親なんて 

2006年01月13日(金) 19時31分
初めてブログに挑戦します。

生まれてから(?)今までの親のこと、書いていこうと思って。

現在までの親のこと、書ききれば私の何十年も心にあった

痛みは取れるのかと思って。

お暇な方は行く末を見守ってください。

保育園に通います 

2006年01月14日(土) 16時06分
それから私は保育園に預けられ、
母親は看護婦の仕事を始めました。
迎えに来るのは祖母がほとんどで、
祖母は産婦人科の厨房で働いていたので、
仕事の途中で私を迎えにきて、
仕事が終わるまでそこの厨房で待たされました。

そのころ母親はまだ24歳か25歳くらいで、
すぐに男ができました。
仕事なのか男なのかわかりませんが、
帰りはいつも遅かったような気がします。
あまり覚えてません。
男の人はいつも同じ人ではありませんでした。

私がたぶん4〜5歳のころ
一度再婚話がでて、お見合いのようなものをしたのですが、
私がひどい人見知りをしたせいで、
再婚まではいたらなかったようです。

「あんたがそんなんだからお母さんは結婚できない」
「あんたがいるからお母さんは結婚できない」

という言葉はこのころから始まりました。
この言葉、私が20歳を過ぎるまで言われ続けました。
もちろんそのたびに相手は違う人でした。

つづく

孤独な引越 

2006年01月16日(月) 15時39分
小学校にあがる時、母親が祖父母とケンカをし、私を連れて出て行きました。
・・・といっても祖父母の家からは2件隣の向かいのアパート。
大家も同じ。
本当のところは、男を家に連れ込みたかった、口うるさい親から逃れたかった
というのが理由でしょう。
引っ越したと同時に男が家に住み着くようになりました。
私を使いっ走りにし、自分は男といちゃいちゃ。
結局その男とは1年と続きませんでした。

なぜ覚えてるかというと
2年生のときには違う男がいたからです。
その男には私もよくなついていたようで、再婚の話まで出てました。
その男が家にいるようになってから、私は自分の部屋で寝るようになりました。
たぶん寝させられたんでしょうね、オトナの理由で。
が、その人とも別れました。原因はわかりませんが、その時も

「あんたがいるから」

というコトバ。
このコトバは私にとっては存在自体を否定されてるようでした。

中学生 

2006年01月17日(火) 16時10分
中学生になり、ますます母親は帰りが遅くなりました。
今考えるといたかどうかさえ覚えていません。
家にいてもほとんど寝てました。

私は母親からご飯を作ってもらった記憶はほとんどありません。
家にいる時は寝てたし、あまり一緒にいた記憶もありません。

一度、小学校の頃、学校から帰宅するとドアに鍵がかかっていて、
チャイムを押して出てきた母に
「また寝てたの?」
と言ったら、ものすごく激怒し、

「あんたのためにがんばってるのに!
お母さんがいなくなればいいと思ってるの?!」
とか
「お母さんが死ねばいいって思ってるんでしょ?!」
とか言われたことがあり、
それからは寝てる母親に対して何も言うまいと思いました。

私が中学の頃に母親は12歳年下の男とつきあっていました。
帰りが遅いのも、その人に会ってるからなんだろうと思っていました。

仲の良い親子 

2006年01月18日(水) 13時06分

小さい頃から母一人子一人の状態で、まだ母親も若かったのもあり、
よく周囲からは

「友達のような親子」
「仲良し親子」

と言われてきました。
3歳くらいから飲屋街に連れて行かれ、なじみの居酒屋、スナックで飲み歩く
ということが多く、いろんな大人の人(当たり前ですが酔っぱらってる人ばかり)
に会うことも多かったんです。

私は、小さい頃こそ母親に好かれたい一心だったので、
仲良し親子に思われることは嬉しいことだと思っていたのですが、
やはり母親と2人で暮らし始めた小学校の頃からはそれがとても
プレッシャーになっていました。

「仲の良い親子に思われなきゃ」

という圧力が、私にいつも乗っかっていました。
小学校後半、特に中学生になった頃は「友達親子」を演じているようなもので、
高校生のときにはもうすでに演じることさえ重荷になっていました。

大きな事実 

2006年01月19日(木) 14時59分

高校生になったとき、高校にいろんな書類を提出する際、
戸籍かなにかを取らなきゃいけなかったらしく、
そのときに母親から驚きの事実を知らされました。

実は私の父親は死んだと聞かされていました。
でもいろいろ分別つく年齢になると、
仏壇がない。法要をしない。写真もない。
など、いろんな矛盾を感じていました。

そして、高校生になった時、いずれわかること、
もう隠しておけないと、
両親は離婚したんだと聞かされました。
その時に離婚した経緯(といっても母親からの偏った情報ですが)

父親はまだ生きている。
驚きました。

それからは、祖母も度々父親のことを聞かされました。
私自身、そんなに興味もなく、右から左へと聞き流していました。

ある日、母親は祖母と大げんかして、
また家を出て行くと言い出しました。
喧嘩の原因は、私の前で父親の話をしたこと。

・・・意味不明でした。
気にも留めていなかった話がなぜ喧嘩になったのか。

結局また母親との2人暮らしが始まりました。
私は祖父母とはなれるのが嫌だったのですが、
これ以上一緒にいたら、私によけいなこと(父親のこと)を
言い兼ねないという理由のようで・・・
そこで私は条件をつけました。

「お互いの生活を干渉しない」
「男を家に泊めない」

母親は承諾しました。

また引越 

2006年01月20日(金) 14時03分

家を出たといっても結局1週間。
別に母は探すわけでもなく、普通に1週間過ぎました。
1週間後家に戻ると謝りのコトバが書いた紙切れと5千円札が1枚置いてありました。

その後、その男とはいつの間にか別れていました。
私はまた「あんたのせい」と言われるのが嫌で、
聞き出すこともしませんでした。

それから違う男がうちに居座りました。
これは私が中学のときにつきあっていた12歳年下の男。
当時つきあってるわけではなさそうでしたが、
家にいました。

なんだか他にも男がいたようでしたが、
もうわかりません。
思い出せません。

そしてまた引っ越しをすることになりました。
立ち退きでした。
1年も住んでいなかったのですが、今度は祖父母の家からもかなり遠い場所に引っ越しました。

その家では猫を飼い始めました。
その家での母親との思い出はほとんどありません。
どんなことをしていたか、どんな話をしたか、
思い出そうとしても全く思い出せません。
友達とのことならたくさん思い出せるのですが、
そこに母がいたかどうかすら思い出せないほどです。

ひとつだけ思い出せることがあります。
祖父の死のことです。
これはまた次回。

祖父の死 

2006年01月25日(水) 15時51分
祖父はちょうどこの時、足の血管にバイパスを通す手術をするために入院していました。
ただ、その手術は非常に難しく、心臓の悪い祖父に手術を持ちこたえられるかどうか懸念されていました。

私は修学旅行の時期で、出発前の日に祖父を見舞い、京都で祖父の大好きな水戸黄門のお土産を買ってくると約束しました。
祖父は

「おじいちゃんも旅に出発だな」

と私に言いました。
手術=旅とその時は思いました。

そして修学旅行へ出かけ、帰りの列車が東北地方で集中豪雨とぶつかり、
2時間以上も到着が遅れて駅に着きました。
終電も終わった時間帯だったので、それぞれ家族が迎えに来てたり、
みんなも家へと電話をかけたりしていました。
私も家へかけてみると誰も出ません。
祖母の家にかけてもでません。

時間も遅いので、私の家の近所の友達の親に送ってもらうことになり、無事に家には着きました。
でも母がいません。
そこで、私は従兄弟の家に電話をしました。
叔母が出ました。
祖父の手術は成功したようなんですが、末期ガンが見つかり、容態が悪く、みんなで病院に行ってるという知らせでした。

次の日病院へ行ってみると、修学旅行へ行く前に私と話してた祖父とは大違いの姿。
鼻にチューブ、呼吸器、モニター、まるで生かされてる姿でした。
でも意識ははっきりしていて、私が帰って来たことを確認し、約束のお土産を渡すと口元を動かしありがとうと・・・

私は涙が止まりませんでした。
たった4日で何が起きたんだろうという気持ちで・・・
祖父はもう危篤状態でした。まさに医療機器と注射で生かされてる状態でした。
その姿にも泣けたのです。

まわりのみんなは
「せっかく旅行から帰って来たのに慌ただしくてごめんね。ゆっくりお母さんにお土産話もしたいよね」
と、気を使ってくれ、その日は母と家に帰ることになりました。

祖父も心配でしたが、母と一緒に帰してくれたことになんとなく安堵してました。

 

2006年01月27日(金) 13時26分
高校を卒業し、私はすぐに就職しました。
工業高校だったので、とある建設会社に就職しました。
その数ヶ月後、母親は長年勤めた病院をやめ、個人病院で働きました。

就職もしたので、同じ家に住んでいながら生活は全く別々になりました。
ルームシェアのような関係です。

私は会社の上司の勧めで車の免許を取りました。
車もすぐに買いました。
自動車学校のお金、車購入のお金、全て自分で出しました。

そして、就職したと同時に母親からはちょくちょく
「お金貸して」
「ちょっと立て替えて」
ということを言われるようになりました。

大半は戻ってきましたが、戻って来ないものもありました。
お金にだらしないというか、計画性のないことはわかってはいましたが、
私が就職したとたん、金銭的なだらしのない部分はものすごく目立ち始めました。

今までは学生だったので、私が気づかなかっただけでした。
私が学生のときは、叔母や祖母のところにお金を借りに行ってたそうです。
あとから聞いた話ですが、祖母には
「ひばり(私/仮名)が車の免許をとるから」
とか、
「ひばりが車を買うから」
などと言って金をせびってたそうです。

そのお金は一切私の元にはきてません。
それだけではなく、家賃が払えないと言っては金を借り、
光熱費の支払いが滞ると叔母の家に借りに行ったりを繰り返していたそうです。

そんな中、住んでた家を大家から追い出される事件がありました。
事件と言っても、猫を飼ってはいけないアパートで飼っていたので、
契約違反だから出て行けという話でした。

また別の場所に引っ越しました。

遅い独り立ち 

2006年01月30日(月) 14時17分
今度引っ越した場所でも相変わらずルームシェアのような毎日で。
母親はこの頃、夜知人の居酒屋の手伝いにちょくちょく行っていました。
そしてまた男が出来ました。

京都に住んでいて、仕事で定期的にこちらに来ている人だったそうです。
ある日突然「結婚したいと思ってる」と告げられました。
成人も過ぎた私は当然「勝手にして」という答え。
なのに母親は「一緒に京都で暮らさないか?」と。

驚きました。
20歳過ぎた娘を京都に連れて行き、赤の他人と親子のふりをして住めと言うことを簡単に言ってのける母親に。
もちろん断りました。
学生でもなく、働いてるし、今の場所を離れるのもいやだったし、こちらで一人で暮らすと言いました。

ほどなく、結婚の話はやっぱりなくなりました。
理由なんかは知りません。
それでもその男とはまだ続いていたようでした。
そして突然言われたコトバが



「あんたがいると彼を家に呼べないから出て行って。」



と・・・
その男が京都から出張にきて、うちに泊まったりするのにも、
私がいると気を使って来れなくなるからという理由でした。

いよいよ邪魔にまでされました。
私は二つ返事で出て行きました。
もちろん母親に家具家電全部出してもらいました。

そして通勤の便のよい1ルームに引っ越しました。
すごく快適でした。
その頃は彼氏もいて、彼氏と半同棲のような状態でしたが、
それでもあの親から離れることができて、私は嬉しかったのです。
毎日が順調でした。

母親には一切連絡も取りませんでした。
時々向こうから手紙が来ました。
結局京都の男とは別れたこと、病院を辞めたこと、違う場所に引っ越したことなど。
何度かきた手紙の中に謝罪のコトバは一切書かれていませんでした。

母親は私の一人暮らしの間に2回引っ越しをしていました。




そんな一人暮らしも数年続きましたが、
また母親の元へ戻らなければいけない事件がありました。
P R
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