バーテンダーはいない 

February 17 [Thu], 2011, 14:16
「うそよ」
 嘘だよごめんねと、いってちょうだい。そうして二人で地下2階のバーにいきましょう。あんたのお気に入りのバーテンが、ロビーで女を口説いていたわ。

 本部で寝泊まりするのを嫌うわたしのために、ツナはいつもミラノ市内のホテルをとってくれる。ボスは本部にいるべきよと何度いっても、夜は必ずホテルに帰ってきてくれた。わたしが一人では眠れないのを知っているからだ。
今夜もいつものようにバーにいきたいというと、部屋で飲もうと返された。いやよバーにいきたい。部屋で飲もう。いやよ。話があるんだ。
 首を振りながら目にいっぱい涙を溜めてもツナは譲らなかった。しかたなく、眉をきゅっと寄せたままガラステーブルに置かれたワイングラスに手を伸ばす。安いビールを飲むときと同じように、一息で飲み干した。
「京子ちゃんが、妊娠しちゃって、彼氏はいなくなっちゃったんだって。だから俺に子どもを育ててほしいって。おまえになかなか子どもできないってだいぶ前に話したことあったんだ。おまえにって言い方おかしいね。俺たちに」
「京子が一人で育てるべきだわ」
「どうしてそんなこというんだ。知ってるだろ、京子ちゃんには子どもを堕ろす金も産む金もない。堕ろす金を出すくらいなら俺が引き取る」
「京子がマンマであなたがパパン?」
「だから、きみが母親に、」
「なれないわ。なれるわけがない」
 とぷとぷとグラスにワインを注ぐ。ああ馬鹿みたいに赤いわ。わたしが置いたボトルをツナが自分のほうに寄せた。これ以上わたしに飲ませないつもりだ。
「ビアンキ、養子をとりたいっていってただろ」
「養子ね。京子の子どもではなくて」
 京子の子どもだからいやなのではなかったが、女として、二つ返事でイエスといえない。
 母親になれない女のひがみなのだろうか。たとえば京子に限らずハルやイーピンが産んだ子でも、隼人はもちろん山本やランボが連れてきた子でも、わたしは喜んでその子どもを育てる。もし自分とツナの子どもが既にいたとしてもだ。たった、つい十分前までは、確かにそう思っていたのに、今この瞬間は、子どもなんて絶対に欲しくないと心から思っている。白いもやの中にあるものを離れた場所から見ていた、そんな景色が、一瞬のうちに極彩色に染められて目の前に押し寄せたようだ。子どもがいる生活という極彩色にわたしは押し殺されそうになっている。炎天下を走り抜けて帰宅したその子は扇風機をおもちゃにして遊び、わたしはその子によく冷えたアップルタイザーを差し出して、顎をつたう汗をふいてやるのだ。ツナはその子をシャワーに連れていき、二人がリビングに戻ってくるころ、わたしは茹で上がったパスタにオイルをたらしている。
「ビアンキ」
 呼ばれてつい顔を上げると、ツナのほうが今にも泣き出してしまいそうな顔で、ソファの上に抱いた膝に顎を乗せていた。わたしはそれをかわいそうに思って、彼の頬に手を伸ばす。なでる。とたん、彼の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「ビアンキが望むことをして、尚且つ友達を助けられたら、それはすばらしいことだと思ったんだ」
 指先で生ぬるい水をすくいながら、おそるおそる自分の顔を近づけた。こつんと額をツナの額に合わせると、彼の心臓の鼓動をからだで感じた気がした。いつまでもこの子が泣き虫なせいで、わたしはなかなか泣けない。わたし、たぶんもしかしたらきっと、ほんとうは、あんたとの子どもが欲しいのよ、いつだって。
 このままソファに倒れ込んで抱きしめ合ったまま眠って、朝になったら、ツナが京子の子どもの話を忘れてしまっていればいいと思った。そうして明日の夜こそは、地下2階のバーでタイタニックを飲むのよ。


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