小説 中支に咲いた白い薔薇

April 28 [Thu], 2011, 16:47
この小説は、私の祖父母と父親から聞いた戦争体験記をアレンジして書いたものである。

<シャン川を南へ>
保平の隊は、シャン川を南へ 、
歩いて、歩いて、歩いて、歩いた。
気がつくと、あの広いシャン川の源流にいた。
故郷から離れ、こんなに遠くへ来てしまった。
両親の顔が、弟の顔が、裏の田圃が、浜の小船が、
瞼の奥から離れない。
俺がいなくても、稲刈りができるか、小舟が動くのか、
家のことが心配だ。
声を押し殺すことはできるが、涙を堪えることはできない。
早く故郷に帰りたいなあ・・・
出兵時に一輪の白い薔薇を贈ってくれた、
おさげ髪の女性の会いたいなあ・・・

<二輪の白い薔薇>
一輪の白い薔薇は、
保平が、出兵時におさげ髪の女性から贈られたものである。
保平は、寝る前に白い薔薇を眺めて、
おさげ髪の女性のことを想い眠った。
もう一輪の白い薔薇は、
戦友の島さんが、出兵時に新婚の妻から贈られたものである。
島さんは、休憩の度に白い薔薇を眺めて、
新婚の妻のことを考えていた。
白い薔薇の花言葉は、女性の純潔である。
二輪の白い薔薇は、中支で二人の兵士の心に咲いていた。
無事に生きて帰れたら、おさげ髪の女性を命懸けて護ろう。
保平は、白い薔薇に誓った。

1.赤紙
昭和十八年六月。長男の保平に赤紙が来た。

 初夏の蒸せるような陽光が、稲田を照らし、生暖かい微風が、稲の葉を揺らしていた。
 くには、今日も裏の田圃の草をむしっていた。子供のときから、この仕事をしていたため、両手の指は太く、力強い。時々、腰を伸ばして、顔の汗を手っ甲の上の方で拭く。蒸せるような陽光も生暖かい微風も、くににとっては、気持ちよく感じた。今年もこの稲のおかげで白いご飯が食べられると思うと、田圃の草むしりも苦にならない。
 くには、いつも田圃に感謝し、仕事に感謝し、主人の和平に感謝していた。

 くには、腰を伸ばしたとき、西の大道から自転車に乗った郵便局員さんが来るのが見えた。郵便配達は、この家には珍しいことであった。
「何の郵便かのう。ひょっとしたら、あれかもしれんのう。あかがみ・・・」
 くには、頭の中が真っ白になった。今まで、身体全体から出ていた汗がすっと引くのが判った。
 自転車に乗った若い郵便局員さんは、くにの顔を見ると、自転車から降りた。
「お母さん。おめでとうございます。息子さんにです。召集令状です。」
 若い郵便局員さんは、笑顔で、一言づつ言葉を切って話した。一年前から、このような言い方で『赤紙』を配達していた。
 くには、読み書きができなかったが、長男の保平への戦争の『赤紙』であることが判った。
 半年前くらいから、保平にも召集令状が来るだろうと予想していた。来なければ良いなあ、と願っていた。
 くには、若い郵便局員さんの自転車が東の角を曲がり、南に消えてからも、その方向を見ていた。予期していたことであったが、この『赤紙』を手にとっても、頭の中では受け入れることができなかった。

 くには、田の草取りの足袋靴のまま、浜へ向かった。
 主人の和平と二人の息子は、船に乗っており、陸番の西さんしかいないことは判っていたが、赤紙を右手にしっかり握って走った。
 くには、五十才を過ぎていて、小柄で小太りのため、早く走れなかったが、全速力で走った。
 初夏の西日が、くにの右頬を照らしていた。
 窪みのあるでこぼこ道を走った。
 海岸沿いの松林まできた。
 海の波打つ音が聞こえてきた。
 もう少しで海が見える。
 海岸の砂利に出た。
 船が何艘も見えた。
 
「赤紙を早く渡さにゃあ。」
 くには、その一念で沖を見て、家の船を捜していた。
「おくにさん、何かあっただかや。」
 陸番の西さんは、くにを見つけると、右足を引きずりながら駆け寄ってきた。
「赤紙だよ・・・赤紙だよ・・・召集令状だよ!いま、郵便局員さんが持ってきただよ。」
 くには、ゼーゼーと息を切らしながら、右手の赤紙を渡した。封筒の表面には手の跡がしっかりと残っていた。

「そりゃあ、おめでたいのお。保平さんもお国のためにがんばらにゃあ。」
 陸番の西さんは、くにを見てにこにこしている。
「息子が殺されるかもしれないのに、何がおめでたいのだ・・・」
 くには、心の中で思っていたが、このときは、おくびにも出せなかった。
 西さんは、くにの心を察したのかそれ以上は言わなかった。西さんも本音では、おめでたいと思っていなかった。しかし、赤紙がくると「めでたい。お国のために・・・」というのが礼儀であった。

 くには、初夏の強い陽射しの波打ち際で、主人の和平と二人の息子を乗せた船の帰りを待っていた。
 沖の海は、限りなく蒼く、波打つ水は、砂を巻き上げていたが汚れのない清い水である。風が弱い日の波は、静かに、単調に、くにの足元に寄せては戻るを繰り返している。海も波も平和である。
 くには、小柄で小太りであったが、眩しい漆黒の髪と吸い込まれそうな漆黒の瞳の女性だった。その漆黒の瞳から、大粒の涙がこぼれ、頬を伝わり足元に落ち続けていた。しかし、涙を拭くこともせずに、微動だにせず沖の海を見つめていた。
 初夏の西日が、斜め後方から照らして、くにの影が長くなり、波打ち際まで映ってきた。
 しばらくして、くには、肉眼で何とか認識できる程度であったが、家の船を見つけた。第一醍醐丸と第二醍醐丸である。醍醐の名前は、祖先が後醍醐天皇を護る戦士をしていたことから名づけた。
 第一醍醐丸には、和平と長男の保平が乗り、第二醍醐丸には、和平の義弟と次男の泰平が乗っていた。
 船の舳先が陸に向かっていた。くにの漆黒の瞳から涙が止まった。
「早く戻って来い。」
 くには、心の中で、必死に叫んだ。その後は、船の舳先を見つめていた。吸い込まれそうな漆黒の瞳は、瞬きすることを忘れたかのように、大きく開かれていた。

 数分後に、二艘の船が陸に近づいてきた。
 くににとっては、長い時間であったが、ほっとして胸をなでた。それから、手っ甲で涙をこすって、少し微笑んだ。このときの涙は、二艘の船が無事に戻ってきた、安堵の涙であった。

 くには、前の主人を海で亡くしていたから、いつも無事に陸に戻ってくることだけを祈っていた。
 西さんは、右足を引きずりながら、船を陸に上げるロープを持って海岸に向かっていた。その時、不自由になった右足のことを思い出していた。ちょうど一年前の夏、自分に赤紙が来た。この村では、赤紙が来るのが早い時であった。村の全員が、日の丸の旗を持って、自分を神社の前まで送ってくれた。自分は、村の代表として戦地に出向く名誉に鼻が高かった。両親も、村のみんなから応援されていた。
 行き先は、南方戦線であった。サイパン島に上陸しようとしたとき、敵の砲弾を右足に受けた。その後は、意識がない。気が付くと、野戦病院に寝かされていた。右足がない。思い出したくなかった、思い出さないようにしていたが・・・。それでも、生きて故郷に帰れたのだから、良いことにしようと心に決めていた。和平さんが言うように、しょんないじゃんか、と自分に言い聞かせて生きてきた。

「おおい、西さん・・・」
 保平は、大きな声で西さんを呼んだ。
 西さんは、保平の声で我に返った。船が海岸に近づいていた。西さんは、船が波打ち際に来たとき、持っていたロープを投げた。保平は、舳先に出て、西さんが投げるロープを受け取った。家の二艘の船は、いつも一発で決める。和平は、口には出さないが、自分の舵取りが上手いから一発で決まると思っていた。しかし、和平は、西さんが投げるロープが上手いことを褒めていた。
 他の船の陸番たちは、この瞬間を瞬きしないで見ていた。
「いつも上手いもんじゃのお・・・」
 他の船の陸番たちは、いつもそう言って褒めていた。
 その後は、陸番の西さんが引くロープに合わせて、
「ヨイトンマケ」の掛け声でロープを巻き上げながら、船を陸に上げる。
 他の船の陸番たちも一緒になって、
「ヨイトンマケ」「ヨイトンマケ」・・・
 一つ目の「ヨイトンマケ」のリズムは、上がって下がり、二つ目の「ヨイトンマケ」のリズムは、下がって上がる。
「ヨイトンマケ」「ヨイトンマケ」・・・
 皆の掛け声のリズムが合ってきた。海の仲間の掛け声は、威勢が良い。合体した力は強い。
 
 船が陸に上がると、弟の泰平は、船から飛び降り、くにの方に走ってきた。
「おふくろ、何かあっただかや。どっか具合悪いんか。顔色ちいっと悪いみたいだなあ。」
 泰平は、くにが病気をしたことが無かったので、心配であった。
「これだよ・・・これだよ・・・保平に赤紙が来た。」
 くには、赤紙を広げて見せた。
「これが赤紙か!兄貴は、凄いなあ。」
 泰平は、しげしげと見ていた。泰平は、赤紙が来ると、一人前の男として認められたと思っていた。
 和平と陸番の西さんが今日の漁の話をしているとき、馴染みの魚屋が、天秤棒に魚篭を担いで来た。
「和平さん、今日もええ漁があってよかったですねえ。」
 馴染みの魚屋は、いつものように和平に丁重に挨拶して、魚の入った大きな魚篭を動かした。
「今日は、少し重いかもしれんが、お願いします。」
 陸番の西さんは、馴染みの魚屋に声をかけた。
「お前は、ええ船頭のおかげで飯を食えるんだぞ。」
 魚屋は、西さんを横目で睨み、ぶっきらぼうに言った。魚屋は、戦争で何の働きもせずに負傷して帰ってきた西さんをいつも下手に見ていた。
 西さんは、戦争に行き、直ぐに負傷して帰ってきたが仕事がなく、和平に助けられた。西さんは、右足を引きずりながら、戦争での身体の傷と心の傷をせおって生きていた。しかし、この身体は、見てのとおりで、魚屋の言う事は事実だし、生きていくのにそんなことはどうでも良かった。
 この魚屋は、若いときに問題児であったが、和平に助けられて更正したらしい。みんな脛に傷を負って生きていた。
 和平は、口には出さないが、脛に傷を負った人をいたわる寛大な男であった。

 和平は、くにが浜に来たことに少し不機嫌であった。
 くには、和平に、右手に握りしめていた赤紙を見せた。
「しょんないなあ。行かにゃ。行かにゃ、しょんない。」
 和平はそう言って、保平を諭した。しょんないは、和平の口癖であった。人生は、自分の選択、決断よりも大きな力に流されることが多いことを判っていたためであろう。
 保平は、元気だけは誰にも負けない自信があったが、複雑な気持ちであった。半年前から同級生が戦地へ行っていたので、自分にも近いうちに『赤紙』がくるだろうと予想していた。
「俺は、日本軍の戦力になれるのか。生きて故郷に帰ってこられるのか。俺がいなくても船を出せるのか?」
 保平は、いろいろ心配であった。
「戦争に行かにゃ。行かにゃ、しょんない。」
 保平は、和平が言ったように、気合を入れて、自分を諭した。

 初夏の陽射しは、夕方になると弱まり、海岸の夕凪が心地良い。
 一日の漁を終えて、海と戦った漁師の身体と心を癒してくれる。漁の多い少ないに関係なく、漁師が満足感に浸るひと時であった。

 初夏の夕日が牧の原台地に傾くころ、和平は、西さんと義弟に一日の労をねぎらい、家に向かった。
 和平は、いつも多くを話さず相手の目を見て、首を少し下げる程度であった。
 西さんと義弟は、和平に深々と頭を下げて、家に向かった。
 和平は、西さんの歩き方が、以前より右足を引きずっているように感じたが、何も言わなかった。
 平和な一日が終わった。
 赤紙が来なければいつもと同じ幸せな一日であったが・・・
 この日の夕凪も、夕日もこの家族に不安のみを誘った。
 いつもの、漁を終えた満足感が無かった。
 
 その日の夜、保平は、泰平に小さい頃に遊んだことをいろいろと話した。泰平は、楽しそうに聞いていたが、漁で疲れていたため、直ぐに深い眠りに落ちた。
「おふくろを頼むぞ。」
 保平は、眠っている泰平の肩に手を当てた。
「戦争に行かにゃあ。」
 保平は、もう一度、自分に言い聞かせて目を閉じた。

 くには、布団の中で、二人の息子のことを祈っていた。
「戦争で他の国の人を殺して、楽しい人などいっこない。保平には、どんなときでも他の国の人を殺さないように・・・泰平には、赤紙が来ませんように・・・」
 くにの人生で、一番印象に残った一日であった。

 和平は、布団の中で考えていた。
「家のご先祖様は、南北朝時代に後醍醐天皇を護る戦士だった。後醍醐天皇が隠岐の島に流されたとき、一族は全国に散って行った。天皇の命令は、神の声だから戦争もしょんないと思っていた。この家に戻る前に舞阪で大きな船の機関長をしていたとき、アメリカの船に乗ったことがあった。船の大きさ、設備の大きさには驚いた。神の声だから戦争もしょんないが、アメリカが相手では日本に勝ち目がないなあ。」
 和平は、眠ることができず、買い置きの新しい一升瓶の蓋を開けて、湯飲み茶碗に、なみなみと酒を注いだ。その酒を持って、四角い火鉢の前に座った。
「ううーん・・・」
 和平は、小さく、低いうなり声をあげた。酒を飲みながら、四角い火鉢の引き出しから煙管と刻み煙草を取り出し、刻み煙草を丸めて、煙管の先に詰めて、火を点けた。
「ふうー・・・」
 和平は、口から吸った煙を、鼻から長い時間かけて吐き出した。たゆたゆと煙管から出る煙を見つめていた。何回も何回も、口から吸った煙を、ふうーと鼻から吐き出していた。

「しょんないなあ・・・」
 一時間後くらいに、和平は、そういってから、もう一杯酒をいっきに飲み、ふとんに入った。
 和平の人生でも、一番印象に残った一日であった。

2.白い薔薇

昭和十八年六月。保平は、赤紙が来てから一週間後に、白い薔薇を胸に差し、軽便鉄道に乗り、三島の陸軍訓練所へ出発した。

 その日の朝は、昨夜からの雨が降り続いていた。その雨は、くにの涙をさそうような雨であった。
 和平は、船の漁を止めたため、早起きをしなくてよかった。三時に目を覚ましたが、うつ伏せになり、膝を折り曲げて、枕に頭を押し付けていた。まるで、鼠のような格好であったが、和平は、時々この姿勢でじっとしていた。くにが起きると、和平も起きて、四角い火鉢の引き出しから煙管と刻み煙草を取り出し、刻み煙草を丸めて、煙管の先に詰めた。
 和平は、くにと結婚してから、毎朝、四角い火鉢で刻み煙草を吸っていた。何を考えているのか、何も喋らず、右手を四角い火鉢の端に置き、左手で煙管を持っていた。たゆたゆと煙管から出る煙を見つめ、時々、口から吸った煙を、ふうーと鼻から吐き出していた。初めて見る人には、不気味な男に見えるかもしれなかった。漁に出る日は、その後に神棚に酒を上げ、手を合わせ、仏間で鐘を二回打ち漁の安全を祈る。
 今日は、漁に出ないが、保平の出兵のために、漁にでる日と同じように神棚に酒を上げて手を合わせ、仏間で鐘を二回打った。その後、長い間、仏壇の前で手を合わせて、保平の安全と無事の帰還を祈った。和平は、口では国のため、天皇陛下のために戦争でガンバレと言っていたが、内心では無事に帰ってきてくれることを願っていた。陸番の西さんのように、怪我をしてでも生きて帰ってきてほしいと願っていた。

 和平は、柱時計が五時を知らせる少し前に、保平と泰平を起こし、保平の出兵のために、神棚と仏壇に手を合わせるように指示した。口数の少ない和平の指示は、威厳があった。保平と泰平は、直ぐに身支度を済ませて、神棚と仏壇に手を合わた。
 保平は、和平が諭したように、国のため、天皇陛下のために戦争で頑張ることを誓った。
 泰平は、戦争で兄貴が戦果を上げることを祈った。
 くには、和平と同じ様に、保平の安全と無事の帰還を祈った。こんな戦争は早く終わって、家族が一緒に暮らせるようにと祈った。

 くには、保平の好物の鰯の昆布巻きを鍋いっぱい作った。梅干入りの塩むすびを八個作った。
「ど熱い味噌汁を飲んで頑張ってこい。」
 くには、大鍋に大根と油揚げの味噌汁を作り、保平を激励した。本音は、あまり頑張らんでもええ、と言いたかった。
「俺も兄貴の服が似合うかのう。」
 泰平は、保平の新しい服に手を通して、くにに聞いてきた。
「俺も新しい服を着てみたいのう。」
 泰平は、少年がおねだりする様な仕草でくにを見ていた。泰平は、生まれてから一度も新しい服を着たことが無い。兄のお古の着物を擦り切れるまで着て、切れたところを当て布して着ていた。この辺り次男は、皆同じようなものであったので、今まで不平を言ったことが無かった。

 朝六時頃に雨が止み、西の空が明るみを増してきた。
「ええ按配に雨が止み、明るくなってきたわ。」
 くには、独りごとを言って、少し微笑んだ。早起きの鳥のさえずりが聞こえてきた。裏の田圃には、水が溢れて、あぜ道からとろとろと小川に溢れていた。稲の葉は、昨夜からの雨の滴が付き、弱い朝日にぼんやりと光っていた。今年も稲が元気に育っていた。いつもと同じ朝が来て、平和な時間が静かに流れ始めていた。しかし、今日は、不安な一日の始まりであった。

 朝七時に近所の人が、日の丸の旗を持って、お祝いに来た。我が家も全員が、日の丸の旗を右手に持って、神社まで歩いた。神社までの七百メートルの道の両側は、日の丸の旗を持った人で埋まっていた。この日は、保平の一生一代のお祝いであった。
「保平さん、ガンバレ!」
「保平さん、御国のために戦ってこい!」
「日本陸軍バンザーイ!」
 故郷の全員が、道の両側から保平に声援を送っていた。保平は、この日ばかりは、村で一番の有名人であった。くには、道の両側からの声援に感謝して頭を下げていた。
「何をガンバルんか?」
「御国のために戦って死ぬんか?」
「それが日本陸軍にとってバンザイか?」
 くには、息子を戦争に取られて、明日から船を出せるか心配であった。

「保平が無事に故郷に帰ってきますように。戦争が早く終わりますように。」
 くには、神社で全身全霊をささげて祈った。

 神社を出たとき、紡績工場の女工の全員が、保平に声援を送っているのが目に入った。保平は、時々、仲間と窓の外に大きな石を置き、石の上に乗って、女工達を見ていた。
 保平は、その女工達の中でも、おうめさんという名前の、おさげ髪の小柄な女工に好意を抱いていた。みんな、もめんのモンペに機織の着物を着ていた。おうめさんは、同じ着物でも、高級なタフタの布に包まれたように輝いていた。漆黒の瞳の中心が琥珀色をしていて、高価な宝石のように見えた。小さめのばら色の頬は、雨上がりの夏の陽光に輝き、見事な西洋人形のようであった。
 おうめさんは、左手に二本の白い薔薇を持っていた。今、切ってきたばかりの白い薔薇は、花びらにいくつかの水滴があり、ダイヤを散りばめたように輝いていた。ひょっとしたら、おうめさんの涙であったかもしれない。
 おうめさんは、保平と目が合うと、保平の方に歩み寄り、二本の白い薔薇を保平の胸ポケットに差した。それから、天使のように微笑み、一本の白い薔薇を保平の胸ポケットから抜き、自分の着物の襟に差した。
「保平さん無事に帰ってきて。」
 おうめさんは、誰かに操作されているように、小さなさくらんぼ色の唇を動かし、保平にだけ聞こえるように、耳元で囁いた。
 保平は、自分だけの天使に向って、姿勢を正して敬礼した。
「俺は、必ず戻ってくるからな。」
 保平は、心の中で、おうめさんに向かって、自分に向かって叫んだ。

 その後、保平は、泰平と二人で軽便鉄道の駅まで歩いた。兄思いの優しい泰平は、兄の重い荷物を背負って駅まで歩いた。雨上がりの夏の陽光が、兄弟の左前方から照らしていた。その陽光が、雨でできた水溜りに反射して眩しい。
「また、憧れのおうめさんに会えたらええなあ。」
 保平は、願っていた。
「もう、会えないかもしれないなあ。」
 保平は、観念していた。
 泰平は、そのとき、兄の目に涙が滲んでいるのがわかったが、口には出さなかった。自分も同じ立場だったら、きっと泣いていたと思った。泰平は、町の全員が兄に声援を送っているのを見て、兄貴は凄いなあ、と思った。きっと、御国のために戦ってくるであろう、と信じていた。いつか自分も兄貴のように戦争に行き、道の両側から声援を送ってもらいたいと願っていた。

 軽便鉄道の上吉田駅の近くの道は、両側に日の丸の旗を持った人で埋まっていた。
「ガンバレ!御国のために戦ってこい!日本陸軍バンザーイ!」
 この村でも、故郷の道と同じように、声援を送られていた。
 召集された兵隊の中に、保平の同級生の作ちゃんと常ちゃんがいた。
「保ちゃんと一緒で良かった。」
「三島まで連れてってくりょう。」
「一緒の隊ならええけんな。」
 二人は、保平を見つけると駆け寄ってきて、保平の手をにぎっている。
 泰平は、二人に信頼されている兄貴を見て、凄いなあと思った。
「日本陸軍バンザーイ!」
 泰平は、三人の前で大声で声援を送った。
「日本陸軍バンザーイ!」
 周りの人も、泰平の大声に合わせて、声援を送った。

 広い吉田田圃の稲田の葉が、夏の風に気持ち良さそうに揺れていた。人家の無い、吉田田圃は、緑の草原にも、緑の海にも見えた。
 軽便鉄道は、西から、田圃の稲田を切り裂くように走ってきた。軽便鉄道の機関車は、ドラム缶の五倍くらいの筒を横倒しした顔をしていて、中心部に大きなハサミのようなものがぶら下っていた。その大きなドラム缶の最前部の上方にライトがあり、まんまる目玉のおばけのような風貌であり、ドラム缶とのアンバランスが愛くるしい。その目玉の少し後方には、ドラム缶の直径の二倍くらいの長さの頭でっかちの煙突が立っていて、黒い煙を吐き出していた。渦巻くような黒い煙は、緩やかな東からの風になびいて、吉田田圃から牧の原台地の南の裾野まで撒き散っていた。
 
 真っ黒なドラム缶型のおばけ機関車は、速くはないが、力強く、保平達の前に近付いて来た。その機関車は、保平達の前を少し通り過ぎたところで、機関車の輪の所からシューと思い切り蒸気を吐き出して、キキィーと音を立てて止まった。その直後に先頭の客車は、小便を漏らした子供のように、ブルルと震えた。
 軽便鉄道の二つの客車の中は、外側と同じように何の模様もない、煤けたセピア色であった。二つの客車の中は、御前崎、相良、榛原から召集された兵隊でいっぱいであった。
 三人は、保平の判断で後ろの箱に入り、やっとの思いで自分の居場所を見つけた。保平は、二度とこの景色をみることができないかもしれないと思い窓の外を見た。
 泰平は、保平を見つけて手を振った。
 しばらくして、軽便鉄道は、機関車の輪の所からシュ、シュ、シュと思い切り蒸気を吐き出して、ゴトンゴトン、ゴトンゴトンと音を立て力強く動き出した。
 泰平は、軽便鉄道が動き出すまで手を振っていた。
「兄貴、ガンバレ!必ず戻って来い。」
 泰平は、軽便鉄道が動き始めると、大声を張り上げた。

 軽便鉄道は、北に向かい能万寺の東側の湯日川の手前の上り坂で少し速度を落とした。
 保平が後ろを見ると、泰平が線路の枕木の上を日の丸の旗を振りながら走って来るのが見えた。
「判った。判った。必ず帰ってくるぞ。」
 保平は、大声で叫んだ。

「保ちゃん、この白い薔薇の花は、許婚の女性から貰ったのか。」
 軽便鉄道の中で、作ちゃんが、保平の胸ポケットの白い薔薇の花を指差して聞いた。
「紡績工場のおうめさんから貰った。」
 保平は、少し照れながら話した。
「薔薇の花は、女性の象徴を表すものなんだ。女性の花弁を意味するとも言われているんだ。白い薔薇の花言葉は、女性の純潔だ。」
 博識の作ちゃんは、保平に白い薔薇について説明してくれた。
「女性の純潔・・・」
 保平は、白い薔薇の花言葉に感動していた。
「薔薇をくれた女性は、保ちゃんに好意を寄せている。たぶん、その女性は、保ちゃんが帰って来るまで、結婚しないと思うよ。保ちゃん、三島に着いたら、手紙を書いた方がええずら。」
 作ちゃんは、保平に手紙を書くように勧めた。
「俺は、書かないよ。いつ帰れるか判らないし、生きて帰れるかも判らない。天使のようなおうめさんを待たせるわけにはいかないよ。」
 保平は、遠くで、女性の幸せを祈っている、そんな愛情しかないと思っていた。その一方で、この白い薔薇は、運命的なものかもしれないとも思っていた。もし、五体満足な身体で、生きて故郷に帰れたら、そのとき、おうめさんに気持ちを伝えようと思っていた。
 保平は、白い薔薇を花びらが崩れないように、宝物のように扱い、空の弁当箱に丁寧に入れた。くにが、腹が減っては戦が出来ぬと言って、弁当箱を二つ入れてくれたことに感謝した。空の弁当箱に白い薔薇を入れたことで、保平の心が満たされた。
 
 保平は、白い薔薇を弁当箱に入れたとき、おうめさんとの出会いを思い出していた。
 昨年の夏、故郷の神社の夏祭りのとき、保平は、奴道中の奴を振っていた。保平の村の神社の夏祭りの奴道中は、江戸時代の三代将軍徳川家光の時代から歴史を残す、由緒あるものであった。
 この奴道中の奴は、一番大きくて人気の大鳥毛、大鳥毛と同じ形をしているがやや小型の小鳥毛、煙突掃除のような毛が付いている熊毛、幅一メートルくらいの箱の鋏み箱、尖がった黒い傘のような傘鉾の五種類がある。
 この五種類の奴は、住んでいる地域により割り振られたもので、四百年以上にわたり地域のしきたりを守った神社への奉納儀式である。この奴道中の振り手は、二十歳前後の若者であり、この地域の若い男は、奴を振って初めて男と認められていた。
 若い女は、お目当ての男が奴を振ると、その男の飲み物や汗拭きなどの世話をしていた。多くの男女は、それが馴れ初めで恋をして、結婚することが多かった。

 保平の住んでいる西中地域は、小鳥毛を振っていた。保平は、身長がやや小さかったが、漁師や土建や百姓をしていたため、筋骨隆々の肉体であった。その肉体に褌一丁を巻き、奴の法被を羽織ると、なかなかの見栄えがしたいい男であった。また、保平は、この奴を三年続けて振っていたため、小鳥毛の先生役もやっていた。保平は、声が大きくて、力強かったため、どの奴の振り手よりも目立っていた。
 おうめさんは、同じ地域の青年団であり、誰が決めたわけでもないが、保平の世話をするようになっていた。この世話役は、奴の振り手の気持ちが判っていないとできない仕事であった。特に、奴の振り手が暑くて倒れないように、世話役が、焼酎を口に含んで、奴の振り手の全身に霧吹きのように吹きかける仕事があった。
 おうめさんは、初めはためらっていたが、焼酎を霧吹きのように吹き掛けることで、保平が元気よく奴を振る所作を見ていて、自分も元気が出てきた。おうめさんは、この霧吹きにより、奴の保平と一身同体になったように感じていた。
 一ヶ月以上の練習と夏祭りの本番で、保平は、おうめさんとの気持ちが一身同体になったと思っていた。
 若く元気の良い保平は、厳しい奴の練習の翌日も朝早く目が醒めて、船の漁に出かけた。夕方になると、おうめさんに会えると思うと、船の漁の疲れも吹っ飛んでいた。
 保平は、いつか自分のおうめさんへの気持ちを打ち明けようと思っていた。しかし、今の自分が、おうめさんを一生護ってやれるか自信がなく、言い出せないでいた。
 保平は、一年後を目処にこの気持ちを育んでいこうと思っていた。しかし、赤紙が来て、戦場へ行くことになった。
 
 人生の選択の不思議というが・・・選択できないことの方が多いと思った。
 和平が良く言う、しょんない!の言葉が適切だと感じていた。このとき、保平は、国のため、天皇陛下のために戦い、生きて故郷に帰って来ないだろうと思っていた。

3.惜別
昭和十八年七月。保平の両親は、三島の陸軍訓練所へ行った。

 保平が、三島の陸軍訓練所に行ってから、二週間後に中支へ出兵することが決まった。
 その日の夜、和平は、船の漁から帰り、いつものように、四角い火鉢の前で酒を飲み、煙管をくわえながら思案していた。妻のくにと一緒に三島に行くことに何となく抵抗があったが、最初で最後と思い、一緒に行くことを決断した。
「お前も三島へ行くか。」
 和平は、くにが保平と永遠の別れになるかもしれないので聞いた。
「わしも連れて行っておくれ。」
 くには、三島が何処にあるか知らないが保平に会いたくて頼んだ。直ぐに、和平と一緒に行くことに恥じらいを感じた。列車の中で、和平のすぐ隣の席に座っていれるか心配であった。

 次の日は、露時のじっとりとした、曇り空の日であった。朝早くから元気の良いクマゼミがシャンシャンとけたたましく鳴いていた。
 くには、いつもの朝と同じように南の空を仰ぎ見て、次に西の空を仰ぎ見た。それから、家の裏手にまわり、田圃の前から、もう一度西の空を見た。
「雨は夜まで落ちてこんずら。」
 くには、独りごとを言った。くにの独りごとは、いつも期待と希望を込めた、強い願望であった。
 漁師の家にしては、遅い朝食をとり、和平とくには、泰平に荷物を持ってもらい軽便鉄道の駅まで歩いた。くには、五十歳を過ぎていて、小太りのため、泰平に手を引いてもらって、三キロメートルの道のりを歩いた。泰平は、くにの表情を横目で見ながら優しく、手を引いてやった。くには、この時、泰平を絶対に戦争にやらないと、心に決めた。

 軽便鉄道の上吉田駅は、保平が出発した時と同じように、日の丸の旗を持った人で埋まっていた。
 大男の駅長は、黒い上下の制服を着て、帽子を目深くかぶって立っていた。少し白いごま塩まじりの髭を生やし、その髭をごつごつした無骨な左手で擦りながら首を伸ばしていた。その駅長は、和平を見つけると、笑顔で走り寄って来て、小柄な和平の背丈に合わせるように、腰を曲げ、肩をすぼめて、和平とくにの荷物を持った。
「御待ちしておりました。一番前を二人分開けさせました。」
 駅長は、人を掻き分けて、和平とくにを一番前に連れて行った。
「お気をつけて行ってきて下さい。」
 駅長は、和平に丁寧に頭を下げた。
 和平は、背筋をのばしたまま、首を少し下げ、駅長に目で礼を言って、くにを一番前の席に座らせた。
 駅長は、その客車の車掌に、何やら耳うちして、再び和平に頭を下げて出ていった。
「藤枝までご案内させていただきます。」
 その客車の車掌は、和平に丁寧に頭を下げた。
 くには、和平がなぜこんな力が有るのか不思議に思ったが、今は聞かない方がよいと思い静かに座っていた。和平は、若い時、村の議員になり、すぐに頭角を現した切れ者であり、面倒見のよい親分肌であった。
 この駅長は、両親の愛情が薄くて、悪がきだったが、和平に面倒を見てもらい、助けられた一人であった。また、この鉄道の社長は、知人が国会議員に出たときに、和平に票集めを依頼していた。そんなこんなで、和平は、人脈が自然にできていた。

 軽便鉄道は、満員の乗客を乗せてゆっくりと走り出した。
 くには、西隣の村の出身であったが、海岸近くで生まれたため、軽便鉄道に乗るのは初めてであった。走り出すとき、機関車の輪のところから吐き出される蒸気が、先頭車両に乗っていた、くにの足元までシューシューと押し寄せてくるように感じた。
 上吉田から遠州神戸までは、右周りのカーブになっていた。カーブのところで、汽笛が鳴った。くには、汽笛を聞いたことはあったが、自分が乗っている鉄道の汽笛を聞いて、子供のように心がはしゃいだ。
「汽車汽車シュッポシュッポ、シュッポシュッポ・・・・汽笛をならし・・・・」
 くには、尋常小学校に行っていないが、汽車の歌を知っていて、声を出さないで頭の中で歌っていた。このとき、くにの心は、何処かに旅行に出かけるような、うきうきした気分になった。
 大井川の橋の上を通っているとき、くには、身体を六十度右に向け、さらに首を六十度右に向けて、大井川の河原を覗いた。水の流れているところは、茶色の濁流が渦を巻くように流れていた。水の流れていないところは、河原の石ころがごろごろと散らかっていた。この日は、風が弱かったが、冬の西風がどん吹く時には、車体が大井川に吹き飛ばされて、茶色い濁流に飲み込まれて、駿河湾まで流されるだろうと思った。
「川に落ちないらのう。お父さんは、恐くないんか?」
 くには、下を見たらめまいがしたので、独りごとを言って、気を紛らわせていた。
「黙っておれ!」
 和平は、そう言って腕組みして目を閉じていた。
 くにも、黙って強く目を閉じた。
 軽便鉄道は、なんとか大井川を渡りきった。くには、枕木の音が変わったので目を開けると、いつも見慣れた田んぼの風景になった。くにの気持ちも落ち着いてきた。
 軽便鉄道は、大井川を渡ってから、二十分くらいで、終点の大手町の駅に着いた。
「大手町の駅でございます。三島までお気をつけて行ってきてくださいませ。」
 その客車の車掌は、和平とくにに丁寧に頭を下げた。

 くには、国鉄に乗るのも初めてであった。
「この汽車は大きいのう。箱がいくつあるだかのう。」
 くには、和平に聞いた。
 和平は何も答えないで、この戦争について考えていた。この戦争は、間違いだ。アメリカにけんか売って勝てる訳がない。みんなアメリカの凄さを知らない。舞坂にいたとき、載せてもらったアメリカの船の大きいこと、エンジンの大きいこと、今でも頭から離れない。日本も大きい船が出来るようになったが総合的にかなわない。それでも天皇陛下が決めたことだから戦争をやらにゃならんが・・・。
 正義のために戦う戦争なら負けてしょんない。もし戦争に勝っても日本は幸せにはならない。負けた国の人も同じ人間だ。中国の人のことが心配だ。大和魂は無くなったんだ。
 俺達のご先祖様は、南北朝時代に負けることが判っていた戦を仕掛け負けた。しかし、その後に美しい国を創るために集まった同士により、勝つことが出来た。正義があれば、この戦に負けてもその後の歴史は正しい方向に動き、世界が平和になるだろう。

 くには、静岡を過ぎた頃から眠ってしまった。目が醒めた時、窓際に富士山が大きく見えた。
「富士山がこんなに大きくなった。」
 くには、子供のようにはしゃいだ。
 日本人は、誰でも富士山の雄大さに心を癒される。嫌なことがあっても、一時忘れさせてくれる。くには、ここで降りて、富士山をもう少し眺めていたいと思った。この日は、曇り空であったが、富士山の七合目くらいには陽が当たり、山肌に反射した光が山吹色に輝いていた。八合目くらいにかかっている雲は、かなりの早さで動いていて、列車がカーブを曲がったときには、雲が消えていた。くには、列車が早いのか、雲が早いのか解らなくなっていた。
 列車が、富士川駅の手前で、左に曲がったとき、富士山が消えた。
「お父さん、富士山が消えたよ。」
 くには、あっけにとられて、大きな声を出した。
「向こう側だ。」
 和平は、列車の進行方向の右側を指差した。
 くには、そのとき富士山が動いたのかと錯覚した。次に右に曲がったとき、富士山がいままでと同じように見えた。
「ええ按配に富士山が戻ってきたわ。」
 くには、安心して胸をなでた。
「富士まできたから、三島までもう少しだ。」
 和平も外を見ながら、静かにな口調でそう言って、また目を閉じ、腕組みした。
 しばらくして反対側に松林が続いていた。
「此処にも松林があるのう。」
 くには、小さいときから、海岸沿いの松林を見慣れていたのでそう言って、和平の方を見た。
「千本松原だ。」
 和平は、目を開けずに、ぶっきら棒に言った。

 原駅で、保平と似ている若者が、乗り込んできた。若者は、客車の空席を見回してから、くにの前に座った。その後、若者は、礼儀正しく、くにの顔を見て、首を少し前に曲げて目で会釈した。
「三島の陸軍訓練所に行かれるのですか。」
 若者は、微笑みながら、くにに話かけてきた。
「上の息子が、中支に行くことが決まったもんで・・・いつ帰ってくるかわからんし・・・元気で帰ってくりゃええけえが・・・わきゃわからんでのう・・・」
 くには、気柄の良さそうな若者に話しかけた。
「自分は、あそこの訓練所で左手を怪我しちゃて、左手がにゃあだ。戦争に行く前にこのざまでね。親にゃあ叱られるし、近所や親戚からも、しょんにゃあバカ者と言われたよ。」
 若者は、そう言いながら、義手の左手を見せた。
「・・・」
 くには、一瞬身体が、氷ついて言葉が出なかった。
「お母さん、人間考えようでねえ。戦争に行って、苦労して命落とした人に比べりゃ、まだこれでも生きていけますからねえ。」
 若者は、明るく、前向きに話していた。
「そうだよ。人間考えようだ。命がありゃなんとかなるでのお・・・。」
 くには、励ましたつもりだが、失礼なことを言ったか心配であった。
「今、沼津の印刷会社で事務の仕事やっています。右手でにゃくて良かったです。鉛筆持てるし、算盤もできるし、箸も持てるし。最近、これにも慣れてきました。」
 若者は、義手を顔の前に晒して、自慢している様子だった。
 沼津駅に着くと、若者は、義手を揚げて、くにに手を振った。
「頑張ってね。元気でね。」
 くには、息子を諭すように言った。
 
 列車は、沼津駅での乗客が多く混雑したが、お昼前に三島に到着した。
 陸軍訓練所は、三島駅の北側にあった。
 くには、保平の好物の鰯の昆布巻きと梅干入りの握り飯を保平に渡した。
 保平は、左手に鰯の昆布巻きを持ち、右手に梅干入りの握り飯を持って食べた。親子は、互いにこれが今生の別れになるかもしれないと思っていた。
「お前は、本物の日本の侍になれ。」
 和平は、保平に一言だけ言った。
 保平は、和平の言った言葉が、自分の命、友の命のためであっても、異なる人間を手にかけてはならない。異なる人間の命を奪うよりも、戦友とともに死ぬことを選ぶもの、と理解した。
戦場において、弱い戦士と罵られるかもしれない。しかし、後世の歴史では正しい判断と理解されるだろう。この弱さこそが、本物の日本の侍の理念と思った。後世では、弱い男が高潔な強い男と賞賛されると思った。
 保平は、戦場で高潔な男を演じようと心に決めた。

「保平は、帰って来ることができるかのお。」
 くには、三島駅で和平に聞いた。
 和平は、答えなかった。死んで帰って来ると思っていたので、答えなかった。くにも、死んで帰って来ると思っていたが、元気で帰って来るから心配せんでええ、と言って欲しかった。
 夏の午後の陽光が、和平とくにの右頬を強く照らしていた。
「三島大社に行ってみるか。」
 和平は、くににそういいながら、駅の南東の方向に向かって歩いていた。
「この大社は、日本の歴史でも多くの大将が戦勝祈願したところだ。」
 和平は、くにに説明した。
 くには、戦争に勝とうが負けようがどっちでも良かった。
 くには、大社の拝殿で、保平の無事の帰還を祈りながら、涙が溢れてきた。
 人間は、昔からなんで殺しあわにゃならんのか。天皇陛下のご命令か。お国のためか。命より大切な何かを守るためか。そのために、他の人を殺すのか。敵と見方に別れて、戦えと言われて、お互いを手にかける。日本の歴史でも、世界の歴史でもずーとやってきた。血の花を咲かせてきた。戦いを起こさない、何か強い力は無いのか。
 くには、自らに問いかけたが、答えを出すことは出来なかった。くには、無学で無知であったが、人間の優しさは誰にも負けなかった。

 帰りの列車で二人は、何も話さなかった。何も言わなかったが、二人とも、保平は故郷に帰ってこないだろうと覚悟を決めていた。
 三島からの帰りの軽便鉄道は、朝方に多くの人を運んで疲れたのか、朝方に見た機関車の勇姿はなく、薄暗い大手町の駅にけな気な姿で止まっていた。くには、和平の後にくっ付いて、軽便鉄道に無言で乗り込んだ。列車の進行方向に迎え合わせの席があり、和平とくにと同年代の夫婦が数組いて、暗い表情で無言で座っていた。くには、わしらと同じように三島に行って来たのだろうと思っていたが、目を閉じて静かに座っていた。
 くには、大井川の上を通るとき、星空の中を走っているように感じた。行きは、恐いと感じた大井川の上も、漆黒の闇の中では、何も見えず、不思議と爽快であった。このまま星空に突っ込んでもええと思った。
 くには、大井川を越えて、土手の上に差し掛かったとき、遠州神戸の駅と周辺の民家がぼんやりとしていて御伽の国の町のように見えた。
 もう少しで上吉田に着く。くには、能満寺の手前で汽笛を鳴らしたとき、広い世界から戻った合図に感じた。この汽笛を上吉田で待っている泰平が聞いているだろうと思った。

泰平は、上吉田の駅の入り口で、煙草を吸いながら待っていた。何時間待ったのか、地べたに石像のように座って、じっと待っていた。軽便鉄道は、和平とくにを三島に見送ったときとは逆方向に、吉田田圃を北から南に煙を吐きながら走ってきた。漆黒の煙は、夜空には白い渦巻きに見え、東風が白い渦巻きを牧の原台地の南端まで運んでいた。
 軽便鉄道の機関車は、泰平の前を通り過ぎ、車輪の所からだるそうにシューと鈍い音で水蒸気を出して、キキキーと音を出して止まった。そのとき、先頭の客車は、弱々しくぶるぶる、ぶるぶると震えた。
 泰平は、軽便鉄道も、疲れきっているように感じた。そして、軽便鉄道が止まると、直ぐに煙草を揉み消して、改札口に走った。
 くには、泰平の笑顔を見て、泰平を戦争に出さないと心に誓った。
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