母娘の関係性
2009年06月10日(水) 11時44分
童話を読んでいると、よく「若くて美しい娘」と「若さや美しさに嫉妬する醜い母」といった人間関係が描かれます。
童話というものは心理学などにも登場することから、それは何か女性にとっての普遍的な人間関係を描いているものとしてのイメージがつきまといます。
確かに母と娘が対立する人間関係は、特例ではない、応用のきく、何か普遍的なものを感じますが、童話にそのような関係ばかりしか描かれない(私の知る限り)というのは考えものです。
童話というものは女性を教育するものでもあることから、これから女性になるであろう女の子たちは、女性にとっての問題というものはそれだけだと思い込んでしまうからです。
私は、女性にとっての普遍的な人間関係とは、大きく分けると次のような2種類が存在していると思っています。
●対立、バトル的なもの
これが、童話でよく描かれるもの。
童話では本来は実母が娘を嫉妬して殺すようなものとしてよく描かれていました。
これは後々、教育的意味合いが強くなっていくにつれて、実母ではあんまりだろうという配慮もあって、実母は次第に継母として描かれるものが多くなっていったと聞きます。
けれども私にとっては、偶然ではあっても、むしろそのような意味合いのほうが上手くこの形を表現していると思います。
何故ならこの母娘関係とは、所詮は他人同士で発生するものだからです。
これは女性の人間関係とは常に他人と他人のぶつかりあいであり、そこには友情は成立しないのだ、という考え方のこと。
つまり、常に賞賛されるべき「お姫さま」は、世の中にただ一人であるべきだという思想、つまりこれがあの有名な、「お姫さま願望」というものの正体なのだと私は思っています。
女性の価値というものは現在においても、完全に自分一人で決められるものではありません。
では何によって価値がはかられるのかというと、それは「他人にいかに評価してもらったか」というところが主になるのです。
こういった評価軸が存在していると、他人がもし他の人ばかりを評価していたら自分の存在価値が問われることになりますから、女の子にとっては少年漫画にありがちなライバルとなるような女性は必要ないのです。
女の子が無意識に望んでいる状態というものは、「紅一点」の状態なのです。
●同化、吸収的なもの
こちらは何故か、童話を読んでいるとあまり現れない形態です。
これは本来の実母と娘の関係に近い人間関係だと思います。
子どもを自分の中に取り込もうとする母。
母は、自分と同じ性別であり、半分は自分であるような娘に対して、境界線を発見することがなかなかできません。
また、そもそも境界線など発見しなくてもよい、むしろ発見したくないといったような願望ですら強く持っています。
娘にしても、生まれたときからの環境が、どこからどこまでが正しくて、どこからどこまでが間違っているのか、見極めるのが非常に難しい。
母の押し付けと、自分とをどうやって両立していったら良いのかについて、非常に悩みます。
これは母と娘が性別が同じであることから発生する問題です。
同じように、息子を自分の中に取り込もうとする母の姿も存在しますが、これは性別が違うのであくまで他人としてであり、それはむしろ恋人関係のようなものに近くなってくるので、この境界線が曖昧な「同化吸収」としてはまた別の種類であり、別の問題を孕んでいるものとなります。
これらの関係は、どちらのほうをより自分の身に迫ってくる問題として感じているかは、女性によってかなり異なってくると思います。
私が思うにその違いは、その女性が「ジェンダーとしての女性役割を受け入れているかどうか」ということによって振り分けられるのだと思います。
女性役割を(喜んで受け入れても、しぶしぶにしても)受け入れた人は、「対立、バトル」的なものを強く感じるでしょう。
そして、女性役割を拒否する方向を選んだ人には、「同化、吸収」的なものが、かなり切迫した危機として迫ってきます。
そういった女性には、対立、バトル的なものはむしろあまり感じられなくなる。
このように、童話で描かれる模様や世間などの噂と異なって、女性とは常に若さ美しさに嫉妬しているわけではないのです。
そこは誤解しないでいただきたい。
ちなみに、私はどちらを強く感じているのかというと、それは「同化、吸収」のほう。
対立、バトル的なものはあまり感じていません。
むしろその存在に気づいたのは成人してからだったと認識しています。
「少女の意識」とは、性としては女性であることを受け入れながらも、女性役割は拒否するという性質をもつものであることから、それをもつ人にとっては「同化、吸収」の脅威はかなり深刻な問題となるのです。
童話というものは心理学などにも登場することから、それは何か女性にとっての普遍的な人間関係を描いているものとしてのイメージがつきまといます。
確かに母と娘が対立する人間関係は、特例ではない、応用のきく、何か普遍的なものを感じますが、童話にそのような関係ばかりしか描かれない(私の知る限り)というのは考えものです。
童話というものは女性を教育するものでもあることから、これから女性になるであろう女の子たちは、女性にとっての問題というものはそれだけだと思い込んでしまうからです。
私は、女性にとっての普遍的な人間関係とは、大きく分けると次のような2種類が存在していると思っています。
●対立、バトル的なもの
これが、童話でよく描かれるもの。
童話では本来は実母が娘を嫉妬して殺すようなものとしてよく描かれていました。
これは後々、教育的意味合いが強くなっていくにつれて、実母ではあんまりだろうという配慮もあって、実母は次第に継母として描かれるものが多くなっていったと聞きます。
けれども私にとっては、偶然ではあっても、むしろそのような意味合いのほうが上手くこの形を表現していると思います。
何故ならこの母娘関係とは、所詮は他人同士で発生するものだからです。
これは女性の人間関係とは常に他人と他人のぶつかりあいであり、そこには友情は成立しないのだ、という考え方のこと。
つまり、常に賞賛されるべき「お姫さま」は、世の中にただ一人であるべきだという思想、つまりこれがあの有名な、「お姫さま願望」というものの正体なのだと私は思っています。
女性の価値というものは現在においても、完全に自分一人で決められるものではありません。
では何によって価値がはかられるのかというと、それは「他人にいかに評価してもらったか」というところが主になるのです。
こういった評価軸が存在していると、他人がもし他の人ばかりを評価していたら自分の存在価値が問われることになりますから、女の子にとっては少年漫画にありがちなライバルとなるような女性は必要ないのです。
女の子が無意識に望んでいる状態というものは、「紅一点」の状態なのです。
●同化、吸収的なもの
こちらは何故か、童話を読んでいるとあまり現れない形態です。
これは本来の実母と娘の関係に近い人間関係だと思います。
子どもを自分の中に取り込もうとする母。
母は、自分と同じ性別であり、半分は自分であるような娘に対して、境界線を発見することがなかなかできません。
また、そもそも境界線など発見しなくてもよい、むしろ発見したくないといったような願望ですら強く持っています。
娘にしても、生まれたときからの環境が、どこからどこまでが正しくて、どこからどこまでが間違っているのか、見極めるのが非常に難しい。
母の押し付けと、自分とをどうやって両立していったら良いのかについて、非常に悩みます。
これは母と娘が性別が同じであることから発生する問題です。
同じように、息子を自分の中に取り込もうとする母の姿も存在しますが、これは性別が違うのであくまで他人としてであり、それはむしろ恋人関係のようなものに近くなってくるので、この境界線が曖昧な「同化吸収」としてはまた別の種類であり、別の問題を孕んでいるものとなります。
これらの関係は、どちらのほうをより自分の身に迫ってくる問題として感じているかは、女性によってかなり異なってくると思います。
私が思うにその違いは、その女性が「ジェンダーとしての女性役割を受け入れているかどうか」ということによって振り分けられるのだと思います。
女性役割を(喜んで受け入れても、しぶしぶにしても)受け入れた人は、「対立、バトル」的なものを強く感じるでしょう。
そして、女性役割を拒否する方向を選んだ人には、「同化、吸収」的なものが、かなり切迫した危機として迫ってきます。
そういった女性には、対立、バトル的なものはむしろあまり感じられなくなる。
このように、童話で描かれる模様や世間などの噂と異なって、女性とは常に若さ美しさに嫉妬しているわけではないのです。
そこは誤解しないでいただきたい。
ちなみに、私はどちらを強く感じているのかというと、それは「同化、吸収」のほう。
対立、バトル的なものはあまり感じていません。
むしろその存在に気づいたのは成人してからだったと認識しています。
「少女の意識」とは、性としては女性であることを受け入れながらも、女性役割は拒否するという性質をもつものであることから、それをもつ人にとっては「同化、吸収」の脅威はかなり深刻な問題となるのです。
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