12年過ぎても 

2007年01月17日(水) 5時09分
やっぱりこの夜は眠れないなあ、と思う。
眠ろうと思っていたのに、いつの間にか目がさめて気づくと明け方を迎えている。

雨だなあ。

追悼行事にむかわれる方、お風邪を召されませんように。


---------

途切れた記事の更新は続けます。

ガイド 

2006年12月31日(日) 12時45分
新着記事『鹿川くんの功罪』のトップをリンクします。
そこからは各記事の末尾にリンクをたどれます。

『鹿川くんの功罪。1。』

関連記事
『細木数子に言い返せ』

坂東眞砂子の『子猫殺し』について書いた記事のトップをリンクします。
そこからは各記事の末尾にリンクをたどれます。

生の充実、苦痛の現実

屁理屈のメリーゴーランド

断罪、それとも贖罪か

動物関連記事
スズメを拾った話。
あおちゃんのごはん。
フェイク。

鹿川くんの功罪。23。 

2006年12月10日(日) 0時04分
分かんないんだよね、私には。
復讐として死ぬって行動が。
自分の命に価値が無いって思ってたら死ねないでしょ。
価値ある命を絶たせたのだからこそ、加害者は裁かれるって思ってるんだもんね。

で、それだけ価値あるって思ってる命をなんで捨てられるのかな?
毎日ネットや新聞やテレビを見て、赤の他人が死んだニュースを見て、いちいち泣くか?
すぐ忘れるんじゃないのかな。
それと同じように、赤の他人だってすぐにこちらを忘れるのだ。

加害者も多分、忘れると思う。
罪悪感を感じにくい人が加害者になりやすいんだから。
あるいは、責任感を感じにくい人が傍観者になりやすいんだから。
そういう人たちが、クソ真面目に責任感や罪悪感を抱きつづけるとは、私には思えない。

忘れず一生引きずるのは、近しい人たちだけなのに。
自分が死んで復讐になるかな?
自殺という行動の刃は、本当は誰に向くのかな?

一体全体。

あんたらは誰に復讐をしたいんだ?????


・・・・・・と、マジで訊きたい。

モノの見方が狂ってないか?
そ、狂うんだよね。
いじめ、DV、その他の暴力って、長期間続くと確実にモノの見方が狂う。
私もそうだった。

逆に言えば。
狂ったモノの見方を修正さえさせられれば、被害者の自殺は防ぎやすいと思う。
続く

鹿川くんの功罪。22。 

2006年12月09日(土) 23時55分
自分の子供がいじめにあうかもしれないし。
自分の子供がいじめをやるかもしれない。
そうやって、いじめに怯え続けるって代償と引き換えだ。

私にはどうしても分からないのだ。
鹿川くんじゃなくて、その後に続いて自殺を図る人たちの気持ちが。

遺書を残す相手が居たくせに、『助けて』を言わなかった鹿川くんには今でも腹が立っている。
遺書を残す相手が居るなら、その遺書を受け取る人間の気持ちは何故考えないのだろうかと。
でも、それ以上に。
今自殺を図る人の気持ちが分からない。

鹿川くんの遺書の無力さを、まざまざ見ておいて。
なんで死ぬ気になれるのだろう。

たかが2ヶ月で忘れられるような、つまんない興奮と気晴らしの材料に自分の命を『ハイどうぞ』と差し出してしまう人の気持ちが分からない。
そのために、遺書を受け取る自分の家族や友人には生涯傷を残すのに。
自分の命は返らないのに。
どう考えても、割が合わない。

私は、自殺者には同情しないし、自殺者の言葉に耳は貸したくない。
この世を捨てた人間が、この世に力を及ぼそうなんて考えが甘い。
生命を引き換えにすれば、モノを言ってもいいと思うのか?
私の考えは逆だ。
モノを言うなんて、その程度の事と引き換えに自分の命を使うなよ。

聞いた世間はすぐ忘れるよ?
まあ、2ヶ月が限度でしょう。
赤の他人の命なんて、その程度のもんなんだよ。
それでも死ぬ?

まあ、自分の命は自分のものだから。
その程度の事に自分の命を使いたければ、使うのも自由だろう。
でも。
そこまでして言った言葉に、誰も耳を貸さなかったとしても、怒るなよと思う。
だって自分が捨てたものを、他人が軽く見たからって怒るのは変だろう。
一番軽く扱ったのは、自分だろう。
自分の手で捨てたんだろう?違うのか?
続く

鹿川くんの功罪。21。 

2006年12月02日(土) 3時08分
じゃあリーダーが悪いのか?

そうとも言えるが、そーでもない。

リーダーに付いて行く人たちって。
実は『服従する』っていう屈辱と引き換えに、『無責任』という自由、気楽さを手に入れた人たちなんだ。

いじめに限らないよ。
仕事の構図は大体これで成り立ってる。社会の構図が、そうなんだよ。
私は仕事をしてみて初めて、この構図に気がついた。

これは、全部に共通する構図なんだ。
でも、ここを突き詰めると話がどんどんずれていくから、とりあえず話をいじめに戻す。

だから、その他大勢がリーダーを無視したら、いじめって成立しない。
でね。

自分の家が燃えても何も感じないような、そんな空虚やどうしようもない攻撃衝動を抱えている人間なんて、そんなにたくさん居やしない。
ほとんどの人間は『その他大勢』の一員だ。
少数のリーダーに悪いことさせて、で、自分の身は安全圏に置いて。
大勢の中の一人になって、程よく暴力を楽しんでいた。

あのクラスメイト達と、加害者バッシングをやっている世間様と、一体どこが違うんだろう。
私の目には、同じに見える。

本当にいじめに怒るなら、自分の身近にあるいじめに立ち入って仲裁してみな。
しないでしょ?
する気もないでしょ?
厄介事は嫌いだもんね。

鹿川くんの死から、20年も過ぎたのに。
何も変わらなかったのは何故だろう。
誰も、自分の問題として考えなかったからだ。
加害者バッシングをやって、正義の仮面を被って、自分の気を済ませたからだ。
だから2ヶ月でスッキリ忘れる。

でも。
このツケは結構大きいよ。
続く

鹿川くんの功罪。20。 

2006年12月02日(土) 2時30分
これ、ほんっとに昔から疑問だったんだけど。
『個人の責任を問う』という事と、『社会の責任を問う』っていう事は、なんで二者択一になってるんですか?

昔は、何かあると『個人の責任を問うだけで良いのか』って問い掛ける風潮があった。
社会の責任を考える風潮があった。
でも、それをやると何故か個人の責任はチャラになる。
悪いことをやった奴は、『俺をこんなにした社会が悪い』という切り札を出して、自分の罪からサッサと逃げる。
んなアホな。

やった奴は悪い。
逃げ得を許すな。
そういう怒りが出てきたのは当然だろう。
でも、その怒りが『加害者個人の責任を問う』って方向に暴走した途端、社会の責任は不問になった。
おかしくないか?

加害者の責任は問うべきだ。
でも。
社会の責任は、それはそれで、決して不問にしてはいけない。

むしろ、個人の責任を問うことで、社会は無責任になれるって錯覚が、最近世間にこびりついてるような気がするんだけどな。
気のせいか?

さて問題です。
個人の責任を問うた途端、社会の責任がチャラになるのは何故でしょう?
答え。
その方が気が楽になる人の集まりが、社会という集団だからです。

なーんてね。こういう『社会』って、ちょっと情けなくないか?

自分自身を安全圏に置いて、言い訳のできない他人をつかまえて。
絶対多数で寄ってたかって袋叩き。
問題の本質には関わらない。無責任で行こう。
いじめの構図とどこが違う?

私は、加害者を嫌というほど観察していたから知っている。
加害者ってさ、一人じゃ何も出来ないの。
群れないと何もできない、数の論理で多数派に立たないと何もできない。

クラス全員が加害者かって言うと、そうでもなかった。
リーダーは数人。でも、その数人のリーダーに力を貸したのは『その他大勢』の皆様方。
リーダーって、その他大勢を、上手く自分の都合で動かせる人間なんだよね。
これはいじめに限らない。リーダーシップって本来そういうもんなんだ。
続く

鹿川くんの功罪。19。 

2006年12月02日(土) 2時28分
人の噂も75日、人の怒りも75日。
忘れられる怒りなんて、怒りじゃない。
それは単なる、興奮って言うんだ。

・・・・・・違うのかよ?

さて問題です。
単なる興奮って、別名、なんて言うでしょう?
答え。
『気晴らし』あるいは『ウップン晴らし』。

気晴らしなんだよ。
怒るだけ怒って、ぶつけて、後はスッキリ忘れる。
水戸黄門様見てスッキリ、少年ジャンプ読んでスッキリ。

どこが違うの?説明してよ。

悪者は悪者、自分とは関係ナッシング。
責めやすいよね。
自分を責めるより、面倒くさいこと考えるより、他人を責めた方が気が楽だ。
社会の責任を考えるなんて捉えどころのない事をやって、社会の延長線上にある自分の責任を考えるより、『なんて奴らだ!』って叫んだ方が気が楽だ。
気が楽、どころが快感だよね。

自分の中に汚いモノがあるなんて考えるより、自分の外に置いた方が、気が楽だ。

違うのかな?

私は、決して加害者が責められるべきでないと言ってる訳じゃない。
加害者の責任は責任で、問われるべきだろう。
けど。

加害者の責任を問うた途端、社会の責任は問わなくて良くなる、っていうのが理解できない。
続く

鹿川くんの功罪。18。 

2006年12月02日(土) 2時25分
加害者バッシングの構図をよく見てみよう。
バッシングされているのは、人一人を死に追いやったいじめ加害者である。
どうしようもない悪人だ。
言い訳できる立場でない。

これを集団で寄ってたかって一方的に非難しちゃう人の気持ちって、いじめをやる人間の気持ちと大して変わらないんじゃないかと思う。
正義感で怒ってる人もいるんだろうけどさ。
騒ぎに乗じて、ストレス発散やってる人間も絶対、いる。

居ないなんて言わせない。
だって。

20年前、鹿川くんが死んだ時だって。
加害者バッシングは起きたのだ。
『なんて奴らだ!』って世間は怒った。
そして。

2ヶ月もすりゃあ、キレイに忘れた。

当事者は、20年過ぎても忘れてない。
私は鹿川くんのご遺族と面識ないけど、でも、ご遺族は一生忘れないだろう。
ただ同世代のいじめ被害者だってだけで親近感を覚えた私だって、やっぱり、20年過ぎても忘れていない。
でも、ド派手に怒った『世間』の方はたった2ヶ月で忘れたのだ。

そうやってスッキリ忘れるから、また次のいじめが起きる。
一人死ぬ度、ぎゃあぎゃあ怒る。
2ヶ月過ぎたら、スッキリ忘れる。
続く

鹿川くんの功罪。17。 

2006年12月01日(金) 4時36分
20年前、何も感じなかった私だけど、今は彼の死を痛ましく思う。
20年の間に、私には姪が生まれ、甥も生まれ、恋愛もし、失恋もし、愛犬も失い、就職し、半ウツになり、阪神大震災で半ウツもふっ飛び、親から独立して、自活して。
その都度あれこれ悩んで、笑った。気がつくと親は初老である。
こういう事は、経験してみないと分からない。
言葉で伝えられるものではないのだ。
観念で分かるものでは、決して、ないのだ。
そして。

私が過ごした20年間は、丸ごと鹿川くんが失った20年間だった。
彼はもう、どんな経験を積むこともない。
泣くこともない。笑うこともない。悩むこともない。
何を感じることもない。

どんな罪を遺そうが、どんな功を遺そうが。
彼には何も言う権利はない。

・・・・・・・・彼の命は、取り戻せない。
今はただの死者なのだ。
彼の時間は、止まったままだ。

私はそれを、痛ましく思う。
同情はしない。
ただただ、痛ましく思うのだ。
そして、自ら命を絶った彼の軽率さに、やっぱりじわじわと腹が立つ。

それから。
これを言ったら、すっごく非難されそうな気がするけど。
でも言う。
正直な気持ちだから。言う。

・・・・・・・・・・加害者バッシングは、形を変えたいじめである。
続く

鹿川くんの功罪。16。 

2006年12月01日(金) 4時34分
罪の方は言うまでもない。
死ねばメディアに加害者バッシングが起きて、復讐できると教えたことだ。
その事実で、自殺の精神的なハードルを下げたことだ。

鹿川くんは、別にそれを狙ってはいなかっただろう。多分。
でも、狙っていようがいまいが、そんな事は関係ない。
自分の言葉や行動をどう取られても、死人は決して文句を言えない。

何故なら、死人は死人だからだ。
この世と縁を切っているからだ。

まして、自殺者は自分の意志でこの世と縁を切ったのだ。
この世にモノを言える立場ではない。
私はそう考えている。

捨てた存在に執着なんぞしてくれるなよ。
捨てられた側の気持ちを無視しておいて、自分の気持ちを押し付けるなよ。

突き放した言い方だけど、私は自殺者には同情しない。
本当の同情は憐憫ではなく、共感だからだ。
自殺者に共感してしまったら、自分がうっかり死にかねない。
だから私は同情しない。
絶対しない。

『鹿川くん、可哀相にねぇ』
サラリとそう言って『同情』できるなら、それは単なる憐憫だ。
他人事だ。すぐ忘れるだろう。

私は今でも、鹿川くんに腹を立てている。
遺書を残せたくせに、死なずに生きて『助けて』を言わなかったことに腹を立てている。

加害者に腹を立てないのかと言われそうだが、加害者に対する腹立ちと、鹿川くんに対する腹立ちは違うのだ。
続く
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:ジンジャー
読者になる
Yapme!一覧
読者になる