イムジン河 

2007年09月21日(金) 15時40分
皆さんは「イムジン河」という名曲をご存知ですか?

1968年、当時「帰って来たヨッパライ」という曲を出し

 一躍有名になった、フォーククルセダーズがテレビやラジオで

 1.2回歌って、いざレコード発売寸前でお蔵入りになった曲です。

 この曲は朝鮮、韓国の共通する民謡で昔からあるそうです。

 ひとつの国が戦争により分断され、離れ離れになった家族、兄弟、

 その思いはいかばかりか。

  これは、幻の名曲といわれ、一生レコード化はされないだろうと

 言われていました。大学一年の時でしたが、メロデイー、旋律、詩の

 内容、等がすうーと入りすぐに覚えられました。

  グループサウンズが衰退し始めた〔雨後の竹の子のように乱立し、

 「何が何だか訳が判らない、これがG.Sかと」辟易していた頃でした}

当時は、何故、発売禁止になったのか、判りませんでしたが、2.3年前

 にC.D化された時は、喜びに満ち溢れ、すぐに買い求めました。

  発売禁止になった直後、すぐに詩を変え出来たのが、「悲しくてやりきれない」

 という曲です。  これはこれで、かなりヒットしましたし、曲の内容も、

 詩を変えただけなので、共通するところもかなりありましたね。

  今、改めて、「イムジン河」を聞いても、時代を感じず感銘を受けるのは、

 自分だけではないと思います。

  これは、今でも北朝鮮、韓国、の両国が一つになった時に初めて、心の

 底から笑顔で歌える〔国民の一人一人の笑顔が満ち溢れています〕筈だと

 心からおもいます。



  加藤和彦はソロに転向するが、やがてサディスティック・ミカ・バンドを結成。

  はしだのりひこは  花嫁(はしだのりひことクライマックス)

            風(はしだのりひことシューベルツ)等大ヒット連発。

  北山 修は 医者になったとか、という話までしか自分はわかりません。

   勉強不足で申し訳ありません。   今日はここまでと致します。

書き忘れ 

2007年09月16日(日) 13時59分
前回、占有は全部終わったと書きましたが途中、1件だけ

 書き損なったのがありましたので、今回の占有話に致します。

 団地に住んでいた頃、会社から言われ、溝口まで行きました。

  入って、ビックリまだ人が住んでいた事です。

 奥さんだけが夜逃げし、子供2人だけで食事をしていました。

 中学生の息子と小学生〔低学年〕の女の子です。

 「お父さんは」と聞くとおどおどした態度で「出かけています」と答えました。

  子供たちを見ていて目頭が熱くなりました。

 1階は建築材料の小売店らしく、品物が所狭しと置かれていて

 それもどこに何があるのか、判らない位雑然としていました。

  子供たち相手では話の仕様が無く、後日ご主人のいる時間に

 待ち合わせをして、法律に詳しい先輩と一緒に出かけました。

 話終了後、いついつまでに出るという約束を取り、でたのを

 見計らって、占有に入りました。暫くし、会社が金を出し、一階を

 居酒屋に改良し、そこそこ繁盛するに至りました。

  そこで、バイトを暫くしていて、玄関の掃除をしていたら、電柱の

 影から、店の方をじっとみている人影がいます。

  よく見ると、前のご主人ではないですか。

 自業自得とはいえ、高金利の店で金を借り、今では他人にのっとられ、

 恨めしそうに見ている姿は、何か人生の哀れさ、虚しさ、を感じずには

 いられませんでした。 

  その店も競売にかけられるまでの約半年間は面白かった、というか、

 色々な人生を歩んできた人々達で営業していたからです。

  元、やくざ、 元、アイドルグループの1人〔新宿でスナック経営〕

 料理人くずれ、借金取りから逃げ回ってる若い男性、と自分です。

  自分はそこで寝泊りしていたので、休みの日にはビデオを見たり、近くの

 スナック〔昼間はカラオケ専門〕で仲良しになった、年配の方たちと歌を

 歌っていましたのも、楽しい思い出です。

  競売にかけられた後は、どういう店に変わったか何をしているのかは、

 知る由もありません。  溝口まで行くチャンスがあれば、行って見たいと

 思っています。

  これが、途中何回目だか、忘れましたが、最後の最後の占有話にしたいと

 思います。   次回からは趣向を変えて思い出話を・・・・・・

  

人生いろいろ 

2007年09月08日(土) 22時16分
前回、会社をくびになって、はてどうしたものか、

 3〜4人の友人、知り合いに相談しました。

    駐車場の管理人「半日、月10万円」

    皿洗い    「半日、月 8万円」

  どれもこれも仕事は楽そうな仕事ばかりで良いのですが

 この給料ではとても生活は出来ません。

 ギリギリ間に合ったのが、宅急便の仕事です。{紹介}

 面接に行って、あまり金額のことは言いたく無かったのですが、

 生活の事を考え、聞いたところ、「最低16万は出します」との

 こと。年も年だし、家賃を払っても何とか暮らせるかな、と軽い

 気持ちで入りました。  最初の頃は貯金もまあ、少しはあった

 ので1カ月は無事、過ごせました。

  仕事は、かなりきつく30キロの米を担いで5階まで運んだ時は

 さすがに足がガクガクしましたっけ。 ドライバー出身とはいえ、

 何十年も現役から遠ざかっていましたから。  それでも、月日が

 たつにつれ、何とか体も馴染んできました。

  引越しも何回か行いましたが、昔と違って1日に2回から3回も

 やらされます。  今の時代は昔と違って運賃の取り合いになって

 いるので仕方がないのでしょう。

  しかし、時間が朝の7時30分から夜の9時30分迄の14時間

 はさすがにきつく、週に1度の休みも殆ど寝てました。

  ビックリしたのは、正月も元旦から配達です。〔宅急便は当たり前

 ですね〕正月はお年玉も出るからと言われ期待したのですが、給料は、

 18万円。  それも2ヶ月後。  何でも下請けなので親会社から

 2ヶ月後でないと入金されないそうです。 ということは生活が段々

 苦しくなる一方です。 医者にもいけません。  貯金も底を尽き始

 めました。  仲間のドライバーに聞いた話では、売り上げ〔1件に

 つき、いくらの歩合制〕だそうです。 全員がですね・・・

  最初に確認しなかった、自分のミスですね。

  これも人生勉強ですかね・・・・

  約半年間いましたが、金も無くなり退職しました。

  最後の1ヶ月はノーギャラです。何が何だか判らない事まで、引かれて

 紹介してくれた人に文句を言ったのですが、これもあとの祭り。

  人が好いというか、馬鹿なんでしょうね。 人をすぐ信用してしまう。

 最後の所持金はたったの3万円でした。

  退職する2週間くらい前、知人から「レンタルルームの窓口の仕事がある

 よ、それも日銭で」と言われ2ツ返事でオーケーしました。  

  レンタルルームの受付とは、はて・さて?何を受付するのか?・・・・

 昔のイメージでは会議室が無い又は足らないので、代わりに使うと・・・

 というイメージだったのですが。  入って見てビックリ。

 マットが敷いてあり、何が何して何とやら、ラブホのミニチュア版。

  時間も長いし、朝晩の掃除も大変だったけどメインの仕事は座って

 受付だけだったので宅急便の仕事に比べれば雲泥の差でした。

  くるお客も千差万別、若いのやら、爺さんまで、おとなしい人、

 酔っ払い、態度のでかい人、女の子も可愛い系、綺麗系、アダルト

 癒し系、これも又、百花楼蘭、甲乙つけがたし。

  目の保養になりました。  中にはやさしい女の子もいたし、

 人生の相談相手にもなってあげられた女の子もいました。

  人生の節目節目といえば大げさですが、いつも誰かが助けてくれる。

 目に見えない何かが自分を守ってくれる。 感謝です。

  一度は死のうと思った自分が馬鹿みたいです。

  長くなったようなので今日はこのへんで。・・・・・・

 

倒産の経緯 

2007年09月08日(土) 16時00分
  今日は倒産の経緯についてお話しましょう。

  兄たちの会社が潰れ、担保に貸しビルが持っていかれ、

  それでも、母体の運送業は父と自分で頑張って営んで

  いました。  唯、同業者が増え、運賃も上がらず給料も、

  毎年、少しずつでもアップしてましたので利益は、年々減って

  ました。  又、父も自分が33歳、結婚して1年後に他界し、

  父の築いた信用もだんだん失いつつありました。それでも、

  何とか14,5年程頑張りましたが、ついに刀折れ、矢尽き、

  倒産に至りました。

   直接の原因かどうか、判りませんが、銀行の貸し渋り、貸しはがし

  30年以上も付き合っていたのに、「このときばかりは、銀行は、雨の

  時は傘を貸してくれない」と、しみじみ思いましたね。そして、あろう

  ことか、銀行よりも高い金利のファイナンス会社を紹介されました。

   後で、知ったことですがその銀行はもっと大きな銀行に吸収合併され

  その銀行はもうありません。  又、こういう事は銀行法で、硬く禁じ

  られていることが後で知りました。

   当時、会社の顧問経理から「どんな方法でも社員の給料を作れ、社員を

  不安がらせるな。」 と言われ高利貸しに手をつけ始めましたのが借金を

  雪達磨式に膨れ上がらせた大きな要因だったと思っています。〔後の祭り〕

   いろんな会社から「当社は安いですよ」と言われ行っては見ましたが、

  どこも口だけ、大同小異、でも背に腹は変えられません。結局、負債は、

  1億5千万を優に超える金額。

   実家は取られ、車は持っていかれ、残ったのは莫大な借金のみ。

  又、「自己破産したら、」という人もおりましたが何せこっちは一文無し、

  弁護士費用も払えません。大分後で、弁護士費用もローン出来るって聞き

  ましたけど、その時は逃げ回っていましたので、間に合いませんでした。

    一時は自殺も考えました。

  10年間、保険証を作れなかったのがこれでお分かりになると思います。

   5年で時効、7年で時効、人によって解釈はバラバラでした。

  いやはや、人生の勉強不足 ここに極まれり。というところですか・・

   次回は、占有、会社をくびになった後の人生をお話しましょう。

      では、それまで夏バテにまけないよう・・・

   

設立 

2007年09月07日(金) 19時09分
  今日は会社の創立時代をお話ししましょう。

   父が太平洋戦争が終わり、満州から帰国し、色々

  仕事を代え、リヤカー運送から始めました。

  昭和27年、自分が3歳、妹が1歳です。

   私は生みの母親を知りません。「死別です」

  異母兄が3人いまして、それぞれ働いていました。

  次兄と父と後は刑務所から出てきた人〔父がその人の

  身元引受人になるという条件として〕3人と後は数人の

  運転手さんですね。  すぐ上の兄は中卒で丁稚奉公に

  出されましたが、すぐにやめ父の会社に入ったそうです。

   一番上の兄は高卒でサラリーマンです。

  父は寝る間も惜しんで働いていましたが、何せ男の身。

  乳飲み子を抱えては、営業も出来ません。

  私を左手に繋ぎ、妹をおんぶして、母親の妹に「この子達

  の面倒を見てくれないか」と頼んだそうです。

   私と妹は3歳と1歳なので、知るよしもありません。

  義母は自分の姉の子供たちなので不憫に思ったのでしょう。

  結婚もしていなかったし、父と結婚しました。

   母は大分、苦労をしたそうです。  私と妹、20歳前後の

  兄が3人、寝たきりの祖母と運転手さんたちの弁当作り。

  夜は夜で、会社の経理、寝る間も惜しんで働いたようです。

   後は、最初の頃のブログに書いたので、詳細は省きますが

  大学を中退し、自衛隊を3年間勤務し、父の会社に入りました。

   父と義母は、いつ生母の事を子供達に言うか、ずっと悩んで

  いたようです。妹は、高校の頃知っていたらしいのですが、自分は

  自衛隊に入っていたので判らず、退職したあと何年かたって、兄嫁に

  聞かされました。 そのときは、少しは心の動揺はありましたが、

  いい年した大人が、と思い普通に暮らせました。生みの母親の顔も

  知らない。写真もないのがかえって良かったのかも知れません。

  義母は私と妹には普通に接してくれていたので、違和感は無かった

  のだと思います。

   唯、親戚の人の話では「生母は、あなたによく似てるよ」と良く

  言われてました。

   父が40歳過ぎてからの私と妹でしたので、父は早く結婚しろ、

  しろと年中言ってました。

   22歳から30歳まで4トンの運転をして、30歳過ぎに事務所

  に入りました。  仕事が仕事でしたので、中々休みがとりにくく

  女性と付き合う時間が無かったので、見合いの話しをあちこちから

  父が持ってきてました。    兄たちも妹も早くに結婚したので、

  気が気でなかったのでしょう。 何せ私が6歳の時には、甥っ子が

  いましたから。 兄達よりも甥っ子の年の差が近いのですから。

  その甥っ子も7〜8年前に45歳の若さで亡くなったのを風の噂で

  聞いたときは愕然としました。病気一つしない丈夫な体でしたから。

   さて、運送業の方はといいますと、次兄もすぐ上の兄も早くから

  一本立ちしており、父は父で区議会議員をやっていましたが、固定客

  が決まっていて、貸しビルも営んで全部で4つの会社がありました。

   その会社が何故、衰退一途の道に踏み込んだのか・・・?

     本筋は次回まで・・・・・

   

設立当時 

2007年09月07日(金) 18時39分
  今日は会社の創立時代をお話ししましょう。

   父が太平洋戦争が終わり、満州から帰国し、色々

  仕事を代え、リヤカー運送から始めました。

  昭和27年、自分が3歳、妹が1歳です。

   私は生みの母親を知りません。「死別です」

  異母兄が3人いまして、それぞれ働いていました。

  次兄と父と後は刑務所から出てきた人〔父がその人の

  身元引受人になるという条件として〕3人と後は数人の

  運転手さんですね。  すぐ上の兄は中卒で丁稚奉公に

  出されましたが、すぐにやめ父の会社に入ったそうです。

   一番上の兄は高卒でサラリーマンです。

  父は寝る間も惜しんで働いていましたが、何せ男の身。

  乳飲み子を抱えては、営業も出来ません。

  私を左手に繋ぎ、妹をおんぶして、母親の妹に「この子達

  の面倒を見てくれないか」と頼んだそうです。

   私と妹は3歳と1歳なので、知るよしもありません。

  義母は自分の姉の子供たちなので不憫に思ったのでしょう。

  結婚もしていなかったし、父と結婚しました。

   母は大分、苦労をしたそうです。  私と妹、20歳前後の

  兄が3人、寝たきりの祖母と運転手さんたちの弁当作り。

  夜は夜で、会社の経理、寝る間も惜しんで働いたようです。

   後は、最初の頃のブログに書いたので、詳細は省きますが

  大学を中退し、自衛隊を3年間勤務し、父の会社に入りました。

   父と義母は、いつ生母の事を子供達に言うか、ずっと悩んで

  いたようです。妹は、高校の頃知っていたらしいのですが、自分は

  自衛隊に入っていたので判らず、退職したあと何年かたって、兄嫁に

  聞かされました。 そのときは、少しは心の動揺はありましたが、

  いい年した大人が、と思い普通に暮らせました。生みの母親の顔も

  知らない。写真もないのがかえって良かったのかも知れません。

  義母は私と妹には普通に接してくれていたので、違和感は無かった

  のだと思います。

   唯、親戚の人の話では「生母は、あなたによく似てるよ」と良く

  言われてました。

   父が40歳過ぎてからの私と妹でしたので、父は早く結婚しろ、

  しろと年中言ってました。

   22歳から30歳まで4トンの運転をして、30歳過ぎに事務所

  に入りました。  仕事が仕事でしたので、中々休みがとりにくく

  女性と付き合う時間が無かったので、見合いの話しをあちこちから

  父が持ってきてました。    兄たちも妹も早くに結婚したので、

  気が気でなかったのでしょう。 何せ私が6歳の時には、甥っ子が

  いましたから。 兄達よりも甥っ子の年の差が近いのですから。

  その甥っ子も7〜8年前に45歳の若さで亡くなったのを風の噂で

  聞いたときは愕然としました。病気一つしない丈夫な体でしたから。

   さて、運送業の方はといいますと、次兄もすぐ上の兄も早くから

  一本立ちしており、父は父で区議会議員をやっていましたが、固定客

  が決まっていて、貸しビルも営んで全部で4つの会社がありました。

   その会社が何故、衰退一途の道に踏み込んだのか・・・?

     本筋は次回まで・・・・・

   

ノアの箱舟 

2007年09月06日(木) 14時03分
  商店街の占有が終わり、さてどうしたものか?

 そうだ、まだ前の団地が残ってたっけ。

 いつまで、いられるか判らないがまあ、とりあえず、

 行ってみたら、競売にかけられる前だったので、又

 一緒にいたおじさんも元気で生活していました。

  その頃には、ある会社から生活費を〔給料〕もらって

 いたので、多少のたくわえは、出来ましたので2,3ケ月

 後に出て行く時も会社が保証人になってもらって、かなり

 古いアパートに住むことが出来ました。〔昔でいうなら何々荘〕

  やっと普通の日常生活に戻る事が出来ました。

  でも、まだ健康保険証は入れませんでした。

  そのアパートは駅からかなり遠く、近くのコンビニまで歩いて

 800m位、スーパー迄500m位、他には何も無かったのですが、

 たった1件だけ〔それでも600m〕大衆食堂があり、タクシーの

 運転手さんや残業帰りのサラリーマン、休日には家族連れ等で結構

 賑わっていました。  何といっても安い、うまい、ボリュームが

 あり、普通の定食でも、〔5〜600円〕腹一杯です。 

  安アパートでも、土、日、祝日は休みでしたので、近所をカメラを

 持って散策です。

  歩くのは好きな方なので、往復5キロ位は歩いたでしょうか。

 ちょっとした池には釣り人やピクニックの家族連れ、水辺には餌を

 求めにくる色とりどりの鳥や魚たち。 時間のたつのを忘れそう。

  又、有名な神社があり1月に1回はフリーマーケットが行われ、

 屋台もあり、結構人々たちが集まっていました。中にはこんな物に

 価値があるのか、という物さえ買う人がいたのは正直びっくりです。

  歩いていると、いろんな事に出会えます。

 神社、お寺は勿論のこと、教会、小さな公園には誰も気にも留められ

 ないような小さな祠、 ブランコが風に吹かれてギーコ、ギーコ

 ちょっとさびしい風景です。

  先程の、有名な神社の側道〔県道〕には1年に1回の夏祭り。

 御輿も大小、それも何台も。大人も子供も楽しそう。

 圧巻なのは、山車ですね。  前後に何十人もの人々たちに掛け声

 もろとも勇ましく引かれる山車。 山車の上には化粧をした子供たちが

 和楽器を打ち、鳴らし、吹く。それはそれは、煌びやかな雅そのもの。

 カセットではない。音楽を鳴らしてるだけではない。生演奏です。

 平安朝時代に遡ったか?位 艶やか、煌びやかさ、こういう時はまさに

 日本人に生まれてよかったなーとしみじみ思いました。

  安アパートはプレハブに毛がはえたような物で〔私は1階〕2階の足音

 がガタガタ、みしみし。  それでも住めば都、地元のケーブルテレビで

 昔の映画を見て楽しんでました。

  駅まで行けば、小さな映画館や寄席等があり、休みの日には歩行者天国

 で大道芸人や露天商が並びこれもまた、楽しみの1つでした。

  この安アパートには約2年半位居りましたが、会社から突然のくび宣言。

 会社を縮小するにあたって殆ど全員です。

  私の人生はまたまた、嵐の中へ・・・・次回まで・・・




最後の占有 

2007年09月04日(火) 21時30分
これで最後の占有です。

 前回の団地は応援の人がいて,なおかつ落ち着いて来たので、

 半年あまりの間、ある商店街の中の1件屋に入りました。

 その家は、それほど古くは無かったし、2階建てだったので、

 1人で住むには十分すぎる家でした。

  商店街でしたので、周りはお惣菜やさん、八百屋、肉屋、

 魚屋、靴屋、ありとあらゆる物が小さな店にギッシリ入って、

 それも800m位の車も通れない程の、狭い道幅に60件程の

 個人商店がひしめき合っていました。

  歩いて20mも行けば銭湯があり、〔商店街の中には3件程〕

 よく利用しました。家にも風呂はあったのですが、2,3回程

 使ったら、1階の台所が水浸しになっているので、おかしいと

 思い調べてみたら、床下のホースがところどころ穴があいていて、

 水量が思うほど,風呂場に届かなかったからです。

 先程、述べました通り3件の銭湯があるので、今日はどこに行こうか

 という楽しみがありましたね。

  風呂帰りの1杯や〔といっても、あまり飲めませんけど〕甘味所に

 行って、ところてんや、あんみつを良く食べていました。

  その家は誰も来なかったので、そういう生活が出来たのだと思い

 ます。    野良猫〔誰かに飼われたらしく、ひとなつっこい〕が2匹

 家の庭に入り込んで来たので餌を与えたら、毎日、毎日、仕事が帰る頃が

 判るらしく、玄関で待っていました。  もともと、動物が好きだったので

 休みの日は1日中猫たちと遊んだり、近所の公園で鳩に餌をやっていました。

  公園でびっくりしたのは、上半身〔勿論、頭にも〕鳩に覆われている人が

 いたのは、動物好きの私もびっくりしました。

  商店街も活気があり、親しみやすく、おまけしてくれたり、アパートを借り

 てもかなり安く、将来はこういう所に住みたいと真面目に考えましたね。

  パチンコやさんも4件ほどあり、初めて入った店でビギナーズラックというか

 2000円投資で30000円程になり、即効で会員になりました。

  そんなこんなで半年が過ぎた頃、競売で落とした人が弁護士と一緒に来て、

 1ヶ月後に出てくれと言われ、出て行きました。   2匹の猫たちが少し、

 可愛そうでしたが、致し方ありません。   出て行って2週間後に書類の

 交換に行ったときに、その2匹の猫に出会って側に寄って来た時には、目頭が

 あつくなりましたね。    まだ生きてるのかなー???

   6回の占有話、あまり褒められた話しではありませんが、如何でしたか。

 次回からは、趣向を変えて、今に至るまでを順を追ってお送り致します。

    では、それまでのあいだまで、体調を崩さぬように。





いよいよ佳境 

2007年09月03日(月) 23時20分
 いよいよ5回目の占有のお話です。

 5回目は、かなり古い団地の〔築30年位〕3階です。

 入ったときは、家財道具一切無く、ゴミ1つ無く、引越ししても

 今すぐ使えるような位、綺麗な部屋でした。〔襖や障子はかなり

 ぼろぼろでしたが〕夏だったから良かったのですが、布団も無く、

 週刊誌を枕にしてました。 唯、ここは余程、債権額が多かった

 せいか、銀行から、やくざや、同業者がかなり来た事を覚えています。

  一番怖かったのは、四人組のいかにもコワモテノ〔いかにもその道の

 人らしい 〕人達と話をしたことですね。

 チェーンをかけてはいましたが、玄関を開けている以上、いつチェーン

 を切られて入り込んでくるか、きがきでなりませんでした。

  最後の捨て台詞が「後でごめんなさいと言わないでくれよな」と言われた

 時は、さすがにびびりました

 そのうち、応援の人が一人来て、食事も落ち着いて食べられるように

 なりました。 

  生活も落ち着き、布団も買い中古のテレビも買って結局、この団地には

 3年ほどいました。

  応援に来てくれた人は当時、60歳を超えていましたが、矍鑠としていて

 やくざの1人や2人はへでもなかったのですが、娘みたいな韓国の女性に

 夢中になっていまして、年金担保で借りた150万円をだまし取られて、

 べそをかいていましたのを覚えています。

       今日はここまでと致します。  では次までのあいだまで。

3日ぶりかな 

2007年09月02日(日) 18時48分
  さて、今日は4回目の占有話です。

 前回は女子寮だったですね。 1年程おりましたが、

 そこを出まして、ある団地の〔マンション〕5階に移りました。

 その家は、ある新興宗教の地方の支部長の家でした。  

 何故、判ったかというと、何百万という祭壇があったからです。

    2、3日後に持ち帰りましたけど。

 後で、判明したことですが、〔これだけは持って行かないで〕と

 債権者に哀願したそうです。

 宗教にそまるのも結構ですが、程々にしないと、の教訓ですか?

   〔ちなみに、この夫婦は、後日、離婚したそうです。〕

  このマンションには半年ほど滞在しましたが、近くには大きな

 公園や川もあり、休日には、ジョギングしたり、散歩や魚釣りを

 していました。〔この頃には、もう殆ど,誰もこなっかたので〕

  滞在中に、地元の人と仲良くなり、その家に遊びに行ったり   

 子供たちに将棋を教えていたりいました。

  その人は、自分より若いのですがあるサークルをひらいていて、
 
 会合にも連れて行ってもらったり、ミニ運動会も開き招待された

 こともありました。

    この夫婦とは今でもたまには、連絡をとっています。

  ここでの半年間は、どちらかというと、極めて、平凡な可も無く、

 不可も無く人間的な生活だったと思います。

  唯、仕事が無くブローカーの運転をして食いつないでいました。

 食事付だったのですが、朝もばらばら、夜の時間もばらばら、ひどい

 時は、ラブホテルの前で、2時間位待つのは日常茶飯事、〔一体、自分は

 何をしているのか 〕と自問自答ばかりでした。

  この仕事も無くなる時が来ました。  私の運命は如何にあらずや?

    では次回まで、ごきげんよう・・・





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