喜びはどこからともなくやって来る。

May 21 [Mon], 2012, 18:07
瞑想は冒険だ。
それは、人間の精垂ェ引き受けることの出来る、もっとも偉大なる冒険だ。
瞑想とは何もせずに、ただ在ること行為も、思考も、感情もない。
ただ在るだけで、それがまったくの喜びとなる。
あなたは何もしていないのに、この喜びはどこからやって来るのだろうそれは、どこからともなくやって来る。
あるいは、あらゆるところからやって来る。
それには原因がない。
というのも、実在は喜びと呼ばれる材料によって造られているからだ。
あなたが何もしていない時肉体的にも、精嵩Iにも、どのレベルにおいてもすべての行為がやみ、あなたがただ単に在り、存在そのものである時、それが瞑想だ。
それを為すことは出来ない。
それを修練することはできない。
あなたは、それを理解しなければならないだけだ。
ただ在るための時間が見つけられる時はいつでも、すべての行為を落としなさい。
考えることも行為であり、集中することも行為であり、黙考することもまた行為だ。
たとえほんの一瞬でさえ、何もせず、ただ自分の中心に完全にくつろいでいられるならそれが瞑想だ。
ひとたびそのコツを会得すれば、あなたは好きなだけその状態にいられるし、ついには1日24時間その状態に留まることも出来る。
ひとたび、あなたの本性が乱されない方法に気づけば、徐々に自己の本性が妨害されず、しかも注意深く在り続けながら物事をすることが出来るようになる。
最初は、いかにしてただ在るかを学ぶ。
それから、単純な行為を学ぶ。
自分自身の中心に定まったまま、床を掃除したり、シャワーを浴びたりする。
そうしているうちに、もっと複雑なことも出来るようになる。
たとえば、私はあなた方に向かって話している。
だが、私の瞑想は乱されない。
私は話し続けられる。
だが、私のまさに中心にはさざ波ひとつ立っていない。
そこはまったくの静寂だ。
完全に静まり返っている。
だから、瞑想は行為に対立しない。
それは、あなたが生から逃避しなければならない類のものではない。
それは、ただ生の新しい道を教えるにすぎない。
あなたは台風の目になる。
あなたの生は続く。
それどころか、それは以前より強烈に継続する。
より一層の喜びと、より一層の明晰さと、より一層のビジョンと創造性をともなって。
それでいて、あなたはただ丘の上のものみとして、超然と、自分の周りで起こっているすべてを見ている。
あなたは行為者ではない、見守る者だ。
見守る者、観照者になることこそが、瞑想における秘密のすべてだ。
行為がそれ自体のレベルにおいて継続することには、何の問題もない。
木を切り、井戸から水を汲み出すというように、あらゆることをしてもよい。
だが、ひとつだけ許されないことがある。
つぼみそれは自分の中心に定まっているという質が失われてはならないということだ。
この気づき、この注意深さは、絶対に曇らされず、揺るぎないままであるべきだ。
そこには、ただひとつのステップしかない。
そして、そのステップとは方向の次元のものだ。
私たちは、外側に焦唐合档Pることが出来る。
あるいは、外側に目を閉じて、内側の意識全体に中心を定めるそして、あなたは知る。
あなたは知る者、あなたは気づきだ。
あなたがそれを失ったことは決してない。
ただ無数の物事の中で、気づきをもつれさせてしまっているに過ぎない。
あらゆるところから気づきを取り戻し、自分自身の内側で休ませなさい。
そうすれば、あなたは我が家に辿り着いている。
瞑想の本質的な核心、その真髄は、いかに観照するかを学ぶことにある。
カラスが鳴くあなたは聴いている。
ここにはふたつのもの、主体と客体がある。
だが、そこに両者を見ている観照者が見えないだろうかカラス、聴く者、なおかつその両者を見守る誰かがいる。
これは非常に単純な現象だ。
あなたは木を見ている。
あなたがいて、木はそこにある。
だが、もうひとつ発見出来ないだろうかあなたが木を見ているということを、そしてまた、木を見ているあなたを見ている観照者が、あなたの中にいるということを見守ること、観照することが瞑想だ。
何を見守るかは問題ではない。
あなたは木を見守ることが出来る。
あなたは河を見守ることが出来る。
あなたは奄激D守ることが出来る。
あなたは、子供たちが遊ぶのを見守ることが出来る。
見守ることが瞑想なのだ。
何を見守るかは要唐ナはない。
対象は問題ではない。
観察の質、気づき、油断なく醒めているという質それが瞑想だ。
いいかね。
瞑想とは、醒めて気づくことだ。
気づきながらすることは何であれ瞑想だ。
行為が問題なのではなく、行為に持ち込む質が問題なのだ。
油断なく醒めて歩けば、歩くことが瞑想となる。
油断なく醒めて坐れば、坐ることが瞑想となる。
気づきを持って聴けば、鳥のさえずりを聴くことが瞑想となる。
油断なく醒め、注意深ければ、心の内なる騒音を聴くことが瞑想となる。
そのポイントのすべては眠りの中で動くべきではないということだ。
そうなれば、何をしようと瞑想となる。
気づきの第一歩は、肉体に注意深くあることだ。
次第に、それぞれの仕草、それぞれの動作に油断なく醒めてくる。
そしてあなたが気づくにつれて、奇跡が起こり始める。
あなたが以前にしていた多くのことが単純に消え失せる。
体はより一層くつろぎ、より一層調和してくる。
深い平和が体の中に広がり始める。
妙なる音楽が、体の中で脈打つようになる。
そうなったら、あなたの思考に気づき始めなさい。
同じことが思考についても為されなければならない。
それらは肉体より微妙で、もちろんより危険でもある。
自分の思考に気づくようになれば、自分の内部で起きていることに驚くだろう。
いつでもいいから、起きていることを書きとめてみれば、あなたは非常な驚きに見舞われるだろう。
それが、自分の内側で起きていることだとは信じられない。
そして、10分後にそれを読んでごらん。
内側に狂ったマインド思考、想念を見るだろう。
私たちが気づいていないため、この狂気全体が潮流のように底を流れ続けるのだ。
それは、あなたが何をしていようと影響を及ぼす。
それは、何もしていなくても影響を及ぼす。
それは、あらゆることに影響を及ぼす。
そして、その総計があなたの人生だ。
だから、この狂人が変容されなければならない。
そして気づきの奇跡とは、ただ気づくこと以外には何も必要としない、というところにある。
まさに見守るという現象が、それを変える。
徐々に狂人は消え、ゆっくりと思考が一定のパターンの中に落ち着き始める。
もはやそこにカオス混沌はない。
それは、秩序あるものになる。
そうなれば、再び、より深い平安に包まれる。
そして、体とマインドがくつろいでいる時、あなたはそれらが協調し合っていることを知る。
そこには橋がある。
いまや体とマインドは別方向に走っていない。
それらは別々な馬に乗ってはいない。
そうして初めて、そこには調和がある。
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