栗城史多という登山家の方が、エベレストで亡くなったというニュースを見た。
一昨日のことだ。 メルボルンは、雨が降っていた。
僕は少なからずショックを受けた。会ったこともない人の死に、ここまでショックを受けたことは初めてだ。
できるだけこのニュースを忘れて仕事にとりかかろうと思うのに、家内が「栗城さんが亡くなられたというニュース、結構出ていますね」というものだから、余計に気になった。
先週、娘が事故で指を切断したことも響いた。
彼の死が、どうにも頭から離れない。
栗城史多さんのことを初めて耳にしたのは、もう8年以上前になる。
知り合いの冒険家から「こんな人がいるんですよ」という流れで話を聞いた。
そもそも僕は山をやらないので、「ふーん」という感じだった。
しかし、その冒険家の関心は並々ならないようであった。
真似をしたいらしい。
「冒険の共有」というものが新しいらしかった。
高い山に登って、そこからの眺めを中継する、というのが肝だ。
世界最高峰からの眺め、素直に僕自身もそれが見たくなって映像をみてみたが、それにしては、山を映すというよりは自分を映している感じだった。
少し失礼な言い方になるかもしれないが、他力本願のわりに、自己顕示欲が強いのかな、という印象を受けた。
登山家や冒険家って、結構この手の人が多い。
この栗城さんという人もまた、そのような人種なのだろう。
しばらくして彼のことを忘れていたのだが、再び、別の旅仲間から話を聞いた。
インターネット上で彼がたたかれている、という話だった。
チラリとインターネットを検索すれば、でるわ、でるわ、どこからどこまでが本当かどうかわからないようなことが、うじゃうじゃと。
これを見てしまったのが、悪かった。
これ以降、僕は、一気に、栗城さんを応援したい気持ちに駆られるようになる。
自分の好きなことをやっているのに、なんでこんなにこの人がたたかれているのか、わけがわからなかった。
そしてたたいているのは、たぶん山に非常に詳しそうな人たちばかりである。
「?」 という疑問が湧きだした。
どうやら、登山の世界では、その道極める方々が集まって、彼らの頭の中でつくった、彼らの頭の中での「俺ルール」を共有しているらしい。
そして、それを栗城さんの「俺ルール」に押し付け、それが少し違うからと言って騒いでいるのだ。
これ、栗城さんも、批判する人たちも、結局レベル同じじゃない?
むしろ、そんな足をひっぱろうとする山の大御所さん達に比べて、どこ吹く風の栗城さんは、まぁ、なんと豪胆なことだろうか、と感心までしてしまった。
自己顕示欲だろうが、カメラ目線だろうが、テキトーなルールだろうが、本人が楽しければ、それでいいんじゃないだろうか。
会社の奴隷のように生きている自分だからこそ、そう思ったのかもしれない。
「この人には、なぜだか許せないほどに、自由がある」って。
「羨ましい」と。
そもそも、ルールなんてものは一人一人が勝手に決めればいいんじゃない? 競技でもなんでもないんだし。
別に、頂上一歩手前から一人で登ったのならば「単独」って言ったっていいじゃない。
他の人は同じ行為を「単独」って言わないかもしれないけれど、ま、いいじゃない。
人それぞれで。
せっかくだから楽しくやろう、って、どうして思わないんだろう。
こんなに楽しそうな世界なのに。
そんな大御所の「俺ルール」の押し付けにもどこ吹く風で、
勝手に他人を巻き込んで、
勝手に山に登り続けている栗城さんは、
実に自分勝手で、自己中心的で、いかにも人間らしく、
それゆえに、ありもしないルールを押し付けている(とインターネット上だけでは見えてしまう)登山家の方々より、遥かに「山登りを楽しんでいる」ように見えたのだ。
仮に人類が山に登り始めた原始的・本能的なきっかけが「なんか、面白そうだから」だったとすれば、
栗城さんは、登山家より、「登山家」やってたのかもしれない。
(これは、山登りをしない素人の発想だけれど。ビジネスとして「登山家」やっている人にとっては、全然事情が違ってくるのかもしれない。)
そんな感じで散々、好き勝手な山登りをやって、
そして、一昨日、勝手に死んだ―――
毎日、決まった職場に通わされているサラリーマンの自分からすれば、なんという、うらやましい人生だろうと思う。
ほとんど他人の力を借りて、努力を避けながら、死ぬまで遊んでいることができたのだから。
遊んでいるっていうと、言い方悪いかもしれないけれど、
確かに、本人にとっては、頑張っちゃっていたのかもしれないけれど……。
でも、山で頑張る、って発想自体が、山をやらない僕にはよくわからない。
山なんかより、そこらへんの職場のほうが、遥かに危険だよ。
仕事やってたら、人なんてバンバン死ぬよ。
だから、山なんて道楽で自分は頑張っちゃてるなんて思っちゃえる頭の中が、まだ、学生さんなのかな、と思う。
道楽に生き、道楽に死んだ。
でも、どうしてだろうか―――僕は、この8年間、その道楽に生きる人に、どこか好感を持っていた。
死んだ今更になってよくわかる。
めちゃめちゃ好感を持っていた。応援すらしていた。
それは、たぶん、どんなに自分勝手でも、ブレることなく我儘に生きる人間と、
そんな人間を許容する懐の深すぎる日本という社会を、愛していたからだと思う。
好きなことを好きなだけやる、他人に何と言われようと、やりたいからやる、
絶対にこんな人、世の中に増えたら困る。
社会でうまくやっていけない。
社畜や奴隷になりきるなんて、この人には絶対に無理。
だから社畜の僕は、直接お会いすることがあれば「ちょっとは真面目に働いてみてくださいよ」くらい言わせてもらったかもしれない。
でも、それでも、死なれたら困る。
死なれたら、困りますよ。 ほんと。
この栗城さんという方、自由を謳歌している人には、はた迷惑な存在だったのかもしれないけれど、
自由を望めない人にとっては、羨望であり、希望でもあったのかもなぁ。