質問・投稿の仕方について

2006年01月05日(木) 14時57分
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mih
(投稿のしかたについて)
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2007年10月01日(月) 9時18分
mih
(回答2)
4)にもかかわらず、あなたの仰ることもよく分かる気がします。それは、「悲しい」としか言いようのないような単純な読み方しか、私たちは獲得してこなかったからでしょうね。しかし、長いこと「暗い漱石」というのが主流であった読み方が、しばらく前に「明るい漱石」が提唱されてだいぶ変わりました。(「明るい漱石」もどうかとは思いますが。)『こころ』なんて、辛気くさくて私は好きじゃありませんけど、「明るい漱石」以後の読み方には、なかなかブッt飛びのものがありますよ。

5)あと、「お涙頂戴」もまた日本だけではないでしょうが、制作者も受容者も、ある定型によって確実に泣けるし売れる、というような安心感がそこにはあるのですね。すぐれた文学作品は、常にある「危機」を宿しているのですが、「危機」のない、あるいは「危機」を感じさせない、安心してそこに入れるような場所も、時にはあってよいのではないでしょうか。もちろん、いつまでもそんなぬるいお風呂につかっていると、皮膚がふやけきってしまいますよね。

 いずれにしても、最後に帰ってくるべき地点は、一度到達した自分の読み方を、「それはほんとうか?」と自分で疑ってかかる思考だと思います。ほんとうに「悲しい」のか、ほんとうに「お涙頂戴」なのか、もう一度、読解にトライしてみてください。
2007年10月01日(月) 9時15分
mih
(回答1)
 よい質問ですね。授業でそれに似た質問が出ることがあります。それには、いくつか回答の仕方が考えられます。

1)「さよならだけが人生」なのだから、人生の本質は孤独で悲しいのです。だから、文学が悲しい結末で終わるのは、文学が人生を描く以上は当然のことなのです。

2)「悲しい」というのは広い意味を覆う言葉です。むしろ「楽しい」は狭く特定の状態なので、人間や世界をとらえるとすれば、さまざまな悲哀や苦悩の様相が、どうしても視野に入ってきます。だから、日本だけでなく、世界の文学で名作とされるものは、だいたい「楽しい」よりは「悲しい」ものが多いでしょう。『罪と罰』とか『ボヴァリー夫人』とか。逆に言うと、「悲しい」か「楽しい」かの二分法ではなくて、もっと評価の語彙を増やす必要があるということですね。

3)「楽しい」作品を読んで「楽しい」気分になることはあるでしょうが、「悲しい」作品を読むことが、とても「楽しい」ということはありませんか? 悲劇がその典型ですね。アリストテレスは、猛暑の日には熱いカレーうどんを食べて汗をどっさりかくと涼しくなるように、人間の存在基盤が崩落するようなどん底のカタルシスで終わる悲劇を高く評価しました。(もちろん、古典古代の人がカレーうどんを食べたかどうか、まだ調べたことはありませんが。)

 だいたい、彼と彼女が運命的な出会いをして、ラヴラヴに楽しく恋愛して、めでたくゴールイン! たくさんの子宝に恵まれて仲良く幸せに暮らしましたとさ、マル、などという恋愛小説を読んで、何か得るものがあるでしょうか? 好きなように勝手にやってくれ、というのが正しい反応のように思います。
2007年10月01日(月) 9時14分
くーら
ぜひ質問をさせていただきたくメールいたしました。今、日本文学についての情報を入手したいと思っているのですが、なぜ日本の文学には悲しい結末の話が多いのでしょうか?「お涙ちょうだい」は日本の文化なのでしょうか?
2007年10月01日(月) 1時54分
唱です
賢治とアイヌの関係を考えています。
まず、「トポスフィリア」賢治は「場所」に意味を持たせます。「場所に固執」します。「場所」に世界観宇宙観を投影します。「場所」に「物語性」を持たせます。
先にわたくしは十勝の音更町チンネルに住んでいたと申し上げました。「音更」とは「オトプケ」「風に髪をなびかせる少女」というアイヌ語です。「チンネル」とは「鹿の皮を干す丘」ということです。賢治に「北方系の血流を感じます」

音更町にはアイヌのコミュニティーがあります。一度チンネルの丘で昼から深夜までアイヌの神事に参加することができました。それは「場所」選びからはじまり、神がかり的なアイヌのダンスで終わりました。そのダンスにも物語があるのです。ヒステリックなまでのダンスです。賢治の人生や作品にヒステリックな面を感じます。

賢治とシャーマニズム
北方系インディアンの歌を歌ったことがあります。賢治の世界観童話と似た部分を感じました。北方系シャーマニズム、原始神道の雰囲気を感じています。

具体的な解明は今後の研究課題です。
研究の大まかなテーマ設定です。

みなさん、この方向性をどのようにお感じなさいますか。
2006年11月24日(金) 7時57分
唱です
私は山形氏を中心に練習場所とし山形県宮城県新潟県の団員で構成される「合唱団じゃがいも」というとっても
ヘテロなコロスに所属し歌手兼役者兼賢治解説者として活動しています。この合唱団は1974年に結成されルネサンスポリフォニーから現代へテロホニーまで意欲的に取り組んできました。構成メンバーは5歳から65歳までですが、団内結婚が多いため胎児のときから墓場までという考え方でやっております。
ここ12年ほど毎年「宮澤賢治の童話」の作曲を作曲家林光氏萩京子氏に委嘱し、演出に劇団黒テント出身の
加藤直氏、山本清多氏を迎え定期公演を行ってきました。来年の一月二十一日には東京公演があります。
みんな、職業や主婦業や学業を持っています。
これまで取り上げた賢治の作品は、「よだかの星」「雪渡り」「ケンジュウ公園林」「オイノ森と笊森盗人森」「かしわ林の夜」「鹿踊りのはじまり」「皮トランク」「黄色のトマト」「注文の多い料理店」「猫の事務所」「賢かった三人」です。
決してプロではありません。うまくもありませんが。とっても面白い集団です。
精神科医に言わせると、私は、賢治やシューマンやゲーテと同じパトスを持っているそうです。双極性気分障害というのだそうです。合唱団の中ではライブラリアンというとってもアライブなたんとうをさせていただいております。
こんかい、林光先生が「春と修羅」「序」の一節に曲を書いてくださり、いったいこの詩は「何を言っているのかかんがえろ」ということで、私もなすすべくもなく、土壌学だの電磁波だの光素だのとひねくり回したのが先の投稿です。
皆さんしばらく私の妄想にお付き合いください。
2006年11月20日(月) 22時38分
ミハル
 「わたくしといふ現象」がエーテルのような媒質であるととらえることは、『春と修羅』「序」からは不可能ではありません。しかし、詩編「春と修羅」のように、「はぎしり燃えてゆききする」様とはそぐわないものを感じます。また、電荷のあり方を直接的に、各々の詩語の解釈に適用しようとしても、もちろん自ずから限界があると思われます。

 ただし、土壌学専門の作家などというものは他になく、農学・化学・自然科学の知識が、賢治の文学の根底に地脈のように流れていたことは疑いもありません。言葉の発想法の根幹に、あなたの言われるような志向が働いていたと想定することはあながち、無理な見方ではないでしょう。解釈に直結するよりも、むしろ、そのような世界観の基盤として考慮に入れる方が生産的ではないでしょうか。

 童話の合唱劇とは、素晴らしい試みですね。役者は、素人ですか。それともプロ? 子どもですか。それとも大人ですか? 賢治も演劇や音楽にかける気持ちは並々ならぬものがありましたから、それは賢治の目指したものと合流する事業だと思いますよ。
2006年11月20日(月) 8時48分
私は宮澤賢治に中学時代感銘を受け、農学の道を選びました。そしてこの十年賢治の童話を合唱劇という形で上演してきました。
今回は、「春と修羅」の「序」いわゆる「青い照明」を
農学の立場から解明しようしています。
賢治は農学、特に土壌学の専門家です。土壌学の基本は多層の平板粘土鉱物の電荷のありようで決まります。
「+」「−」の電荷です。その電荷をきめるのが腐植「有機」物のありようです。有機物は「オルグ」で絶えず循環し「明滅します」。しかし土壌にはダイナミックバランスが働きあり変化しながらも一定の耐性/実態があります。電荷の実態は「−」の電荷です。賢治は「私という現象は仮定された有機交流電燈の一つの青い照明です」といっています。「わたくしという現象は」土壌学的に見れば「−」といっているのでしょうか。
電荷を帯びた土壌鉱物相互にはわずかな「空」「間」があります。その隙間を埋めるのが「エーテル」/「光素」です。質量がなく絶対硬度を持つもの。宇宙を満たすものです。賢治は「光素」を実感しています。
この光素こそが「わたくしという現象」という気がします。
文学専門でないわたくしの浅読みをお許しください。
2006年11月20日(月) 5時21分