kuunB「良い東洋人」へ(その2) 

2005年06月03日(金) 0時33分
その日の夜は、焚き火を囲みマテ茶を飲んだ。
オリベラが荷物の中から取り出した一本のリキュール。
ほのかにフルーティーな香りがただよう度数のきつい蒸留酒カーニャだ。
これがなかなかの逸品。
うまい酒と出会う事は旧友と出会うが如しというが、
異国の地での心の渇きが癒され、僕は心地よい疲労感と開放感に酔いしれた。
いつしか、僕は鞍を枕に眠りについた。

翌朝、僕は「良い東洋人」になっていた。
オリベラとカルロスを見送る側に入れたことは言うまでもない。
食と酒は文化の大きな要素であり、意図的ではないがそれを受け入れた僕は、
パンパで暮らす者として許された。
熱き思いは、言葉を超え人の心に必ず伝わるのだと、パンパの地で学んだ。

住んでいる町が面白くない、
職場や学校が楽しくない、
自分の家族がつまらない、
よく耳にする愚痴話だ。
説教臭い話をするわけではないが、その集団を観測しているあなたは
その集団の一員であり、第三者ではありえない。

その町に熱き思いの自分がいるのか、
職場や学校に笑顔を心がける自分がいるのか、
家族を思いやる自分がいるのか。
自分が変わればその変化は放射熱のごとく
言葉を超えて人の心に伝わり、その集団を徐々にではあるが必ず変えていく。

観測の限界を唱えた「不確定性原理」のハイゼンベルグ(1901−1976)氏も
言う
「宇宙を眺めてる自分がいる。
そのことは、すでに宇宙が変化し始めていることを意味する。」

kuunB「良い東洋人」へ(その1) 

2005年06月03日(金) 0時01分
 牧童ガウチョにあこがれて、南米アルゼンチンを目指し日本を出発。
 カネ、コネ、コトバの3K無しの三重苦にみまわれるも、
 3ヶ月ほどかけロスより陸路 南米アルゼンチンに入る。
 そして、ウルグアイで、たまたま出会った牧場主オリベラにつれられて
 雷雨のパンパ大平原の道なき道をさまようが、ホタル銀河に救われて、
 誇り高きガウチョ親子マリオとフェルミンのもとに辿りついた。
 これが、前号までのあらすじ。

 昨夜の雷雨が象徴するように、パンパ草原の八百万の神様ばかりか、
 ガウチョ達も僕の来訪を歓迎していなかった。
 はっきり言って僕は厄介者だった。
 朝起きると、5人全員が焚き火を囲んでマテ茶を飲んでいた。
 牧場主オリベラやカルロスが、使用人のガウチョ達に私のことを話している。
 よろしく頼むということなのだが、経営者サイドの彼らは2日ほどで帰るが、
 お荷物の東洋人を背負わされる労働者サイドのマリオ親子たちとしては
 納得がいかないようで、とても悪い空気が漂っていた。
 
 どうやら、馬にも乗れない、羊や牛を解体できない、牛の去勢もできないなど、
 「この東洋人は役立たず」だ連れて帰れとばかりに異議申立てをしているようだ。
 僕に反論の余地はない。
  しかし、おめおめと帰らされるわけにはいかなかった。
 正念場だと思った。
 しかし、出きる事といえば、言葉がわからないそぶりで何食わぬ顔をして
 極力明るく振る舞う外国人の常套手段を使う一手だった。

 その日の昼食は、ぶつ切り干し肉とインディカ米のシチュー。
 味は干し肉の塩味のみ。焚き火でぐつぐつ一時間ほど煮込む、
 いたってシンプルなまさに男の料理。これがなかなかの逸品。
 僕は、久しぶりのお米に我を忘れて食べに食べ、鍋をカラにしてしまった。
 マリオは、僕を太った動物にたとえながら、嬉しそうにカラの大鍋に見せて回った。
 皆が腹を抱えて笑った。
 僕もそれにつられて、笑い転げた。(後半に続く)

KuunA「星降る夜、ホタル銀河に導かれ」 

2005年01月25日(火) 20時36分
星降る夜、ホタル銀河に導かれ


アメリカ大陸は地続きで、
誰しも隣町への行き方は知っているはずだ。
 この考えをよりどころに、
南へ南へとバス、トラック、鉄道などを乗り継いだ。
 この楽観的ドミノ式旅行法はうまく機能し、
ロサンゼルスを出発してから3ヶ月後に
目的地ブエノスアイレスの土を踏む事が出来た。

 しかし、電気、水道はもとより道も住所もない、
およそライフラインと名のつくものとは無縁の世界に住む
純粋なガウチョのもとへたどり着くには、
この旅行法では最後のドミノが倒れなかった。

 母をたずねて三千里のマルコの如く、コルドバ、ロサリオ…
いろんな街を訪れ、会う人会う人に“ガウチョガウチョ”と尋ね歩いたものの、

KUUN@「牧童ガウチョになりたかった」 

2005年01月25日(火) 18時33分
「牧童ガウチョになりたかった」

人は皆、人生を振り返れば今の自分の出発点、
そう、人生の源流のようなものに行き着くはずだ。

それは、ある人物との出会いや、旅や書物との巡り合い、
また、時には病や別れかもしれない。

1970年代初頭、多くの若者たちは

KUUN 原稿紹介 

2005年01月25日(火) 18時13分
 昨年、12月15日に女性とペットを意識した総合雑誌「KUUN(クーン)」が発行されました。
エリアは三重県下。私も、及ばずながら協力する事になり、
エッセイを連載する事になりました。
 創刊号(12月)に掲載れたものと、2月号(2月15発行予定)に掲載されます原稿を
ご紹介させて頂きます。

新潟中越地震について思うこと(後編) 

2004年10月29日(金) 23時58分
(中編からの続き)

 大規模災害は、避難住民の生活支援の充実と
復興支援の円滑な推進がかぎとなろう。
 ストックヤードも含めた物流の円滑さ、
人材資源の効率的な活用
各機関との情報の共有化と一元化が、
他地域からの支援を有効に迅速に受け入れができる大切な点
ではないでしょうか。

 今回、小千谷市の災害対策副本部長の佐藤知巳助役にお会いし、
お話をうかがうことができました。
     「小千谷市では短期的には飲料水は足りているが避難所での
      食料が不足している。
      そして、道路、上水道の復旧に関する技術職員が不足している。」  
  とのことでした。
 その地域が、いま、何を必要としているかは、
地域により異なり、時期により異なると思います。
 支援物資の供給量は、どうしても長岡市等の大きな市に
集中する傾向があるという。
 支援する側もどこにどう支援されたのかからない。
 受ける側もどこから支援されたのかわからない。
 こんな支援のあり方より、伊勢市も、地方分権時代にふさわしい、
 顔の見える支援をピンポイントで行うことが
 大切ではないでしょうか。
 支援物資を直接持ち込み、帰りに空のトラックに、ごみを満載して持ち帰った
自治体もありました。
 この姿勢こそが、顔の見える支援ではないでしょうか。

 伊勢市も宮川の水害で苦しめられ、東海地震を始めとする
大規模地震の恐怖を感ずる今こそ、
防災に対する万全の構え構築すべく、
今一度、ゼロから防災対策を検討しなおすことが
大切ではないでしょうか。

そのためには、当局のみならず、議会の役割も大きい。
ただ、消防、病院、防災、街づくり等、
複数の常任委員会にまたがる案件であり、
この際110条による「防災特別委員会(仮称)」の早期設立が
望まれると思います。
                                 (おわり)

新潟中越地震について思うこと(中編) 

2004年10月29日(金) 23時53分
(前編からの続き)

 27日早朝、タクシーを走らせ小千谷市に向かった。
長岡−小千谷間は国道17号線で結ばれて入るものの
震災の被害がおおきく、迂回路のみ、
しかも緊急車両のみの通行に限られていた。
 小千谷市役所は、庁舎前の駐車場の8割が報道関係者の
中継車に埋まり、どちらかといえば救援活動の主力である
自衛隊や市の公用車などは、
使い勝手の悪い脇の空き地を利用して支援活動をしていたことに
違和感を感じました。

 庁舎の中は、支援物資で覆われ、終日あわただしく
物資の搬入搬出作業に追われていました。
 人口の75%の市民が避難生活をしているため、
各避難所への3食の食糧の配給や生活物資の配給など、
市役所1,2Fは喧騒としていました。
 小千谷市での食糧事情は極めて悪く、
前日までは、一日一人おにぎり2個ほどという避難所も
あったそうですが、今日から、支援物資満載の
大型トラックも入れるようになり
炊き出しも今日から始まりました。


27日から開設されたボランティア本部は、
市役所近くの社会福祉協議会駐車場に開設されました。
初日の業務は、この日から始まった炊き出しの調理部隊と
支援物資の搬入部隊でした。

 私は、支援物資担当となり、小千谷小学校、車両センターでの
支援物資の仕分けさせていただきました。
 大型トラックで押し寄せる支援物資。
 しかし、小中学校の体育館や公共施設は、避難民であふれ、
ストックする倉庫がこの日一日で、一杯になってしまった。
 これからの支援物資をどうさばいていくのか頭の痛い問題である。 
午後から運ばれた車両センターを埋めた
支援食料(カップめん・乾パン・お菓子など)も避難所の
1食分にも満たない量である。
 ボランティアや行政からの支援スタッフなど、
今後多くの人がこの町を訪れるようになることでしょう。
刻々と変わる被災地の状況や被災者の要求の変化に対して、
的確に対応できる受け入れ態勢の確立が、
復旧を加速させるのに大きな役割を果たせることでしょう。
 また、報道関係者対応や情報の一元化や
自衛隊、消防、警察との連携を密にするための
総合対策本部の機能強化など、
伊勢市も今後、この地震災害から危機管理に対する
多くの教訓が得られるものと思います。                  (つづく)

新潟中越地震について思うこと(前編) 

2004年10月29日(金) 23時37分
 先日、新潟中越地震の被災地に訪れ、災害対策やボランティアの動きなど、
明勢会を代表し視察に行ってきました。

 日 時:平成16年10月26日(火)〜28日(木)
 目的地:小千谷市、長岡市
 目 的:大規模災害に対する初期対策のあり方を見聞し、伊勢の防災対策に資する。

 報告内容
 10月23日(土)に発生した新潟中越地震は、マスコミ報道でご承知のとおり、
現在も大規模な余震が収まることなく、被災地の復旧や住民の帰宅もめどの
立っていない状態であります。

コラムはじめました。 

2004年10月28日(木) 23時16分
コラムぼちぼち始めます。
今考えていることや、こんな風になればなーなど、
いろんな事を綴りたいと思います。