「長文読解」できるかな。
2012年05月03日(木) 20時36分
「これはぬるい!こんな作品はやっとれん!」
「俺はもっと高貴な作品(自分の価値観に合った作品)をやるんだ!」
と、
そんな意気込みでいると
限られた心拍数では達成感を得ることができない。
「そのためには、もっとお金が必要だ!」
「やっぱりなんやかんや言っても、お金がいるのだ」
と、
そのぐらいの努力忍耐なら、並の人間でもできるし耐えられる。
あー、苦しいです。
今日は『切腹』という映画を観てきたのですが
あぁ、考えさせますね、考えさせますねぇ。
何か書いて残さなきゃと思ったのですが
書こうとひらめいた瞬間、その事柄は既に過去に自分で通過してて
「あっ、これはもう、また前と同じ結論にしかなんねぇじゃん!!」
と頭がぱっと判断してしまうので
だから苦しんでおります。
「とりあえず今日、自分を納得させる文章」が書けないのです。
何かを考える際、仮説を立てるべきだとすると
「世の中はループしますので、いくら考えても答えは出ない」
と仮定したくなりますが、
それなら私は何を発見し、何を喜び、何に感動するために生きているの?
と、絶望に襲われてしまうでしょう。
じゃあ自分を騙しながら
とりあえず今日を生き抜いたことに感謝、しましょうか?
と割り切って生きていける人は、いいですねぇ。
うらやましす。
多分、幼いころから自分の我が通ってきた人間は
大人になって我が通らなくなると、とても苦しむことになるのでしょうね。
でもそれはとても純粋な思考を持った人ということで
天然記念物と言っても過言ではない。
むしろ自分の意見を主張できずに流されてきた人のほうが
すんなり大人になって「そんなもんさ」と割り切っていける・・・
としたらなんとまあ私は生きづらい世の中なのでしょう!!
クソくらえこのやろう!!
時々言われます
モトヒロの文章は長いし、わかりにくいと。
だから読む気がしないと。
そんなあなたにひとこと
「おのれに伝えられることはなにもない、去れ」
でごわす。
今日見た『切腹』のなかで
今のお顔と『切腹』の時のお顔が違う方がいました。
声も違います。
当然でございます。
でも、なぜ違うのでしょうか。
それを考え始めると、ここには書けないようなことも沢山出てきます。
なぜ人は年を重ねると顔が変わり
声が変わり
人格も変わり
生き方も変わってくるのでしょうか。
しかもそれは、自分で望んで得た変化ではないとすると・・・
はぁ〜しんどい。
読む人はもっとしんどい。
時間は老化とともにあきらめも運んでくるのでしょう。
選択=あきらめ
長生きすることはあきらめること!?
だから侍は、切腹という文化を持っていたのでしょうか。
今は切腹しなくても、生きていけるもんね。
ゆるい世の中だもんね。
でもメディアに叩かれると、切腹しなきゃいけないぐらい辛いのでしょうね。
でもそれは自決ではなく、他決ですね。
自分は生きたいのに殺される。
結局は同じことでしょうか。
潔く死ぬなんてこと、今も昔も、簡単にできることではない。
人の目があるから、死んでいく。
あぁ、だから「ニッポン人はモット個人のシュチョーがあってしかるべきデス!」
って平たい顔族じゃない人たちに言われちゃうのでしょうか。
こんな時は
我が家のテルマエに浸かって頭を休ませましょう。

