自由意志の道徳的責任 

2014年06月23日(月) 23時04分
社会は普通、人々は自己の行為に責任を負っており、各人が何をするかに応じて賞賛や非難を受けると言うであろう。ところで、多くの人々は、道徳的責任は自由意志を前提とすると信じている。そこで、自由意志に関する論争におけるもうひとつの重要な論点は、各人は自己の行為に道徳的な責任を負うのか、そして、もし負うとすればどのような意味で負うのかという問いである。

◯固い決定論の見解
非両立主義は、決定論は道徳的責任と相性が悪いと考える傾向にある。人が、時間の流れの初めから予見されえる(あるいは予見される潜在的な可能性がある)行為に対して責任を負うということは、不可能に思われる。固い決定論は、「これほど自由意志にとって不利なことはない」と言い、決定論を擁護して、自由意志の概念を放棄する[44]。著名な弁護士であるクラレンス・ダロウは、彼の依頼人であるレオポルドとローブの無罪を主張するにあたって、このような固い決定論の観念を引き合いに出す[45]。

◯自由肯定論者の見解
反対に、自由肯定論者は、「これほど決定論者にとって不利なことはない」と言う[46]。サルトルは、人々は時々、有罪および有責性を決定論を隠れ蓑にして避けようとすると論じる。「我々は常に、この自由が私たちにのしかかるとき、あるいは、私たちが免責を必要とするとき、決定論という信念の中に逃げ込む」[47]。自由肯定論者は、決定されていない行為は完全にランダムなのではなく、それらは、その判断をまだ定められていないところの実体的な意志に由来すると反論する。両立主義者はこのような論証を十分であるとは考えない。なぜなら、これは、道徳的責任を非決定論に依存させることによって,問題を棚上げにしているからである。つまり、このような論証は、無からは何も生じないというような何か不可思議な形而上学を孕んでいる。自由肯定主義者は、未決の意志がどのようにして有体的な行為と結び付くのかということを明らかにするのに苦労してきた[48]。

◯両立の模索
道徳的な責任という論点は、固い決定論と両立主義との論争の中核部を占めている。固い決定論は、個々人は両立主義的な意味における自由意志をしばしば持っているということを受け入れるように迫られるが、しかし、彼らはこのような意味における自由意志が道徳的な責任の根拠になりえるであろうことを否定する。行為者の選択が強制されていないという事実は、固い決定論者が主張するところによれば、決定論は行為者から責任を奪うという事実を何ら変えない。
両立主義者が論じるところによれば、反対に、決定論は道徳的責任の前提条件である。社会は、ある人の行為が何らかの形で決定されていないかぎり、人に責任を負わせることができない。このような論証は、デビッド・ヒュームにまで遡ることができる。もし非決定論が真であるならば、決定されていない事象はランダムだということになる。神経システムによって勝手に引き起こされる行為を実行したという理由である人が賞賛されたり非難されたりするのはおかしい。むしろ、人が誰かに道徳的責任を負わせるためには、その行為がその人の欲求および選好すなわちその人の固有の性格から生じたということを明らかにする必要がある[49]。

参照:Wikipedia「自由意志

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哲学における自由意志 - 形而上学的自由肯定主義 

2014年06月23日(月) 23時03分
非両立主義に属するもうひとつの考え方は、形而上学的自由肯定主義である。自由肯定主義によれば、自由意志は実在しており、与えられた確定的環境の下で、個々人が2つ以上の可能な過程を選ぶことができることを要する。可能な未来は1つしかないということを含意しているので、自由意志の概念とは両立せず、偽でなければならない。
自由肯定主義の観点は、超自然的理論と科学的ないし自然的理論とに下位区分される。超自然的理論によれば、非物理的な知性ないし魂が物理的な因果関係を克服し、その結果、行為の発言に繋がる脳内の物理的な事象は完全に物理的な説明を受け付けない。このアプローチは、心身二元論と関連しており、神学的な動機を有しているかもしれない。
自由肯定主義の科学的な説明、すなわち、自由肯定主義的な自由意志を自然な自由意志として記述する説明は、時として、汎心論や、あるいは、知性の性質はあらゆる部分に浸透しており、そして感覚する存在と感覚しない存在の両方を合わせた全存在に充溢しているという理論を引き合いに出す[43]。もうひとつの自然的なアプローチは、自由意志がこの宇宙の基礎的な構成要素であることを要求しない。いわゆるランダムが、自由肯定論者によって必要不可欠であると信じられている活動の余地を提供するために引き合いに出される。自由な決断は、複雑性の一種、つまり、非決定論の要素と結び付いた高次のプロセスであるとみなされる。このようなアプローチの例は、ロバート・ケインによって発展させられた。

参照:Wikipedia「自由意志

哲学における自由意志 - 必然的な成り行きからの論証 

2014年06月23日(月) 23時02分
非両立主義の3番目の論拠は、1960年代にカール・ギネットによって定式化され、現代の文献の中で大きな注目を受けている。その単純な論証は、以下のような文章で足りる。もし決定論が真であるならば、私たちは、私たちの現代の状態を決定している過去の事象をコントロールすることができず、また、自然法則をコントロールすることもできない。私たちはこれらの事柄をコントロールすることができないので、同様にそれらの事柄の必然的な成り行きをコントロールすることもできない。私たちの選択や行為は、決定論の下では、過去および自然法則の必然的な成り行きであるから、私たちはそれらをコントロールすることができないし、またそれゆえに、自由意志も持たない。これは、必然的な成り行きからの論証と呼ばれる[39][40]。
つまり、両立主義にとっての難題は、両立主義が、人はその人が為したのと別様の選択をすることができないという不可能性を孕んでいるという事実に存する。例えば、両立主義者でありちょうど今ソファーに座っているジェーンは、もし彼女が望んだならば彼女は立ったままでいることもできたはずだという主張を受け入れるだろう。しかし、必然的な成り行きからの論証によって帰結されるのは、仮にジェーンが立ったままでいたならば、彼女は自然法則に違反するかあるいは過去を変更するという矛盾を引き起こすことになるということである。したがって、ギネットおよびヴァン・インワーゲンの主張によれば、両立主義者は、自分が信じていない能力の実在性を受け入れているということになる。このような論証に対する反論のひとつは、能力に関する観念と必然性に関する観念とは実は等価であるというものである。別の反論によれば、自由意志が行われた選択を引き起こしたのだということは幻想であり、選択というものは初めから、その決定者などというものとは無関係に為されるのだというものである[41]。デイヴィド・ルイスによれば、両立主義者が受け入れているのは、もし現実に過去にあったのとは異なる事情があったならば何かを別様に為すことができたという能力だけである[42]。

参照:Wikipedia「自由意志