【0031】 長崎巡礼 ACTU −報告編−

August 26 [Sat], 2017, 22:36


<田平天主堂>



<紐差教会>


<宝亀教会>


<三浦町教会>

今回の予定としては、前回「計画編」でお伝えしたとおり、金曜の夜に佐世保入りして、土曜は終日レンタカーで平戸巡り、佐世保泊。翌日曜は黒島へ渡航、佐世保に帰って来て福岡空港へ。というものでした。
ところが台風5号が近づいてきて日曜には九州上陸ということです。特に波に左右されそうなフェリーの予定がみえなくなってしまい、日曜に予定の黒島は丸々諦めることにしたのでした。(…日曜のうちに横浜に帰れなかったらアウトなので…。ここは悲願の旅より会社員の理性がまさりました。)
帰りの飛行機は日曜の夜だったのを土曜の最終便に変更したわけですが、当初の予定のように巡礼ドライブの一日を終えてまた佐世保に泊まるのと、福岡まで向かわなければならないのとでは気持ちの余裕が全然違います。なので土曜の平戸ドライブも、一部予定(平戸市街)をカットして早めに切り上げざるを得ませんでした。つまり、「黒島および平戸とその近郊巡礼」から「(平戸の)近郊巡礼」に大幅カットしたわけです。
というわけで、この「報告編」は、「計画編」とはがらりと赴きを変えて、そのグラビアは黒島天主堂から田平天主堂に変わることとなりました。田平天主堂が思ってたよりさらに素晴らしかったので旅の主役となったことになんの不足もないんですが…。でもきっと次は「黒島編」としてだけ旅を編んで必ず実現したいと思います、近いうちに。
…とまぁ、気持ちの整理と愚痴に付き合っていただくのはこのくらいにして、感動と興奮の連続だった「平戸近郊巡礼」の様子をお伝えすることにします。

***
佐世保へは(出張先の)唐津から鉄道で向かいました。うーん、長い…。地域的には近いと思ったんですけど。
唐津を17:30にでて、伊万里・有田肥前らしい地を乗り換え乗り換え、早岐(はいき)に着いたのが20:00です。そこから佐世保駅はもう一息…。

<有田での乗り換えなど、30分も待ちました>
この連絡の悪さはちょっと閉口ものです。九州新幹線の長崎ライン敷設、大賛成です。



<佐世保港と佐世保駅。アーチとヴォールトでちょっと教会っぽくしてると思うのは、私だけ?>

退屈な長時間移動に疲れ、ずっしりとのしかかるような暑さのなかを佐世保駅を出て大通りをとぼとぼ歩き始めると、思わずあっとなって急に元気が出ました。三浦町教会とおぼしき聖堂の、堂々とした姿が見えたからです。


<光に浮かび上がる三浦町教会>
今回の旅は教会巡礼が目的だから当然とはいえ、このテンションの上がりかたは…やっぱり文化的建造物が好きなんだなぁと思わずにいられない瞬間でした。
名物アーケードを抜けた先のビッグマンという老舗で食べた佐世保バーガーに元気をもらって、まだ先の長いホテルまでの道を歩きました。21:30ホテル着。


そういえば今回の旅は縁あるものが偶然いくつか重なる事の多い旅でした。ホテルは安さ優先で佐世保駅からはかなり遠い市役所近くにしたのですが、道を挟んで向かいに、とある信用金庫の佐世保営業部の大きなビルが望めました。
それからレンタカーのオフィスの真正面には三浦町教会(だから朝も夜も行きも帰りも何度も眺めることになりました)、お土産で買うはずのカステラの福砂屋の直営店が福岡空港に向かう高速バスカウンターと同フロアなど…とにかくこんな感じです。こんなちょっとしたことでも初めての街のひとり旅では嬉しいものです。これだけでも好感度があがります。

***
翌朝、本当に台風がきてるのかというほどの恵まれた晴天の下、ホテルを出発して、まずは昨夜見上げた三浦町教会へ、朝の挨拶と旅の安全祈願のために歩いて向かいます。

三浦町教会
(昭和6[1931]年、鉄筋コンクリート造)


<駅前大通りに面してるにしては不自然なほどの高さの土台の上に建っている>

石段の年季の入り具合から、周囲の家々よりそれなりの年数を経ているのが一目瞭然です。それに比べて聖堂そのものは平成になってから建立したのかというほどキレイです。塗り直しやクリーニングを経ているからでしょうが、鉄筋コンクリートというのはやっぱりそれだけ揺るぎないものなんでしょうね。


<右側面より>

<後陣外壁>
内部空間は、外観から期待するとおりの白を基調とした雑味のないゴシック。装飾でひときわ目を引くのは左アプシスの聖母子像の美しさでしょうか。
それでもやはり支配的なのは尖頭大アーケードとリブヴォールトの天井が生む独特のリズムと構造美、つまり中世ゴシックの基本を踏襲した建築様式そのものです。
よせばいいのに朝のまとわりつくような日差しのなかをホテルから2キロ以上も歩いたせいで、すでに汗だく。堂内は空調+抑えた採光でひんやりと心地よく、しばらく涼みを決め込んで信徒席に腰を下ろします。
そうしているうちにふと思ったのは、なぜ教会堂にしかこうした建築様式が使われないんだろう、ということでした。例えば集会所とかギャラリーとかに使われても遜色ないはずです。(そりゃホテルとか洋館になくはないですが、大体がちまちまとした「装飾」の域を出ないものです。)結婚式場のチャペルだって、写真に映らない天井なんかはわりといい加減だったりします。「教会だから」こそなのか、「教会にのみ許された」ものなのか…。
いずれにしても、時を忘れて無心に祈りたいとき、ゴシックのような”非日常”の空間でなければ、「なんか違う」と思わざるを得ません。神と対話するにはこの特殊な空間が必要というのもあるかもしれません。
大アーケードは、ずっと身をまかせてぼんやり眺めていると、その幾何学的でリフレインするリズムでもって軽いトランス状態にいざなうようです。リブヴォールト天井は天井架構のひとつの方法にほかなりませんが、確かに見方によっては、薄く柔らかな幕のような天井がふわりと飛んでいってしまうのを柱頭のところでピンと張って必死で止めているようにも見えます。
アーケードの美しくもドライなリズムが生む無心感・虚脱感と、飛んでいきそうな天井をつなぎとめていることによる、抱擁感・安心感(・ともすれば不安感)、そういった「祈り」に必要な気持ちの要素を生み出す方法の極致が、こういう建築様式なのかもしれないと…改めて考えながら眺めたのです。

教会に別れを告げるとレンタカーに乗って西九州自動車道を快適に走りはじめました。出足は好調! 鹿町・江迎の街並みを過ぎると一気に緑が多くなります。
田平の山あいの上下左右にまがりくねる一本道をしばらく進んでいると…。 …見えた!
重なる梢の向こうに突如、想定していたより大きな存在感をもって、田平天主堂の鐘塔がその姿を現しました。




田平天主堂
(大正6[1917]年、鉄川与助、木造&煉瓦)
そういえば教会に訪れるという目的のためだけに車を走らせたのはこれが人生で初めてでした。毎週訪れる信徒でもないのに、教会前の駐車場に何気なく車を停め、管理室に挨拶して教会堂を眺めやる…。自分として、これほど旅らしい旅もないと心ひそかに微笑んだものです。
さて、その田平天主堂。


大正解! あなたがすべて正しい。今日の良き日よ、ありがとう。そういうことだよ。この世のすばらしいこととは。
こんな、よくわからない賛美と感嘆が次から次へと溢れだすような、とにかく、最高の存在でした。どうしていままで、知らずにいたのだろう。知られずにいたのだろう。



<後方より。内部構造の表出以上のものはなにもない。純度はきわめて高い>



<側面入口、煉瓦で成型されたロンバルディア帯と重層アーチと柱頭。右・左側面とも同じ構成>


<ファサードと鐘塔の構成。各層のアーチの相互関係が面白いのと、
鐘塔頂部で円形装飾に帰結させる処理が見事というほかない>

いよいよ中に入ると、染みでるような闇とひんやりとした空気が体にまとわりついてきます。(暗いのはともかく、涼しいのは複数台の据え置き型の大きなエアコンのおかげでした。)
それにしても…。聖堂内部も息を呑むすばらしさです。まずその構造美。…完璧。外観をまったく裏切らない構成です。半円アーケードに束ね柱、そこからリブが伸びて天井に斜めに交差し頭上で重量が昇華されます。
基本材質は木材です。長崎では普通ですが、世界的には珍しい部類の景色ではあります。それはそうとして、特筆すべきはファサード背面(つまり身廊の玄関側の壁)の大アーケード終了部の処理方法です。


外から見た場合のこのわずかな幅を処理するために、内部では、大アーケードの終点からさらに小さなアーチを直角方向に曲げ出し、アーチの弧の終わりは柱で受けるのではなく、咲き掛けの蕾のような装飾で終わらせています。つまり小アーチの終点が頭上に浮かんでいるわけです。
(写真がたった一枚あればこんな煩わしい説明を省けるのですが、いかんせん「長崎の教会群」は内部の写真撮影を戒めているので、撮ることも載せることもできません。芸能人を写メするのとはわけが違うし、まさかミサ風景を撮るわけでもなし、私のような好きで個人的に巡礼する者による撮影は自己責任で許可してほしいものです。)

いずれにせよ、念願だった場所をこうしてひととおり体感してみて、この教会は唯一無二のジャパニーズ・ロマネスクだということがはっきりとわかりました。そう、ここで支配的なのはどちらかというとゴシックよりロマネスクの美学なのです。地に足のついた外観は言うに及びません。内部もその懐のふかさと独特の柔らかさでもって(三浦町教会のような上昇性よりむしろ)どっしり包み込む感じは明らかにロマネスクのそれです。
モチーフからするとリブや二階席の装飾など一部ゴシック的なのですが、ロマネスク〜ゴシックという西洋中世美術がすっかり俯瞰できていてかつ中世リヴァイバルで自己再生まで完了していた時代背景を考えると、様式的には折衷的なのは当然すぎます。そうした細かい様式読解を無意味にするような、円熟した構造美の説得力の高さが建物全体を支配しているのです。



<敷地はゆるやかな斜面全体を覆うように展開する。道路が一番上、そこから駐車場、聖堂、墓地、貝殻焼き場、下の道、と下っていく。駐車場から聖堂背面を見る(上の写真)と、かなりの高低差があることがわかる>


<有名な、正面のこの門のような左右の十字架越しに聖堂を視界に収めるためには、階段をかなり下って、引いて撮る必要がある>
(難点、というほどでもないですが、午前中に教会ファサードを撮影しようとすると完全に逆光です。どこかで夕方が美しいと聞きましたが、赤レンガが夕陽に映えて確かに綺麗でしょうね。今度は午後に…と思います。でも、私の好きな「後ろ姿」を存分に観るには今回は午前中でよかったとも言えます。)

聖堂から出て再度その姿を振り返ったときには、とてつもなく素晴らしいものに出会ったという幸福感にしばらく茫然と立ち尽くしました。後ろ髪引かれる思いでその敷地をあとにしたわけですが、去り際に車のバックミラー越しに見え隠れした鐘塔の姿がなんだか妙に忘れられず、いまでもはっきりと思い出すことができます。

***
田平天主堂をでてしばらく道なりに進むと、レッドの橋桁の平戸大橋に差し掛かります。いわゆる日本「本土」の最西端から外に出る瞬間ですが、これは絶景でした。
平戸市街地に寄らずに、途中海岸線と山林を交互に抜ける国道383号を道なりにしばらく進んでいると、一気にひらけた田園の向こうに、突如それはその姿を現します。



紐差教会
(昭和4[1929]年、鉄川与助、鉄筋コンクリート造)

<目印の鐘塔は田平天主堂を踏襲した八角ドーム。
期待にときめきながらきざはしを登っていくと…>


<さらに階段。周辺を見下ろすかなり高い位置にあることが実感される>

<半円アーチの連続。明らかに三廊式バジリカのプランを物語る外観>

<外観がやけに大きく見えるのは一階部分を土台として礼拝堂空間は「二階」に位置しており、建物として二層構造だからです>

<左側面後方。斜面にあわせてだんだんと二階の礼拝堂部分のみになる>

<後陣背面>

<右側面から>
田平天主堂と同じ鉄川の設計による大伽藍です。木材&煉瓦造から鉄筋コンクリートへという「方法」の違いはあれど、田平天主堂の形態の踏襲が「目的」だったということは、その外観で一目瞭然です。
ちなみに鉄川年譜でいくと、田平が最も勢いのあった時期の代表作ならば、紐差は脂ののりきった時期の佳作、といったところです。
明治最後期〜昭和にかけて五島や平戸に建てられた教会堂のほとんどが彼の作品といってよく、明治40[1907]年の上五島の冷水教会を皮切りに、30代後半に田平天主堂(大正6[1917]年)をはじめとする傑作を生みつつ、50代の円熟期には紐差教会(昭和4[1929]年)、事実上の「遺作」となった水ノ浦教会(下五島、昭和13[1938]年)まで、生涯に手掛けた教会堂はゆうに30を超えます(ただし現存しないものも多い)。
このうち、ドームを戴いた鐘塔が入口を兼ねていてファサードの主役になっている形式(要するに田平天主堂型)は、大曽教会(上五島、大正5[1916]年)、田平天主堂、頭ヶ島教会(上五島、大正8[1919]年)、紐差教会、大江教会(天草、昭和8[1933]年)と散見されます。それぞれで規模や詳細こそ違えど、実現しようとした意図は同じものだということが明白です。(特に時期の近い大曽&田平、紐差&大江には多くの類似がみられます。双方のよりいっそうの理解のために、やはりいずれ五島と天草も訪ねなければなりません。)
紐差教会のような大きな規模の案件で採用されたとすると、やはり鉄川にとってこの「田平式」(私が勝手に呼んでます)が自身の美学の到達点のひとつであったということがうかがえます。(あるいは周囲から求められたか…。いずれにしてもそれを「否定」はしなかったということです。) 個人的には彼の導きだしたその答えには大賛成です。

(教会建築に対する鉄川個人としての引退はやや早めですが、その後も鉄川工務店としては学校など世俗建築を手がけ、与助自身は97歳(昭和51[1976]年没)の長寿を全うします。 なお、遺作となった水ノ浦教会ですが、これは内部も含め木造で、驚くほど大浦天主堂に似た姿をしています。遊び心か、なにか意図があってのことだったのか…。ガイドでもなにもそれには触れていないのです。この謎は自分で調べるしかなさそうです)

さて、紐差教会の内部です。入ってすぐのスペースの先でバリケードで遮られ、観光客は身廊にすら入ることができませんでしたので、入口付近に佇んだまま眺めるほかありません。
構造はもちろん三廊バジリカ、半円アーチ&円柱の黄金タッグの、ロマネスクとおりのロマネスクです。特に滑らかで雑味のない円柱の、禁欲的かつ官能的なその姿は最高です。
浦上大聖堂が原爆で崩壊して再建されるまでの間、なんとこの紐差教会が日本で最大の教会堂だったことは有名な話です。田平天主堂も十分大きいと感じましたが、紐差教会は身廊の大アーケードが、田平の7間に対しそれよりひとつ多い8間。プランとしては確かに最大規模といえそうです。もともと入口付近から動けないので、後陣のマリア像の顔がよく識別できないほどの奥行きがありました。


<柱廊玄関見上げにあった花模様。
聖堂内部の装飾モチーフもこれと同様のものと思ってください>

よく、この教会の独特な天井の構造とその装飾が紹介されますが、これは確かに個性ではありますが出来としては普通です。鉄筋コンクリートゆえの造りやすさやその他の事情も当然あったでしょうが、ヴォールト天井よりは超常性を感じない構造だし、装飾にいたってはデザインとしてもおおまかで「意匠」とまでは呼びがたいものです。こうみると鉄川の興味の比重は装飾より建築そのものにあったといえそうです。

紐差教会、ここではあくまでその有り様はどこまでもシンプルです。材質の無機質をより生かすために敢えてそうしたかのようです。変なアレンジがない王道だからこそ説得力をもって迫るなにかがこの教会にはあります。
いずれにしてもこれほど淡々とかつ徹底して「ロマネスク」を実在させている建築・空間は日本ではきわめて稀な(というか私は知らない)ので、ロマネスク探求者にとってこれは非常に貴重なひとときとなるのは間違いありません。
しかし、ひとつ感じたのは、ここには各モチーフが醸し出す「ロマネスクのムード」は充満していても、もはや本来のロマネスクはないのかもしれないということです。ロマネスクを読み解く面白さの真髄は、「古代ローマに範を得つつ、特定の地域において限られた諸条件下で生み出された建築物と、その周辺環境ともあいまった総合性・偶然性」にあるはずですが、紐差教会には、晩年の円熟した鉄川という個人の意図が濾過されることなくかなりの割合で反映されているように見受けられるからです。(参考:過去ブログ【#0027】
そう思ってもう一度見上げると、強い日射しにもろに照らされて眩しそうな白亜の伽藍が、妙に渇いた情趣を伴って迫ってくるようでもありました。


<聖堂裏手にある十字架とマリア像もシンプルな美しさに満ちていました>

<聖堂からの風景。周辺で一番の高台になるため景色は素晴らしいです>


<紐差地域にひろがる田園風景>

そのあと、来た道を戻るようにして北上し、さっき途中にちらっと見えた宝亀教会に立ち寄りました。
ここは国道から教会の建つ集落までの一本道の道幅が車1台分しかなく、対向車が来ないように祈りながら進むほかないところでした。(あとで実感したことですが、この道は教会へのアプローチのためだけでなくこの集落の動線でもあったので参拝者と生活者の車がけっこうひっきりなしに行き交っていました。たぶん、車で訪れるとき、一度は待避スペースに入らざるを得ないことを覚悟した方がいいでしょう。)
素朴としか形容しようがない集落のなかに、赤と白で彩られたファサードが場違いなほど目を引く教会が姿を現しました。




宝亀教会
(明治31[1898]年、柄本庄市、基本は木造)

<ファサードに思い切り聖人像を配するのは今回見てきたなかでは珍しいパターン>
やはり、まず意識せざるを得ないのは、この押しの強いファサードです。でも、近づいて、特に側面のポーチとのコンビネーションで眺めた教会堂はその印象をがらりと変え、急に説得力をもって視界を形作るのでした。



柔らかなクリームグリーン(こんな色名があるかわかりませんが)のペンキで仕上げられた木造のポーチはあくまでポップに、なのにどこか郷愁を伴っています。私が直感的に「なんか昔の学校ぽいな」と感じたのもなんとなくわかってもらえるでしょう。


<側面壁の開口部が足元までひらけているので、外からでも内部の信徒席がよく見える>

<後陣背面にまわると、もはや教会ということすらわからない>

<右側面も同じ構成。これは嬉しい裏切りでした。
ポーチがあるのは見えやすい左側面だけだと勝手に思っていたので>


<正面との関係性でみるとこんな感じ。石垣やオフィス棟で圧迫感はあります>
開け放しのテラスに緑の匂いの風が通り抜け、この夏の午後の日差しとセミの鳴き声が、昔の夏休みの誰もいない学校の教室のノスタルジーをかもしだします。
内部は、ファサードや屋根の構造からも単廊式かと思っていましたが、ちゃんと尖頭アーケードの三廊式。全体的な雰囲気や、個々の装飾で目を引くのはやはりそのポップな「学校」感です。
まあこのノスタルジーは古き良き明治建築のかもし出すムードに他ならないのですが、ここは小さな教会でかつ目的が限定された空間のために、120年という時間を忘れさせる「身近さ」があります。もし自分の生まれ育った集落にこれほど個性のある建物があったら、どれほど愛着と郷愁を育むことだろう、と思います。それがこのように、こじんまりとしてればしてるほどなおさらです。
そんなことを考えながら、教会を出て改めて振り返ったとき、そこには「計画編」のときにはまったく思いもよらなかった気分で向き合う自分がいることに気づかざるを得ませんでした。

(そういえば、田平天主堂と同じく、ここ宝亀教会も「教会群」としては遜色ないのに、「潜伏」との縁が薄いために、残念ながら世界遺産リストからはずされてしまったもののひとつです。※参照:前回ブログ【#0030】


<教会からの海の風景>

***
さて、冒頭にも書きましたが、これで今回の旅は唐突に終わりを迎えました。翌日に予定していた黒島への船旅は台風の影響による「もしも」を考え、諦めることにしたからです。

まったく、悲願だったのに天気で左右されるとは、まさにカセールタ・ヴェッキアのときと同じです。
カセールタ・ヴェッキアはナポリの北に位置する中世の街であり、そこの素晴らしすぎる大聖堂を見るためだけの目的で2013年10月の旅の際に向かったのですが、最寄りの駅に着いた瞬間から降り始めた突然の大雨と、街へ行く路線バス乗り場がわからなかったせいで結局辿り着くことができず、泣く泣く諦めたのです。この先、何年も訪れる機会がなくなった瞬間でした。
(ローマ以北やシチリアはともかく、ナポリ、しかもその郊外に行ける機会など、ちょっと次はいつになるかわかりません。ほかに行きたいところも山ほどあるし…。)
もうこんな思いはこりごりだったのですが、まさか国内で、しかもメインディッシュで繰り返すなど…悪夢以外のなにものでもありません。早く呪縛を解きたいし、来年からは修復に入るというし、世界遺産になったあとだとなんか悔しいし、そんなこんなで、いまは無理してでもやはり行くべきなのではと、思いはじめてもいます。だから、もしかしたら数ヶ月後にはまたふらっと佐世保に降りたっているかもしれません。
そのときは、じっくり「計画編」など編まずに、さらりとお知らせすることになると思います。「そういえばこないだ行って来ましたよ、黒島」とね。内容は濃いはずですが。


<悔しかったので昨夜につづき今日のお昼もハンバーガーにしてやりました>

【参考資料】 各聖堂に設置された説明パネル




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