はつぎつぎに追従

August 03 [Sat], 2013, 16:25
自分はモスクワにとって重要な存在である、と確信していた毛沢東は、瑞金で与えられたポスト
に就くことを頑強に拒み、「療養」を理由に汀州(長汀) へ向かった。汀州には宣教師が建てた
福音病院があり、革命根拠地で最高の医療を受けることができた(のちに毛沢東はこの病院を瑞金
に移築させた)。毛沢東が滞在したのは壮麗な三階建ての屋敷で、金持ちのキリスト教徒が住んで
いた邸宅を紅軍の幹部用に接収したものだった。緑豊かな丘陵に抱かれ、 一階にも二階にも広々と
したロッジア(涼み廊下)を巡らした邸宅は、南国の暑さをしのぐ恰好の日蔭と涼風をもたらし
た。亜熱帯の庭では、オレンジの本が芳香を漂わせ、バナナの葉が美しい造形を見せていた。

この優雅な屋敷を本拠地に、毛沢東は紅軍司令部に対抗しようとした。毛沢東はつぎつぎに追従
者を呼びつけ、国民革命軍から攻撃を受けたときは応戦せず前線から撤退せよ、と指示した。党の
命令に対しては、「自分に好都合ならば実行し、そうでなければ無視すればよい」と教えた。
一九二三年一月、上海の責任者(寧都会議に出席した幹部たちに毛沢東を解任するよう主張し
た人物)で二五歳の博古が瑞金の根拠地に移ってきた。博古は毛沢東より一四歳年下で、党員歴は
わずか七年だったが、きわめて頭脳明晰で、エドガー・スノーは博古について、「頭の回転が非常
に速く、周恩来に劣らず鋭敏で、おそらくそれ以上に柔軟な頭の持ち主である」と、強い印象を記
している。博古は流暢なロシア語と英語を話し、三年半(一九二六―三〇年)のソ連留学を経験し
てモスクワのやり方に通じていた。なによりも、博古はずばぬけて決断力があり、これは毛沢束の
一言いなりになりすぎる周恩来に苛立ちをつのらせていた同志たちから高く評価された。

ポスト

August 01 [Thu], 2013, 16:23
モスクワは中国共産党に対して、「諸君と毛沢東同志との意見の相違に関しては、重ねて次のよ
うに強調する。同志的方法によって、積極的闘争路線へ彼を勝ち得るよう努力されたい。毛沢東が
紀律に従うのであれば、現時点で彼を軍から罷免することに当方は反対する」と意見した。 一一月
二日、モスクワの担当者はスターリンの意見を「緊急に」求めたうえで、中国共産党指導部に対し
て毛沢東を軍から解任した理由を説明するよう命じた。モスクワは毛沢東を譴責した幹部を批判し、周恩来の穏便な処置を賞賛した。
ソ連からの援護は間に合わなかった。毛沢東はすでに紅軍総政治委員のポストを周恩来に譲り、
一〇月一二日に寧都を離れていた。毛沢東は寧都会議で自分を批判した者たちをけっして許さず、
彼らは後々この代償を支払わされることになった。なかには非常に高い代償を払った者もいた。毛
沢束の恨みは、誰よりも周恩来に向けられた。周恩来は毛沢束を弁護しようとしたものの、結果的
に毛沢束のポストを奪う形になったからだ。後年、周恩来は一〇〇回以上も自己批判をさせられた
が、いつも最も激しい自責の言葉は寧都関連と決まっていた。寧都会議から四〇年を経た一九七二
年春、国務院総理の周恩来は、膀洸癌と診断された直後にもかかわらずアメリカや日本をはじめと
する多数の国々との外交交渉(周総理は各国要人に非常に受けが良かった)に忙殺される一方で、
党内においては幹部の前で次から次へと屈辱的な自己批判をさせられていた。そのたびに蒸し返さ
れたのは、寧都の件だった。
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