「すみません、もう一度お願いできますか」私は訊き返した。
「尻を切り取ってきて欲しいんですよ」穏やかな顔で老紳士は繰り返した。「コンラッドの」
「コンラッドといいますと、つまり……」
「ジョゼフ・コンラッドです、『ロード・ジム』の」
「『闇の奥』の?」
「そう、『ノストロモ』のコンラッドです」
「……はあ」
思わず間の抜けた声を出してしまった。
コンラッドがどのコンラッドが分かったところで──どうすればいいのだ。
「ご存知なら話が早い」
私が明らかに示しているはずの困惑は気にもとめない様子の依頼人だった。
「存じてはいますが……随分昔に亡くなっていますよね、コンラッド氏は」
「ええ、一九二四年に亡くなっています。イギリスで」
「ということは、その一九二四年以前のイギリスに渡って、コンラッド氏の尻の肉を切り取ってくるように──ということになりますか、ご依頼の内容をまとめると」
「そういうことになります」
「はあ」
またしても間抜けな声を漏らしてしまった。
アポイントメントの電話を受けたときの話しぶりは至極丁寧なものだったし、事務所のドアを開けて入ってきた、その服装をみたときには、久しぶりの上客だと思ったのだが──。
「引き受けてはいただけませんか」
右の眉だけを持ち上げて、老紳士は少し寂しげな表情を作った。
「いえ、お引き受けすることについては吝かではないのですが……」言い淀みながら私は言葉を続けた。「……失礼ですが、いったいどんな風にすれば、そんなことが可能だと思っていらっしゃいますか」
「それを私どもが考えなければならないのですか」
「そうではなくて、つまり……」
「つまり?」
「たとえば、人の尻の肉を切り取れば傷害罪にあたるわけですが」
「既に死んでいる人物の尻であってもですか」
「死者の尻の肉であれば死体損壊の罪になりますね」
「九十年近くも経つのですから、損壊しようにも、一片の肉も残っていないでしょう」
「そう、そういうことですよね」私は大きく頷いてみせた。「その一片も残っていない尻の肉をですね、どうすれば切り取ってくることができるのか、それが問題なんです」
「ええ、承知しております。ですから、こうしてご相談させていただいてるわけで」
「……なるほど」
見た目にはどこまでも真っ当そうに見える依頼人だった。
少し考えて、私は返事をした。
「分かりました。お引き受けしましょう」
老紳士は顔を輝かせた。
「おお、お願いできますか。有り難い!」
差し出された手を握りながら、費用の説明に入った。
着手金で五十万、経費は別にして、二百五十万を成功報酬でというこちらからの提示額を老紳士はすんなりと受け入れた。服装から推し量ったとおり、気前のいい上客だった。
一週間後、私はチルド保存した肉片を依頼人に手渡した。
これで念願のコレクションが完成する──と大喜びで、老紳士は経費込みで額面三百万円の小切手を切っていった。
早速現金化しようと入金の手続きをしたところ、窓口の女性に笑われてしまった。
「何のご冗談ですか」
いわれて確かめてみれば、小切手は子供騙しのような架空の銀行が発行したものだった。
一瞬頭に来たが、こんなものかなと思うと何だか笑えてきた。
こちらが用意したのも、伝を頼って食肉センターから取り寄せてもらった皮付きの豚の尻肉だったわけだし、お相子というには着手金だけで随分儲けさせてもらったので文句はなかった。