『ため』とは何か。 

May 24 [Thu], 2007, 7:50
とまあ広辞苑(第五版)でも引いてみた。

@利益。利得。幸福。「世のため人のため」
A(利益を期する意味から)目的。「子供の教育のため貯金する」
Bその身の上にかかわること。〜にとって。「自分のためには大切な恩人」
C因果関係を表す。ゆえ。せい。〜によって。「事故のために死んだ」

最後の用例がもの悲しいのはさておき、問題は@の意味である。
「他人のために〜をする」という用例を挙げてみる。これを『ため』を使わず同義に言い直すとすると「他人の利益・幸福に〜をする」では意味が変わりかねないから、「他人の利益・幸福○○○〜する」という形のように何かを補う必要がある。
この○○○に何を補うか、これは使い手の主観に拠るところが大きい。そしてこれは人格形成の一端と言っても過言ではないだろう。

気が向いたらこの○○○を埋めてみる。無意識的な直覚によって。これが埋められなくてしょうがない。

とりあえず22で。 

May 14 [Mon], 2007, 3:51
喜ぶ歳でもないけれど、ここまで生かしてくれた様々な存在に感謝。

合宿でいじめた身体がようやく理解をする。鈍感すぎるけれど、敏感すぎて飽きっぽい頭に似なくて良かったのかもしれない。

凡人にはこれくらいがちょうどいい。
凡として凡に生きることが如何に難儀なことか。

2か月インド懐古 

April 28 [Sat], 2007, 16:25
インド音楽を聞いたりカレーを食べたりするとふと思い出す。

本郷来て思うのはカレー出す店が多い。気が向いたら1週間カレー生活もいいかな。2日くらいで飽きるのが目に見えるが。


なんなんだろ。ストレスという単語を聞くと、最近は日々の生活がストレスなんかなと思えてくる。ストレスを溜める場とストレスを解放する場。生活様式の変化に人間の頭が追いついてない。
もっとも、種としての適応力は世代を替えないとつかないのだろうけど。

個体意識の強まりが晩婚・少子化を招いているのだとしたら、その意識も種の保存のためかもしれない。地球で60億は限界のようだし。
個体生命の質が重んじられるならば、人口はある程度減るだろう。少子化を問題にしたところで出生率が増えるはずもない。

生命の天秤 

April 21 [Sat], 2007, 4:46
悟りは開くものではない。そこにはただ悟りがあるのみ。

生命の天秤って、例えばタイタニック(久しく映画見ないけど)が沈むとき『救命ボートには女子供を先に載せろ』(ちなみに女子供は放送禁止用語らしい)みたいなものにも垣間見える。
ここでのウェイトは「将来の可能性」、あとキーポイントは「男のプライド」か。その場における「個体生存の可能性」を考えるなら男だけ載せればいいということになるのかな。

ではでは話を変えて、赤の他人で男と女と子供がいるとして、自分はその中の1人である。そのうち1人しか助からない。さて誰を助けるか。
これは力の強い者(男とは限らんよ)もしくは子供という二択になるのでは。男が女を、女が男を、子供が誰かを選ぶことがあり得るだろうか。

面白いのは(不謹慎ですみませぬ)2人助かるとき。可能性は男女・男子供・女子供の3通りだが、この時のやりとりには様々なパターンを想像できる。
そして1人を残して助かる辛さを、恐らく自分が助かる側なら耐えかねるであろう。quality of lifeの点から観れば、名誉の死という生ほど高質なものはない。名誉という名目の自己満足ではあるが。

天秤の話がいつのまにかタイタニックになってしまった。

なぜテレビで超人は出てこないか 

April 08 [Sun], 2007, 4:03
超人は直接視覚には創造できない想像の産物。おそらく超人の想像は誰にでも出来る。そのoutputとなると限定がかかる。他人の想像のinput以上に。

例えるなら自分の例で犀川創平を神格化することはできても、彼は神でなくまた森博嗣も神ではない。

超人よ来たれ。とかつてお偉い方がのたまったが、超人はその文字にも言葉にもおらず、それを発した中にしか存在しない。

神のoutputは共通理解にしかその意義を見出せない。そもそも人間は共通理解のために多大な時間と労力をかけてきている。それはある意味entertainmentな気もする。共通理解のために言葉が存し、文字が存し、共通理解の存在が人間と動物という不可思議な二項対立を成立させる根拠たらしめる。

だがその共通理解でさえ、媒介なしには成立しない、そしてまた想像なしには成立しない。空仮なしには中がないように。


そして空仮中で終わるべきでもない。それを三頂点として四面体を、立体を、新たな頂点を創るべき。三次元に棲む人間たればこそ、面に終わらず立体を構想したい。


合宿と帰省とあと何か 

March 28 [Wed], 2007, 15:43
土'善ももう3回目。一度目は中り期を越えて下り坂、二度目は自分の新しい弓を使いこなせず、そこから一年経ってもそれは変わらない。ただ、弓を引く楽しみは毎年増している気がする。
いわゆる下手の横好きと言うやつですね、はい。

千葉から帰って3時間で福岡へ。初めて乗った黒い飛行機に興奮して、機内で鼻血が(((゜д゜;))) かなり焦る(-_-;;) チェックインカウンターが駅から近ければ尚よいけど。

法事を終えて広島へ。東京のブックオフは小さすぎと思う。3日足らずで東京へ。新幹線はいつものことだが大阪まで人大杉。JR西日本のレールスターは16両編成でいいと思う。


なんだかんだで今年度も終わる。進化か退化か、知ることも賢くなることも強くなることも、楽しいけれど時々竦む。怖い反面やめられない。

知的好奇心をかき立てる物質こそ、アルコールやニコチンやドラッグなど遠く及ばない、人間最大の中毒物質。

聖俗分別と無分別 

March 19 [Mon], 2007, 16:07
例えばあの人は「穢れ」を知らない人だから浮いた話をするのも憚られる。

なんて感じの雰囲気を醸す人が身の回りに結構いる。触れてはならないもの、という意味では穢れにせよ聖なるものにせよ、同義と捉えることもできる。
自分はというと、そんなのお構いなしというより、人間ほんらい俗なものだからという前提を持っているせいか、ずけずけ感が否めない。「ずけずけ感」って悪くない響き。
和辻哲郎の風土みたいな大雑把な捉え方をすると、政教分離と一致があるように、聖俗分別と無分別という考え方もできる。

古来より日本やギリシャやインドの神がそうだったように、自然発生的な神は人間的なものである。いつしか非人格的な「神」が現れるようになるが、それすら人格をもった人間の作為ではないかと思われる。
結局何が言いたいかって、聖俗の分別も人間の産物ではないかということ。そしてそれを越えた無分別もまた然り。坊主の俗な姿をタモリが好むのもまた然り。人間に「聖」など有り得ない。

春なのに寒い。 

March 15 [Thu], 2007, 15:59
寒いのは風のせい。桜は毎年「例年より早い」。

この1ヶ月、インドに行ったり、受験生を自覚したり、本を読んではいないけれども、考えることは山のよう。寝床の下で読んでくれって本が叫ぶ。叫ぶというよりぼそぼそっとつぶやく。幻聴じゃないけども。


春は出会いの季節と同時に別れの季節。生きてる以上別れは必然。
インドから足を離す瞬間、久々に「ここでは死にたくないな」と思う。飛行機に乗る以上に事故る確率の高いものは身の回りにいくらでもあるのだが。それでも帰るときは死の不安に駆られた。
ただ意識していないだけなのだろう。死の不安の抑圧。今この瞬間死ぬことをいったいどれだけの人が考えるだろうか。

されど我々は生きている。こう思うときに「我々は生かされている」という真宗的な考え方が頭から離れない。この考えはどうも自分の頭の一隅に陣取って、そこを動こうとはしないようだ。

毎日空を見る 

February 14 [Wed], 2007, 8:28
毎日姿を変えるものって空ぐらいしかないんじゃないかと思える。今年は雨降って雪降らんし毎日暖かすぎてマフラー出番ないし。

毎日毎日って毎日新聞の勧誘みたい。毎日新聞は定期購読してみたい。産経エクスプレスもお試し版はよかった。多意味にとってsophisticated(スペル違うかも)な感じ。新聞も変化したってええじゃないか。


自分といかに向き合うか。 

February 10 [Sat], 2007, 4:13
トーマカラーは黒、茶、白。パスカルも似たような色のよう。

さてさて、自己との付き合い方。ego(アハンカーラ)と付き合ってばかりでself(アートマン)を忘れがち。
意識されるegoと話すことばかりを考えて、selfを感じようとせん。
何故か。
外から刺激が入れば意識せざるを得ないから。あるいは外を外だと思うから。

アートマンはよく『我』と訳されるけど、どうなんだろ。『我』は「われ思う故にわれあり」で意識する『我』だし。

パスカルに戻ったところで話がややこしくなったのでこのあたりで。
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