごろ、米沢駅から100mほど西に位置する常信庵の境内から、偶々、古い棺が掘り出された。中には歳月を経たミイラの女性が横たわっていた。そこに記されていた、梅唇尼という名前にその場の人々は強い衝撃を受けた。過去の常信庵の尼のなかで、梅唇尼という名はただ1人、八百年前、源義経に従って西国で戦い死んだ佐藤兄弟の母親の名であった。それまで伝説と思われていた、佐藤兄弟が米沢に実在したこと、また源義経が佐藤兄弟の母とここで対面したという言い伝えは事実だったのである。


源義経

 京都を出奔し、金売り吉次に連れられて義経は1174年秋に平泉に到着している。藤原秀衡は義経を庇護し、義経は六年間をそこで過ごすことになる。平泉で、義経は自分と性格の似た、佐藤継信・忠信兄弟と親しくなった。兄弟は、実家のある米沢に何度も義経を誘った。義経も窮屈な平泉から、喜んで兄弟と一緒に馬を駈けて米沢を訪れた。家族の暖かさを知らずに育った義経にとって、兄弟の母である梅唇尼、妹達に歓待されて過ごした佐藤館での滞在は格別なものであった。義経は、美しい佐藤兄弟の妹に強く魅かれ、妹は後に義経の正室に迎えられた。兄弟の父は既に他界していた。



 1180年、頼朝の挙兵に呼応して義経が平泉を離れる際に、佐藤兄弟は秀衡に、義経に従う事を熱望して許され、以後、義経と行動を共にする。母の梅唇尼は米沢からの兄弟の出立を頼もしげに見送った。義経は宇治川、一の谷、屋島などで戦うが、ともすれば義経の大胆な奇襲戦法に怯みがちな鎌倉武士を、常に義経の左右に控える佐藤兄弟が威圧して、義経の意図に沿うよう仕向けた。

一の谷の合戦

 テレビの大河ドラマに、義経のいわくありげな郎党の中で、服装、態度とも最も侍らしい兄弟の姿をみることができる。有名な弁慶は架空の人物であり、実際に弁慶の役割を果たしたのは佐藤兄弟であろう。
兄の継信は屋島の戦いで、義経を狙って、強弓の平教経の放った矢が義経にあたる直前に、義経の前に身を挺して死んだ。この身代わりに矢を受け戦死する場面は、歴史上の名場面として語り継がれている。


佐藤継信の最後(NHK大河ドラマ)

 平家追討の大任を果たした義経は、その後、頼朝に疎まれ、頼朝に追われる身となった。吉野の山中に逃げ込んだ義経一行を敵が囲んだとき、弟の忠信は“我こそ義経なり”と叫んで敵の注意を引き付けた。その隙に義経一行は吉野から無事逃げおおせた。忠信は後に京に潜んでいるところを、兵に囲まれ、奮戦したのち討ち死にしている。この間のくだりは、歌舞伎「義経千本桜」となって今なお演じられている。
吉野での危機を脱した義経一行は、平泉を目指して逃亡の旅を続けた。勧進帳における“安宅の関”は虚構であり、実際には、義経は吉野から比叡山、次に越前の平泉寺を経て、能登へ向かった。当時、北陸道は通行困難な難所が多かったため、能登からは、海路佐渡ヶ島へ渡り、佐渡から庄内に上陸したと思われる。庄内に上陸した義経一行は、船で最上川を遡り、米沢へ向かった。

米沢へ到着した義経を、佐藤兄弟の母の梅唇尼が常信庵で迎えた。義経は涙ながらに、兄弟の最後の情況を仔細に述べ、自分のために二人を死なせてしまったことを梅唇尼に深く詫びた。梅唇尼は武士の妻だけに、義経に対し、“かねて覚悟の上のこと”と気丈に対応した。
この涙の対面の情景は知られざる日本史の名場面であろう。義経は米沢を離れて平泉に向かい、二年後に死を迎える。


常信庵

 常信庵からさらに100mほど進むと、小さな公園がある。公園の中心には蓮で覆われた池があり、泉が湧いている。大きな桜の木が印象的である。佐氏泉公園という。ここに佐藤氏の居館があり、佐藤兄弟はここで生まれ育ったのである。池を前にすると、八百年の昔、義経と佐藤兄弟、梅唇尼、妹たちがここで談笑していた姿が自然に思い浮かぶ。


佐氏泉公園

 鎌倉時代の武士は一所懸命、即ち、自分の土地を守るために命を賭けたのである。自分の利害を超えた佐藤兄弟の心意気は当時の武士の心を強く打ち、兄弟の逸話が後世まで伝わったのであろう。  
米沢は義経の足跡が濃く残った街でありながら、義経好みの松尾芭蕉も当地を訪問していない。上記の話を彼が知っていれば、必ず米沢を訪れ、後世に残る一句を残したと思われるが。
なお、常信庵で義経、佐藤兄弟と米沢とのゆかりを知った当時の米沢の人は、常信庵前に「源九朗義経公接待の地」と石柱を建て、それは今も見ることができる。また現在でも毎春、義経、佐藤忠信、継信の三人を祭る行事が常信庵で続いている。

義経と佐藤兄弟、三人の祠 (常信庵)

 佐藤氏に関しては、福島市飯坂に佐藤氏の本家があり、米沢は分家筋にあたる。そのせいか、飯坂のほうが有名であるが、兄弟の生誕地は実際は米沢である。なお、市内芳泉町には、弁慶岩があり、弁慶が追っ手に矢を射るために足を掛けた岩と言い伝えられている。
ちなみに、歌舞伎「白波五人男」にでてくる忠信利平は佐藤忠信をモデルにしている。佐藤兄弟の剛勇ぶりは昔から広く世に知られていた。また、「義経記」では、義経が平泉に佐藤兄弟の母を呼び寄せ、そこで礼を述べたとされている。しかし、老人を遠隔の平泉まで呼び寄せるのはいかにも不自然である。平泉へ向かう義経が、佐藤兄弟の母へ礼を述べるために米沢へ寄ったとみるべきであろう。

 日本歴史上、屈指の英雄、源義経の人生に及ぼす米沢の人、風土の影響を鑑みると、感慨深いものがある。




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緒言

November 16 [Sun], 2008, 14:08
 歴史の舞台といえば江戸、大阪、京都、また、人物といえば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など。しかし、かの地、人々に関してはもはや語り尽くされているのではなかろうか。日本の歴史は大都会の出来事で済むような底の浅いものであろうか。長年疑問に思っていたことは、筆者が一地方都市に在住したことから、答えがみつかったように思われる。

 東京駅から北へ向かう新幹線に乗る。なだらかな東北の大地を行き、郡山のあたりから左手に雪を頂いた山々が見え始める。福島から列車は左へ大きく向きを換え、山塊へ分け入って行く。山越えにかかると左右から急に山が迫る。あるときは川に沿い、また橋を渡り、トンネルを通過していく。昔はなかなかの難路として知られ、昭和の中ごろまでは、汽車がジグザグに山を這って登るハッチバック方式で山越えをしていた。いまでもそのハッチバックの跡を線路側の各所に見ることが出来る。
国境の板谷峠
 東京を出てから2時間余り、周囲を山々で取り囲まれた静かな街、米沢に到着する。米沢の駅は二階建ての古風な造りである。駅から一歩外へでると、都会の駅前と比べると、慌しさも無く非常に静かである。米沢は、現在人口九万人ほどの比較的小さな街ではある。一見、平凡な地方の街ではあるが、米沢には歴史上の人々が、生まれ、あるいは行き来し、日本の歴史に大きな影響を及ぼしてきた。
 私も前知識の無いまま米沢に数年居住しているうちに、米沢が歴史の宝庫であることに気がつき、市内の史跡、遺跡めぐりを重ねてきた。ここで米沢を巡る人々をあらためて掘り起こし、歴史の宝庫ともいうべき知られざる東北の街を紹介したい。 


米沢の空


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天地人 直江兼続(その1)ー北の関が原

November 20 [Thu], 2008, 0:14
 

直江兼続

平成21年のNHK大河ドラマは米沢城主直江兼続が主人公となる由。直江兼続はその兜に「愛」の字が記されていることから、愛情こまやかな家庭人とも見られがちである。しかし、この「愛」は武神、愛染明王に由来するもので、愛情とは無関係であり、謙信以来の上杉家の武将に相応しい勇武の印といえる。

直江兼続鎧
実際に兼続は徳川家康を相手に戦う気概を見せている。直江兼続は一方では優れた土木技術者であり、米沢の治水に手腕を発揮した。また、妻のお舟の方の他に側室をおかず、子供の行く末を案じている家庭人でもある。このような複雑な顔を見せる直江兼続の実像に迫りたい。

米沢城址

 関が原の戦い前夜、会津130万石を支配した上杉家は隠然とした反徳川勢力であった。直江兼続はそのうち、米沢城主として30万石を領していた。
 1600年9月、直江兼続は主君上杉景勝の命で、山形城の最上義光を攻めるために2万5千の軍を率いて米沢城を出発した。北の関が原の戦いの開始である。兼続は信仰する愛染明王の愛の字を飾った兜を被り二枚胴具足を身につけ駿馬にまたがり陣頭に立った。米沢城を出た直江兼続は途中から軍を二分し、別動隊5000の兵を平地を進ませ(現在の新幹線の経路にあたる)、上山城に向かわせた。自分は2万の兵を率いて山中に分け入り畑山城に向かった。
9月17日、直江兼続の別働隊は途中、待ち伏せ攻撃を受け、多数が討ち取られ敗退した。

長谷堂城跡

 一方、直江兼続の本軍2万人は難路の山道を進撃した。兼続は山形城への奇襲攻撃を考えたのであろう。兼続勢は狐越街道を通り、苦心の末、9月12日に白鷹山の北麓の最上方、畑山城を攻略し、さらに山路を進撃し、14日には長谷堂城を包囲した。
 長谷堂城(山形市長谷堂城山。国道348号線と一ノ関山の間に位置)は標高229mの城山の頂上に本丸を置く山城で、麓には水掘りをめぐらせ、その外側には深田がある。昔から攻略困難な要害とされていたが、ここを陥落させれば最上の本拠地、山形城までは8kmしかない。城将志村光安は1000人の兵で長谷堂城に篭っていた。直江兼続は城北方の菅沢山に本陣を置いた。

長谷堂城の戦い
15日から城への攻撃を始めたが、城の周囲は深い水田であるため直江勢は迅速に行動できず、そこを城から鉄砲で狙われ死傷者が続出した。直江勢は難路を越してきたための疲労も残っていた。兼続は次に周囲の水田の稲を刈り取らせ、城兵を外におびき出そうとしたが、志村はその手に乗らずますます厳重に守備を固めた。堅固な城を攻めるには、上杉謙信は謀略で城の内部から手引きをさせるか、忍者を使って夜間に城に火事をおこさせるなどの方法を好んだが、直江兼続は謀略を嫌って正攻法で攻略しようとした。
 後方の山形城には最上義光が5000人の兵で詰めていたが、夜間に少数の兵を繰り出して後方から兼続勢の陣所を攻撃して長谷堂城を支援した。ゲリラ作戦である。さらに伊達家から援軍3000人も到着し、最上勢とともに長谷堂城近くまで進出してきた。

 9月29日、会津から、関が原で石田方敗北との知らせが兼続に届いた。兼続は天を仰いだ。上杉の名を天下に轟かせる機会は去ったのだ。兼続は全軍に米沢へ退却するよう命じた。直江勢が退却し始めると最上伊達連合軍は勢いに乗って追撃してきた。退却する軍は志気が低下して脆くなるが、直江兼続は自分の少数の旗本とともに軍の最後尾に立ち、敵を退けつつ、整然と軍を撤退させていった。

上泉泰綱討死の場所
 そのなかで、上泉主水泰綱は単騎で引き返し、最上勢の中へ切り込んだ。上泉泰綱は、剣聖といわれた上泉伊勢守の孫であるがこのころ上杉家に仕えていた。剣聖の血統である上泉とまともに刃を合わせられる武者はいない。上泉は最上の武者を次々と切り倒したが、疲労困憊し遂に討たれた。上泉が討ち死にした場所は、以来、主水塚と呼ばれ、今でもそこに地元の人から花が献げられている。

 武勇に優れ歌舞伎者ともいわれ世に有名であった前田慶次郎も兼続勢に加わり大身の朱槍を振り回し、敵を突き崩し、味方をかばいながら戦った。前田慶次郎は前田利家の兄の子だが、利家と気が合わず、上杉家に仕官していた。慶次郎は米沢に無事帰還し、その後、米沢市八幡に小屋を作って退隠し、そこで生を終える。

前田慶次郎鎧
 直江兼続は追撃する最上勢をあるときは逆襲し、あるときは伏勢で奇襲した。追撃する最上軍大将の最上義光は焦って最上勢の先頭に出た。そこを狙って直江勢の銃兵が一弾を放った。のけぞった最上義光をあわてた最上の側近が囲んだ。銃弾は義光の兜の飾りに命中しており、あと1cmずれていれば義光は命を失うところであった。この銃弾を受けた兜は現在、最上義光歴史館(山形市)で目にすることができる。兼続は最上伊達連合軍に多大の損害を与えながら撤退に成功した。「直江は近習(側近)ばかりにて少しも崩れず、引いては取って返し、乱れた最上勢を右往左往に追いまくり、多数を討ち取り、その勢いに最上方は辟易して引き返したので、直江兼続も虎口を逃れて、心静かに帰陣した。」と最上方の記録にもある。
長谷堂城の戦いで、直江兼続勢は2000人、最上方もほぼ同数の戦死者を出したと言われる。まさに北の関が原と呼ぶのにふさわしい激戦であった。10月4日直江兼続は米沢城に帰着した。


 直江兼続が退却戦で見せた、軍を全滅の危機から救った見事な戦いぶりは、兼続が、野戦に優れた武将であることを示している。平地での決戦の機会があれば直江兼続の名は世に知れわたったであろう。
 ともあれ、北の関が原の戦いも終わった以上、兼続は上杉景勝とともに、上杉家存続の道を探らなければならない。政略に兼続の器量が試されることになった。


 今、米沢から山形へ向かうと静かな田園地帯の佇まいである。しかし、四百年前の米沢城主直江兼続と山形城主最上義光との知力、武力のすべてをかけての戦いに思いをはせると、別の景色が見えてくる。



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小野小町と米沢

November 20 [Thu], 2008, 22:04
 平安の世、病のために美貌も衰え、愛人にも去られた十八歳の小野小町は、もはや都にいたたまれず、父のもとを目ざして京を去った。父は出羽の守(山形県知事に該当)として当時、山形に居た。僅かの供をつれた若い女性の孤独な旅であった。


小野小町

 岩の上に旅寝をすればいと寒し 苔の衣を我に貸さなむ
 (旅で岩の上に寝るととても寒い あなたの苔の衣を私に貸してください)

長旅で身も心も疲れ果てて米沢の街はずれの小野川までやっと辿り着いたとき、小川に自分の顔を写してみた。疲れきってやつれた自分の顔がそこにあった。後に土地の人達はこの川を鬼面川と呼ぶようになり今に至っている。
小町は偶然その川辺に湯煙を見つけた。そこを少し掘ると滾々と湯が湧き出てきた。天からの授かりものと考え湯に3日ほど浸かると、小町の体の内側から元気が湧いてきて肌にも張りがでてきた。小町はおそるおそる川面を見ると、若く妖艶で美しい顔がそこにあった。
喜んだ小町は館で無事父親に会い、さらに温泉療養を続けた。
女としての自信を取り戻した小町は、京へ帰ることにした。京では美貌を取り戻した小町はまた貴公子たちの注目を集めたが、

 色見えでうつろうものは世の中の 人の心の花にぞありける
 (花の色は目に見えてはっきり移っていくが、色には見えないで移っていく、それは人の心だ)

心変わりして自分を裏切った男には小町は冷たかった。その後もさらに華麗な恋物語をくりひろげたが、晩年には、
 花のいろは移ろいにけりないたずらに 我が身世に降る長雨せしまに
 (容色も衰えてしまった。自分の恋に人生を費やしている間に)
の心境に達したのはよく知られている。

米沢駅から車で20分、小町が発見し、元の美貌を取り戻した小野川温泉がある。歓楽的要素は全くなく、山に囲まれ緑が多い、静かで詫びた温泉街である。
源泉かけ流しの透明な湯に浸かってみる。体の芯から温まり、湯からでても寒さを感じない。温泉中の薬理成分が体内へ浸透して病理を癒すとも、成分が皮膚の表面を被覆して体内から熱を逃がさないとも言われる。確かにこの湯が小町が患った病を治したのであろうと実感できる。

小野川温泉

温泉街の鬼面川の傍には小町が見つけた温泉源があり、足湯につかることができる。 
ちなみに小町には謎が多く、小野小町伝説は全国にあるようだ。しかし、権威ある書物には、小町は出羽守娘、あるいは出羽国郡司娘とはっきり書かれていることから、父が山形の役人であり、その縁で小町が米沢を訪れたのは真実味が深い。

小野川温泉

小野川の湯につかり、遠い昔の小野小町、あるいは源義経などに思いをめぐらすのも一興である。また、当時の小町同様に、心身ともに疲れた都会の若い女性達にとっても、健康、容色を回復する良い機会かもしれない。



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天地人 直江兼続(その2)−お舟の方、その家族像

December 03 [Wed], 2008, 0:25
米沢城跡から東へ10分ほど歩く。山形大学の構内のすぐ右手に林泉寺がある。木立の多い静かな寺である。墓地の奥手に小さなた直江兼続と墓石とお舟の方の墓石が並んで建っている。その先は広い草原である。米沢で幼少の子供達を育て、あるときは楽しく過ごし、あるときは悲嘆にくれた直江兼続夫妻の姿が茫洋と浮かんでくる。

直江兼続夫妻の墓  

 直江兼続は40歳から20年間を米沢でお舟の方ともども過ごしている。長男も6歳のときから20年近くを米沢で過ごしている。米沢は、兼続壮年からの人生の最も充実した時期を過ごし、その足跡を最も多く残した土地である。

   直江兼続は主君の命により1581年秋、お船の方と結婚し名門直江家の当主となった。
兼続22才、お船の方25才であった。 兼続は美丈夫として知られ、お船の方も美人として有名であった。二人の仲は睦まじく、兼続は他に側室をおく事はなかった。
 二人の間に娘二人、男子一人の子供ができた。

米沢城

城主として米沢に移り住んでも、兼続の生活は、公務以外のときは、書籍の収集、熟読に熱心であり、さらに土木技術書もかなり読んだ。
 名門直江家で深い教養を身につけていたお船の方にとっては、日常生活では武将というより、物静かな学者というべき兼続に深い共感を覚えており、知性、感情を理解しあえる喜びを感じた。お船の方は兼続の政治に口をはさむことはなかったが、兼続が判断を誤らないよう、普段の生活を実りあるように務めた。

 兼続は家庭でも声を荒げることなく、温和で思いやりのある父親であったので、家庭の中は
優しい空気に包まれていた。これで、子供達が無事大人になってくれれば直江家も平穏であったろう。


上杉神社参道(兼続屋敷はこの手前に)

関が原の戦いのあと、上杉家は会津130万石から兼続の領地、米沢30万石に減封され、大勢の家臣が米沢に移り住んだ。兼続は、大手門前、現在の上杉神社参道手前に屋敷を建て移り住んだ。
多くの領地を失った上杉家の財政を立て直すため、兼続は米沢の治水を整備し、農業生産を増やす政策を取る。兼続が築いた堤防は現在も直江堤としてみることができる。また、兼続が設計した詳細な用水路図面も残されている。
うこぎという食用になる植物を家の垣根に使ったのも一策であった。兼続は武士達にも、また女性達にも働くことを勧めた。米沢の殖産の基礎を築いたのは直江兼続であった。兼続は優秀な農業・土木技術者でもあった。

うこぎを生垣とした旧武家屋敷

兼続は一方では徳川体制の長期化も想定し、上杉家の永続をはかる手も打ちはじめた
直江兼続は家康の信頼厚い本多正信とも非常に仲が良かった。 本多正信には政重という次男がいた。政重は知略より、武勇で世に知られていた。政重は気持ちも爽やかで兼続と相性がいい。

兼続の嫡男の景明は生来病弱で、直江兼続が米沢城主となったとき、当時6歳の病弱な景明に無理をさせるより、長女の婿として本多政重を招いたらどうかと考えた。家康の信頼厚い本多正信の次男を婿にむかえれば、上杉家と将軍家との絆も強まる。兼続の考えに景明のことや直江家の行く末を心配していたお船の方も喜んで同意した。
 本多政重としても、名門直江家で、美男美女の親から生まれた美貌のお松と結婚することに
ためらいは無い。このようにして、長女のおまつは政重と結婚した。しかし残念ながら、翌年おまつは死去した。直江兼続の次女も同じ頃に死去している。
兼続、お船の方は衝撃に耐え、兼続は婿の政重に、こんどは自分の実家から嫁(兼続の姪)を迎えて、政重をそのまま 直江家の婿とした。

兼続が築いた堤防(直江堤)   
 
ところで、兼続、お船の方の愛情を一心にあびて、病弱ではあったが、米沢の温泉療法が効果があったのか、兼続の1人息子景明は育っていった。
婿である本多政重は直江影明が17才になったのを機に、直江家は長男の影明にわたし、妻とともに米沢を去る決心をした。 兼続はなんとか引きとめようとしたが無駄であった。政重は、妻であるお松を亡くし、兼続の長男も立派に育ったので,直江家は本来の長男に譲り、自分は新天地を探そうと決心した。その後政重は加賀前田家で家老として召抱えられ、大阪の陣では兼続とともに戦うことになる。政重も快男児というべきであろう。
 
これより先、主君上杉景勝と正室の間に初めて嫡男が生まれた。後の上杉定勝である。しかし、産後の肥立ちが悪く、正室がじきに亡くなった。途方にくれた景勝は兼続とも相談し、お船の方に定勝の養育の世話をしてくれないかと頼んだ。娘二人を失ったお船の方は喜んで引き受け、一身に定勝の養育に勤めた。定勝は後に藩主になり、未亡人となっていたお船の方をいつまでも慕い、たいへん厚遇している。このことは、お船の方が、実子のように定勝を慈しんだことによるのであろう。お船の方が非常に愛情こまやかで、しかも聡明で、心魂清らかな人柄であったことを裏付けている。

1614年、大阪の陣の勃発とともに、直江兼続、景明父子は上杉景勝に従い、大阪へ向かった。兼続としては景明を大阪に連れて行きたくはなかったが、直江家嫡男の責務として軍陣に参加せざるをえなかった。 景明は戦陣の無理がたたって、患っていた結核が悪化し翌1615年死去した。

 残念ながら、直江兼続の子供は三人とも、両親には似ずに体が弱かったようで若くしてこの世を去っている。 兼続はお船の方と幸福な結婚生活をおくることができたが、三人の子供に先立たれ、もはや直江家の存続に未練は無く、自分が死去したあとは直江家の領地は藩に返納すると決心した。

お舟の方(常盤貴子)
大阪夏の陣から4年後、直江兼続は上杉藩江戸屋敷で死去した。享年60歳であった。
兼続亡き後、お船の方は高野山に一塔を建立し、その壁に夫兼続と長男影明きの肖像画を描かせ供養した。夫も子供もすべて亡くし、孤独なお船の方を支えたのは信仰であった。お船の方はその後もたびたび寺社詣でをおこない、家族の菩提を弔った。

林泉寺

こうしてみると、お舟の方は才気を前に出し、賢しらぶつ女性ではなく、兼続も大舞台で見栄を切るのが好きな人物ではないように思える。
NHK大河ドラマでもできるだけ夫婦の真の姿に迫り、その家族愛を画き切ってほしいものである。




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伊達政宗と米沢

January 01 [Thu], 2009, 21:31

伊達政宗
1614年秋、仙台城主伊達政宗は越後からの帰路、米沢に立ち寄った。実に22年ぶりの政宗の故郷帰還であった。米沢の寺に泊まった政宗はその感慨を次のように詠んでいる。

  ふるさとは 夢にだにさえ疎からず うつつになどか めぐり来にけん
 (故郷のことは夢のなかではよく垣間見ていたが、現実に今日故郷に来たことだ)
 
また、翌日、米沢で先祖の墓に詣でた政宗は

  あるときは あるにまかせて疎ければ 亡きあとを問う 草枕かな
  (故郷にいたときはいつでもいけると思ってかえって墓参りはあまりしなかったが 今日旅路で先祖の墓を訪れたことだ)  



と詠んだ。これらには奥羽の英雄としての風貌より、生まれてから25年間過ごした故郷を再訪し、かっての幼年期、多感な青春期を過ごした米沢への深い思いを入れた政宗の姿が感じられる。

 1567年鎌倉以来の名門伊達家の長男として米沢城で生まれた政宗は、生来はおとなしく、書を読み、歌を詠むのを好んだという。武田信玄の幼少期にも似ている。生まれつき武勇優れた人間より、成長期に内省し洞察を行った人間のほうが、人間心理をよく読め、将として適するのかもしれない。 また、政宗は独眼流と呼ばれたが、自分ではそれを嫌い、画像には両眼を描かせている。


 米沢城跡 

文学青年的だった政宗は、多くの家来を率いての戦いで、それまで潜在していた武将の素質が花開き、戦の妙味にも目覚めたのであろう。実際に、人間洞察に秀でた政宗は、謀略で味方を増やしていった。また、米沢は武将の根拠地としてもふさわしい土地であった。敵が険しい山を越えて米沢盆地に侵入しても、補給が困難である。仮に進入しても堅固な米沢城を攻略するのは難しい。戦国時代にも米沢盆地に進入した敵は1人もいない。さらに名門として、譜代の忠実な家来が多くいたことも幸いした。政宗は家来を心服させ、合戦に勝ち続け、やがて強敵の会津の芦名氏を破り、最上、相馬氏を圧迫し、山形、福島など120万石の領土を有し、また、米沢郊外の舘山に広大な城を築きつつあった。政宗は舘山城を新たな本拠地としてさらに領土拡大を目指した。政宗の人生の絶頂期がきた。


舘山城跡
しかし、豊臣秀吉の小田原征伐で政宗の野望は潰えた。政宗は米沢を追われ、やがて仙台に城を築いたが、故郷米沢への思いが消えなかったのは歌で詠んだ通りである。
政宗からみれば秀吉も家康も、無教養の成り上がりに過ぎなかったであろうが。再度乱世を望んだ伊達宗も1636年江戸屋敷で70年の生を終えた。辞世の句、
 曇りなき 心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く 



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日本のコペルニクス

January 03 [Sat], 2009, 1:00
 米沢藩士、穴山沓齋(1701-1784年)は徳川綱吉〜吉宗のころの人で上杉鷹山にも仕えている。穴山沓齋は素質が優秀であったことから、当時、学問の盛んであった仙台で、天文学を学んだ。当時の日本の天文学は、というより世界の天文学は地球の周りを太陽が回る天動説に基づくものであった。

穴山沓齋は、その後米沢に戻り、精密に星の観測などを行っているうちに、天動説では説明できない現象が見られることに気がついた。沓齋がこれらの現象を実験誤差として見逃せばそれまでであった。 ところが、ある日,穴山沓齋はこのような天文観察上の不合理な点は、地球の周りを太陽や、他の星が回っているのではなく、太陽のまわりを地球などが回っていると考えると、合理的に解決できると思い至った。穴山沓齋は、誰からも教わることなく、もちろんコペルニクスの説など知る由もなく、独自のひらめきに基づき理論化を進めたものであり、江戸時代に実に日本で初めて地動説を唱えたわけである。

コペルニクス


しかし、当時の日本では、このような地動説はまったく受け入れられず、穴山沓齋の主張は完全に無視された。穴山沓齋は周囲から変人扱いされて、米沢で82歳の生涯を終えた。

地動説はコペルニクスが16世紀末に唱えたが、聖書に反する地動説は迫害の対象となり、コペルニクスも死の直前に地動説を発表し、後にガリレオも裁判にかけられている。穴山沓齋のころ、日本にはまだその概念は導入されていなかった。
穴山沓齋が偉いのは、高度の天文学技術を有し、自己の観察結果を冷静客観的に解析し、自分ひとりの力で世間とは全く異なる独創的な結論を導き出したことであろう。米沢藩士らしく、地味だが信念に生きた人物といえよう。

幕末になって幕府がやっと西洋の知識を導入して、日本でも地動説が知られたが、先駆者の米沢藩士の穴山沓齋を知る人は今はほとんどいない。忘れられた日本のコペルニクス、穴山沓齋の墓は米沢市内西蓮寺にひっそりと佇んでいる。 

   



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日本最多の殉教者の地

February 01 [Sun], 2009, 22:38
 米沢駅から北へ15分ほど歩くと、住宅地の中に、木立に囲まれた小さな草地が見える。なんとなく陰気な雰囲気が漂う。おとづれる人はまれである。草地の中に十字架が立っており、見事な聖人像が見られる。十字架の後ろ側には墓石が並んでいる。ここは日本最多の殉教者をだした、北山原殉教遺跡である。


 
 寛永5年(1629年)12月18日未明、米沢に雪はしんしんと降り続いていた。藩の獄舎で甘粕右衛門は祈りながら静かに世が明けるのを待っていた。右衛門は米沢藩の名門、甘粕一族につらなる上級侍であり、藩主の側用人まで勤め、生活に不自由することなく過ごしていた。ところが、キリスト教の教えに触れ、以来、深い信仰の道を歩んできた。



 徳川幕府のキリスト教弾圧は近年厳しさを増し、米沢藩でも信者の摘発が進んでいた。人望のあった甘粕右衛門は周りから必死に棄教を進められた。しかし、信仰心の深い右衛門は、妻、子供二人とともに棄教することなく、獄舎に囚われることになった。3才と1才の子供は、右衛門がその気になれば逃がすこともできたであろうが、右衛門は幼児を後に残すことにためらいがあったのか、永遠の生を信じてか、家族一緒に死ぬ決心をした。

 朝がくると獄舎から北山の刑場へ雪を踏みしめて一行が進んだ。刑場に赴く信者の数は甘粕右衛門の家族、使用人、米沢で捉えられた人々合わせ、57人におよんだ。米沢の人々は外に出て信者達の姿を見るに忍びず、家内で念仏を唱えるのみであった。刑場では子供達から殉教が進み、右衛門も妻や子供の最後を見届けたうえで殉じた。その日からしばらく米沢には陰鬱な気配がただよい、笑い声が町から消えたという。



 殉教といえば長崎28聖人殉教の地が有名である。しかし米沢ではその倍の人々が殉教している。日本最多の殉教者の地といえよう。昭和のはじめに当地を訪れたドイツの神父がこの話を聞き、深く感動して、北山に十字架、聖人像を建てたのが今に残っている。

 今、暗い木立の中で北山の墓石を眺めると、右衛門等、当時の米沢人の信仰心の強さに思いをはせることができる。
 



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赤穂浪士討ち入り

February 12 [Thu], 2009, 17:03
    

     吉良屋敷
元禄15年12月14日まだ夜は明けていない。騒々しい物音で山吉新八郎は目を覚ました。手早く身支度を整えると、愛刀を手に持ち、目釘を改めて湿りを加えた。刀にゆるみが無いことを確かめてから腰に差し、主君の寝室に向かった。ここは江戸本所松坂町(両国駅近く)の吉良屋敷である。新八朗の主君は吉良義周、上杉藩主の実子であり、今は吉良家に養子に入り、吉良家の当主である。吉良上野介は隠居の身である。米沢藩士山吉新八郎はその人柄と剣の腕前を見込まれて、同僚の須貝弥七郎とともに米沢藩から義周に随って江戸まで来ていた。新八郎の誠実な人柄は吉良上野介からも義周からも深く信頼されていた。
 

 
新八郎は主君、吉良義周を起こし、身支度させた。同僚の須貝もやってきたので、二人で玄関に向かった。赤穂浪士が次々と屋敷内に進入してきた。新八郎は、須貝と二人でここで赤穂浪士を食い止め、義周を守らなければととっさに判断した。赤穂浪士は三人一組で味方1人に切りかかってくる。新八郎は米沢の道場では屈指の剣の腕前で知られていた。剛刀を抜き放ち、三人の浪士に立ち向かった。それにしても赤穂浪士に対して刃向かう吉良家の侍が少ないのはどうしたことであろうか。100人はいる吉良家の侍のうち、浪士と戦っているのはその半数もいない。新八郎は正面の浪士が切りかかるのを真っ向から刀で受けた。つばぜり合いになる。刃から鉄の粉塵が飛ぶ。新八郎はその浪士を左にかわすとともに、巧みにその浪士の肩に刃を当てた。1人を斬ったと思った。しかしその浪士は立ち直り、差し障り無くまた向かってくる。新八郎は気がついた。敵は鎖でできた服を下に着込んでいるので、刀の刃がその体に触れないのだ。

吉良上野介
赤穂浪士は吉良家の家来を切り立て、追い払い数を増して新八郎達に迫った。同僚の須貝は浪士に槍で胴体を刺された。須貝はひるまず、槍を手元に引き寄せて浪士を切ろうとしたがかなわず、どっと倒れて絶命した。新八郎は須貝の最後を視野の端に入れながら、庭に出て池にかかる橋の上に立った。ここなら後ろから切られる恐れは少ない。赤穂浪士の近松勘六が右から新八郎に切りかかったのをかわし、近松の胴を打ち、橋から池の中にたたき落とした。池から大きな水しぶきが立った。近松は鎖の上に新八郎の剛剣を受け、打撲傷を負った。鎖を着ていなければ近松は即死であったろう。近松も赤穂浪士の中で有数の剣の使い手であったが、このあと弟の肩を借りながらかろうじて泉岳寺まで歩いている。赤穂浪士側で負傷したのはこの近松と他に1人しかいない。新八郎は、そのあと浪士に囲まれ手傷を負ったが、屈せずに奮戦したが、数箇所にさらに深い疵を受けて遂に倒れた。赤穂浪士はやっと屋内に侵入した。




 新八郎らの奮戦で、吉良義周は傷を負ったが、身を潜めることができた。しばらくして隠れていた吉良上野介が見つかり、赤穂浪士に首をとられた。赤穂浪士は泉岳寺へ向かい、屋敷内に静寂が戻った。夜が明けてやっと米沢藩から偵察の人数がきた。死んだと思われた新八郎は奇跡的に命をとりとめた。


 幕府の役人が現場に出向いて、戦いの様子、怪我の程度、刀の状態などを詳細に調べた。吉良家の侍の多くは、長屋に閉じこもって、外で赤穂浪士と戦っていないこともわかった。なかには自分で体に疵をつけて役人の追求を逃れようとしたものさえいた。剣がぼろぼろになり、体に多数の疵を負っていたのは新八郎と須貝の二人だけであった。二人の奮戦がなければ吉良親子も隠れる間も無く、容易に討たれていたと思われる。江戸城での式典を担当する吉良家は文官であり、武勇の侍が少ないのもやむをえないことかもしれないが。映画やテレビの赤穂浪士の討ち入りのハイライトでは、吉良の重臣、清水一学あるいは小林平八郎が良く戦い、庭の池の橋上で赤穂浪士を池に叩き込むシーンがある。実際には清水一学も小林平八郎も簡単に赤穂浪士に斬られている。舞台効果上、新八郎が功を譲ったものといえよう。なお、当然ながら、上杉家からの付け人(用心棒)なるものは屋敷には1人もいなかった。


しばらく疵を養生していた新八郎の耳に、吉良家が断絶との知らせが届いた。新八郎は愕然とした。夜間に無法にも大勢で屋敷に討ち入り乱暴をしたのは赤穂浪士ではないのか。隠居の吉良上野介は討たれたが、新八郎が仕える吉良家当主の義周は命は取り留めている。幕府の裁断はおそらく、武家の身でありながら、隠居の首を取られるのは油断があったからである。武門不覚悟である、というものであろう。世論も圧倒的に赤穂浪士を讃えており、吉良家に冷たかった。
 吉良義周は諏訪の高島城へ流されることになった。新八郎は強く願って、主君に随った。吉良義周に随ったのは新八郎と同役1名だけであった。諏訪藩では義周らは罪人として扱われ、狭い部屋に押し込められ、行動の自由は全く無かった。常に冷たい目で監視された。新八郎はそこでも必死に主君に仕えたが、義周は二年後に諏訪で病死した。新八郎は義周の最後を看取った後、米沢へ戻った。


照陽寺(米沢市)

 新八郎は米沢で、赤穂浪士との戦いぶりを自慢げに人に話すこともなく、一藩士として静かに暮らした。新八郎にしてみれば自分の責務を果たしただけのことであった。1753年、討ち入りから51年後、83歳で米沢で新八郎は生を終えた。
 山吉新八郎の墓は、山形大学工学部裏手の照陽寺にある。



大久保利通
時は下って、明治11年、大久保利通暗殺の日、朝方、自宅で大久保利通は、腹心である福島県県令(知事)山吉盛典とこれから始める福島の農地開拓工事について話し合った。山吉盛典は敏腕な県令として業績を残しており、大久保に深く信頼されていた。気分がくつろいだのか、その場で大久保は、山吉盛典に、日本の近代化三十年計画の構想も打ち明けている。そのあと、大久保は役所へ向かう途中に凶漢に襲われた。大久保利通に会った最後の人物、山吉盛典は新八郎の末裔であった。

 山吉家が日本史上の二度の重大事件に名前をだしたのもまた、不思議なことではある。




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那須与一と米沢

February 20 [Fri], 2009, 23:58


米沢駅から西へ十数分ほど歩くと西蓮寺(米沢市中央五丁目)がある。木が多く静かな寺である。日本のコペルニクスといわれた穴山要斎の墓もそこにある。西蓮寺の脇に、高さ4m以上はある,三重の,石でできた古く立派な塔が建っている。台座には、那須与一供養塔、享保4年、千坂対馬守と刻んである。那須与一は源平合戦の英雄であるが、なぜ米沢に那須与一供養塔があるのだろうか。


西海に陽は傾きつつあった。那須与一は静かに海へ愛馬を乗り入れた。扇の的が先に見える。風が強い。波で船が揺れるたびに的が傾く。平家の美しい女房が傍らに佇む。与一の場所から船までは遠い。しかし、那須の原野で鍛えた与一の強弓であれば届かないことはない。四国屋島。陸では源氏方が、海上では平家方が固唾を飲んで那須与一を見守る。那須与一に命じた大将の源義経も馬上から身を乗り出す。しんと静まり返り、しわぶきさえも聞こえない。


那須与一

那須与一は南無八幡と心の中で唱えた。射止めるのに失敗すればこの場で腹を切って死ぬまでのことである。那須与一は矢を引き絞る。扇の動きを読む。天の助けか、先ほどまでの強い風はおさまった。風で矢が横にずれる恐れは少ない。那須与一は揺れる扇の動きの拍子を読む。左へ右へ、左へ右へ。と、百分の一秒先の的の位置を心眼で読み取った瞬間、与一は、ひゅうと矢を放った。根元に矢があたった扇はひらひらと空中に舞った。どっと歓呼のどよめきが与一の耳に聞こえた。味方はもとより、敵である平家の軍船からも死を賭けた那須与一の神技を讃える声がやまなかった。


屋島

江戸の中ごろ、米沢の自邸で藩重役の千坂兵部は目を閉じながら、五百年前の屋島での晴れやかな那須与一の姿を思い浮かべる。以後、日本中で那須与一の名を知らないものはいない。

平家を滅ぼした義経は、その声望を恐れた源頼朝に追われて平泉に去り、やがて命を失う。屋島で功名をたてた那須与一は、頼朝に猜疑の目で見られるようになった。頼朝の粛清政治が始まっていた。義経に随って功績のあった武士が次々と命を奪われていた。独裁政治を狙う頼朝にとっては、屋島の英雄など邪魔な存在でしかなかった。那須与一は遂に、頼朝から追っ手までかけられた。与一は、地所の那須(栃木県)から越後(新潟)へ逃れた。長尾氏(後の上杉氏)を頼った。義侠心に富む長尾氏は那須与一を匿った。



那須与一供養塔

那須与一の子孫は、千坂と名前を変え、上杉家中でも重きを置くようになる。千坂兵部は那須与一の末裔であった。上杉家は、関が原の合戦で石田方についたため、会津130万石から米沢30万石に減封され、さらに藩主が子供がないまま死去したため、さらに15万石にまで領地を減らされた。兵部らは節約、家臣の減封、殖産で米沢藩の危機を乗り越えようとしたが、吉良家から入った新しい藩主は、兵部が諌めるのを無視して、米沢でも、贅沢な生活ぶりを改めようとはしなかった。上杉謙信以来、蓄えてきた金穀も底を尽いていた。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったとき、藩主は実父の吉良上野介を救うべく、家中の侍を率いて江戸の藩邸から繰り出そうとした。兵部は必死に止めた。藩主は武門の意地で、赤穂浪士を討ち取りに行くという。しかし、江戸市中で、上杉家と浪士が乱闘を起こせば、将軍家のお膝元を騒がしたことで、米沢藩取り潰しは間違いない。兵部が必死に止めたため、藩邸から討手を繰り出すことは中止になった。



千坂兵部は藩主に疎まれ、嫌われて家老の座を追われた。米沢でなすことなく過ごす兵部の心を支えたのは、那須与一のことであった。頼朝に疎まれた祖先の姿、心情が今の自分と重なる。しかし、このままでは千坂家の末も案じられる。自分が生きているうちに、誇るべき先祖のことを、またその子孫が米沢にいたことの証を示したい。

千坂家はその後、絶えたが、兵部がたてた三重の石塔は、兵部が願じたとおり、今日でも屋島の英雄、那須与一と米沢とのかかわりを伝えている。

 終戦の後しばらくして、弘前大学教授夫人が強盗により殺され、容疑者が十年もの長い間刑務所に入れられ、その後で別の真犯人が判明するという事件があった。冤罪の人は、「刑務所では、自分が那須与一の子孫であるということを誇りにし、心の支えにして生きてきた。」と述べている。日本人にとっての先祖の意味を考えさせられる。




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