恐れている。 

2007年01月21日(日) 11時40分
自分の考えを確立させることを恐れている。
ものの見方に柔軟性が欠けるし、
何より確立させて主張することは大きな反発を生むから。

でも考えないと何も変わらないし、先に進めないし、わたしがここにいる意味がなくなる。

問題解決へのはたらきかけ。 

2006年04月23日(日) 16時30分
小さな陰口もいじめもリストカットも、表面化されないのが常。

だけど表面化しない限り、問題解決は困難。


わたしなりの手段と表現を使って、核にはたらきかけたい。

ここで放っておいて問題が静まるのを待つことは簡単だけど、
根本的な問題の解決にはならないことは知っているから。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

自分と自分を囲む身近な問題、人間関係でいっぱいいっぱいです。
集団にはたらきかけることって難しい。
だけど、集団にはたらきかけて、自分なりに納得のいく結果が出せたとき得るものは大きいと思う。

自分の問題、自分の周りの問題も解決できない(解決しようとしない)ようでは、
教師になる資格なんてない。


ここ最近、ブログ更新してなくてごめんなさい。
見てくれているひと、ありがとう。

外国語教育について。 

2006年03月17日(金) 22時22分
外国語教育がますます重要視される昨今ですが。
既存の外国語教育上、外国語教育の指す外国語は英語の場合が多い。

確かに英語を母国語とする国はいくつかに跨っているのだけど、
【外国語≒英語】という概念をもつにはあまりにも視野が狭すぎやしないか。

また、教育水準が向上するにつれ多くの民族が外国語として英語を身につけることで、
母国語または他外国語の価値は薄れていくのではないかという危険も感じる。


外国語教育に力を入れるのは結構だが、
満足に日本語(語彙・敬語等)を使用できない日本人が多いことも現状。
母国語教育を怠ってまで外国語教育を促す、既存の教育にそういった流れを感じてしまう。

確かに世界中の人が言語により意思疎通が図れるようになれば、それは素敵なことなのだが、
日本では日本語が薄れてしまうように、世界中の文化まで統一されてしまうような恐怖すら覚える。

少数民族は多数民族に吸収され、文化も普遍的なものとなり、
外国語教育の目的のひとつである『異文化コミュニケーション』の意義すら希薄になってしまう気がしている。

愛国教育〜国家〜。 

2006年03月16日(木) 12時30分
小学3年まで沖縄、小学4年〜中学3年まで鹿児島、高校時代を沖縄で過ごしたわたしですが。
本土(内地)と沖縄との愛国教育の差には考えさせられるものがある。

沖縄では何かと『愛国』という言葉が嫌悪される。
愛国=軍国主義・アジア侵略を連想させるからだろうか。
地元メディアでも愛国心を『危険なもの』と位置づけ、政治または過去の戦争を報道しているように感じる。

その中でも、小学生のときに沖縄から鹿児島へ転校したことで大きな違いを感じたのは【君が代】。
もちろん沖縄の小学校で使用している音楽の教科書の最後のページには【君が代】がある。
しかし、小学3年まではどんな曲なのか、何のための曲なのか全く分からなかった。

鹿児島の小学校に転校し、初めて式典で歌うことを強要され、とまどった。
周囲に合わせて口パクし、【君が代】を覚えていった。
ここで初めて、国歌という認識を得た気がする。

ここまでなら良かったのだが、高校入学と同時に沖縄に戻ったとき、入学式での国歌斉唱に驚かされた。
式の進行役が「国歌斉唱。みなさんご起立ください」と言い、国歌の演奏が流れる。
しかし、誰も歌わない。
全員が起立しながら、誰も何も言わない。しーんとする。演奏だけが流れる。
国歌を歌うことが当たり前になっていたわたしにとって、どうしていいのか分からなかった。

後々聞くと、わたしの友人は皆「学校で習ってない」「知らない」という。

子どもは「歌わない」のではなく、「歌えない」。
わたしの母も【君が代】が歌えない。

個人として愛国を批判するのは結構だが、
国民であれば【国歌を歌う権利】を持ち合わせていると思う。
沖縄の教育は【国歌を歌う権利】を子どもから奪ってはいないか。
国歌斉唱が強要されることが問題になることは多々あるのだが、
国歌を歌わない静寂は「国歌を歌うな」という圧力になっていないか。

愛国より愛琉球に力を入れる沖縄の教育に疑問を感じた。


『集団』を形成するひつようせい? 

2006年02月23日(木) 9時53分
『いじめ』に関して、

「たまたま偶然、集団の色と色が合わなかっただけの話。
 どっちが悪いとか言う問題ですらない。
 集団は色を守るためにその異質な色を排除しようとするのはおかしいことじゃないと思う。
 自分にあった色の集団に行けばいい話。」
               
           という意見を戴いたのですが・・・


こっからわたしの意見。

自分に合った色の集団があるとは必ずしも限らない。
そもそもなぜ集団を作りたがるんだろう。
集団さえ作らなければ、無駄に疎外感さえ感じることもないように思う。

集団じゃないと行動できない?
協調性も重要だが、
個々の自立性が欠かれた集団はそれ以前に価値が感じられない。

人を嫌うなら個人で嫌えばいい話で、
集団をつくって、いじめる必要はないんじゃなかろうか。

いじめられるほうにも悪いところがある・・・? 

2006年02月22日(水) 0時17分

多くの人が「いじめられるほうにも悪いところはある」と認識していると思う。
それは、いじめ集団を変えるよりも、いじめられる少数派を改善(?)したほうが手っ取り早いから。
不平不満も最小限で済む。

でもなんだかおかしい。
誰にだって悪いところを探せばキリがないし、誰にだってちょっとした間違いはある。
その誰にでもあるものをわざわざ少数に集中して指摘&非難するのはおかしい。

また、いじめ集団の殆どが、
「いじめられている子に何かされた」とか「いじめられている子のココがむかつく」
ってのを明確に認識しているわけではないと思う。
いじめ集団には必ず
「○○がやるからわたしも〜」
「みんながやるから乗っておこう〜」
「○○の言う通り、確かにあいつはむかつくよな〜」
って誰かに感化されたり、ただなんとなくっていう無責任なやつがいる。
そこで集団を作ってしまうことに問題があるのだと思う。

悪いところがあるからっていじめられる理由にはならない。
だからと言って、人を嫌いになることは悪いことじゃない。人には好みもあるから。
何が悪いかって、そこで集団をつくってしまうこと。


数年前に鹿児島県の中学生の弁論大会か何かで、
「いじめられるほうも悪い」みたいなことを言って最優秀賞を取った中学生がいた。
信じられないけど、
教育者や民間大多数からすれば、集団の波に乗れない子を悪く言うほうがとても楽だっていうこと。

悲しいなぁ。

集団でいじめるより、不満があるなら個人的に指摘すればいい。
集団対個人はフェアじゃない。

なぜ人を殺してはいけないか。 

2006年02月19日(日) 22時05分

先日、ある人と討論になりました。

なぜ人を殺してはいけないか、ということをどう子どもに教えていくか。

ある人は、
「悲しむ人がいるから人を殺しちゃいけない」のだと言う。
それは、とても子どもには理解し易い答えだと思う。
しかし、感情や道徳観に訴えることはとても安易なことだが、
正確な答えにはなっていないように思う。

わたしの考えでは、
「食べるためじゃないから人を殺しちゃいけない」。
食べるため、身を守るためでなかったら、
人間に限らず、すべての生きものを殺してはいけない。
食べることや身を守ることは、動物に備わった本能的機能で、
多くの動物がそれを繰り返し、今日まで生きている。
しかし、食べるためや身を守るため以外の死は何も生まない。
だから、「人を殺してはいけない」のだと思う。

もし先の考え「悲しむ人がいるから人を殺しちゃいけない」が適応されるなら、
戦争で家族や友人を失くした人や、望まれない(できちゃった)子どもはそれこそ、
悲しむ人がいないのだから殺されてもいいということになるのではないだろうか。

人の命の価値は「悲しむ人」で決められるのではない。
ひとりひとりが同じくらいの価値を持っている、周囲の人間関係なしに。
わたしは無責任に感情に訴えたりしたくない。


そんなこんなで、
大人が「なぜ人を殺してはいけないか」に正確な答えも出せないのに、
子どもに教えていくことができるわけがない。


どうして人を殺しちゃいけないの?
一度聞かれたことを想定してみて、
答えを探してみることは自分にとっても価値のあることかもしれません。








『思い遣り』教育。 

2006年02月12日(日) 15時48分
『思い遣り』教育、
または『思い遣り』の精神を求める人間に不信感を覚える。

『思い遣り』教育っていうと、
 ・自分がして欲しくないことは他人にしてはいけない。
 ・自分のして欲しいことを他人にもしなさい。
 ・他人の気持ちを考えて行動しなさい。
                          とかそんな感じ。

多くの人間が幼稚園だか小学校だか、
比較的低い年齢での教育の中で諭されてきたと思う。

だけど、歳を重ねる度にその『思い遣り』の精神の薄っぺらさに気付かされてきた。
少なくてもわたしは。
自分と他者とは明らかに違う人間で、嗜好だってもちろん違うのに、
『思い遣り』という自己判断で相手を決めつけ、行動する。
相手が自分と同じような価値観を持っていると信じて、善意で行動する。
それも、一般的に自分より弱い立場の者が対象。

でも、それってすごく傲慢じゃない?無知じゃない?

自分が良いと思ってすることは、必ずしも他者にとっても良いことだとは限らない。
いくら相手の気持ちを考えて、思い遣って行動したって、
結局その判断は自分の価値観から抜け出せない。
主観的客観に依存するということ。

じゃぁ『思い遣り』って何ですか?
はい、『思い遣り』とは他者に依存した偽善的な自己満足です。

こんなんじゃだめですか?
やっぱりわたしは間違ってますか?
喧嘩売ってるみたいになっちゃうけど、
結局わたしが考えるとここに行き着いてしまう。


教育学系の学科にいて、周囲の人間を見ていると、
その多くが教育問題に行き詰ると『思い遣り』教育というものに逃げているように感じてしまう。

直接的な問題から目を逸らして、
間接的に『思い遣り』という道徳教育に結びつけている。

それってあまりにも安易すぎない?


そういう疑問を感じながら、
『思い遣り』について再度認識してみました。

『思い遣り』と言えば聞こえは良い。
でもその本質を問えば必ずしも綺麗ごとばかりではないということ。

でもって、『思い遣り』を自分の中の心がけ程度に終わらせるならまだしも、
子どもに教えていく、他人に求めていくというのは本当に難しい。

ぷろふぃーる。
美化のむ。
のむじ。
教育学部2年。不真面目。日々息抜き。
わたしが誰かに問題提起的な役割をして、誰かがわたしに新しい視点をくれて、わたしなりの、誰かなりの結論が出せればそれはすごくいいことだ。
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