命を支えたパン小麦

March 30 [Mon], 2015, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



小麦、ライ麦、混合麦、大麦、オート麦は、その重要性は同じではないが、いずれもパンをつくるための麦であった。



これを栽培する農民のパンも、増加する都市住民にパン屋が販売するパンも、これらの麦でつくられた。



しかし、口当りが軽くて消化もよく、一番好まれた白パンは、どの麦からも同じようにつくれるわけではない。



これらの「パン麦」にはそれぞれ固有の性質があり、とれる粉にも差があるためである。



そこで、当然のなりゆきとして、領主も農民も、可能な状況があればさっそく穀物を選別してつくるようになった。



すなわち、パンをつくるのに一番よい麦の栽培を拡大し、それ以外の穀物は食糧供給の不安定さをカバーするため、あるいは副次的な用途に用いるために栽培するようになったのである。



こうして小麦およびライ麦(ライ麦の方は現在では「二級の」パン麦となっている)でつくられたパンが普及する一方で、混合麦および大麦のパン、とくにオート麦のパンは次第に貧乏人の食べ物、飢饅や贈罪のときの食べ物になっていった。

麦畑から粉挽き場へ

February 04 [Wed], 2015, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



「パリのグレーヴ広場の穀物計量検査官、ベルニエ・アスランとジャケ・マラングルの報告によれば、今日の穀物取引価格はパリ貨で以下のようであった。



最上等の小麦は12スー4ドゥニエ、他の小麦12スー、混合麦は10ス14ドゥニエ、9スー、8スー、ライ麦は6スー8ドゥニエ、大麦は取引なし、オート麦10ス14ドゥニエと10スー。」



これは1462年8月14日土曜日のパリの市場価格一覧の抜粋である。



ここに登場している多様な穀物は、西欧ではすでに古くからみられるが、十三世紀末から十七世紀初頭のフランスで栽培された穀物の種類も、おおよそこれで言い尽くされている。



ただソバとトウモロコシだけがこの価格表にはみあたらない。



ソバは「黒い麦」ともいわれ、中世末期に王国の北部地方に導入され、次第に痩せた土地の作物として普及した。



一方、トウモロコシがフランスで本格的に栽培され始めるのは、ようやく十八世紀の啓蒙時代になってからである。

ライ麦パンの質すら低下した

January 07 [Wed], 2015, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



食糧危機にはライ麦パンの品質も低下する。



まったくふるいにかけないライ麦粉でつくる真っ黒で重い「パン・アルメ」しか売られなくなる。



少しでも多くのパンを得ようと、パン屋がライ麦粉に小麦の屑を加えて生地をつくることもあった。



パリでは1419年の初春に、重さ20オンス、約600グラムしかないこの消化の悪いパンが、4ドゥニエで売られている。



「パン・ア・シアン」(犬のパン)「パン・ドゥ・シャス」(狩りのパン)と呼ばれるパンは、扇いで選別しただけのわら屑が混ざった穀粒を使ったものであるが、これが姿をみせるのはパン屋ではなく、むしろ個人の家の台所においてである。



いくつかの修道院の製パン室でもこのパンがつくられており、たとえばランスのサンールミ修道院では、サンーラードル院に収容されていたらい病患者のために、毎週21個の「パン・ドゥ・オトン」を製造していた。

原料不足によるパンの質の低下

December 04 [Thu], 2014, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



不作や飢餓がやってくると、普通のときにはみられないようなパンが市場に出回った。



困窮した市民のために都市当局がそのようなパンをつくらせたのである。



都市に住む個人の家から穀物を徴発し、それを全部混ぜ合わせてからパン屋に配給し、パンをつくらせる。



1433年のトロワでは、オート麦2分の1、ライ麦と小麦が4分の1ずつからなる麦で、「パン・ドゥ・ミクシオン」が製造されている。



ときには小麦がすっかり姿を消してしまうこともあり、また大麦と小麦を混ぜて使うこともあった。



オート麦だけでつくったパンは、十七世紀末には、リヨンのような大都市の貧乏人によって消費されているが、中世の都市ではまずみられなかった。



また、空豆や木の根っこ、あるいは栗をつぶしたものを用いた代用パンについても、中世都市の記録にはまったく痕跡がみられない。



これは、フランスの食糧事情が十六世紀末以降、次第に悪化したことの証拠といえるかもしれない。

パンと菓子の区別は曖昧

November 30 [Sun], 2014, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



「ウブリ」の作り方を厳格に定めた規則は数多く存在する。



1517年のル・マンのウブリ製造人規則では、コンパニオンは、一時間当り、自分で熱した三組の鉄板で、計300個のウブリをつくることができるとしている。



パリには、このウブリ製造人組合が早くからつくられ、その規約は1270年に登録された後、1397年と1406年に補足がなされている。



150年後、この組合はシャルル九世によって菓子屋組合に統合される。



「サレ」という名前の菓子パンもあるが、これは軽く塩あじのついた白パンと区別できない場合もある。



ピカルディやフランドルの都市では、このサレは「キュイニェ」とか「キュイニョル」とも呼ばれている。



たとえばアミアンでは、「キュイニェは、塩を加えた生地を、菓子と同じように薄く引き延ばしてつくられる」。



南フランスでみられた「プラサンタ」については、ジャン=バティスト・ブリュイランが著作の丸一章を割いて書いているが、これは薄くのばした生地に香料を加えたものを使った。



以上のような特殊なパンはどれもかなり大きかったようで、実り豊かな年には150グラム程度の重さがあったようである。

あつあつの出来立て菓子はパン?

October 19 [Sun], 2014, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



1413年、アヴィニョンのパン焼き人兼パン屋たちは、アラス教区出身のあるパン屋を相手に訴訟を起こした。



というのも、この二ース人がアヴィニョンの町で重量測定を受けずにエショデを販売する権利を主張したからである。



訴えられたこの人物は、「エショデはまだ熱いうちに食べるものなので」、それを秤にのせるのは不可能だと抗弁している。



現代のフランスでこの特別のパンの伝統を守っているのは、アヴェロン県のパン屋だけである。



エショデと同じようになくてはならないものとして需要があったのは、「ウブリ」である。



これも上等の小麦粉を使っているが、酵母を用いずに練り上げた軽い生地でできている点が違っている。



この特殊な製法ゆえに、聖体のパンを意味する古い用語「ウブレ」と似た名前で呼ばれたのであろう。



この軽い菓子は、教会の無発酵パンと同様、熱した2枚の鉄板にはさんで焼く。

「菓子」はパンの王様

September 30 [Tue], 2014, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



それほど日常的に食べられたとはいえないが、パンと同じように課税され、また重量規制もなされていた「菓子」について、しかるべき考察を加えておこう。



「菓子」は、各種パンの頂点にたつ贅沢品といえる。



上等の小麦粉が豊富に手にはいるときや、諸聖人の大祝日、万霊祭、クリスマス、公現節、聖母お潔めの祝日、枝の主日といった祝祭日になると、パン屋は上等の小麦粉で菓子パンをつくった。



北フランスの住民がとくに好んだのは、「エショデ」といわれるもので、生地をちぎっていったんゆで、そのあと水をきって焼いてつくる。



古くからベネディクト修道会の修道士が祝日に受け取ったのもこれである。



さきに引用した修道会則にはさらに次のように書かれている。



「常日頃食べているパンよりも上等のゆでたパンを指すときには、まずパンを表わす所作をした後、両手のひらを合わせて、聖油を塗り込むときのように上の手をゆっくり回すようにする。」



このエショデに対する嗜好は、北フランスからさらに南フランスへと広まった。

素朴なパンフラワーと精密なパンフラワー

August 08 [Fri], 2014, 10:00
パン教室で作る美味しいパンに長い長い過去がある。



メキシコなどのラテン系諸国の作品は、パンのこねたものに接着剤を少々加えるくらいで材料にしているのだから、たいして凝った作品が作れるわけもなく、表現力が乏しいのもあたりまえなのである。



一方、今、日本で流行している手芸に、パンフラワーがある。



この作品には、一見ほんものと見まがうほどの美しいばらの花などがある。



パンフラワーと銘うつからには、やはりパンを材料にしているのだろう。



それにしてはメキシコなどの民芸品に比べると、ずい分精巧なようだ。



なぜなのだろう。



それは、材料の差なのである。

故人の命日にパンを配る伝統

July 02 [Wed], 2014, 10:00
今までパン教室などでも受け継がれてきたパン作り。



いったい、どんな人たちがパンを作ってきたのでしょう。



パンのほどこしの習慣は、葬式のほか、死者の命日にもあった。



先に記したマリーエンベルク修道院の修道院長の日誌では、



「1694年6月19日。故院長(前任者)の三〇周忌にあたり、相当量のほどこしものが貧者に配られた。その一人一人に、大きいパン1個、チーズ1かたまり、焼いた肉1切れがほどこされた。このほどこしものを貰った貧者は340人であった」



という。



貴族の中には身内が亡くなると、修道院を建立し、それを教会に寄進して、そこで死者の冥福を祈ってもらうというようなこともあった。



そこでも命日にはやはり貧者にパンが配られたのである。



ときにはそれはすさまじい規模のほどこしになった。

葬式饅頭ならぬ葬式白パン

June 01 [Sun], 2014, 10:00
パン教室でパンをこねながら思うのは、いったい人はどれだけこの"こねる"を繰り返してきたんだろう、ということです。



このように世俗では、物乞いが多く来れば来るほど、幸運の先触れと解釈されるようになっていたのである。



パンのほどこしの行なわれる、次の機会は葬式である。



マリア・ルカウ村では、農民が白パンを食べるのは、復活祭の一日だけであったが、例外が葬式で、参会者全員にパン屋のセンメル(丸い小さい白パン)がひとつずつ配られた。



その習慣は1960年頃までつづいていた。



葬式にパンを配る習慣は、中世来広く行なわれてきた。



キリスト教によると、この世で行なわれる善行は、煉獄(天国の前段階にある、死者の清めの場)へ行った死者を救済する助けとなる。



だから葬式では、貧者にほどこしを行なうよう、教会が奨励したという経緯がある。
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