「ネイティブ広告」の混乱で思うこと 

December 05 [Mon], 2016, 8:50
 最近不眠気味で自律神経乱れっぱなしなParsleyです。ごきげんよう。

 さて、堀正岳氏が以下のようなエントリーを書いていたので、私が思うところも記してみる。

 ネイティブ広告はメディアの未来への脅威ではないかという気がしてきた(Lifehacking.jp)

 日本インタラクティブ広告協会(JIAA)が発表した『ネイティブ広告ハンドブック2017』については、すでに自分の考えを述べた。

 JIAA『ネイティブ広告ハンドブック2017』騒動と、広告サイドとメディアサイドの「溝」(ふじいりょう)

 堀氏は『ハンドブック』に記載されているネイティブ広告の定義について、『基本的には「コンテンツに誘導する広告枠」である』としているのが、それ以前の2015年3月に発表された『ガイドライン』の『デザイン、内容、フォーマットが、媒体社が編集する記事・コンテンツの形式や提供するサービスの機能と同様でそれらと一体化しており、ユーザーの情報利用体験を妨げない広告を指す』とされており、「定義にゆらぎがある」と指摘している。私もここに違和感があるということは上記の記事で記した。
 「広告枠」に限った話をすると、多くのメディアに設置されている記事枠に挟まれた「枠」のリンク先の「広告」は「ユーザーの情報利用体験を妨げない」とはとても言えないような旧来型の「商材を宣伝するページ」であることが多く、それを「ネイティブ広告」と指していいのか。私の感覚では「ネイティブ」じゃないだろ、と思うのだが……。
 そういった現状があるにも関わらず、『ハンドブック』では「編集記事ページと同じ体裁のスポンサードコンテンツ」についての説明を避けている。「ステマ」として問題視されるのは編集記事に「PR」「AD」などの表記をしないことであることが多いにも関わらず、だ。しかも現状の法解釈では「広告であることを隠す欺瞞的な行為自体が、ただちに現行法に抵触するという解釈はされていない」と踏み込んで記載されている。これでは混乱が起きるのも無理はないだろう。

 このあたり、昨年秋に『週刊ダイヤモンド』がベクトル社を刺した「ステマ特集」の時にも書いたけれど(参照)、夕刊紙やファッション誌で広告表記のない記事がYahooのようなポータルサイトに載ることはザラにある現状に変化はないように思える。末端のネットメディアのライターとしては規則があればそれに従うけれど、JIAA会員社でも対応がバラバラだから、正直なところ「こっちに判断押し付けるなよ」と言いたくもなる。
 そういえば、塩谷舞女史がPR記事を書くギャラを公開するという『MarkeZine』の記事(かなり眉唾な内容なので鵜呑みにしないように!)に対して、インターネット広告推進協議会事務局長の長澤秀行氏が以下のようなコメントを『Twitter』で寄せていた(現在は削除)。

 可視化されていいな。但し、クライアントや広告会社やメディアから広告主依頼の有料記事をPRクレジットなしで書いて欲しいと言われた時はよく熟慮して欲しい。(以下略)

 そもそも過去に受けた仕事が分かるのだから数字が可視化されたら守秘義務はどうなのか、というツッコミはさておき。「よく熟慮して欲しい」って、熟慮して受けると決めたとしたらどうするのよ。そこは立場的に「受けてはいけない」じゃないの(笑)……って思うわけですよ。広告界の権威ですらこれだと、対応がブレるのも当然だと末端の身としては感じざるをえないし、JIAAという組織もまったく信用ならないな、となっちゃう。

 長々と書いてきたけれど。ネイティブ広告についてあれこれメディア側やそこでお仕事するライターに押し付けようとするのならば、まずはJIAA各社の足並みを揃えてからいろいろ言って下さい、と最低限お願いしたいですね。どうやら高広伯彦氏とヨッピー氏はお酒飲んで手打ちしたみたいだけど、私は納得していないからね、という話でした。

 今日も売文しないといけないのでこの辺で。


政治の話題が「罵詈雑言」になる理由 

November 05 [Sat], 2016, 12:05
 音喜多駿都議が気になるエントリーを上げていたのでメモがわりに。

 批判されるのは仕事なれど…「朝まで生テレビ」初出演の感想【雑談】 (東京都議会議員 おときた駿 公式サイト)

 なんでも、Twitterの「#朝生」タグが攻撃的なツイートが多くて「読んでると病みそうなので序盤で見るのやめました」とのこと。
 「まぁ、そうなるな」と日向さんばりに言いたくなるのは、Twitterが140文字という制限(しかもタグで3文字使ったり画像を投稿しようとするとさらに減る)があるから、短い言葉で感情が先鋭的になりやすいという構造的な理由がある。2005年前後の第一次ブログブームの頃には自分も含めて政治をネタにエントリーを書いているひとは幾人もいたけれど、論理的に「それはおかしい」というものはあったかもしれないけれど暴言の投げ合いといったことになることは稀だったように思う。
 その頃に比べて、ネットに発信している母数は増えているから、より「ふつう」のひとが参加するようになって、「偉いひとには何を言っても許される」といった意識のひとが顕在化してくるのも当然といえば当然なんだろう。この「偉いひと」には例えば私のような木っ端ブロガー/ライターもそう見えることがあるみたいで、BLOGOSに転載されたり、Yahoo!ニュース個人の記事がトピックスに選ばれようなものなら、あちこちから罵倒リプが飛んでくる。
 この手のひとたちは、基本的にコミュニケーションが双方向でなく一方向だと「思い込んでいる」から、こちらの反応があるかどうか関係がなく、「言った」ことで大抵の場合満足しているように見える。だから、そもそも「議論」を望んでいるわけでないし、言われた側も返信しようがないようなケースが圧倒的多数になってしまう。

 もうひとつ。政治の話題がこの手の「罵詈雑言」にまみれる理由として、結局のところ個々が政策あるいは政治課題を我が事として考えていないのだろう、という思うことがある。豊洲の問題にしても、どんな選択肢にもリスクはあるわけで、それをどれだけ許容するかというところに焦点が当たるはずで、誰に責任があるのかは本来副次的な産物であるべきだろう。それがそうならない、というのは多くのひとにとって「他人事」として「政治」に口出しをしている、と捉えるしかないのでは、と思っている。

 これはある意味で「ガス抜き」であって、個人的には為政者とか情報発信側とかにとってはくみやすい相手と捉えることもできる。そういった面も含めて、「むなしさ」がマシマシになるわけなのだけど、まぁネットで書き込みするくらいで憂さを晴らすことができるならばそれで、といった感じなのが正直なところだったりしますね。

 そんなこんなで。今日も作業が詰まっているのでこの辺で。


 
 
 

ブログから「じぶんメディア」へ(?) 

November 02 [Wed], 2016, 6:45
 ここのところ心身が疲れ切っていたということもあって、生産性が最低レベルだったのだけど、低空飛行でもいいからそろそろ浮上にきっかけが切実にほしいParsleyです。ごきげんよう。

 2007年に富士スピードウェイで行われたF1日本戦の惨状をレポートして(参照)名を馳せた『のまのしわざ』氏のMediumのエントリーが気になったのでメモがわりに。

 ブロガーの終焉 – Medium

 ここで指摘されているような「アサマシ目的」というか「クレクレ厨」的なひとは第一次ブログブーム(2004年〜2006年)を過ぎた頃から存在していたから、ここ最近の話でもないというのが個人的な実感ではあるけれど、いま「あえて」ブログをはじめるというひとが彼のいうような「他動的な人間」になっているような印象は私も持っている。

 自分が高校生だった頃からAAAバスト向けブランド『feast』を立ち上げるまでになったハヤカワ五味さんが最近『LAVISH GIRL』というサイトを立ち上げた。

 LAVISH GIRL  痩せてる女の子向けバイブルメディア

 美容系やダイエット系のメディアは数多いけれど、「太れない女の子」向けのメディアというのはこれまでになく、ないから自分自身で作っちゃった、というわけなのだけど、特筆すべきはハヤカワさんがWordPressを一から触ってほぼ独力で立ち上げてローンチした、というところにある。
 要するに、能動的な人間は「ブログ」どころか「じぶんメディア」を新たに作る時代になったという意味でも、『LAVISH GIRL』はあとに続く若いひとが出てくるんじゃないかな、と感じられる。なんというか、自己実現でももっと大きな目的がある場合でも、ブログ作っている場合じゃない時代になっていくのではないかなぁ、と。

 私のように書くことしか脳がないような人間にとってはブログで十分ではあったけれど、「ブロガーの終焉」が訪れるとするならば次のトレンドがあるはずで、その嚆矢になることも『LAVISH GIRL』には期待したいんですよね。彼女は放っておいても自走するだろうけれど、何かをネットで始めたいというひとは「ブログ」をすることよりも「じぶんメディア」を持つ、といったマインドをもって仲間を集めるといった方が、何より生産的だし今っぽいなぁ、と感じる。

 まぁ、ブログにしろメディアにしろ、はじめるよりも継続することの方が大変だけどね。そういった意味でも『LAVISH GIRL』は注目です。



ネットから「降りる」か「残る」か 

September 13 [Tue], 2016, 1:25
ウェブでメシを食うということ
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 ちょっと風邪気味ではあるし、やらなければいけないタスクが一段落したということもあって、最近読了した中川淳一郎氏の『ウェブでメシを食うということ』の感想みたいなものをざざっとメモ。

 まず。この本はウェブで稼いでいくということが主題ではなく、中川氏が博報堂に入社して社会人となり、退職後に『テレビブロス』などでお仕事をして以後に『アメーバニュース』『ニュースポストセブン』などを立ち上げに関わった間に交遊があった人々についてを交えた自伝的作品だといえるだろう。マイケル・ウィンターボトム監督の『24・アワー・パティー・ピープル』の2000年代東京IT業界版として読むと実に面白いし記録的な価値もあると思う。
 
 とはいえ。考えさせられたのは、中川氏がネットの世界、というか社会から「降りる」日がそう遠くないと準備していらっしゃるような描写が節々に感じられたことだ。まぁ、365日ほぼ休みなしで稼働することが宿命のネットニュースという仕事は、体力がないとキツイし、常にネットの感性というものを維持するために浴びるような情報収集を常に求められるし、そう長い間にやる仕事ではないのかもしれないな、と思ったりもする。
 だから、中川氏が40代のうちにキャリアから「降りる」という選択をするというのは賢い生き方のように見えると同時に、そこまで30代の間にウェブで稼げなかった自分としては羨ましくもある。

 30代のうちは、ネットの情報に対して瞬発力のあるアウトプットができたり、流れてくる情報を出しているユーザーの感覚を読むことができた。それがこれから先ずっと出来るのかどうか。ネットから降りずに「残る」という選択をした場合、それが求められる。そして、それはとても難しいのではないかと、日々のニュースやツイート、知り合いのFacebookやInstagramを横目に、ぼんやりと思いはじめている自分がいる。

 最近も、PCデポの高額解約料騒動の問題がTwitter発で明るみになって、「トウゼンカード」なるノルマの存在など次々と明るみになる中、徳力基彦氏が日経新聞電子版のコラムにボヤっとした記事を出して、若干ボヤって(小炎上)していた。

 PCデポ炎上 世間は適法より「適切」重視(徳力基彦):日本経済新聞

 徳力氏ほどの人がこれほどピントの外した記事をブログではなく日経新聞に出してしまうというあたり、2016年というメディア環境を象徴しているとも言えるし、彼ほどの人でもネットの「空気」がちゃんと読めないことがある、ということには個人的に若干衝撃を受けた。長年ネットで仕事をしている人でも、「やらかす」ことがあるのだ。そして、ネットメディアでは一回の失敗の傷がテレビや紙媒体よりも深く長く尾を引く。

 そんな中で、この先10年20年と戦い続けていけるのか。正直私自身は不安に感じている。まぁ、メディア環境は日々変わるし、元切込隊長氏が『Yahoo!ニュース個人特別企画』でおっしゃているようにそこに適応してなんぼではあるけれど、いつまでその気力と体力が続くかなぁ……。
 そういう意味でも、中川氏の「店じまい」感は生き方として学ぶべきところは多々あるし、なかなか真似はできないけれど、「残る」にしても「分からない」ものは「分からない」として置いておく勇気が必要なのかな、と感じる機会が増えているのは確かだったりするのだった。

 なんだかまとまりがないけれど、この辺で。とにかく、『ウェブでメシを食うということ』は20年後くらいに映画化されるべきだと今から強調しておきたい。

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私たちが「鳥越俊太郎化」しないためのたったひとつの希望 

August 13 [Sat], 2016, 6:55
 今日も取材なのに一睡もできなかったParsleyです。おはようございます。

 夜半についつい『ハフィントン・ポスト』の鳥越俊太郎インタビュー()について、ざざっと記事を書いてしまったわけなのですが。

 「ネットを信頼しない」鳥越俊太郎氏はネットメディアによって「終わる」のか(ふじいりょう)

 シロクマ先生のエントリーを読んで、彼の言動に関して我々が教訓というか、反面教師とするにはどうすればいいのか、考えこまざるをえなかった。

 すっかり年を取ってすっかり変わってしまった鳥越さんを眺めながら考えていたこと(シロクマの屑籠)

 個人的には、「週刊誌編集長」という肩書きを持っているひとのある種の「変わらなさ」というものがあり、鳥越氏なども考え方や思考が変化しているとは思わないので、シロクマ先生がいうような「衰え」にその理由を求めていいのか、ちょっと留保しないといけないような気がする。
 例えば鳥越氏に限らず、花田紀凱氏もこんなことを記事にしている。

 『シン・ゴジラ』、ゴジラがあまりにかわいそう。(花田紀凱)

 1954年版の初代ゴジラや1984年版のゴジラのように「人類の敵」として描かれたものは原子力、もっといえば水爆や東西冷戦といった世界情勢を下敷きにしていて、庵野秀明版ゴジラはその正統な後継作品であるということは明らかだし、さまざまな怪獣に対して「人類の味方」として戦うゴジラ像は「娯楽作品」として大衆に求められた結果として生み出されたものだということは、私程度の知識でも語れるわけなのだけど、花田氏にかかっては「最新兵器を駆使して、寄ってたかってゴジラを殺すだけの映画」と記しちゃうわけだ。ただ、彼の場合は感性の劣化ではなく、いつの時代に作られたとしても「逆張り」をしたと思う。

 話が逸れた。結局のところ鳥越氏や花田氏のように紙媒体やテレビで生きてきた人たちは「君子豹変する」というところがあって、書いたことが「ログ」として残って考え方が変わった時に即座にツッコミが入るインターネット時代の言論人ではない、ということだろう。

 私が鳥越氏と『オーマイニュース』のことを記事にした(参照)のは、当時このブログで『オーマイニュース』について継続してウォッチしてきた身として、それを指摘することが一貫性につながると考えたからだし、URLがある限りは参照されるから。まぁ、あの頃に書き散らしたことで、今スルーするのはちょっと違うだろうと思ったわけだ。

 このブログを続けている間、一時期に私も心身を害していて、若干荒れた内容のエントリーを出すこともあった。けれど、そういった「よくない時期」に自分を支えたのもこのブログだったし、過去に書いたエントリーだった。
 もちろん、シロクマ先生のおっしゃるところの「思考力や判断力や羞恥心の衰えた言動」と気力・体力はリンクするだろうし、そのリスクは誰にだってある。とはいえ、過去に「書いて残した」ものがパブリックに読める状態である限り、方々から指摘されるだろうし、それが「自律」につながるんじゃないかなぁ。少なくとも彼らよりも。
 より「自律」を意識するならば、定期的に過去に書いた自分の記事を読むこと。それによって「鳥越俊太郎化」が避けられるのではないか。私としては自分の「ログ」があるということに望みをつなげたいし、仮に事故った時には即座に訂正するなり謝るなり、他者の忠告を素直に聞くなりするだけのフックになるのでは、と思っている。だから、自分の書いたものが公開されて残っているという状態は「希望」そのものだと考えている。それが「ネットを信頼している」世代にとっての、あるべき態度だと信じる次第です。

 



 

ブログが読まれるために必要な「突破力」 

July 30 [Sat], 2016, 1:10
 たつを氏が、こんなエントリーを上げていたので、別にParsleyは「人気ブロガー」ではないけれど簡単に。

 人気ブロガーになるには熱量が必要

 自分が今でもブログを細々と続けていられるのは、やはり「読まれている」という実感があるからなのだけど、ここを始めてから1年ほど経過した2005年ごろに、あるエントリーがそれなりに注目されたのがきっかけだった。

 民主党議員がオンナゴコロを掴むために

 当時はまだブログをやっているひとが少なくて、トラックバックやはてなブックマークの数が指標となっていたから、現在と環境がまた違うのだけど、自分が尊敬しているひとや私淑していたひとがこぞって読んでくれて、むちゃくちゃ嬉しかったことを今でも思い出す。
 たつを氏が触れている「熱量」も、もちろん大切ではあるのだけど、1年程度は自分の感じたことや思ったことをそのまま文章にすることを辞めなければ、どこかのタイミングで「突破力」があるエントリーが書けるのではないか、と個人的には考えていて、活躍しているブロガーもそういうエントリーが何かしらあったりするんだよね。
 だから、「無理はせずにぬくぬくとまったりだらだら長く続けていく」というのは正解で、はじめからバズを狙って炎上したとしても、そのままでは数年で飽きられてしまう。
 
 ちょっと話がずれるけれど、自分ははあちゅう女史のことが大嫌いではあるけれど、『さきっちょ&はあちゅうの恋の悪あが記』の頃から共感なり反感なりを買うエントリーがあって、それをフックに次のステージに進む原動力にするだけのセルフブランディング力=根性はあったわけで、彼女の今があるのは「恋活」時代があってこそなのは間違いない。そういった自分を推進する「突破力」を常に磨いているところは、尊敬に値すると思うわけ。

 とはいえ、凡人が数々のブログを同時に書いて、なおかつ読み手の心に(良かれ悪しかれ)響く存在になれるわけではないので、繰り返しになるけれど自分に正直な感情だったり思いだったりを、熱量をもって伝えられるようになれるよう、そして「好き!」あるいは「嫌い!」といった気持ちを表現できるようになると、「人気ブロガー」への突破口になるかもしれない。まずはそこからなんじゃないかなぁ、と改めて思った次第です。

メディアは何を増幅・拡散させるのか 

July 23 [Sat], 2016, 1:10
 疲れているし、なんかイライラしているし、適当にアルコールを入れたので感想のような感想でないようなものを。

 「東京が壊滅する日」タイムリミットの1年後(2016年7月17日) 東京は壊滅したのか? いいえ、都知事選の真っ最中です。 (Togetterまとめ)

 私自身は公害喘息患者でもあるし、放射能よりもさまざまな排ガスや大気汚染の方がよほどリスクだと考えているわけなのだけど、何を問題視するのはひとそれぞれだ。福島県では2014年4月から約38万人の県民に調査を行い、これまで計115人が甲状腺がんだと診断されているが、同年に県内では89名が交通事故で亡くなっており、ここ5年で減少傾向であるもののおおむね70〜120人の死亡者数で推移している。
 津田敏秀氏や、広瀬隆氏、白石草女史にとっては、甲状腺がんの増加が最大のリスクだと考え、警鐘を鳴らした「つもり」だったのだろう。たが、それが実際に年月を経てどうなったのかは検証されるし、まとめにもあるように東京は都知事選の真っ最中で、しかも多くのひとは『ポケモンGO』に夢中だ。

 ここでつくづく思うのは、「メディアは何を増幅・拡散させるのか」ということだ。答えは書き手の感情が、読み手のの感情を刺激して、増幅して、正誤は関係なく「信じたい」ものを強固にしていくということになる。特にネットメディアは、読み手がどのような感情を持つのか、その喜怒哀楽に訴えて刺激するというものが結局のところ読まれるしアクセスも取れる。
 それが果たして正しいことか、というと必ずしもそうでないケースも多々あるのは皆わかっている。それでも、KPIがアクセスである以上は、書き手は書かざるをえない。
 まぁ、なんでこういうことを記すのかというと、私がいろいろなことの後追い記事を書いたところで大して読まれないし、ほとんど評価されないからなんですけれどね! そういった愚痴は以前にも書いたけれど(参照)、真面目にコンテンツ作りをしているひとほど馬鹿を見るような構造に、今のメディア環境はなっている。結局のところポータルメディアやニュースアプリの中のひとがいかにご高説を垂れたとしても、ピックアップされるのは読者の「感情」に訴えるような記事ばかりだしさ!

 そんなこんなで、360度敵ばかりに見えるParsleyではあるのだけど。今ここでサバイブしていかなければいけないのは確かなのだし、そういった風潮に流されずどこまでいられるか、できることはやっているつもりなのだけど、時に心折れそうになる日もあったりするわけで、まぁ人生ってままならないよね、と思う夜なのだった。おやすみなさい。


 
 

参議院議員選挙の感想のような諦念のようなもの 

July 12 [Tue], 2016, 7:35
 参議院議員選挙が終わった。いちおう小さいとはいえネットメディアのデスクという立場もあり、『Twitter』でもなるべく選挙に関わることは触れないようにしてきたので、その間に思ったことを含めてざざっとメモしておく。

 まずは結果。自民党・公明党が勝つということは既定路線だったので驚きはない。Parsley的な争点は山田太郎氏が国会に戻れるかどうかで、実際291188票のひとりだったわけなのだけど、非常に残念ながら落選した。選挙区は金子洋一氏に入れたのだけど、こちらも落選した。同じ民進党でより年齢の高い真山勇一氏が当選するあたり、組織票はそちらに流れていたのだろう。なんというか、こちらも残念だ。

 争点といえば、この選挙では民進党が「2/3を取らせない!」とキャンペーンを張り、メディアもそれに乗ったという図式だろうが、楊井人文氏が指摘するように明日憲法が改正されるわけではないのだし、それってミスリードなのではと思っていた。

 参院選 「改憲勢力3分の2」が焦点? メディアが報じない5つのファクト、1つの視点(楊井人文)

 どうせならもっと待機児童も含めた児童福祉の話だったり、自民党の憲法草案では「改悪」になるであろうLGBTや「結婚」のあり方であったり、アベノミクスに変わる景気浮揚策だったり(減税)とか、野党はそういった政策を打ち出せなかったものか。
 もっと言えば、今回みんなの党がなくなって、「新自由主義だけど新保守主義ではない」という票は宙ぶらりんの状態だった。そこの受け皿となる人たちは山田氏以外はどこかに行って、渡辺喜美氏は当選した。なんだかなぁ。

 もうひとつ。今回の投票率は54.70%で戦後四番目の低さだった。
 選挙期間中に私は下記のようなことを書いて、例によっていろいろなひとに無茶苦茶怒られた。

 選挙に行かなくても政治には「参加」しているし無問題である(ふじいりょう)

 別に怒られるのは「サーセン」でおしまいなのだけど。あえて言うならば「選挙に行こう」的な活動をしている団体や人は、そろそろもっと違ったアプローチをするべきだと思う。結果的に投票率は大して上がってないわけだし、PDCAどうなっているの、と感じるし、むしろ投票率も政権への信任という面ではファクターになり得るのだから、有権者=生活者として、「選挙に行かない」自由をもっと肯定的に捉えるべきなのでは、と感じるんだよね。
 繰り返しになるけれど、明日憲法が変わるわけでもないし、生活者に寄り添う政策を訴える候補がいないのであれば、投票先はないということになるわけだし、そこを「選挙に行かないのは意識が低い」とか蒙昧なことを言うべきではないし、投票率の低さは「祭り」としてのクオリティを低くした政党や候補者、そしてメディアの責任だ。
 
 そういう意味では、ネットメディアに関わるはしくれとして、もっと選挙にコミットできなかったのか、という反省はある。選挙が終わってからいろいろ言ってもあとの祭りだし、山田氏の「表現の自由」を全体のアジェンダとして争点にするようなことが何か出来なかったのか、いろいろ「手」はあっただろうとも思う。
 とはいえ、公職選挙法の「選挙運動」が曖昧なので腰が引けていたのは事実だし、『Yahoo!ニュース個人』にも「公選法上の選挙運動にあたる記事投稿は禁止」と釘を刺されてしまった。本来、そこも自由に発言できるようになったのが「ネット選挙」の良いところでもあるし、そこは積極的になるべきだし「おかしい」というべきではなかったのか。

 だがしかし。私も生活者だし選挙以外にもニュースはあって追わなければいけない対象はたくさんある。自分のできることなんて限られている。そんな限界というか、諦念も感じざるを得ないというのが、「まぁ、仕方ないよね」というのが今回の参院選の感想になるのかな。仮に残念な結果だとしても、全てを受け入れるのも民主主義というものだろう。

 なんだかとりとめもなくなったのでこの辺で。

 

なぜ誰もチェックしないのか問題が起きるワケ 

June 30 [Thu], 2016, 2:20
 ちょっと眠れないのでざざっと考えたことを。

 女性雑誌に載ってた擬音がアウトなやつだった「何を思ってこれ使ったんだ」「誰か止めてやれよ…」 (Togetterまとめ)

 「くぱぁ」がダメな擬音だというのは、紳士な嗜みをもつ男子ならばすぐにピンとくるけれど、女子ばかりの編集部ならばそれがわからなかったのかもしれないね、ということがまずあるにせよ。「誰が止めてやれよ…」ということで誰も止めないロジックというのはいろいろ考えられる。

 今回の場合、アイディアだし(編集会議)⇒デザインへの落とし込み⇒読み合わせ⇒編集長チェックといったプロセスが想定されるけれど、まず最終段階の編集長が「くぱぁ」を知らなければそのまま通ってしまうだろう。読み合わせでも、もし誰かが気づいたとしても、担当外だとケチをつける=批判と受け取られないように黙るという「空気」が生まれやすい。デザイン段階ではオーダー通りに作るのがお仕事なので基本的に「これおかしいです」と指摘するのは、同じような理由で難しい。つまり、発案者の意見がひとたびOKになってしまうと、そのまま通ってしまいがちになるケースが多いように思うんですよね。

 これはネットメディアでもそうで、一応は事実関係を確認するにしても、書き手より詳しくない人間が調べることには限界がある。特に幅広いジャンルを扱っていると、どうしても知識より深い「文脈」というところまでは見ることができないケースって多々あるんですよね。
 最近だと、福島みずほ女史たち社民党が駅のホームで「選挙活動」をして公選法違反の疑いがあるのではないかと話題になった。個人的には主張を書いたプラカードらしきものを掲示するのは選挙活動と見做せるのではないか、と思うのだけれど、候補者がタスキをかけて電車に乗ることは名札をつけて乗車するだけなのと一緒で、ビラを配らなければ単純な「移動」に過ぎず、公選法違反ではない。ここの線引きはグレーな部分があるにせよ、公選法を読み込んでいない人がチェックをすると「違反」というトーンをそのまま通してしまってもおかしくないだろうなー、と思う。
 そして、編集長ではない、編集・ライターと同格の人間がそれに気づいたとして「待った」をかけることができるかというと、速報性が求められるし、「じゃあお前が調べろ」という余計な仕事を背負うハメになるかもしれないし、いろいろな意味で難しいんじゃないか、と感じる。ディスコミュニケーションだと言われそうだが、多くの媒体の編集部でそういう場面があるのではないか、と思うわけ。

 結局、世に「なんでこれ通ったの」というコンテンツが多く流れてしまうのって、書き手と媒体(あるいは編集長)の信頼関係に依っている場合が多いから、書き手や発案者の「知識」や「見解」、「アイディア」がそのまま通ってしまう。そこを抑えることができるのかどうかが、媒体としての危機管理になるわけなのだけれど、まぁ全部のジャンルを押さえるのは難しいよね、という話でした。

 そろそろベットに潜るのでこの辺で。

日本人が好きなのは「政治」ではなく「床屋政談」である 

June 24 [Fri], 2016, 23:20
 なーんか微妙に調子悪くて、いろいろなタスクをこなせないので、こちらでリハビリがてら。

 今月に入ってから、2本ほど『Yahoo!ニュース個人』に政治関連の記事を公開したのだけれど、まぁ読まれないわけですわ。

 記者クラブ外のメディアからはまだまだ「政治」が遠いという話 
 争点のない選挙戦こそ「誰」に投票するのか問われる

 もちろん、書き手としての私の力不足もあるし、「誰が言ったか」というところがモノをいうプラットフォームになっているということがあるわけなのだけど。アクセスがない割にはあちこちからクソリプはやってきるし、まぁ書くモチベを折られるますわな。これからも書くけどね!

 一方で、舛添要一都知事の関連した記事に関しては、どのメディアでもよく読まれる。その謝罪の姿勢を分析したものもあれば、彼が辞任に追い込まれた理由を日本人の「不寛容」によると分析したものもある。それらの記事はそれなりに「読まれる」意味があるコンテンツだと個人的には認める部分もあるのだけれど、一方で虚しさも感じる。
 結局のところ、日本人が好きなのは「政治」ではなくて「政局」であるし、もっというならば「床屋政談」であると断じてもいいのかもしれない。関心があるのは政策そのものではなく政治家の不祥事であったり人事(毎回、内閣改造は盛り上がる)であったりするわけだし、そこに絡む人間関係であったり党派であったりするグループ間の「争い」であったりするわけで、つまるところは「何を」するのではなく「誰が」するのかに関心があるんだなーと思わざるをえない。

 もう一つ、今のメディアは「議論」「オピニオン」といったものよりも「共感」が軸となっているところが多いから、誰か政治家が『Twitter』で投稿した内容が、どのような反応になっているのか、といった記事の方がよっぽど「ウケ」る。自分がそれに対して「共感」するか、しないかのどちらかで読めるからだ。それをさらにSNSで感想を投稿してさらに「共感」が増幅する。メディアはその役目程度しか果たしていない、という現実がある。良い悪いの問題ではなく、そうなっている、という話ね。
 
 どちらにしても、「政治」はその国民性の縮図だと思うし、それが「残念」ということであれば有権者が残念ということになるわけで、少なくとも未来の世代について考えた投票行動を自分はしたいなぁ、と思う次第です。

 シャワーを浴びたいのでこの辺で。あ、私自身も「床屋政談」は大好きなので、そのあたりは批判する意味はないよ! ……ということは言明しておきます。それじゃーね!



 

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