犯人の生い立ち

2004年12月15日(水) 21時09分
 大正12年、この年の春から都井睦雄は小学校に上がることになる。
しかしこの際、病弱を理由に小学校の入学編成を1年延期しているのである。
これは都井睦雄本人が学校へ行きたがらないのに加えて、祖母が睦雄可愛さから手元に置いておきたかったからで、役場の学事係が何度か説得に足を運んだが、
その都度祖母いねの『あと一年待ってつかあさい』にあい、根負けして特別に就学延期を認めたという。
 またこの年の9月1日には関東大震災が発生した。
死者9万5千人、行方不明者4万2千人という甚大な被害を受け、当時朝鮮人の暴動に関する流言が広まり、各地で騒動が起こった。

大正13年4月、この年都井は西加茂尋常高等小学校へ入学。
就学前は学校に行きたくないと駄々をこねてはいたが、いざ通い始めると他の児童となんら変わるところなく、通学していた。
役場の学事係も、担任教師もこれを見て胸をなでおろした。
そればかりではなく、都井は極めて優秀な成績を示してクラスではトップクラスの成績だったとある。
10点満点で修身9、国語9、算術10、図画8、唱歌8、操行中というもので、
担任教師によると『従順にして教師の命を良く守り、級中の模範児童たり。故に学業も上位にして申し分なき』と称えている。
ただ、『健康やや悪く、風邪をひき欠席すること多し。努めて出席するよう訓戒す』と
している。

塩田検事の報告書

2004年11月20日(土) 22時08分
 
 事件が起こったあたりは、現在は開発がすすみ道路も舗装され、当時の面影をほとんど失ってしまっている。
昭和13年の事件当時の環境風土を、事件担当であった塩田検事は次のように報告書にまとめている。
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 この戦慄すべき事件が発生した岡山県西加茂村大字行重字貝尾と、
字坂本の部落は、津山市より北へ約六里、因美国境にほど近く、因美加茂駅より南西へ約一里三十丁余距たった、中国山脈の懐に抱かれたような山峡の小農村部落である。
村の役場から相当急な坂道を一里十丁近く登りつめた所、青葉に埋もれた湿っぽい峡谷の中に眠ったように静かな山村である。
 同村の全戸数は約三百八十戸全人口約二千人であって、貝尾部落は全戸数二十二戸全人口百十一人、坂本部落は全戸数二十戸、人口九十四人であって、そのうち犯人都井睦雄が住んでいたのは貝尾部落で、被害者の大半は同部落におけるものである。
この両部落の住民はその大部分が零細農家であって、山田の耕作と養蚕を主たる産業とし、
雪に閉ざされる冬間は主として炭焼、樵人(そまびと)、藁仕事に従事している。
畜産としては格別のものはない。
貝尾部落には、狩猟に従事するものは皆無だが、坂本部落と同村大字樽井には若干の猟人がいる。
しかしなにぶん山の浅い中国山脈のこととて獲物は鳥と兎の類を出でず、猪その他の猛獣は全く住んでいない。
祖父伝来の限りある土地、それも地味の肥えていない山間の痩地を守って生きていく部落民の生活は、食っていくには困らないまでにも決して豊かなものではない。

犯人の生い立ち4歳〜6歳

2004年11月16日(火) 19時02分
 大正9年、祖母いねは幼い二人の孫を連れて、加茂町大字小中原塔中に移転する。
おそらく、相次いで息子を夫婦結核で亡くし周囲から『あの家は肺病じゃから』と陰口を叩く者がいたのではないかと思われる。
落ち着き先は一年契約の借家であった。
 一家はここで約三年を過ごす事になる。

 大正11年夏、一家は再び移転する。
祖母の里である同郡西加茂町大字行重貝尾に引っ越したのである。
祖母はこの地に永住するつもりで家を買った。
屋敷、田畑合わせて500円は、倉見の土地山林を処分して作った。
大きくて古い農家である。この家について岡山地方裁判所検事、塩田末平は研究報告書『津山事件の展望』の中に次のように書いている
『その家は構えだけは一段と大きく立派であるが、古色蒼然かつ相当荒廃しているばかりでなく、屋内甚だ暗く文字通り鬼気迫る感ある家である』
しかしこれは事件後の印象であり、16年前に引っ越した当時は、これほどまでのことはなかっただろう。
だが、この家には忌まわしく因縁めいた過去があった

犯人の生い立ち2歳〜3歳

2004年11月13日(土) 23時08分
 
 大正7年12月1日、父振一郎が肺結核で他界した。39歳の若さだった。
このため長男である睦雄が家督を相続し、母君代が後見人となる。
相続資産は田畑約一町三反と山林約三反だった。
 この年の7月、米価が急騰し全国各地で米騒動が起こり、岡山県にも波及してきた。
岡山県内で最初に起こったとされる騒動は、8月9日の岡山市と津山町(現津山市)であった。
これを皮切りに県内の他市町村に拡大して行ったが、なかでも岡山市で起こった同月13日の夜の騒動は軍隊が出動して鎮圧されるという事態にまで発展した。
 この岡山市で起こった騒動と同じ日の13日に加茂町でも米騒動が起こった。
400人から500人の人々が集まり、町内の米穀店数店へ押し寄せ、
他地域への米の出荷を辞める事と、米の廉売を迫ったという。
だが幸いにも先述した岡山市のような騒動には至らず罰せられた者はいなかった。
 祖母いねは『米が値上がりするんは、わしら百姓にとってはありがたいことじゃが、なんや物騒な世の中になったもんじゃけん。わしら百姓は殺されるんとちがうか。こわいのう』
と怯えた。
 こうした世相の中での一家の主の死は、残された家族達に深刻な不安をもたらしたに違いない。
 悪いことは続くようで父の死後、後を追うように母君代が病に倒れた。
一家は暗い年の瀬を迎えることとなる。

犯人の生い立ち

2004年11月12日(金) 21時51分

 都井睦雄は大正6年3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見に生まれた。
 父振一郎(明治13年2月16日生まれ)は農業を営み、かたわら炭焼を生業としていた。
後備役の陸軍上等兵で、かなりの大酒家だったが、すこぶる柔和で円満な人物であり性格ならびに素行に全く問題はなかった。
 母君代(明治29年8月24日生まれ)は同郡阿波村大字於曾の農業小田宇作の娘で、17歳で都井家に嫁いだ。
短気で怒りっぽくきつい性格だが、まずは平均的な農家の主婦であった。
 都井家は中流の農家で父母の仲は良かった。父母の祖父はすでに62歳で亡くなっていたが、祖母いね(元治元年12月27日生まれ)と姉みな子(大正3年8月14日生まれ)がいた。
 父振一郎は日露戦争に従軍し、帰還後見合いで君代を妻に迎える。
この時代としては遅い結婚と言えるであろう。
みな子と睦雄の一男一女をもうけ、一町三反の田畑と三反の山林を所有し、農作業や炭焼に汗を流しながら当時のこの地方としては中程度の生活を営んでいた。
 中程度の生活、とは言え、当時の食生活の貧しさ・仕事のきつさなどが祟ったのか、
父振一郎は肺結核で寝込んでしまう。
病状は急速に悪化したが、入院もせず自宅療養を続けた。
それまでに自覚症状がありながら、無理を重ねた結果であった。
 

津山30人殺傷事件

2004年10月31日(日) 12時14分
 日本犯罪史上、類を見ない空前の惨劇はある日突然起きてしまった。
たった一夜のうちに村人30人を殺害、一瞬にして村を阿鼻叫喚の地獄へと突き落としたのは都井睦雄・・22歳である
成績優秀、神童と言われたこの青年を一体何が狂わせてしまったのか。
岡山県苫田郡西加茂村大字行重貝尾。人口50名余の農村地帯である。
村人はほとんどが朝の早くに目を覚まし、そして夜は日が沈むまで真っ黒になるまで働く。冬は冬で副職の養蚕に精を出した。
それでも村人の暮らしぶりは質素そのもので、大抵の家の飯は3割程麦が混ざっていた。
3割と言うとさほどでも無いように思うが、麦は水を吸うと倍に膨れ上がりかさが増す。実際飯が炊き上がってみれば、半分以上が麦という状態であった。
この様に書くと、とても貧しく寂れ切った寒村というイメージがあるかもしれないが、実際のところは当時の山間部・農村地帯などの平均的生活水準であった、とある。
言い換えれば、ごくごく平均的で平和的な小さな村で犯人・都井睦雄は何を考え、凶行に至ったのか?

犯人・都井睦雄の生い立ち /
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