野衣
June 23 [Wed], 2010, 15:08
(一)
雉子原雄一とは高校の二年で同級になった。
陸上部の長距離のエースで、日に焼けた肌に太い眉毛、180センチを越える長身はどこへいってもよく目立った。何ごとにも物怖じせず、常にリーダーシップを発揮するタイプだった。学業も優秀、学年で十位を下ったことはなかった。
もともと陸上部の仲間として親しくはあったのだが、同じクラスになってからは一層親密になり、放課後、しばしば彼の家を訪ねるようになった。
何度目かの訪問の際に夕食を誘われ、以後、気がつけば、週に一度は呼ばれていくのが決まりのようになっていた。
遠慮も勿論あったのだが、訳あって祖父と二人暮らしだった私にとって雉子原家の人々と囲む食卓は実に楽しいものだった。
雉子原には八つ歳の離れた姉があった。名前は漢字で「野の衣」と書いて「のえ」と読んだ。
訪ね始めた頃は、いつも自室に籠もっていて、顔を合すことも稀だったが、やがて一緒の食卓に着くようになるにつれて、音楽や漫画などの話を少しずつするようになった。
弟とはまるで反対の、いかにもおとなしげな姉だった。
初めて会ったときには、その脂っぽいボサボサに乱れた髪と、寝間着と区別のつかないような格好に少し驚かされたものだったが、そのうちに段々と、会うごとに清潔に、服装も気を使ったものになっていった。
大の風呂嫌いだという話だったが、私が遊びに来るだろうと思われる日には早くから二度も三度も入浴して綺麗にしているのだと聞かされた。
「お洋服を選ぶのも大騒ぎなのよね、野衣ちゃん」
母親はそう言って笑うと、野衣を大いに恥しがらせた。
夕餉の食卓は母親と姉弟、それに私の四人で囲むことがほとんどだった。
父親の帰宅は大概遅く、私とはすれ違いのことが多かった。一族で株の大半を所有する電機会社の、当時は副社長を務める雉子原の父親は地元の名士で通っていた。
私はこの父親が少し苦手だった。
高校三年の夏休み最後の土曜日に野衣の誕生会があった。
家族の外に招かれた客は私だけだった。
大きなケーキが焼かれ、野衣は自分で裁縫をしたという青いラメ入りのドレスを着ていた。
食事がひと通り済んだところで、少し酒の回った雉子原の父親に卒業後の進路を尋ねられた。地元の国立大の教育学部へ進むつもりだと答えると、父親は意外そうな顔をした。
「何だ、雄一と一緒に東京の大学を受けるんじゃないのか」いつも以上に必要もなく大きな声だった。「いずれ戻ってくるにせよだ、男子たるもの、一度は都に出て己を磨いてくるべきだろう。この片田舎にいたんじゃ、いつまでも大海を知ることはできないぞ」
「しかし、祖父のこともありますから」
「それにしてもだよ。それにしても、教育学部か。教員を志そうというのか、君は?」
「はい」
「教員を志望するような輩なんて、昔から覇気のない、つまらない奴と相場が決まっていたものだがね。君ほどの成績があって教育学部もないだろう。ここにも医学部だってなんだってあるんだから狙ってみたらいいじゃないか」
「いえ、やっぱり家のことを考えると冒険はできないですから」
「いろいろ事情があるんだよ、父さん」雉子原が助け船を出してくれた。「それに、こいつは教師に向いてると思うよ。真面目で、誠実で。他人のことに真剣になれて。僕はどちらかというと人を強引に引っ張っていくようなところがあるけど、こいつはさ、我慢強く人を押し上げていけるタイプなんだよ。そういうタイプこそ、教師にはぴったりなんだ。そうだろ、野衣ちゃん?」
「え? ええ」
突然話を振られて野衣は大いに戸惑った様子だった。
「だいたい野衣ちゃんだってさ、こいつがこっちに残ってくれた方が嬉しいだろ?」
思いがけない話の方向に私も野衣もただ赤くなるばかりだった。
「馬鹿なことを言うな」
父親は不愉快そうに顔をしかめた。
高校の卒業とともに雉子原は東京へ出て行った。
私が雉子原の家を訪ねることもなくなっていた。
大学に入って初めての夏季休暇も終ろうとする頃、ようやく九月になってから雉子原の帰省があった。
私も久しぶりに彼の家を訪ねることになった。
約半年ぶりになる訪問を野衣は心待ちにしてくれていた様子だった。慣れない化粧を施し、お姫様のように着飾った姿で私を迎えてくれた。テーブルには母親を手伝って作ったという御馳走がこぼれんばかりに並べられていた。
「料理を随分覚えたの」
そう言ってはにかむ野衣の姿は何ともいじらしかった。
「これも、これも、これも! 全部お手伝いしたの」
野衣は喋り続けた。
「これは全部ひとりで作ったの!」
料理に手をつける間も惜しんで、身振り手振りを交えながら喋り続け、笑い続けた。
ずっと、まっすぐに、私を見つめたまま。
そんな野衣のことがいじらしく思えたのは本当のことだ。だが、同時にまた少しばかり滑稽なように感じられたのも本当のところだった。学生生活を送る中で、同年代の女の子たちとの付き合いも当たり前になり、私の感覚もかつての男子校の生徒のそれとは違ってきていたのだと思う。野衣の振る舞いのぎごちない無邪気さに、どことない居心地の悪さを覚えていた。
私のそんな部分を野衣も感じたのだろうか。
喋り続け、笑い続けていたのが、次第に口数も少なくなり、目も伏せがちになっていった。
最後は雉子原と母親の声ばかりが行き交う中で食事は終えられた。
居間に場所を移してからも野衣はずっと黙ったままだった。
帰り際になって、クマのぬいぐるみを手渡された。
苦労しながら全部一人で作ったのだという。
「本当はお食事のときにあげたかったんだけど、喜んでもらえるか分らなかったから」
笑顔を作ろうとして、上手く作れずに、口もとが泣き出しそうな形に歪んでいた。
私は思わず野衣を抱きしめそうになった。
「嬉しいよ、ほんとに嬉しい。ありがとう」
大袈裟なほどに喜んで見せたのは、何かを取り繕うためではなかった。
ひたすらに野衣に気持ちを伝えたかったのだ。
「よかった」
野衣の顔にようやく笑顔が戻っていた。
新学期が始まってしばらく経った日曜のことだった。
アルバイトに向かう仕度をしていたところに突然、野衣が訪ねてきた。
ひとりで出歩くことはほとんどないと聞いていたので驚かされた。母親に手伝ってもらってケーキを焼いたので届けにきたのだという。
「よく場所が分ったね」
「うん。雄ちゃんに地図をファックスしてもらったから」よそ行きの服を着た野衣は頬を上気させていた。「男の人のお家って、私、初めてだな」
一緒にケーキを食べ、少しお喋りをして、帰りは野衣の家の前まで送っていった。アルバイトはギリギリで間に合う時間だった。
「今度来るときはその前に電話をもらえるかな。出かけてるときもあるからさ」
「わかった」
それ以来、菓子を焼いた、料理を作ったといっては野衣は訪ねてくるようになった。
冬の終わりに、ひどい嵐の日があった。
傘も差せないような中を、ずぶ濡れになって野衣が現れた。
「とても上手に焼けたから、どうしても届けたくって」
私は野衣を抱きしめていた。
冷え切った耳に接吻していた。
着替えをさせるわけにもいかないので、野衣をストーブの前に座らせ、電話を掛けた。母親が車で迎えに来てくれることになった。私たちは寄り添って熱い紅茶を啜りながら、車の到着を待った。
車の音が聞え、私たちは玄関に向かった。
ドアの前で私はもう一度野衣を抱きしめた。
野衣は甘えたように私の胸にしがみついてきた。
それが私たちの交わした二度目にして最後の抱擁だった。
その日を最後に野衣の訪問はぷっつりと途絶えてしまった。
半月が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、私は物憂い日々を過ごしていた。
突然嫌われた理由も思い当たらなかった。
こちらから電話をしてみる時期もとうに逸しているように思えた。
悶々としたまま、二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎようという頃、雉子原から電話があった。
「おまえ、野衣ちゃんを妊娠させたのか!」
まったく身に覚えのない話に私は愕然とするばかりだった。
必死の弁明に雉子原は納得したような、しないような声を出していたが、最後にこう言った。
「とにかく親父が怒り狂ってるから」
しばらくは大変な騒ぎだった。
雉子原の父親が私の言い分を飲み込んでくれたのかは分らない。告訴するだ、慰謝料だ、の話は引っ込められたものの、ともかく雉子原家の者とは今後一切の縁を絶つようにと申し渡された。野衣とは顔を合せることもなく、すべてが終った。
いったい誰が相手だったのか。
騒ぎの間も、収まった後も、それが気になって仕方なかった。
身の潔白云々以前に、その相手のことが気になって胸が焼かれるようだった。
こっそり連絡をつけた雉子原に尋ねてみたが無駄だった。うやむやなままに終らせたのか、私には知らせる必要もないということだったのかは分からない。
騒ぎの最中に会った雉子原の母親が、そういえば何かを含んでいるような様子だったかもしれないとも思ったが、今さら確かめる術はなかった。
(二)
実は、野衣からはその後一年ほど経ってから、一通の手紙が届いていた。
近況を記した無邪気な本文には、たくさんの色鉛筆を使ったイラストが添えられていた。
その最後にこうあった。
「父がもう会ってはいけないというので、会いに行けません。私も悲しいです」
私は勿論返事を出さなかった。
(三)
地元で教職につくことはせず、私は大学を卒業すると在京の食品会社に就職した。
どこへ行っても雉子原家の影が差す郷里の空気が息苦しく感じられていたということもあったかもしれない。
「別に俺のことは考えないでくれていいよ、お互い気儘にやるのがいいさ」
そう言って東京へ出ることを後押ししてくれた祖父も、私が二十八になった年、齢八十で亡くなっていた。
その葬式以来の、実に十年振りになる故郷の地を私は踏んでいた。
祖父の弟である大叔父の葬儀に出席するためだ。
有給も使って私は四日間の休みを取っていた。久しぶりの故郷をせっかくだから懐かしんでおこうという気分になっていたのだ。
葬儀の翌日、昼近くになって私はホテルを出て、バラの名所で知られる市の北部に位置する公園に足を運んでみた。
平日の昼間だったが、公園には意外な人出があった。
男たちの姿が目立った。
営業の外回りの途中で休んでいる風な者もあれば、当てもなくただブラブラとしている風なものも少なくなかった。酔っ払って歌っている者もあれば、おかしな目つきで周囲を睨め回している者もあった。
そんな中の一人が、辺りを気にしながらも頻りに何かを窺っている様子なのが目についた。
視線の先を追ってみると、そこにはひとりの女の姿があった。
池の畔の柳の根方を囲う縁石に女がひとり腰を下ろしていた。
老女のようだった。
長いスカートを穿いていたが、縁石が極低いものである上に、立てた両膝をだらしなく開き気味にしているので、角度によっては中が覗けて見えるのかもしれない。
先の男の他にも、気がつけば何人かの男たちが腰を中途半端に屈めた格好で、見えるような、見えないような角度のあたりをうろうろと行ったり来たりしていた。
私は女に近づいてみた。
女は老女ではなかった。
近づいてみて分ったが、風に吹かれるにまかせた艶のない短い髪が白茶けて見えるのに惑わされていただけで、実際にはずっと若くも見える女だった。
女は野衣だった。
どうしても野衣だと思えた。だが、確信は持てなかった。
そう思えてならないけれど、声を掛けることもできないまま、私は女の前を通り過ごして、引き返して、また通り過ぎた。適当な所まで歩いてから、もう一度ゆっくりと引き返し始めたところで、女はこちらに気づき、立ち上がった。
「野衣さん」私は呼びかけてみた。「雉子原野衣さんじゃありませんか」
答えはなかった。
私は女の正面に回って、それとなく目を合せながら、無理やりな笑顔を作って見せた。女はつられたように意味のない笑みを浮かべ、首を傾げた。私はもう一度しっかりと視線を合わせ、強い調子で頷いて見せた。女もつられて頷き返してきた。
しばしの間、私たちは黙ったまま微笑み合って立っていた。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「デート、しようか」
「デート?」
「そう、デート。しない?」
女は、野衣は、探るような目で私の目を覗き込んできた。
牛のようなきれいな目だった。
なんとなく合点がいって、私は答えた。
「お金があまりないんだけれど」
「そんなの構わないわよ」
「でも、それじゃあ申し訳ないから」
「いいから。さあ、少し、歩きましょう」
促されて、私たちはバラ園の方へと歩き出した。
野衣は極端に動作が遅かった。並んで歩くのも難しいほどの遅さだった。ゆっくりと数歩進んでは立ち止まり、またゆっくりと一歩二歩進む調子だった。
そうやってゆっくりと歩きながら野衣は私の顔を見上げ、必要以上に明るい笑顔を浮かべて見せるのだった。
ひどく痩せこけた顔だった。
まだらになった白い化粧の下に頭蓋骨の継ぎ目が透けて見えそうだった。剥き出される歯茎が紫色に腫れていた。小鼻の付け根と口角に小さな瘡蓋があった。虫に喰われたように皮膚が所々破れていた。
「蒸し暑くてイヤだね」と、私は話しかけた。
「そうね」と、野衣は短く答えた。
ようやく辿り着いたバラ園の端のベンチに私たちは並んで腰を下ろした。
満開目前のバラの香りが辺りを包んでいた。
「大丈夫?」
「大丈夫よ」そういいながら、野衣は大きくため息をついた。「やだ、おばあさんみたいね」
「そんなことないさ」
「やさしいのね」鬱血した歯茎を剥き出して野衣は微笑んだ。「彼女いるんでしょ?」
「まあ、一応ね」慌てて結婚指輪を隠しながら、私は答えた。
「そうよね。まだ若いんでしょう、彼女。二十代? それとも十代かしら?」
「まあ普通だよ」
「そう。そんな若い彼女がいるんじゃ、こんなおばさんには興味ないわね」
「そんなことはないけどさ。それより、あなた、野衣さんはどうなの?」
「なにが?」
「彼氏はいないの?」
「私? 私はいないわよ。だからこうしてデートしているの」
ぬるい風が吹き抜けて、野衣の薄い髪をなびかせていった。
こめかみの皮膚が剥がれてしまいそうだった。
それを見て私は胸が悪くなりそうだった。
「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ」
そう言ってベンチを立ちかけた。
「待って。ねえ、触ってみる?」
「え?」
「いいから、ちょっと触ってみて」
そう言って野衣は私の手を取ると、薄いブラウスの下に導いた。
下着は着けていなかった。
カサカサに乾いた肌の感触が恐ろしかった。
「もういいよ」
「遠慮しないで。いいのよ、ゆっくり触っていて」
「ああ」
「下の方も、ほら、触ってみて」
恐ろしさに魅入られていたのかもしれない。私はもう一方の手を野衣の尻に這わせていた。スカートの下で厚手の下着がたぐまっている感触があった。もの悲しくなるような感触だった。
そのままの姿勢で固まったまま、しばしの時が過ぎた。
「本当にそろそろ行かないと」
「そうなの?」
「ごめん」
「こちらこそ、ごめんなさい。無理に引き止めてしまって」
「そんな、謝らないでよ」
今度こそ私はベンチから立ち上がった。
野衣は切羽詰ったような顔で私を見上げていた。
「本当にごめんなさい。こんなおばさんが無理を言って」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
私は財布から一万円札を一枚抜き取って、野衣の手に握らせた。
「だめよ、これは貰えないわ。何もしてないんだから」
「触らせてもらったじゃないか」
「だめよ」
「いいから、気持ちだから」
「そう?」
「そうだとも」
「本当にごめんなさいね」
そう言いながら野衣は札を小さなポーチの中にしまった。
「じゃあ、行くね」
「待って。公園の出口まで送るわ」
「いいよ。ちょっと急いでるし」
「そうなの?」
「うん」
「ねえ?」
「なに?」
「また会えるかしら? 今度はもっとゆっくり」
「それは無理だろうな」
歩き去りながら、私は二度振り返った。
二度とも、女は腰の高さに構えた手を小さく振っていた。
そんな仕種まで記憶の中の野衣にそっくりだった。
三度目を振り返ることはなかった。
私はそのまま公園を後にした。
(四)
当初の設定では、野衣は雉子原の八つ年下の妹ということになっていた。
タイトルも『恋の翼』というものを考えていた。恋の軽やかな翼があればどんな垣根をも越えて行けようという科白からとったものだ。
この設定では、教職に就いた私がその赴任先の生徒である野衣と再会し、恋に落ちることになっていた。
秘められた関係は、だがほどなく露見し、二人の仲は引き裂かれることになる。
教職を追われ、なんの当てもないまま何処の地へか逃げ落ちようする私に、家を抜け出て忍び合いにきた野衣が駅で一つの壺を手渡す。
「二人をつなぐ魔法の壺なの」
『恋の翼』の銘を持つその壺を、必ず身近な明るい場所に飾っておいて欲しいと野衣は言う。
「きちんと飾っておいてくれたら、先生がどこにいようと必ずまた会うことができるから。そう、来年の五月の休みには必ず!」
そう念を押して去っていった野衣だったが、果たして私は忙しさにかまけて、その壺をスーツケースの中に仕舞い置いたままにしておく。
やがて新しい年度が明け、五月の連休がやってくる。
私は野衣の言葉をすっかり忘れていた。
連休が終わる頃、雉子原から、野衣の行方が知れないとの連絡を受ける。
私は胸騒ぎを覚えるが、その正体が何であるのかは分らない。
そうして更に一週間が過ぎる頃、部屋に異臭がこもり始める。臭気は日毎にいや増し、私はその臭いの元が納戸に押し込んだままのスーツケースであることをつきとめる。
そうして開けてみたスーツケースの中には、件の壺から半身を抜け出そうとした野衣が雑多に詰め込まれた中身の間で上半身を折り畳まれ、苦悶の叫びを顔に貼り付けたまま腐乱し始めていたのである。
いずれの設定も同じ主題の変奏なのだけれど、どちらを採り、どちらを棄てるべきかの決断がつかず、一方を主とし、片一方を附とする形で併せて紹介してみた。
雉子原雄一とは高校の二年で同級になった。
陸上部の長距離のエースで、日に焼けた肌に太い眉毛、180センチを越える長身はどこへいってもよく目立った。何ごとにも物怖じせず、常にリーダーシップを発揮するタイプだった。学業も優秀、学年で十位を下ったことはなかった。
もともと陸上部の仲間として親しくはあったのだが、同じクラスになってからは一層親密になり、放課後、しばしば彼の家を訪ねるようになった。
何度目かの訪問の際に夕食を誘われ、以後、気がつけば、週に一度は呼ばれていくのが決まりのようになっていた。
遠慮も勿論あったのだが、訳あって祖父と二人暮らしだった私にとって雉子原家の人々と囲む食卓は実に楽しいものだった。
雉子原には八つ歳の離れた姉があった。名前は漢字で「野の衣」と書いて「のえ」と読んだ。
訪ね始めた頃は、いつも自室に籠もっていて、顔を合すことも稀だったが、やがて一緒の食卓に着くようになるにつれて、音楽や漫画などの話を少しずつするようになった。
弟とはまるで反対の、いかにもおとなしげな姉だった。
初めて会ったときには、その脂っぽいボサボサに乱れた髪と、寝間着と区別のつかないような格好に少し驚かされたものだったが、そのうちに段々と、会うごとに清潔に、服装も気を使ったものになっていった。
大の風呂嫌いだという話だったが、私が遊びに来るだろうと思われる日には早くから二度も三度も入浴して綺麗にしているのだと聞かされた。
「お洋服を選ぶのも大騒ぎなのよね、野衣ちゃん」
母親はそう言って笑うと、野衣を大いに恥しがらせた。
夕餉の食卓は母親と姉弟、それに私の四人で囲むことがほとんどだった。
父親の帰宅は大概遅く、私とはすれ違いのことが多かった。一族で株の大半を所有する電機会社の、当時は副社長を務める雉子原の父親は地元の名士で通っていた。
私はこの父親が少し苦手だった。
高校三年の夏休み最後の土曜日に野衣の誕生会があった。
家族の外に招かれた客は私だけだった。
大きなケーキが焼かれ、野衣は自分で裁縫をしたという青いラメ入りのドレスを着ていた。
食事がひと通り済んだところで、少し酒の回った雉子原の父親に卒業後の進路を尋ねられた。地元の国立大の教育学部へ進むつもりだと答えると、父親は意外そうな顔をした。
「何だ、雄一と一緒に東京の大学を受けるんじゃないのか」いつも以上に必要もなく大きな声だった。「いずれ戻ってくるにせよだ、男子たるもの、一度は都に出て己を磨いてくるべきだろう。この片田舎にいたんじゃ、いつまでも大海を知ることはできないぞ」
「しかし、祖父のこともありますから」
「それにしてもだよ。それにしても、教育学部か。教員を志そうというのか、君は?」
「はい」
「教員を志望するような輩なんて、昔から覇気のない、つまらない奴と相場が決まっていたものだがね。君ほどの成績があって教育学部もないだろう。ここにも医学部だってなんだってあるんだから狙ってみたらいいじゃないか」
「いえ、やっぱり家のことを考えると冒険はできないですから」
「いろいろ事情があるんだよ、父さん」雉子原が助け船を出してくれた。「それに、こいつは教師に向いてると思うよ。真面目で、誠実で。他人のことに真剣になれて。僕はどちらかというと人を強引に引っ張っていくようなところがあるけど、こいつはさ、我慢強く人を押し上げていけるタイプなんだよ。そういうタイプこそ、教師にはぴったりなんだ。そうだろ、野衣ちゃん?」
「え? ええ」
突然話を振られて野衣は大いに戸惑った様子だった。
「だいたい野衣ちゃんだってさ、こいつがこっちに残ってくれた方が嬉しいだろ?」
思いがけない話の方向に私も野衣もただ赤くなるばかりだった。
「馬鹿なことを言うな」
父親は不愉快そうに顔をしかめた。
高校の卒業とともに雉子原は東京へ出て行った。
私が雉子原の家を訪ねることもなくなっていた。
大学に入って初めての夏季休暇も終ろうとする頃、ようやく九月になってから雉子原の帰省があった。
私も久しぶりに彼の家を訪ねることになった。
約半年ぶりになる訪問を野衣は心待ちにしてくれていた様子だった。慣れない化粧を施し、お姫様のように着飾った姿で私を迎えてくれた。テーブルには母親を手伝って作ったという御馳走がこぼれんばかりに並べられていた。
「料理を随分覚えたの」
そう言ってはにかむ野衣の姿は何ともいじらしかった。
「これも、これも、これも! 全部お手伝いしたの」
野衣は喋り続けた。
「これは全部ひとりで作ったの!」
料理に手をつける間も惜しんで、身振り手振りを交えながら喋り続け、笑い続けた。
ずっと、まっすぐに、私を見つめたまま。
そんな野衣のことがいじらしく思えたのは本当のことだ。だが、同時にまた少しばかり滑稽なように感じられたのも本当のところだった。学生生活を送る中で、同年代の女の子たちとの付き合いも当たり前になり、私の感覚もかつての男子校の生徒のそれとは違ってきていたのだと思う。野衣の振る舞いのぎごちない無邪気さに、どことない居心地の悪さを覚えていた。
私のそんな部分を野衣も感じたのだろうか。
喋り続け、笑い続けていたのが、次第に口数も少なくなり、目も伏せがちになっていった。
最後は雉子原と母親の声ばかりが行き交う中で食事は終えられた。
居間に場所を移してからも野衣はずっと黙ったままだった。
帰り際になって、クマのぬいぐるみを手渡された。
苦労しながら全部一人で作ったのだという。
「本当はお食事のときにあげたかったんだけど、喜んでもらえるか分らなかったから」
笑顔を作ろうとして、上手く作れずに、口もとが泣き出しそうな形に歪んでいた。
私は思わず野衣を抱きしめそうになった。
「嬉しいよ、ほんとに嬉しい。ありがとう」
大袈裟なほどに喜んで見せたのは、何かを取り繕うためではなかった。
ひたすらに野衣に気持ちを伝えたかったのだ。
「よかった」
野衣の顔にようやく笑顔が戻っていた。
新学期が始まってしばらく経った日曜のことだった。
アルバイトに向かう仕度をしていたところに突然、野衣が訪ねてきた。
ひとりで出歩くことはほとんどないと聞いていたので驚かされた。母親に手伝ってもらってケーキを焼いたので届けにきたのだという。
「よく場所が分ったね」
「うん。雄ちゃんに地図をファックスしてもらったから」よそ行きの服を着た野衣は頬を上気させていた。「男の人のお家って、私、初めてだな」
一緒にケーキを食べ、少しお喋りをして、帰りは野衣の家の前まで送っていった。アルバイトはギリギリで間に合う時間だった。
「今度来るときはその前に電話をもらえるかな。出かけてるときもあるからさ」
「わかった」
それ以来、菓子を焼いた、料理を作ったといっては野衣は訪ねてくるようになった。
冬の終わりに、ひどい嵐の日があった。
傘も差せないような中を、ずぶ濡れになって野衣が現れた。
「とても上手に焼けたから、どうしても届けたくって」
私は野衣を抱きしめていた。
冷え切った耳に接吻していた。
着替えをさせるわけにもいかないので、野衣をストーブの前に座らせ、電話を掛けた。母親が車で迎えに来てくれることになった。私たちは寄り添って熱い紅茶を啜りながら、車の到着を待った。
車の音が聞え、私たちは玄関に向かった。
ドアの前で私はもう一度野衣を抱きしめた。
野衣は甘えたように私の胸にしがみついてきた。
それが私たちの交わした二度目にして最後の抱擁だった。
その日を最後に野衣の訪問はぷっつりと途絶えてしまった。
半月が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、私は物憂い日々を過ごしていた。
突然嫌われた理由も思い当たらなかった。
こちらから電話をしてみる時期もとうに逸しているように思えた。
悶々としたまま、二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎようという頃、雉子原から電話があった。
「おまえ、野衣ちゃんを妊娠させたのか!」
まったく身に覚えのない話に私は愕然とするばかりだった。
必死の弁明に雉子原は納得したような、しないような声を出していたが、最後にこう言った。
「とにかく親父が怒り狂ってるから」
しばらくは大変な騒ぎだった。
雉子原の父親が私の言い分を飲み込んでくれたのかは分らない。告訴するだ、慰謝料だ、の話は引っ込められたものの、ともかく雉子原家の者とは今後一切の縁を絶つようにと申し渡された。野衣とは顔を合せることもなく、すべてが終った。
いったい誰が相手だったのか。
騒ぎの間も、収まった後も、それが気になって仕方なかった。
身の潔白云々以前に、その相手のことが気になって胸が焼かれるようだった。
こっそり連絡をつけた雉子原に尋ねてみたが無駄だった。うやむやなままに終らせたのか、私には知らせる必要もないということだったのかは分からない。
騒ぎの最中に会った雉子原の母親が、そういえば何かを含んでいるような様子だったかもしれないとも思ったが、今さら確かめる術はなかった。
(二)
実は、野衣からはその後一年ほど経ってから、一通の手紙が届いていた。
近況を記した無邪気な本文には、たくさんの色鉛筆を使ったイラストが添えられていた。
その最後にこうあった。
「父がもう会ってはいけないというので、会いに行けません。私も悲しいです」
私は勿論返事を出さなかった。
(三)
地元で教職につくことはせず、私は大学を卒業すると在京の食品会社に就職した。
どこへ行っても雉子原家の影が差す郷里の空気が息苦しく感じられていたということもあったかもしれない。
「別に俺のことは考えないでくれていいよ、お互い気儘にやるのがいいさ」
そう言って東京へ出ることを後押ししてくれた祖父も、私が二十八になった年、齢八十で亡くなっていた。
その葬式以来の、実に十年振りになる故郷の地を私は踏んでいた。
祖父の弟である大叔父の葬儀に出席するためだ。
有給も使って私は四日間の休みを取っていた。久しぶりの故郷をせっかくだから懐かしんでおこうという気分になっていたのだ。
葬儀の翌日、昼近くになって私はホテルを出て、バラの名所で知られる市の北部に位置する公園に足を運んでみた。
平日の昼間だったが、公園には意外な人出があった。
男たちの姿が目立った。
営業の外回りの途中で休んでいる風な者もあれば、当てもなくただブラブラとしている風なものも少なくなかった。酔っ払って歌っている者もあれば、おかしな目つきで周囲を睨め回している者もあった。
そんな中の一人が、辺りを気にしながらも頻りに何かを窺っている様子なのが目についた。
視線の先を追ってみると、そこにはひとりの女の姿があった。
池の畔の柳の根方を囲う縁石に女がひとり腰を下ろしていた。
老女のようだった。
長いスカートを穿いていたが、縁石が極低いものである上に、立てた両膝をだらしなく開き気味にしているので、角度によっては中が覗けて見えるのかもしれない。
先の男の他にも、気がつけば何人かの男たちが腰を中途半端に屈めた格好で、見えるような、見えないような角度のあたりをうろうろと行ったり来たりしていた。
私は女に近づいてみた。
女は老女ではなかった。
近づいてみて分ったが、風に吹かれるにまかせた艶のない短い髪が白茶けて見えるのに惑わされていただけで、実際にはずっと若くも見える女だった。
女は野衣だった。
どうしても野衣だと思えた。だが、確信は持てなかった。
そう思えてならないけれど、声を掛けることもできないまま、私は女の前を通り過ごして、引き返して、また通り過ぎた。適当な所まで歩いてから、もう一度ゆっくりと引き返し始めたところで、女はこちらに気づき、立ち上がった。
「野衣さん」私は呼びかけてみた。「雉子原野衣さんじゃありませんか」
答えはなかった。
私は女の正面に回って、それとなく目を合せながら、無理やりな笑顔を作って見せた。女はつられたように意味のない笑みを浮かべ、首を傾げた。私はもう一度しっかりと視線を合わせ、強い調子で頷いて見せた。女もつられて頷き返してきた。
しばしの間、私たちは黙ったまま微笑み合って立っていた。
先に口を開いたのは、彼女だった。
「デート、しようか」
「デート?」
「そう、デート。しない?」
女は、野衣は、探るような目で私の目を覗き込んできた。
牛のようなきれいな目だった。
なんとなく合点がいって、私は答えた。
「お金があまりないんだけれど」
「そんなの構わないわよ」
「でも、それじゃあ申し訳ないから」
「いいから。さあ、少し、歩きましょう」
促されて、私たちはバラ園の方へと歩き出した。
野衣は極端に動作が遅かった。並んで歩くのも難しいほどの遅さだった。ゆっくりと数歩進んでは立ち止まり、またゆっくりと一歩二歩進む調子だった。
そうやってゆっくりと歩きながら野衣は私の顔を見上げ、必要以上に明るい笑顔を浮かべて見せるのだった。
ひどく痩せこけた顔だった。
まだらになった白い化粧の下に頭蓋骨の継ぎ目が透けて見えそうだった。剥き出される歯茎が紫色に腫れていた。小鼻の付け根と口角に小さな瘡蓋があった。虫に喰われたように皮膚が所々破れていた。
「蒸し暑くてイヤだね」と、私は話しかけた。
「そうね」と、野衣は短く答えた。
ようやく辿り着いたバラ園の端のベンチに私たちは並んで腰を下ろした。
満開目前のバラの香りが辺りを包んでいた。
「大丈夫?」
「大丈夫よ」そういいながら、野衣は大きくため息をついた。「やだ、おばあさんみたいね」
「そんなことないさ」
「やさしいのね」鬱血した歯茎を剥き出して野衣は微笑んだ。「彼女いるんでしょ?」
「まあ、一応ね」慌てて結婚指輪を隠しながら、私は答えた。
「そうよね。まだ若いんでしょう、彼女。二十代? それとも十代かしら?」
「まあ普通だよ」
「そう。そんな若い彼女がいるんじゃ、こんなおばさんには興味ないわね」
「そんなことはないけどさ。それより、あなた、野衣さんはどうなの?」
「なにが?」
「彼氏はいないの?」
「私? 私はいないわよ。だからこうしてデートしているの」
ぬるい風が吹き抜けて、野衣の薄い髪をなびかせていった。
こめかみの皮膚が剥がれてしまいそうだった。
それを見て私は胸が悪くなりそうだった。
「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ」
そう言ってベンチを立ちかけた。
「待って。ねえ、触ってみる?」
「え?」
「いいから、ちょっと触ってみて」
そう言って野衣は私の手を取ると、薄いブラウスの下に導いた。
下着は着けていなかった。
カサカサに乾いた肌の感触が恐ろしかった。
「もういいよ」
「遠慮しないで。いいのよ、ゆっくり触っていて」
「ああ」
「下の方も、ほら、触ってみて」
恐ろしさに魅入られていたのかもしれない。私はもう一方の手を野衣の尻に這わせていた。スカートの下で厚手の下着がたぐまっている感触があった。もの悲しくなるような感触だった。
そのままの姿勢で固まったまま、しばしの時が過ぎた。
「本当にそろそろ行かないと」
「そうなの?」
「ごめん」
「こちらこそ、ごめんなさい。無理に引き止めてしまって」
「そんな、謝らないでよ」
今度こそ私はベンチから立ち上がった。
野衣は切羽詰ったような顔で私を見上げていた。
「本当にごめんなさい。こんなおばさんが無理を言って」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
私は財布から一万円札を一枚抜き取って、野衣の手に握らせた。
「だめよ、これは貰えないわ。何もしてないんだから」
「触らせてもらったじゃないか」
「だめよ」
「いいから、気持ちだから」
「そう?」
「そうだとも」
「本当にごめんなさいね」
そう言いながら野衣は札を小さなポーチの中にしまった。
「じゃあ、行くね」
「待って。公園の出口まで送るわ」
「いいよ。ちょっと急いでるし」
「そうなの?」
「うん」
「ねえ?」
「なに?」
「また会えるかしら? 今度はもっとゆっくり」
「それは無理だろうな」
歩き去りながら、私は二度振り返った。
二度とも、女は腰の高さに構えた手を小さく振っていた。
そんな仕種まで記憶の中の野衣にそっくりだった。
三度目を振り返ることはなかった。
私はそのまま公園を後にした。
(四)
当初の設定では、野衣は雉子原の八つ年下の妹ということになっていた。
タイトルも『恋の翼』というものを考えていた。恋の軽やかな翼があればどんな垣根をも越えて行けようという科白からとったものだ。
この設定では、教職に就いた私がその赴任先の生徒である野衣と再会し、恋に落ちることになっていた。
秘められた関係は、だがほどなく露見し、二人の仲は引き裂かれることになる。
教職を追われ、なんの当てもないまま何処の地へか逃げ落ちようする私に、家を抜け出て忍び合いにきた野衣が駅で一つの壺を手渡す。
「二人をつなぐ魔法の壺なの」
『恋の翼』の銘を持つその壺を、必ず身近な明るい場所に飾っておいて欲しいと野衣は言う。
「きちんと飾っておいてくれたら、先生がどこにいようと必ずまた会うことができるから。そう、来年の五月の休みには必ず!」
そう念を押して去っていった野衣だったが、果たして私は忙しさにかまけて、その壺をスーツケースの中に仕舞い置いたままにしておく。
やがて新しい年度が明け、五月の連休がやってくる。
私は野衣の言葉をすっかり忘れていた。
連休が終わる頃、雉子原から、野衣の行方が知れないとの連絡を受ける。
私は胸騒ぎを覚えるが、その正体が何であるのかは分らない。
そうして更に一週間が過ぎる頃、部屋に異臭がこもり始める。臭気は日毎にいや増し、私はその臭いの元が納戸に押し込んだままのスーツケースであることをつきとめる。
そうして開けてみたスーツケースの中には、件の壺から半身を抜け出そうとした野衣が雑多に詰め込まれた中身の間で上半身を折り畳まれ、苦悶の叫びを顔に貼り付けたまま腐乱し始めていたのである。
いずれの設定も同じ主題の変奏なのだけれど、どちらを採り、どちらを棄てるべきかの決断がつかず、一方を主とし、片一方を附とする形で併せて紹介してみた。
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