能楽ピクニック22 / 『鉄輪』より 貴船神社を訪ねて 

August 28 [Fri], 2015, 9:00
● 『鉄輪』より 貴船神社を訪ねて


御手洗川でよめる
男のかれがれに成りにける頃、貴布禰に詣でたるに、螢の飛ぶを見て、

もの思へは 沢の螢も わが身より
あくがれいづる 魂(たま)かとぞ見る 和泉式部(いずみしきぶ)

いとしいあのひとが、ほかの女性に思いを寄せて、
思い悩んで貴船神社に詣でてみると、貴船川に螢が舞う。
それはまるであてどなくさまよう私の魂……

すると、和泉式部の歌に社殿の奥から声が聞こえて、
奥山の滝の水が飛び散るほど、深く思いつめることはない……

やがて和泉式部は夫の心を取り戻り、
ここ貴船神社は、恋も実る、縁結びのお社、
めでたし、めでたしって。

ちょっと待って!

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本日の能楽ピクニックは、貴船詣では『鉄輪(かなわ)』のお話。
和泉式部ではないの?なんて、ごめんなさい。
そこはパワースポット。あかき(清らかな)地に伺えば、
私のなかの和泉式部も静かにこうべをもたげるというもの。

とまれ、今日は執心の鬼『鉄輪』の女を招来する
安倍晴明が私。果たして調伏なるのやら。
物語をはじめてまいりましょう。



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夫の心変わりに、むべなく離縁を言い渡され、
日を追うごとに恋心の、つのりにつのる美しき都の女。

ただひとり連夜鞍馬山に徒歩(かち)詣で、
貴船神社に丑の刻参りしては、夫を恨み、
悩み呪う。いまとなっては男の心を
繋ぎとめるすべもなく、こうした自分など
露と消え果ててもいい。今生、あの男にどうか報いを……

さて、貴船神社の社人。夢に見た神託と都の女にこう告げます。

「ご神託が下りました。
もうここへお参りしないでください。
家に帰り、赤い衣を着て、顔に赤い顔料(丹)を塗り、
そのうえ、頭に鉄輪(五徳のこと。
火鉢などで鍋を据える支持具)を
戴いて、その三つ脚に火を灯し、心を怒りにふるわせたなら、
思いのままの鬼となることができます。
さぁ、急いで帰りなさい」

人違いだと言い逃れする女と話すうちに
女の様子が恐ろしくなり、逃げ出す社人。

女が「お告げの通りにやってみよう」とつぶやくか、
つぶやかないかのそのうちに、形相みるみる変化し、
緑の黒髪が逆立ち、暗雲が立ちこめ、雨風激しく、
雷鳴の轟きわたる。雷神をも裂けない仲であったはず、
非道の男に思い知らせよう、思い知らせてやるのだ、と……

一方、前の夫。
悪夢に悩み、都の陰陽師安倍晴明の元を訪ねます。
晴明、男を一見するなり、女の恨みのそれと知り、
お命も今宵あたりあぶない告げて、祈祷します。

身代わりの形代(かたしろ)に、夫の烏帽子に今の妻の鬘を。
そして神の依り代の御幣を祈祷棚に奉り、
祈りをこめてあらゆる神仏を呼びいだす。

すると不思議なことに、稲妻が光り、
雷鳴とともに風雨逆巻き、御幣もざわめいて
どこからともなく、火を灯した鉄輪を頭上に鬼となった女が
打ち杖を持って現れ、祈祷棚に近づきます。

人間とも、嫉妬の鬼とも。深く悲しい、ぎりぎりの心。
髪を乱し、いまにも角のはえ出ずらん、
女はすでに生成(なまなり)の……

「恋に焦れたこの寄る辺なきわが身。
 もし、加茂川に沈んだならば、青き鬼になるという。
 いいえ私は、貴船川の螢火のように
 炎のごとき、赤き鬼となろう。あぁご主人さま、お懐かしい」

なぜお捨てになったの、恨めしい。
捨てられて、そう捨てられて、涙に沈み。
恨み、なじっては、恋しい、恨めしい。
寝ても醒めても思いはめぐりばかり。
今こそ思い知らせてやる。お命頂戴。

「あぁ、なのに。なんとお痛わしい」

とはいえ、長く捨て置かれた恨みのうちに
女は執心の鬼となって、妻の形代の鬘を手にからめ取り、
なんども、なんども打ち据える。さぁ、懲りろ。
さぁさ、懲りろ、思い知れ。

「ことさら、恨めしい夫、不実なひとよ」

いよいよ男の命を奪わんと、形代の烏帽子に近づくと、
御幣にくだり宿った神々が、来るな、出て行けと
責め立てる。悔しい、腹立たしい。いよいよ
悪鬼の神通力も尽き、よろめいて。

折をみて、再びめぐり来ようと声だけとなり、
見えない鬼となって失せた、見えない鬼となって……


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これぇ、どうですか?
和泉式部か、鉄輪の女か。いずれ菩薩か、
生成か、って。女はこわい、おそろしい。
貴船は結び、分かちて変える霊地かや。

さてあなたの螢は、いったいどちらへ?

世の殿方、くれぐれもご用心あれかし。

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<おまけ>
京都の奥座敷・貴船にある「ひろ文」さんは
貴船神社結社の手前にある料理旅館。
今回のお能カフェの課外授業「川床」を体験。


*貴船神社(きふねじんじゃ)
京都屈指の霊地。一歩足を踏み入れるとその神聖なオーラを肌で感じずにいらまれせん。
水の神様を祀る貴船神社。古く和泉式部が祈願し、不和の夫と復縁したという言い伝えから、縁結び、恋愛成就のスポットとして、大人気ですね。
貴船神社は、三社詣といって本宮→奥宮→結社の順に参詣します。
本宮で受け取った結び文にお願いをしたため、結社の結び処で結び文を結べば願いが叶うとされています。効力は恋愛成就だけではく、人と人との縁を結ぶ強いパワーを持っています。
「きふね」は「気生根」とも書き、気の根源であり、水は生命の源。そんな貴船のエネルギーが心を清めてくれます。

能楽ピクニック21 / 紀州道成寺 〜 道成寺縁起絵巻 絵解きを聴く 

September 24 [Thu], 2009, 0:00
●紀州道成寺〜『道成寺縁起絵巻』 絵解き説法を聴く


作りし罪も消えぬべし
作りし罪も消えぬべし
鐘の供養に参らん 
             〜お能「道成寺」より


みなさま、お久しぶりの椛です。
お元気でいらっしゃいましたか。
いろいろなところを経巡ってはまとめてご報告をと思ううちに、
月日も過ぎ、たいへん失礼をいたしておりました。
こんなことでは、いけませんねぇ。

さて、今回のお能カフェは、
おなじみ、お能「道成寺」の次第からご紹介させていただく
紀州道成寺参拝のお能ピクニックです。

お能「道成寺」。
能楽師になるには、誰もがこの門を通らねばならぬ大曲で、
かつ「道成寺もの」と呼ばれる、各伝統芸能の舞台には
役者、舞踏家がこのお寺を訪れ、祈願参拝……

近年、京都の妙満寺から道成寺の二代目の鐘のお里帰り
というようなニュースを拝見した記憶があるなぁと思いつつ
調べてみれば、すでに2004年のこと。

もう5年も前なんですね。

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今回の楽しみは、
はじめて訪なう名刹道成寺のお寺のハードの魅力はもちろんながら、
そのソフト、名物の「道成寺縁起絵巻(現物は重要文化財)」の
ご住職さまによる絵解き説法を
ぜひぜひ拝聴させていただきたくての参詣でした。

このブログの上部の絵が「道成寺絵巻」って!?
いえいえ違いますよ〜
これは、道成寺の釣り鐘まんじゅうについていた絵図です。
あんまりかわいいので掲載しました。
釣り鐘まんじゅうは数あれど、さすがにご当地の、
なかなかしゃれたオマケだと思いませんか。

釣り鐘まんじゅうは参道のお店それぞれの
自家焼だったりするので、味わいが違います。
お能カフェでも三種購入。
このちらしは各店共通のもので、
案内の下部のお店名だけを変えておられる様子です。

松屋本舗は門前前、
道成寺に向かって左手前のお店で
今回のお能カフェスタッフ人気ナンバーワンの味わいでした。
モンドセレクション金賞受賞の「つりがねまんじゅう」には
包装紙がハデで、こちらの松屋本舗はいたって地味。
なのに包装紙を剥ぐと、松屋さんの菓子箱には
ぱっとカラフルな娘道成寺が登場するんです。きゃ。


なかなか奥ゆかしい。

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もといです。
参道から階段へとまいりましょう。

一説によると、お能「道成寺」の見せ場、
乱拍子には、この道成寺の六十二段の階段を上る
真砂(まなご)の荘司(しょうじ)の娘の
山伏を思う執念の登段が元ともいわれ、
(古代よりある呪術的な足使い「反閇(へんばい)」の型ともいわれますが)
いずれにしても、その一歩一歩に思いいれの道成寺参拝。
ちなみにお能では、安珍・清姫という名前では記されていません。
あくまで、山伏と真砂の荘司の娘の物語なんですね。



仁王門からさっと開ける境内の正面本堂に、右手三重塔。
そして、塔の手前に2代目の鐘楼跡、
すぐ横に鐘巻跡地が見えています。

そして安珍と鐘を葬ったとされる塚には
お能「道成寺」の舞台で見る、「柱巻き」のごとき、
とぐろを思わせる榁(むろ)の樹が一方は立ち枯れ、
他方から生木が触手を伸ばし、そのひと群はなにやら
名状しがたい雰囲気をかもしています。

本堂に安置されているのは千手観音像です。
奈良時代のお作で、国内で2番目に古い千手観音さまと聞きます。
お顔がない重要文化財のため、文化財名にも正式には
「面欠」と付記されているのだとか。
いまあるお顔の部分は平成の修理で補われたものです。
この観音さまの北側には33年に一度だけ公開される
秘仏の千手観音像(北向観音)が祀られています。
北向観音の胎内仏として納められていたのが、
本堂に現在安置されている千手観音さまなんですね。

絵解きが拝聴できるのは、境内左奥の講堂です。
日に6〜8度はご説法されるとのこと。
ご説法の前に、宝物殿でご本尊の「千手観音立像」、
脇侍の日光、月光菩薩立像二体に参拝します。
いずれも、9世紀後半の作で国宝。
こちらのお寺は神仏いずれもお祀りしていることもあって、
礼拝も少し他とはちがっています。

ともかく、お堂に居並ぶ仏像群は圧巻です。
イライラ戦争で流出したらしい2、3世紀のガンダーラの仏像まで
収蔵されているのですよ。

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さて、みなさまには絵巻の絵解きというものを
ご覧になられたことはございますか。
絵解きは大変めずらしいもので、
絵巻本来の使用の仕方をここで拝見できるのです。

それはとても興味深く、長い巻物というものの持つ、
アナログ仕様の偉大さを実感できます。
源氏物語絵巻も徳川美術館に拝見しにまいりましたが、
こうした絵解きというめずらしい機会には出会えません。
紐解くというのはこういった感じなのだなぁととても感慨深く…

内容的には縁起絵巻とされながらも、もともと、
文武天皇の皇后の“かみなが姫”こと藤原宮子妃の生誕の伝説にまつわり、
文武天皇の勅願により建立。ただし寺名にもなった
道成卿の不慮の事故などなど…
ほんとうは縁起といえばそういった話なのですが、
道成寺縁起とされながら、内容はほとんど安珍・清姫伝説で、
いかに道成寺がこの伝説で有名になったかということがわかります。

ご住職のユーモアを交えたとても分かりやすい絵解き説法に
聞き入ること20分ほど。ご住職には、
女性がかくもおぞましい姿になってしまうのも
世の男性の働きいかんによるのだと
「西方極楽」を「妻宝極楽」と読み替えて、
ご教訓を賜りました。これは道成寺オリジナルだそうです。なるほど。

椛には、せっかくなので、
道成寺縁起の絵解きDVDを購入(6800円のところ6000円で)。
道成寺絵巻のミニチュアも別立てでゲットです。
別冊太陽の『道成寺』(1992 79号)も古本で購入。


これにて、にわか道成寺通の誕生です。

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このお寺の創建は701年。
お寺のご住職さまのお話では、寺の創建から230年経った、
延長6年のころ、それらしき事件があったのだろう、とのこと。
蟻の熊野詣の美僧に、寡婦とも、娘とも伝えられる女の恋慕嫉妬
そして狂乱、錯乱……。

そうして、安珍が焼き殺されてから
約400年後の正平14年(1359年)に梵鐘が完成……

ときは観阿弥の時代、世阿弥の生まれる4年前。
都でも道成寺の事件や鐘再興の噂を聞きつけただろう観阿弥に
お能「道成寺」の構想にいたる思いつきがありやなしや。
(※お能「道成寺」は作者不詳ではあります。
大掛かりなしかけ演出から観阿弥作という説もあり)

お話では鐘楼を再興しようとしたものの、
その供養の際に清姫の怨霊が現れて法会を妨害し
鐘を落としてしまったという伝説はいかにもお能チック!?
勝手申します。

ちなみに、これらの話を踏まえて
「道成寺もの」のタイプにも二通りあるんですね。

ひとつには、道成寺縁起そのままの
安珍清姫伝説をいわば現在形で扱ったものと、
いまひとつには、安珍清姫亡き後の後日談として、
白拍子に清姫が化生し、またも鐘楼再興に障るというもの。

能楽『道成寺』や歌舞伎『京鹿子娘道成寺』は、後者で、
文楽の『日高川入相花王』(ひだかがわいりあいざくら)は、
清姫本人が登場し、より道成寺縁起オリジナルに近い作品なんです。

ちなみに「安珍清姫の物語」に語られる悲恋は
「法華験記」(11世紀)や「今昔物語」に記されています。

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道成寺のお話には椛が調べただけでもキリがありません。
何が正解ってむずかしい。

すでに絶版ながら
阿部真司さんのご著書『蛇神伝承論序説』の仮説では、
道成寺伝承の伝承構造をイザナミ命、肥長比賣を
大地母神、蛇神であるという仮定の延長線上で、
清姫原像を遡って考える、というような面白いやり方で解説し、
大地母神が、農耕の発達、製鉄技術導入によって
制圧された歴史にまで及んでしまうほど。

こういうお話って、見つめられると石になってしまう
かのメデューサの伝説にも、
もとはといえば豊穣の大地母神だったメデューサが
キリスト教化により邪神とされた仮説が
安田喜憲さんの「大地母神の時代」にも通底していて
とても興味深く思いました。

つまりは、それほどまでに道成寺伝承は深い地下鉱脈で
民族の潜在意識にまで根ざしているからこそ
いつの時代もひとの心を揺さぶるのかもしれません。

それから、最後にもうひとつ注目の事実。
宝暦12年(1762年)に道成寺から南へ数丁の藤田村の田から
西暦200〜300年ごろの弥生時代後期の銅鐸が出土しました。
大宝殿の陳列ケースでそれを拝見できますが、
日本でいま見つかっている一番大きな銅鐸に並ぶほどに
高さが110.6センチもあります。
弥生時代後期中葉(3世紀頃)のものだとか。

ここ道成寺界隈は、
いにしえからカネに祈りを捧げた聖地でもあったのだろう、
とは小野俊成住職のお言葉です。

思うほどに深いですね。

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近年、道成寺の鐘は現在の境内、
「入相桜」の植わっているその位置にあったのではないか、とのこと。
発掘調査と紀伊国名所図会(嘉永四年 1851年)の図示などから
類推されているようです。

入相桜との名称から、
鐘のない道成寺に鐘の音を聴く…
私たちには忘れ去られた遠い記憶ですが、
往時の人々には、能因法師の名歌(古今和歌集)


  ♪山里を春の夕暮れきてみれば
    入相(いりあい)の鐘に花ぞ散りける


に詠まれるように、入相といえばイコール「鐘」と、
ささっと理解できたのかもしれません。

みなさまもぜひ一度、
道成寺
足をお運びくださいね。





*重要文化財「道成寺縁起絵巻」
「道成寺縁起」は安珍清姫物語の原典であるばかりでなく、他分野の芸術に与えた影響の大きさから、日本で最も有名な絵巻の一つになっています。
 安珍清姫の物語は平安初期に成立し「大日本法華験記」や「今昔物語集」に収録された後、応永年間にこの「道成寺縁起」で大成されました。以来、この物語は能楽「道成寺」、歌舞伎「京鹿子娘道成寺」、文楽「日高川入相花王」、琉球組踊「執心鐘入」などの芸能に取り入れられた他、上田秋成「雨月物語」、三島由紀夫「近代能楽集−道成寺−」などの文学作品や、小林古径、鏑木清方などの絵画の題材にもなりました。

*銅鐸(どうたく) 弥生時代の青銅器の一。扁円(へんえん)形の釣鐘形をしたベルで、高さ20〜150センチ、上部に半円形のつまみと両側に鰭(ひれ)をもつ。中に吊り下げた棒(舌(ぜつ))と触れ合って実際に鳴るベルから、装飾過多の見るベルに変質。表面に原始絵画や文様を施されている。近畿を中心に四国・中国・中部地方にかけて出土。農耕祭器であったと考えられています。


*おすすめの本
大地母神の時代 安田喜憲著 角川書店
蛇神伝承論序説―清姫の原像を求めて 阿部真司著 新泉社
道成寺―大蛇になった乙女 (能の絵本)  片山清司著 BL出版
蛇―日本の蛇信仰 吉野裕子著 講談社
宗像教授異考録 5 (ビッグコミックススペシャル)  星野之宣著 小学館
かみながひめ (むかしむかし絵本 27)  有吉佐和子著 ポプラ社






*おすすめの『道成寺』関連催事&舞台

10/2(金)開催
おいしい秋の『道成寺』対談
片山清司さんと作家玉岡かおるさんの対談をお食事付で楽しめます。
参加費:6000円
詳しくはこちら

10/25(日)開催
古都京都で見たい『道成寺』
第51回京都観世能でおシテは大江又三郎さん。
S席13,000円 A席10,000円 B席6,000円 学生席3,500円
詳しくはこちら

11/29(日)開催
宗家で鑑賞する『道成寺』
観世清和さんおシテの「道成寺」笛:斉藤敦
「鷺」シテ:梅若玄祥 笛:野口亮 「景清 松門之会釈」シテ:大槻文蔵 笛:野口傳之輔
全席指定 S席:18,000円 A席:15,000円 B席:12,000円
詳しくはこちら

11/14(土)開催in名古屋
道成寺縁起絵解き説法も聴ける『道成寺』
金春流の道成寺。おシテは本田光洋さん。
全席指定 正面席:10,000円 脇・中正面席:8,000円(車いす席含む)
詳しくはこちら

きものでお能 9 / 千鳥文様 

August 21 [Fri], 2009, 0:00
●きものでお能 9
小袖曽我(こそでそが)で語る
千鳥(ちどり)文様


千鳥といえば、
ぷっくり太っちょさんの愛嬌がある千鳥がポピュラーですね。
これは余談ながら、近頃、わたくし椛の携帯の待受も千鳥なんですよ〜

空を飛ぶというよりも
ゆらゆら、すいすいと泳いでいるような姿が
癒し系で、なんだかまったりとした気持ちにさせてくれます。

かき氷屋さんののぼりや
夏のゆかたの柄に千鳥はよく描かれていますね。

「千鳥」そのものは〈冬の季語〉なので、
暑い季節に清涼感を演出できてしまうのかもしれません。

もともと千鳥は水辺や海辺に見られるの小さな鳥の総称で、
群れをなして飛ぶ姿や遊ぶさまから、
千鳥と呼ばれるようになったといわれています。

平安時代になると、
正倉院や法隆寺の宝蔵などにみられる文様のように
渡来の大陸的文化への心酔から
日本的な情緒のある文様への関心が高まり、
松、紅葉、秋草、千鳥、鶴、雀などの身近なものが取り上げられ、
また、流水や風に揺れる草などの動きが描かれるなど、
モチーフの和様化と絵画的な表現が生まれました。

当時の蒔絵や染織品には、
それらを写実的に描くものが多かったようです。

きっとみなさまにはご存知の、観世流の謡本の表紙は、
黒地に金で「観世千鳥」が描かれています。

この千鳥。
室町時代から観世家の模様だそうですよ。

千鳥がふっくらと描かれるようなったのは
江戸時代になってからのこと。
それから次第に単純化され、デフォルメされ、
おなじみのユーモラスな意匠へと変化してゆきました。

千鳥と波を組み合わせてアレンジした
「浜千鳥」(「波に千鳥」)のデザインはおなじみですね。

千鳥の意匠化を究極的に推し進めて
図案化した「千鳥格子」もよく知られています。

千利休が好んだという裂地(きれじ)に
「利休間道(りきゅうかんとう)」と呼ばれる千鳥格子、
飛騨地方にある木組みの伝統技術にも
千鳥格子と呼ばれるものがあります。


それでは、お話がそれてしまわないうちに……

千鳥といえば、曽我十郎祐成(すけなり)。
ちなみに曽我五郎時致(ときむね)は蝶の紋です。
死に装束に身を包んだ兄弟の直垂の模様として
絵巻などに描かれるなどしています。

お能では、腰帯の文様に。

曽我兄弟の物語は、日本三大仇討ちのひとつ。

父・河津三郎祐泰(すけやす)の仇にして
源頼朝の寵臣 工藤祐経(すねつけ)が
頼朝が行った富士の裾野の巻狩に参加した折
曽我兄弟は仇討ちを果たしますが、この仇討ちにより
兄・十郎祐成22歳、弟・五郎時致20歳という若さで非業の死を遂げます。

その悲劇の物語は様々な角度から編まれますが、
それらは哀れを誘うばかりではなく、
華々しく勇ましい伝説の物語としても語られます。

いまなお、お能はもちろん、
歌舞伎、文楽など、「曽我物(そがもの)」と呼ばれる
一連の作品は、広く長く人々に愛されていますね。

さて、お能「小袖曽我」では、
シテは直面(ひためん)で登場。
侍烏帽子、掛直垂(かけひたたれ)、
厚板(あついた)、白大口(しろおおくち)、腰帯、
小刀(ちいさがたな)に、神扇(かみおうぎ)、弓矢。

父の仇討ちを決意した曽我兄弟。
仇討ちの前に、出家せよとの母の言いつけを破り、
勘当されていた弟・五郎時致の勘当を解いてもらい、
母に暇乞(いとまご)いをする場面がクローズアップ。

兄弟を許す母の、ともに涙の和解を思えば
やがて、仇討ちへと向かう出立の、
今生の別れの盃ともいえるシーンが強く心に刻まれます。

兄弟が舞う名残の男舞(相舞)は、勇姿颯爽。


三つ四つ、二つみつ。
波頭を越えてゆく千鳥……

人生の荒波に揉まれた
曽我兄弟の俤へと、
しばし思いを馳せてみます。




*千利休 戦国・安土桃山時代の茶人(1522〜1591)。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すという「わび茶(草庵の茶)」を大成しました。

*裂地(きれじ) 織物。反物。茶道において裂地が使われているものは、書画の表装、茶器の仕服、道具類の袋裂や帛紗などになりますです。

*利休間道(かんとう) 名物裂(ぎれ)のひとつ。縹(はなだ)と浅葱(あさぎ)の細やかな千鳥格子。間道とは縞、格子柄の総称。

*千鳥格子 岐阜県飛騨地方には350年以上前に考案された千鳥格子という伝統的な木組みの技術があります。別名をきつね格子・本捻組ともいいます。

*巻狩 中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)の一種である。鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟です。

*日本三大仇討ち 曽我兄弟の仇討ち、荒木又右衛門の伊賀越鍵屋の辻の決闘、赤穂浪士で知られる忠臣蔵です。

*河津三郎祐泰(すけやす) 平安時代末期の武将(〜1176)。相撲が非常に強く、決まり手四十八手にもある「河津掛」は彼が考案した技だと言われています。

*小袖曽我(こそでそが) 謡曲。四番目物。曽我兄弟が、工藤祐経(くどうすけつね)を討つに際して母にいとまごいに行き、兄祐成(すけなり)の取りなしで弟時致(ときむね)の勘当を許してもらう。
「小袖曽我」という演目ですが、曲中に小袖のことは一言も扱われていません。原型の「曽我物語」には、小袖乞(ご)いのくだりあがるので、初めは小袖の段があったものであろうが、改編されて小袖が行方不明となったのかしら……とミステリアス。ちなみにワキが出てこないのも点も、異色の能だそうです。(兄弟が曽我姓になったのは母が再婚したためです!)
また、喜多流の小書「物着」がつくと、門出の祝いに母から小袖をもらい、それを着て兄弟が舞を舞うそうです。

*工藤祐経(すねつけ) 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将(〜1193)。伊豆国の藤姓狩野氏の一族。鎌倉幕府の御家人。歌舞音曲に通じ教養のあり、静御前が鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を行ったときに、鼓を打ったそうです。

*曾我物 「曽我物語」、「吾妻鏡」を典拠とし、曾我兄弟の敵討ちを題材にする作品。「調伏曽我」、「夜討曽我」、「禅師曽我」などがあります。

*直面(ひためん) 面を着けずに素顔であること。顔も面のひとつとされています。喜怒哀楽など顔の表情はあらわにされることはありません。

*侍烏帽子 烏帽子は男性の一般的な被り物の一種。武士、戦闘用。翁の番組のときには、囃子、地謡、後見は侍烏帽子をつけていますね。

*掛直垂(かけひたたれ) 装束の直垂(ひたたれ)に白大口をつけるやや身分の軽い武士の礼装になります。

*小刀(ちいさがたな) 近世、武士が登城の際に用いた、柄糸(つかいと)を巻いた鐔(つば)つきの短刀。殿中差し。小刀(しょうとう)。

*神扇 表には桜花爛漫のもと集う四人の老人は商山四皓(しょうざんしこう)と呼ばれ長寿を表わす目出たい図柄。裏面は桐鳳凰(きりほうおう)が描かれています。

*暇乞(いとまご)い 別れを告げること。別れの言葉。

*男舞 直面の男が舞う勇壮な舞。また、そのときの囃子。

*相舞 二人以上が同じ型で一緒に舞うこと。連れ舞。

「日食」なお能!?『日觸詣(ひむれもうで)』ってご存知? 

July 27 [Mon], 2009, 0:00
●「日食」なお能!?『日觸詣(ひむれもうで)』ってご存知?


こんにちは、椛です。
長らくご無沙汰いたしておりました。

この間、いろいろのことで、明日香村、
近江八幡、そして日本海の間人(たいざ)へと
経巡って、たくさんの遠回りをしつつ、
やっとお能カフェに帰ってまいりました。

お話したいことは数あれど…この時期なかなかの繁忙で、
筆がとまって失礼をいたしておりました。

まずは近江八幡、日牟禮八幡宮の能舞台、そして
お能『日觸詣(ひむれもうで)』をご紹介したいと思います。

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さて。さる2009年7月22日水曜日。
今世紀最長の6分を超える皆既日食が
日本国内で46年ぶりに観測されましたね!

みなさんは空を見上げられましたか。

椛もニュースを通して、インド、中国、そして日本…と
真っ暗闇につつまれる映像を目撃させていただき、
画面を通してのことなのに、ゾクゾクと鳥肌が立ちました。

皆既日食って天照大神の岩戸隠れの瞬間のようですねー。
あれほどの漆黒の闇に包まれれば神話も生まれるはずというもの。

まさに常闇です。

一説には天照大神が卑弥呼そのひとであったとともいわれ、
現代の科学では、卑弥呼がみまかられただろう前後の年に
日食が起こっていたらしい、ということですが、
インドのヒンズー教徒が悪魔のしわざと恐れる日食の闇に包まれ、
再び、岩戸開きな閃光がさした瞬間を捕らえたニュース映像から
あふれる人々の祈りの後の、歓喜の表情とその歓声が、
日食に遭遇する太古の人々の畏れをうつす思いがして
なんだか感激いたしました。

今回ご紹介させていただくのは、
この時期、たまたま手に入れた
『日觸詣(ひむれもうで)』なる曲です。

近江八幡の地に4世紀のその昔、誉田別尊(ほんたわけのみこと)こと、
応神天皇(神功皇后の息子さん)がふたつの日輪を見た、という縁起から
明治に創作されたお能だそうです。

明治33年、日牟礼神社の能舞台改築竣工にあたり、
八幡商人で西川伝右衛門家の十代当主、八幡銀行の設立者にして、
数々の産業振興に貢献された業績も輝かしい西川貞二郎氏の志で、
当時の京都の観世流能楽師林喜右衛門氏に依頼され、ものされました。

国立図書館のデジタル本、巻末には
西川貞二郎氏のあとがきが次のようにそえられています。

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吾ひむれ(ひ牟礼)の 神のいませる日觸の宮にことひ
神慮を慰め奉らむと 能楽堂を建しにつけて 
新に一曲を作りて 大神の積威を 世に志らしめむと
京都の識者に乞い 曲節拍子わさをき(演戯)は 
其筋の人々にものさせて一綴とはなしぬ 
神もあはれとみそなわし給ふらむ可し

明治三十二年十一月 従七位 西川貞二郎


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デジタル本を紐解いて、いまさらながら、

日牟礼→日群(ひむれ)→日觸(日触)、つまり日蝕(食)?

応神天皇がご覧になった「ふたつの日輪」って
ダイヤモンドリングか、金環日食か!?
などと想いをめぐらせて、こんな折にタイムリーなご縁を頂戴するのも
能楽の神様のおぼしめし!?かと、この機にぜひ
お能カフェでもご紹介させていただくことにいたしました。

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『日觸詣(ひむれもうで)』は、
平成5年7月の薪能までほぼ93年間眠っていた曲です。
明治の知性に裏打ちされたすばらしい曲ながら、
日牟礼神社の薪能が途絶えたいま、
再び演じられる機会もなくお蔵入りになろうとしています。


◎『日觸詣(ひむれもうで)』の詞章はこちら
<国立図書館デジタルアーカイブ>

※無料で閲覧できます。

以下は変体仮名に挑戦して、清書した詞章です。

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●日觸詣(ひむれもうで)

明治32年11月15日出版
著作者:林喜右衛門
発行者:西川貞二郎

次第「滋賀の湖底清く。滋賀の湖底清く治る国ぞ久しき ワキ詞「そもそも是は豊前の国宇佐八幡宮の神職にて候。我この程は京都(ミヤコ)に候ひしが。一夜(アルヨ)ふしぎの霊夢を蒙りて候程に。今日江州日觸の宮へ参詣せばやと存じ候 「時なれや。吹く春風も長閑にて。吹く春風も長閑にて。霞わたれる粟津のの。なみ木の松の末遠き。勢田の長はし長き日の。影もる山城打越てやすの川波やすらけき。御代にあふみの色もしるき八幡の里に著にけり八幡の里に著にけり。 ワキ詞「急候程に。是は早八幡の里に著て候。是より直(スグ)に日觸の宮へ参らふずるにて候。 一セイ女二人「此の春も。同じ色香に咲出て。むかしゆかしき。山桜 ツレ「尋てここにけふこずは。 二人「明日は木陰の。雪ならし サシ「萬代呼(よば)ふ山彦の。声もかすめる廣前に。 二人「飛交ふ鳩の羽風にも。心おかるる美盛(みさかり)の。中に殊なる一本(ひともと)の。浅黄ざくらの。浅からぬ。恩頼(ミタマノフユ)を祈るなり 

猿の御門のあけくれに。はこぶ歩みぞたえ間なき さかへゆく。峯の美榊(みさかき)取どりに。峯の美榊とりどりに。つらぬる袖のいろはえて。賑はふ春の花ごころ。うきたつちりにまじはるも。とがめはあらじ。梓弓春の光も和らぐる。神の誓ひをゆふだすき花の上にもかけてみん花の上にもかけてみん ワキ詞「いかに是なる女性に尋ね申べき事の候 シテ詞「何事にて候ぞ ワキ「是は豊前の国宇佐の宮の神職にて候が。霊夢によりて始て参詣仕り候ところ。聞しにまされる御宮造り。誠に有難ふこそ候へ。ねがはくは當社の御いはれつばらに承りたく候 シテ「われらもくわしくは存ぜず候へども。聞伝へたるあらまし語り申候べし。そもそも當社はむかしより。此の山にしづまりまして比牟禮(ヒムレ)の八幡宮とたたへたり。寛弘の比ほひ臨時の御(ミ)祭をも行はせたまひ。かしこき御あたりにも御崇(ソウ)信(シン)ありて。霊験いちじるき御神にて候なり ワキ「又山つづきのここかしこに。御(ミ)社の見えて候は。いかなる神にて候ぞ 
シテ「あれこそくれはとりあやはとりの社にて候なれ ワキ「それはいにしへ軽嶋(カルジマ)の明(アキラ)の宮の御宇に名を得し工女にはあらざるか シテ「仰(おほせ)の如くその時に。服従(マツロヒ)し国の王(コキシ)より。おくりし二人の工女なりしが。めでたき御衣を織そめて。たくみの業(ワザ)を皇(スメ)国に。伝へし功(イサヲ)を称へつつ。神をいつきて後の世に。くれはとりあやはとりの社とは申候なり。 ワキ「思ひよらずやしき嶋の。やまとにはあらぬから国の。しかもその身は女なるに。すめら御国の神としも。まつられ給ふかしこさよ。
シテ詞「是もその世の御めぐみ。いはんも中々おろかなり。 ワキ「さてもゆかしき御身の風情。いかなる人にてましますぞ シテ「是は間近き里人なるが。常に此の山の景色をめでて。織ぬふ手業のいとまには。かならずここに参り候。ましてやけふは此の花の。陰に心のあこがれて。歸らん事もおもほえず 上歌「久方のひかり長閑き日觸山。ひかり長閑き日觸山。心づくしの海こえて遥々ここに詣で来し。そのまれ人の仕ふるも。思へばひとつ神垣の。隔てもあらず語らひて旅路のうさを。わすれたや旅路のうさをわすれたや 地クリ「それ此の八幡の里は應神天皇近江行幸の昔を仰ぎて。造り初にし御宮居 サシ「世々にさかえていつしかも。この里の名におふまでになりたるなり

然るに天皇は日觸の臣の御女(ムスメ)。矢河枝比賣(ヤカワエヒメ)を娶(メ)したまひ。あれましし皇子をば莵道稚郎(ウヂノワキイラツ)子(コ)と申しが。 シテ「聰明叡智に。ましまして。天皇の御鍾愛(ゴセウアイ)浅からずおはしける クセ「さる程に百済より。漢籍(カラブミ)をささげ博士をも奉りければ天皇。此の皇子(ミコ)に伝えて。経学(ケイガク)をすすめ工藝を。はげまさせ給ひしかば。高きも賎しきも皆その徳を蒙りぬ。是ぞ我国に文物のひらけし始(はじめ)なる シテ「神代ながらの道をうけ。人の心をやわらげて。めぐみを四方(よも)にしきしまの。やまと嶋ねの中にしも。近江の湊八十(ヤソ)有りて八十(ヤソ)隈(グマ)ならずなりはひの。ひらけひれふし君が代に国とみ家栄へて。民草のしげるも此の神の御かげなるらん 地ロンギ「遠きむかしのものがたり。遠きむかしのものがたり。余波(ナゴリ)はつきぬ花の陰いざ立ちつられ歸るべし シテ「かへるやいづこ白雲の。はしのあたりの青柳の 地「いとうちはれて長き日も シテ「をしめど今は 地「くれはとり。あやしみ給ふなまれ人と。いひ捨て夕ばへの花にまぎれてうせにけり。花にまぎれてうせにけり 

ワキ「近江のや。津田の細江のさざら波。津田の細江のさざら波。かけて思へばかしこしや。かかる奇特にあふことも。深きゆかりの故ならんと。感涙袖を。うるほせり感涙袖をうるほせり 後シテ「佐保姫の柳さくらをあやなして。霞の衣を織機は。春の手向の唐錦。あかき心やにほふらん。此の山つみの神遊び 地「千木(チキ)高き。宮居の杜(もり)の木の間より。かがよふかずのともし火に シテ「三上の山檜(ヒスギ)の山も見へわたり。峰づたひする入相の。鐘のひびきに。さそはれて 地「岩ア遠くたつかりの。声もほのかに。きこゆなり 地ロンギ「衣笠山の雲きえて。ひかりくまなくさす月に鏡の山もうつるらん シテ「豊浦(トヨラ)に歸る釣舟のかげおもしろき浪のうへに。遠景山(エンケイザン)もあらはれたり 地「豊年祝ふ シテ「諸人の 地「あふぐも高し シテ「日觸やま 地「底つ岩根の宮ばしら。ふとし(太敷)くたてる君が代の。常磐かきは(堅磐)に御さかへませと。ほぎ言の声もどよ(響)みて神徳は千代萬代に。てりかかやきて。あらたなるてりかかやきてあらたなる

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最後に金環日食の木陰降る日群れな画像をどうぞ!

影まで丸くてかわいいのです。
こうしてみると、
ファンタジーは現実のなかにこそ立ち現れる
……そんな気がしてなりません。




*間人(たいざ)京都府京丹後市(旧丹後町)にある地「間人(たいざ)」は、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)に因むものと伝えられています。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて、丹後の地に身を寄せ、都に戻る際に自分の名を贈りますが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、皇后が(その地を)「退座した」ことに因み「たいざ」と読むことにしたという言い伝えがあります。ただし、記紀などには穴穂部間人皇女が丹後に避難したとの記述は載っていません。

*岩戸隠れ(いわとがくれ)天照大神(あまてらすおおみかみ)が、弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴を怒って天(あま)の岩屋戸に隠れたため、天地が真っ暗になり昼がなくなったという神話。困りはてた神々が、祝詞や舞などで大神を招き出すと天地は再び明るくなったといわれます。後半を「岩戸開き」といい、合わせて「天の岩屋戸神話」を構成しています。

*天照大神 記紀神話の神。女神。伊弉諾尊(いざなきのみこと)の子。太陽の神格化。皇室の祖神。伊勢の皇大神宮に主神としてまつられています。天照神(あまてるかみ)。大日尊(おおひるめのみこと)。大日貴(おおひるめのむち)。

*卑弥呼 「三国志」魏書東夷伝倭の条(いわゆる「魏志倭人伝」)によって知られる邪馬台国の女王。三世紀、倭国の大乱の中で各地の政治集団によって共立され、これらを呪術的能力によって統率したといわれますが、司祭者としての性格が強く、その王権は不安定であったといわれます。239 年、魏に使いして「親魏倭王」の称号と金印紫綬とを賜っ
たといわれています。

*応神天皇 記紀の所伝の第一五代天皇誉田別命(ほんだわけのみこと)の漢風諡号(しごう 貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名。贈り名)。仲哀天皇の皇子。母は神功皇后。この時期、朝鮮・中国から渡来して技術を移入する者が多く、大和朝廷の勢力が大いに発展しました。「宋書」の倭王讃をこの天皇にあてる説があります。

*神功皇后(じんぐうこうごう) 記紀所伝の仲哀天皇の皇后。気長足姫(息長帯比売)(おきながたらしひめ)の漢風諡号(しごう)。天皇の死後、新羅(しらぎ)に出陣、凱旋(がいせん)ののち筑紫の地で応神天皇を出産、69 年間摂政をつとめ
たといわれます。「播磨風土記」などでは大帯姫(おおたらしひめ)とも。

●詞章内容の参考情報

*ひむれの謂れ 六九一年、持統天皇の命により、藤原不比等が詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われています。
♪天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜になびく白雲

*豊前(ぶぜん)旧国名の一。現在の福岡県東部から大分県北部。

*宇佐神宮 大分県宇佐市にある神社。豊前国一の宮。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・大帯姫命(おおたらしひめのみこと)(神功皇后)および比売神(ひめかみ)。奈良時代から朝廷の崇敬があつく中世以降は武家の信仰をも受けた。全国八幡宮の総本社。宇佐八幡宮。

*江州(ごうしゅう)近江(おうみ)国の異称。

*粟津(あわず)粟津原(あわずがはら)大津市の琵琶湖に臨む松原。近江八景の一「粟津の晴嵐(せいらん)」は、晴天時に山風がここを吹き渡る光景をいった。木曾義仲討ち死にの地。

*瀬田の長橋 瀬田の唐橋(からはし)の異称。

*山城(やましろ)旧国名の一。五畿に属し、現在の京都府南東部にあたる。古くは「山背」と書いた。城州。

*野洲(やす)滋賀県中南部、野洲川が琵琶湖に注ぐ下流北岸にある市。近江富士と呼ばれる三上山がある。平成16年(2004)中主(ちゅうず)町、野洲町が合併して成立。人口4.9万。

*三上山 滋賀県南部の野洲(やす)市にある山。標高432メートル。俵藤太(たわらとうた)の大百足(むかで)退治の伝説がある。近江富士(おうみふじ)。

「打出て 三上の山をながむれば 雪こそなかれ ふじのあけぼの」 (紫式部が大津打出の浜に立って詠む)

*廣前(ひろまえ)神の前を敬っていう語。神の御前。また、神社の前庭。

*恩頼(みたまのふゆ おんらい)《「ふゆ」は「振(ふ)ゆ」または「殖(ふ)ゆ」の意という》神または天皇を敬って、その威力・恩恵・加護をいう語。

*寛弘(かんこう)平安中期、一条・三条天皇の時の年号。1004年7月20日〜1012年12月25日。

*くれはとり(呉織) 上代(古代)、漢織(あやはとり)とともに中国の呉(ご)の国から渡来したと伝えられる織工。

*軽嶋明宮(かるじまのあきらのみや)古事記には、品陀和気命(応神天皇)、軽嶋の明宮に坐しまして、天の下を治らしめしき」と記されています。現在の橿原市大軽町辺り。

*しき嶋(敷島の)大和にかかる枕詞。日本国の異称。

*すめら 接頭語。天皇に関する事柄を表す語に付いて、敬意をこめてほめたたえる意を表します。すべら。

*なにおう(名に負う)名に、その実体を伴う。また、その名とともに評判されること。

*矢河枝比賣(やかわえひめ) 『日本書紀』では宮主宅媛と記され、『古事記』では宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえひめ)とされています。 和珥日触使主(わにひむれのおみ 和珥臣の祖)の娘。
応神天皇の妃で、皇太子菟道稚郎子皇子(うじのいらつこ)・八田皇女(仁徳天皇の皇后)・雌鳥皇女の母。

*菟道稚郎子皇子(うじのいらつこ) 応神(おうじん)天皇の皇太子。母は和珥臣(わにのおみ)の祖日触使主(ひふれのおみ)の女宮主宅媛(むすめみやぬしやかひめ)(『古事記』では矢河枝比売(やかわえひめ))。百済(くだら)から来朝した阿直岐(あちき)、ついで渡来した王仁(わに)についてもろもろの典籍を学び、通達せざるなしといわれました。天皇は長子大山守命(おおやまもりのみこと)、中子大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)よりも弟の菟道を愛し、後嗣(こうし)にしようとしましたが、天皇の崩後、菟道は大鷦鷯に位を譲ろうとし、互いに譲り合い、その間、位をねらう大山守を大鷦鷯が殺します。菟道は自殺して大鷦鷯に譲ったため、大鷦鷯が仁徳(にんとく)天皇として即位しました。

*漢籍(からぶみ)
中国の書物。中国人によって書かれた漢文形態の書物。漢書。からぶみ。

*四方(よも)東西南北、また、前後左右の四つの方向。しほう。あちらこちら。また、いたる所。

*近江の湊八十(やそ)有りて 近江は九十九浦、 また八十湊とも数えられた物流の要所でもあり、風光を愛でる名所でもありました。

*八十隈(やそぐま)多くの曲がり角。
万葉集に「近江道の 逢坂山(あふさかやま)に手向して 我が越行けば 樂波(さざなみ)の 志賀唐崎(しがのからさき) 幸くあらば 復(また)返り見む 道隈(みちのくま) 八十隈(やそくまごと)に 嘆きつつ 我が過行けば 彌遠(いやとほ)に 里離來(さとざかりき)ぬ 彌高(いやたか)に 山も越來ぬ…」

*民草(たみくさ) 人民を草にたとえた語。あおひとぐさ。

*津田の細江 「近江山河抄」で、万葉の故地 奥島山は次のように紹介されています。
「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう。…… 近江八幡のはずれに日牟礼(ひむれ)八幡宮が建っている。その山の麓を東に廻って行くと、やがて葦が一面に生えた入江が現われる。歌枕で有名な「津田の細江」で、その向うに長命寺につらなる山並みが見渡され、葦の間に白鷺が群れている景色は、桃山時代の障壁画を見るように美しい。最近は干拓がすすんで、当時の趣はいく分失われたが、それでも水郷の気分は残っており、近江だけでなく、日本の中でもこんなにきめの細かい景色は珍しいと思う」

*あかきこころ(明き心)(連語)〔補説〕 「赤心(せきしん)」を訓読した語か。偽りのない心。朝廷に対する忠誠心をいいます。

*岩崎(岩崎山)余呉町

*豊浦(とゆら)湖西安土町

*底つ岩根 神話や祝詞(のりと)によく出てくる決まり文句に、「底つ岩根に宮柱太(ふと)知り(太く立てるの意)、高天の原に氷木高(ひぎたか)知り」「底つ岩根に宮柱太しく立て高天原に千木高知り」という表現があります。

*おすすめの本
「近江山河抄」 白洲正子



能楽ピクニック20 / 波の底にも都ありとは〜壇ノ浦の地を訪ねて 

June 22 [Mon], 2009, 0:00
●壇ノ浦合戦の地を訪ねて 門司(福岡)〜赤間(山口)
 

関門海峡に行ってまいりました。関門とは、
山口・下関の古称「馬関(ばかん)※赤間関(あかまがせき)とも」と
福岡・門司(もじ)の、それぞれ1字からつけられています。

平家物語を典拠とするお能は
現行作品240曲中30曲をほどと言われており、
源氏物語を典拠とする能が約10曲であることに比べてみても、
いかに平家物語が能作に影響を与えているかがわかりますね。

さて。

ここはいわずと知れた源平合戦(治承寿永の乱)の
最期の合戦となった「壇ノ浦の戦い」の古戦場。

1180年5月、以仁王(もちひとおう)の令旨を受けた
頼政の挙兵にはじまる6年におよぶ大規模な内乱が終焉し、
平家一門が果てた西海の地です。

<
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本州と九州を分かち、関門橋のかかる最狭部は潮の流れが激しく
早鞆瀬戸(はやとものせと)と呼ばれ、その幅およそ650メートル。

吾妻鏡には、源氏の船800艘、平家が500艘。
船数数千を記録する歴史書もあるなどして、
真実は闇ですが、虚空を過ぎる潮風とともに
今なお幾千の兵(つわもの)たちの鬨の声が聞こえてくるような……

海岸沿いに建てられた電光掲示板にはこの日、
「W 1 ↑」の表示が光っていました。
W。つまり、West「西流れ」を意味し、
周防灘から響灘、玄界灘への潮流が
最狭部の早鞆瀬戸を時速1ノットで流れが進み、かつ、
これからももっと早くなりますの矢印が上向き「↑」。

関門海峡は日に4回潮の流れの向きが変わり、
こちらの電光掲示板では最大13ノットの表示が可能。
1ノットは1時間に1海里、
およそ1852メートル進む速度のことなので、
13ノットだと1時間におよそ24キロ潮が流れる計算です。

近年の研究では壇ノ浦の戦いのこの日
元暦2年(1185)3月24日(現在の暦では1185年5月2日)は
小潮だったと推定されているとか。

海上1000艘が入り乱れるには、
どうみても早鞆瀬戸では狭い。
ここから少し東の周防灘に開いた海上で
舳先を出会わせたと見るほうがリアリティあります。
教経に追われての義経の八艘飛武勇伝も
流れが遅く押し合いへし合う船数千ならありえますよね。

お話はこうです。

義経によって四国を追われ、
中国・北九州の沿岸陸地を源氏の範頼軍に制圧されている平家軍は
関門海峡で乾坤一擲(けんこんいってき)の大戦に
打って出るしか策はありませんでした。

玄界灘は彦島に平家一の知将 平知盛を
実質的な総指揮官とする平家の船団が陣し、
彦島を出帆して後、門司側の田ノ浦に集結。
義経の船団は旧暦3月23日早朝に関門海峡の東、
満珠島・干珠島の海域に到達します。

3月24日の早朝、
いよいよ源平の命運を決する戦いの火蓋が切られました。

「命は惜しむな。名を惜しめ」の大音声を上げる知盛。

赤旗を翻す平家、白旗の源氏。両軍はげしい矢合せが始ると
次第に平家が源氏軍を圧倒しはじめ、
午前8時過ぎ、東に流れ始めた潮流にのって
源氏軍を満珠・干珠島に追いつめます。

源氏の軍船は陣形を割かれ防戦一方。
このとき、義経はかねてから考えていた戦法に打って出ます。
義経の奇襲。その方法は当時の戦いの流儀を破る奇抜なものでした。
討ってはならない水夫と船頭を討つ。
掟破りの戦法を前になす術もなく
平家の船は漕ぎ手を失い漂います。

折から潮流は東から西へと流れを変え、
源氏が攻勢を強め、
さらには平家の勢力が源氏方に寝返り……

「見るべき程の事は見つ、いまは、自害せん」

知盛、伝説の最期の瞬間。
追って、二位尼(清盛の妻・時子)は、三種の神器を携え
安徳天皇を抱いて入水します。


♪今ぞ知る 御裳裾川の御流れ 波の底にも都ありとは 〜 二位尼辞世


後に京に送還され大原寂光院で隠棲生活を送ることになる
国母 建礼門院徳子も海へ身を投じ、
次々に平家の武将、女官は波間に消えてゆきました。

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私椛は、門司港から
山口側の対岸赤間の関へ高速船(360円)で向かい
戻りはみもすそ川公園に入口のある
関門橋人道トンネルを徒歩(無料)にて戻り、
古城山の麓にある、平家が出陣前夜に酒宴を催したといわれる
和布刈神社へ詣でました。
対岸にはみもすそ川公園を麓に火の山を見晴るかします。

赤間の関側では、当時、明治の神仏分離令の発布まで
この地の地名にいまだのこる阿弥陀寺といわれた、
安徳天皇の御陵が祀られた赤間宮参詣。
菊の御紋が彫られた御陵扉は皇室関係者が見えた折にだけ
開扉されるそうです。
全国に安徳天皇を祀る地所は40ほどあるともいわれ、
こちらは明治天皇の勅定がくだった御陵です。


幼帝が海の底の都に着かれ、
それで赤間神宮は竜宮造りになっています。

境内隅には耳なし芳一堂が平家公達の墓とともにひっそり佇みます。
赤間神宮では5月、先帝祭という花魁道中があり、
その由来は生き残った平家の女官がこの地で
遊女となって平家の菩提を弔い続けた逸話によるのだとか。

平家蟹も社務所に展示されていました。

みもすそ川公園には2004年のNHK大河ドラマ「義経」の折に
竣工された碇かづきの知盛と義経の銅像があります。
タッキー来訪の手形もくっきり。


ここで遭遇させていただいたのが
地元ボランティアの方の紙芝居自転車です。
NPO青少年共育活動協会による『歴史体感☆紙芝居』。
紙芝居の種類には何篇かあるとのことですが、
この日は「源平壇之浦の合戦」。

語りは藪下さん。

時代装束に身を包み、ジョークを交えて、はじめてのひとにも
ほんとうに分かりやすい語りと解説で魅了されます。
語りの中で二位尼の辞世を歌われたのですが、
その歌の上手さは鳥肌が立つほどでした。

聞けば、青年時代に奈良山の辺の道で
万葉研究家の犬養孝先生の一行に出会い、
万葉句碑を歌われる犬養先生の歌に魂をつかまれて
その記憶がいまのボランティアにつながっているとのこと。
藪下さんの歌は、日本の和歌の心そのものの遺伝子を
いまに受け継ぐ敷島の道に思えました。

お土産に関門海峡絵葉書を頂戴して、
関門橋での思い出がいっそう深いものに。

人道トンネルを抜けて、和布刈神社は
福岡県の無形民俗文化財「和布刈神事」に有名な社です。
潮が引くと海上に屹立する石燈籠のもとに
階を降りていけるのだとか…
松明を翳して和布刈を刈る旧暦元旦早朝の神事。
昔は「神事を見ると目がつぶれる」と言われ、
神罰を恐れて拝観する者はありませんでしたが、
戦後から拝観は解禁されています。


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門司港はいまレトロな街並みの観光整備がなされ、
駅舎も繁栄を誇った往時の香りそのままに。
帰りはピクニックの思い出に
昭和レトロなハイカラメニュー名物「焼カレー」を賞味。
チーズたっぷりでドリアな感じが◎。
ラッシーとともに頂戴しました。
お店は駅舎前の『BEAR FRUITS』



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今回の能楽ピクニック。
書ききれないことがたくさんあります。
関門海峡の潮流は遠く記紀の時代から伝説に語られています。
神功皇后の穴門(あなと)伝説、
武蔵、小次郎の巌流島の戦い、
攘夷派長州の馬関戦争……

じっと潮の流れを見つめていると
海原にとじこめられたいくつもの記憶が
蒼海にあわだち煌き満ちる思いがしました。


*治承寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)1180 年(治承 4)源頼政の挙兵から、85年(寿永 4)平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの内乱。源平合戦。

*吾妻鏡 鎌倉幕府の事績を記した編年体の史書。五二巻。鎌倉幕府の編纂になるといわれる。1180 年(治承 4)から 1266 年(文永 3)までを収める。幕府の公用記録のほかに、「明月記」などの公家日記や古文書類を引用史料として編まれ、変体漢文で記されている。わが国最初の武家記録。鎌倉時代の歴史書。鎌倉幕府の家臣の編纂(へんさん)。52巻(巻45欠)。治承4年(1180)源頼政の挙兵から、文永3年(1266)までの87年間を変体漢文の日記体で記す。

*変体漢文 日本語を漢文に倣って主に漢字だけでつづった文。正規の漢文にはない用字・語彙・語法を含む。平安時代以降、公私の記録や男子の日記・書簡などの文体として発達した。

*源頼政(みなもとのよりまさ) 1104〜1180]平安末期の武将。通称、源三位(げんさんみ)入道。白河法皇・後白河天皇に仕え、保元・平治の乱に功をあげた。のち、以仁王(もちひとおう)と平氏追討を企てたが、事前に発覚して宇治平等院で自殺。和歌に長じ、家集に「源三位頼政卿集」がある。

*赤間神宮「特殊神事 先帝祭」 毎年、五月二日の御祭神安徳天皇御命日を皮切りとして以後三日間にわたって行われる神事です。『関の先帝、小倉の祗園 雨が降らねば金が降る(風が吹く)』と古くから俗謡歌われた祭礼日は、数十万人の人で賑わい、下関市の繁栄は往古以来この先帝祭にあるといわれているそうです。

由来は壇之浦の平家滅亡の祭、中島四郎大夫正則(伊崎町、中島家の祖)という平家の生き残りの武者が、武士郎党を率いて赤間関西端王城山に籠り、再興を謀ったものの機運を迎えることができず、漁業を営み、やがて例年先帝祭御命日には威儀を正して参拝を続けたことが今日の神事に至っているとか。

生き残った多数の女官たちや赤間関在住の有志にたすけられ、山野の花を手折っては港に泊る船人に売り、生計を立て、先帝御命日に年毎に閼伽(あか)を汲んで、香花(こうげ)を手向け威儀を正して礼拝を続けた…という逸話にも上臈参拝の源があるそうです。

それ以来、連綿として廃絶されることなく、官女に警固、稚児が従って、上臈に禿の随う美しい列立は、遠く平安の昔、宮中に行われた五節舞姫の形に倣って、絢爛豪華な外八文字道中は実に天下にいわれのない壮観をいまにとどめています(無形文化財指定)。

*耳なし芳一 、安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(現在の赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語。小泉八雲の小説『怪談』にも取り上げられ広く知られるようになる。

*小泉八雲 英文学者・作家。ギリシアに生まれる。本名、ラフカディオ=ハーンLafcadio Hearn明治23年(1890)来日。小泉節子と結婚、のち、日本に帰化。松江中学校・東大などで英語・英文学を教えるかたわら日本文化を研究、海外に紹介した。著「知られざる日本の面影」「心」「怪談」など。[1850誕〜1904没]

*和布刈 ワカメなどの海藻を刈ること。

*能『和布刈』あらすじ
どこからともなくあらわれた海女と漁翁が秋津州(あきつしま 日本の古称)のさまざまな神祭りや、早鞆の地の由来などを語って神前への手向けを行なう。そこへ神官が声をかけると、ふたりはこの海に住む海神を畏れ敬う者だと述べて、この早鞆神社に祀られている火々出見尊(ほほでみ)と豊玉姫にまつわる神話を語る。
やがて時が移り、海女は雲に乗って天に上がり、翁は海中に消え失せた。しばらくすると、天より妙なる音楽が響き渡り、龍女が現れると美しい天女の舞が舞われ、いよいよ神事の時刻に波間から龍神が躍り上がると、たちまち大海原の波間が二つに割れて海底が出現した。神主は、松明を振り上げながら、手にした鎌で海底に生える和布(わかめ)を刈って神前に捧げると、再び海は元通りに治まり、龍神は竜宮へと帰っていく。

*巌流島 山口県下関市、彦島の東方にある船島(ふなじま)の異称。慶長17年(1612)佐々木巌流が宮本武蔵に決闘で敗れたところと伝えられています。

*馬関(ばかん)戦争 幕府による安政の開国(1854年)後も過激な攘夷政策をとっていた長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた、前後二回にわたる下関海峡での武力衝突事件のこと。



*おすすめの本
女龍王神功皇后 黒岩重吾著 新潮社
現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵 吉川弘文館
関門海峡―歴史をはこぶ運河 古川薫著
後白河院 井上靖著 新潮社
怪談・奇談 小泉八雲著 講談社 

きものでお能 8 / 観世水文様 

May 25 [Mon], 2009, 0:00
●きものでお能8
当麻(たえま)で語る
観世水(かんぜみず)文様



観世水文は水の流れの中心に渦巻き置いた流水文の一種で、
ちょっぴりサイケでモダンな文様。
観世太夫の紋所(もんどころ)に由来するといわれています。

室町時代、京都市上京区にある西陣中央小学校一帯は
能の観世家の屋敷だったそうです。

その名残が、観世町という地名と、
学校敷地内の静かにたたずむ観世稲荷があります。

屋敷は、能を愛好した室町幕府の三代将軍足利義満より、
観世清次、元清親子へ、
観阿弥、世阿弥の名前とともに与えられました。
屋敷内の鎮守社として観世稲荷は創始されたものだそうです。

稲荷のすぐ脇ある古井戸は、
「観世水」または「観世井」と呼ばれています。

ある日、天空より龍が降りて井戸に入ったため、
水面が常に揺れ、美しい渦巻きの波紋を描いた、との言い伝えから、
渦巻く水の波紋が観世流のシンボルになったそうです。

余談ながら、この屋敷跡近くに本店をかまえる鶴屋吉信さんの
銘菓「京観世」は、この井戸の由緒にちなんだお菓子なんですね。

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観世水は桃山時代から江戸時代にかけて大流行。
江戸後期の文化5年(1808)に、
人気歌舞伎俳優の澤村源之助が「小間物屋弥七」役で、
観世水を描いた舞台衣装を着たことと、
彼の人気も手伝ってその流行に拍車がかかりました。

さて、お能で観世水文様といえば、
能装束のあらゆるものに使われます。
あまり強い役には使わず、女物に多く用いられるようです。

お能「当麻 たえま(當麻)」で使われる舞衣には観世水文様。
そこには心に汚れなく清らかな表現がこめられています。

当麻寺に伝わる中将姫(ちゅうじょうひめ)と當麻曼荼羅の伝説……
中将姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、
たちまち蓮糸が五色に染め上がったそうです。
そして一夜にして織り上げたのが「當麻曼荼羅」なんですね。

前場では、諸国行脚の念仏僧が熊野からの帰途、
当麻寺に参詣するとそこへ老尼と若い女が現れて
寺宝の曼荼羅にちなむ井戸と桜の木の話を語ります。

やがて二人は阿弥陀如来と
観世音菩薩の化身であることを明かし、
紫雲に乗って二上山に空高く飛び去り、後場では中将姫の精魂が
白蓮を立てた天冠(てんがん)、舞衣、大口、摺箔で登場。

歌舞の菩薩となった中将姫は
称讃浄土経の功徳を説いて、美しい歓喜の舞を舞います。

しだいに夜は明け、僧の夢もさめる…

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観世水。
元来は型を使っての表現で、
1枚の型を自由に操り、見るものへ
型の使用を意識させずに水らしい印象を与えるのだとか。

千変万化の水の表現に、一型の版での文様取り。
決して動かない型使いの観世水文様が
舞台で波うち、滴り落ちる。
観世水を鏡に、私たち自身の心を舞台にうつす……

夏のはじまりですね。



*紋所(もんどころ) 家々で定めている紋章。紋。家紋。定紋(じょうもん)。

*観世稲荷 一足稲荷と観世龍王が祀られています。毎年、3月に全国から集まった観世流の能楽師が祭を営み、大切に守り続けられているそうです。京都市上京区大宮通り今出川上る観世町135−1

*観世水 西陣の名水としても知られていますが、地下水の合流点であったために井戸の底にはいつも渦が巻いていたことからもこの波紋を観世水というそうです。

*鶴屋吉信本店 初代鶴屋伊兵衛。江戸時代の享和三年(1803)創業。京都市上京区今出川通堀川西入ル
営業時間は9:00〜18:00まで(元旦を除き年中無休)。

*澤村源之助 のちの四代目澤村宗十郎。

*小間物屋弥七 歌舞伎の演目「忠臣蔵外伝 忠臣連理の鉢植〜植木屋」

*当麻寺(たいまでら) 當麻寺。白鳳時代(今から1300年以上前)に創建され、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、国宝「當麻曼荼羅(たいままんだら)」を本尊とする極楽浄土の霊場。
毎年5月14日は中将姫ご縁日、練供養式が開催されます。
毎年6月15日は中将姫髪供養会、天平宝字7年6月15日、剃髪した中将法如は、翌日16日、その髪をもって阿弥陀三尊の梵字を刺繍(霊宝館に収蔵)してお供えし、本尊導き観音に「仏の御姿を表せ給え」と願われました。この発願に御仏がお応えになって表されたのが「當麻曼荼羅」です。
奈良県葛城市當麻1263

*中将姫(ちゅうじょうひめ) 日本の伝説上の人物。右大臣藤原豊成の娘中将姫は、継母に妬まれ命を狙われ続けますが、あえて恨むことなく、万民の安ら ぎを願い「写経」や「読経」を続けました。
そして1000巻の写経を成し遂あえてげた16才のある日、二上山に沈む夕陽に阿弥陀如来の姿を見た姫は、現世の浄土を求めて都を離れ、観音さまに手を引かれるように當麻寺を訪れます。

当時の住職・實雅法印(じつがほういん)に認められ中之坊にて尼僧となり、法如(ほうにょ)という名を授かります。その後、あの日に見た阿弥陀さまのおられる極楽浄土の光景を五色の蓮の糸によって織り表しました。これが當麻曼荼羅(たいままんだら)です。

その輝きに心を救われた法如は、人々に現世浄土の教え(この世で浄土を観じる教え)を説き続け、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということです。

*ツムラの創業者津村重舎は、大和国宇陀郡出身で、雲雀山青蓮寺の檀家であり、母の実家の藤村家に、逃亡中の中将姫をかくまった御礼に、婦人病に良く効く秘薬を藤村家に伝え、それが藤村家家伝の薬・中将湯になったそうです。

華麗な花かんざしをさした中将姫マークは永年に渡り津村順天堂のシンボルマークとして使用され、株式会社ツムラとなった後もメモリアルマークとして残っています。今でも中将湯のパッケージにその姿を見ることができますよ。

*熊野(くまの) 熊野権現(まのごんげん)は熊野三山に祀られる神々であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになりました。特に主祭神である家津美御子(けつみみ こ)・速玉・牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記)のみを指して熊野三所権現、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現といいます。熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社。

*本地垂迹(ほんじすいじゃく) 仏教が興隆した時代に表れた神仏習合(しんぶつしゅうごう)思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩 や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えです。

*神仏習合(しんぶつしゅうごう) 土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)すること。

*天冠(てんがん) 金属製の輪冠に、中央に月や鳳凰(ほうおう)などの立物(たてもの)をつけ、四方に瓔珞(ようらく)を垂れる。女神・天人などの役に用いる。

*舞衣 長絹と同じ単地(ひとえじ)に金糸で模様を織り出し、見た目が長絹と変わらないが、着付けると異なります。舞衣は長絹のように脇が開いておら ず、脇をが縫い合わせてあり、長絹より丈も長く、露もありません。女役専用の装束。唐織の壷折(つぼおり)にして付けます。舞衣は大口と一緒に付ける決まりがあります。

*歌舞の菩薩 極楽浄土で天楽を奏し歌や舞を演じて、如来を賛嘆して往生した人を楽しませるという菩薩。

渡来人?秦河勝ってなにもの?                         NHK「日本と朝鮮半島2000年」を観る 

May 09 [Sat], 2009, 0:00
●渡来人?秦河勝ってなにもの?
NHKシリーズ「日本と朝鮮半島2000年」を観る

能楽ピクニック10、そして11でもそのナゾにふれつつ、
ご紹介させていただいた、能楽の祖 秦河勝(はたのかわかつ)
昨年夏、梅原猛さんの新作能「河勝」も話題でしたね。

渡来人であったといわれる秦氏。
秦氏をキーワードにして、その足跡を追っていくと
もっと国を越えて、アジアに開かれた
芸能のルーツに出会っていけるように思うんですね。

椛は世界遺産になった能楽が、
決して過去の遺物として保存されるというだけではなくて、
今と未来の国際関係を創っていくような
福音のひとつになると信じていて、
そうした未来を創っていくときに、
古代からちゃんと掘り起こしていく、
歴史理解や歴史的な文化交流の理解というのも
そのとても大切な要素だと考えています。

そこで、本日はふたつの貴重な機会をご紹介したいと思います。

まずは、最近視聴したNHKのETV特集より
10回シリーズで放映される

日本と朝鮮半島2000年

こちらの番組、第一回目は「古代 人々は海峡を越えた」でした。
椛も大好きな司会者、美術番組などの名司会で知られる
石澤典夫さんの司会進行で連続シリーズで放映されます。

最新の研究成果が紹介され、
先端のコンピューターグラフィクスでの再現で
より立体的な交流史が見えてくるんですね。

いまや韓流ドラマの流行も定番となりつつあり、
互いの国際理解にドラマの功績はすばらしい成果と
改めて実感していますが、こちらの番組でも、
太王四神紀
ソドンヨ
などが第一回目の番組の文脈のなかで放映され、
詳しく触れられていて大変興味深くわかりやすい構成でした。

能楽の祖 秦河勝。
果たして、かのひとは、百済人?新羅人?それとも高句麗人?
いずれにせよ、朝鮮半島からやってきた!?
きっと番組を通してイマジネーションがふくらみます。

前回ご紹介した善光寺縁起にも見える
仏教伝来(番組では「仏教の受容」という言葉が使われていました)
のお話もこの番組で理解が深まりますよ。

次回は6月末放映予定です。

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それから、いまひとつは、
椛も受講している京都造形芸術大学の日本芸能史の
一般公開シリーズ講座。
なんと今年は韓国と日本の比較芸能史なのですよ。
毎週月曜日の夕刻より、
前期12回12000円、後期12回12000円で、
通期受けても、なんと24000円という信じられない授業料で、
人間国宝クラスの芸能者のお話に至芸が拝見できるという
またとない学習の機会に出会うことができます。

韓国のパンソリも、講座では国宝の芸能者が来日します。
(パンソリについては
 映画「風の丘を越えて 西便制(ソビンジュ)」がわかりやすいです)
来週からは日韓のシャーマニズムの講義が続き、
韓国のムーダンも登場しますよ!
(ムーダンとは神と人間との間を仲立ちする女シャーマン、巫女)

そしてこの講座に能楽師の観世流シテ方の片山清司さんもこの秋登場。
仮面劇の授業で講師をお勤めになります(12月21日の講座)。

もう一度、大学生の気分で通学しませんか?

京都造形芸術大学 2009年度公開連続講座
日本芸能史「はじめての日韓比較芸能史

〈受講申し込み先〉
京都造形芸術大学 瓜生山エクステンションセンター
TEL.075-791-9124(直通) FAX.075-791-9127 
E-mail:extension@office.kyoto-art.ac.jp
受付:平日9:00〜17:00(土曜:16:00まで)
休日:日曜・祝日・入学試験実施日・年末年始


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お能カフェでは今後も芸能交流史について
その機会や情報をご紹介してまいりたいと考えています。

みなさまにも、ぜひお付き合いくださいませね。


*話題関連のお祭り
四天王寺ワッソ、ご存知ですか?
今年は、11月1日(日)開催予定。
朝鮮半島との1400年にわたる交流を現代のワカモノが
身をもって体感するお祭りです。
ワッソとは、「やってきた!」という意味。
ワッソ!ワッソ!と叫びながら行列しますよ〜
ちなみに椛も四天王寺ワッソの会員です。ご一緒しませんか?

*おまけでおすすめの番組
東京の阿修羅展、話題ですね。
フィギュア制作で有名な海洋堂のフィギュアも売り切れ状態。
椛には居ながらにして楽しむということで、
展覧会カタログを取り寄せ、フィギュアをオークション落札して
きわめつけはこの番組。
すでに放送済みですが、次で再放送されます。
今回の話題に直接つながるものではないながら、
ご紹介まで。

ハイビジョン特集 「阿修羅 天平の謎を追う」
放映:BShi 5月10日(日) 午後10:00〜11:30
「天平の美少年」と称され、日本で最も人気のある仏像のひとつ、奈良・興福寺の国宝・阿修羅像。3つの顔、6本の腕を持ち、深い「憂いの表情」をたたえた日本の仏教美術の最高傑作である。1300年前の奈良時代に作られ、長らく門外不出となっていたが、今回、展覧会のために運び出されることになり、初めてハイビジョンカメラで360度余すところなく撮影することが許された。仏像大好きで知られるモデルのはなさんがリポーターとなり、天平の美の世界と、「憂いの表情」に込められた謎を徹底探求する。

能楽ピクニック19 / 七年に一度のご開帳 善光寺まいり       「善光寺縁起」のお話 

April 27 [Mon], 2009, 0:00
●七年に一度のご開帳 善光寺まいり「善光寺縁起」のお話


善光寺はいま、七年に一度のご開帳ですね。
椛もさっそく出かけてまいりました。

宿坊に泊まり、お朝事(おあさじ)は最前列で前立本尊さまを拝み、
大回向柱にはもちろんタッチ。お数珠頂戴からご印文頂戴、
そしてお戒壇めぐりでも真っ暗闇のなかで結縁を結んでまいりました。
大人のディズニーランドさながらの楽しさでしたよ!

この連休中は250万人の参詣者の予測が出ていて
その数国内2番目というニュースを面白く聞きました。
今も昔も……なのですね。

椛には熊野詣、那智宮曼荼羅から、今回は善光寺縁起、なるものを
那智宮曼荼羅のときのように手に入れたいと思い、
この時期長野で予定されている3つの博物館での善光寺関連の企画展を
拝見いたしてまいりましたが、カタログには掲載されていても
縮尺で販売されているものはありませんでした。

念のため、善光寺の住職の方々にも伺いましたが、
そういったものはありませんねぇ、とのこと。
残念しごく、です。

その昔、善光寺信仰を広めた善光寺聖には
きっと携帯されていただろう善光寺縁起図。
どこかにその片鱗でも…と思っていたところ、そんな記述を
偶然にも五来重先生のご本「善光寺まいり」に発見することができました。

関東生まれの五来先生には、
先生の幼児期、大正時代の関東農山漁村の家々には、
善光寺土産にもらった「善光寺縁起」の錦絵が
どこの家にも襖や屏風の上張りに貼ってあったということなのです。
朝、目を覚ますと板戸の隙間から差し込む微光に
本田善光が難波の堀江で善光寺如来によび止められた場面が浮かび上がり、
水面に「金色の三尊仏から御光が放射状に燦然と射していた」
きっと大人たちは善光寺で絵解きを聞いて、
錦絵を買い、近所に配っていたのだ…ということなんですね。

何の不思議も感じることなく、とても自然な信仰心から錦絵を買う。
善光寺聖がすでにいなくなった時代であっても
庶民信仰(教団教派にとらわれない信仰)の心が残っていて、
私たちを突き動かしてくれる。
一見、ナンセンスに思える縁起のなかに
いにしえびとの心の真実や語られなかった歴史が見えてきたりするんですね。

今回は善光寺縁起をご紹介したいと思います。

ちなみに、善光寺の境内ではその昔、世阿弥もその信徒であっただろう
一遍上人ひきいる時宗(時衆)の衆徒が念仏踊りをおどった記録が
一遍聖絵(国宝)にも描かれています。
訪れた博物館で一遍聖絵の模写に魅入り、
往時の念仏、奏楽、人々の声、雑踏の賑わいを聴く思いがいたしました。

芸能のはじまりに思いを馳せて、
さまざまな信仰のかたちに出会うひとときは
極上のロマンを贈ってくれます。

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善光寺縁起を伝える絵図にも種類はあるようですが、
こちらは長野県立歴史館で開催中の
「善光寺信仰 流転と遍歴の勧化」で展示されていたものです。
絵は三幅あり、一幅目下部から上部へと絵解きしていきます。

お話は天竺(インド)、百済(韓国)、そして日本へと伝わった
霊験あらたかな三国伝来の生身(しょうじん)の仏さま
一光三尊仏が善光寺へといたる来歴を伝えてくれます。

館内入口では映像上映でこの縁起図の解説が行われています。
参詣の前にいらっしゃるといっそう善光寺まいりの味わいがふかまりますよ。

ともかくお話が面白いので簡単にご説明いたしますね。


第一幅


●一幅目

お釈迦さまが天竺(インド)毘舎離国の大林精舎におられた頃のことです。
この国に月蓋(げっかい)長者という大富豪がいました。月蓋長者は他人に施す心もなく不信心で、そんな話を聴いたお釈迦さま(仏教の開祖ゴータマ・シッダッタ)は、ある日、長者を教え導こうと自らその門を叩かれました。さすがに長者もこのときばかりは黄金の鉢に御馳走を盛って門までもって出ようとしましたが、「今日供養すれば毎日のように来るかもしれない。むしろ供養しないほうがよいだろう」と施すことなく、屋内にひっこんでしまう始末です。

月蓋長者には、掌中の玉と愛育していた如是姫(にょぜひめ)という一人娘がいました。ところがある年、国中に悪疫が流行し、如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいます。長者は名医、名祈祷師を呼んで万金を投じて手を尽しましたが、いっこうに良くなりません。結局、まわりのすすめもあり、不本意ながらお釈迦さまに教えを乞いに大林精舎に出向いたのでした。

お釈迦さまの御前に進み、これまでのことを懺悔して、娘の命を救ってほしいと懇願したところ、「それは私の力でも及ばない。ただ、西方極楽浄土におられる阿弥陀如来さま(如来は仏さまの最高位。そして阿弥陀如来は死後の世界である極楽浄土を主催する仏さま)におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来さまはたちまちこの場に出現され、如是姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。

長者はお釈迦さまの教えのとおり、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供え、心からの念仏を唱えました。この時、阿弥陀如来さまは西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸(50センチくらい)に縮められて、ひかり輝く光背に一尺(30センチくらい)の観世音菩薩・大勢至菩薩をともなった三尊の御姿で顕れました。
そして、如是姫の病気もたちどころに平癒し、国中に流行した悪疫もみるみる治まりました。

月蓋長者はこの霊験あらたかな三尊仏の御姿をお写しして、この世界にとどめおきたいと、再びお釈迦さまにお願いすると、お釈迦さまは長者の願いをおかなえになるために十大弟子のなかでも神通第一といわれる目連尊者(もくれんそんじゃ)を竜宮城に遣わされ、竜宮第一の宝物といわれる閻浮檀金(えんぶだごん 閻浮樹の森を流れる川の底からとれるという砂金。赤黄色の良質の金なのだそうです)を竜王から貰い受けました。

さてこの閻浮檀金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来さまの来臨を願うと、三尊仏は忽然として宮中に出現され、阿弥陀如来さまの白毫(びゃくごう 眉間にあって光明を放つという長く白い巻き毛)とお釈迦さまの白毫の光明がともに閻浮檀金を煌煌とお照らしになりました。
すると閻浮檀金は変じて三尊仏そのままの御姿となって顕れたのです。月蓋長者はたいそう喜び、終生この三尊仏に奉仕しました。三尊仏はその後天竺で多くの人々を救われます。

時は流れて、百済国では聖明王の治世を迎えておりました。
この聖明王は月蓋長者の生まれ変わりでした。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねておりました。ところが、如来さまが百済国へお渡りになり、過去の因縁をお話しになると、たちまち改心して善政を行なうようになりました。


第二幅


●二幅目

百済国での教化の後、如来さまは次なる教化の地が日本国であると告げられました。百済国の人民は如来さまとの別れを悲しみ、如来さまが船で渡る後を海に飛び込んで追う者さえいました。

日本国は、欽明天皇13年(552年)、尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれ、大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は生身(しょうじん)の如来さまであるこの尊像を信受することを奏上し、大連(おおむらじ)物部尾輿(もののべのおこし)、中臣鎌子(なかとみのかまこ 藤原鎌足の初名)は異国の蕃神(ばんしん 外国人のまつる神)として退けることを主張しました。

結局、欽明天皇は崇仏派の蘇我稲目にこの尊像をお預けになり、稲目は自邸に如来をお移しして、やがて向原の家を寺に改め、如来さまを安置し、毎日奉仕いたしました。これがわが国仏教寺院の最初である向原寺といいます。

さてこの頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いが起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いない」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ち、灰燼(かいじん)にしました。ところが、如来さまは不思議にも全く尊容を損うことがありません。そこで尾輿は再び如来様を炉に投じてふいごで吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしましたが、尊像は少しも傷つくことがありませんでした。

万策が尽きて、ついに彼らは尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子とともに仏教を奨励(四天王寺が建立されましたよ〜)しました。ここに初めて仏法は盛んになります。

*聖徳太子は戦場で守屋の軍勢に追われ椋(むく)の木のうろに身を隠し難をのがれ、後、四天王像を彫り勝利したといわれますね。図中、椋の木のなかに隠れているのが見えますか。その下、バルコニーで背を見せているのは用明天皇とその皇子、幼少時の聖徳太子です。図には太子信仰も描かれているんですねぇ。ちなみに守屋は蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)から放たれた矢が命中して木から落ち、すかさず能楽の祖秦河勝(はたのかわかつ)が守屋の首を切り落としたんですよね。


第三幅


●三幅目

聖徳太子は難波の堀江に赴き、先に沈められた尊像を宮中にお連れしようと、その御出現を祈念されました。すると如来さまは一度水面に浮上され「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ」と仰せられ、再び御姿を水底に隠されました。

さて……その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光ぅ、善光ぅ」と、妙なる御声がどこからともなく聞こえてきます。驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。如来さまは、善光が過去世に天竺では月蓋長者として、百済では聖明王として如来さまにお仕えしていたことをお話になりました。そしてこの日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。
善光は歓喜して礼拝し、如来さまを背負って信濃のわが家に帰りました。

善光は如来さまを西のひさしの臼の上に御安置して、やがて御堂を建て、如来さまをお移ししましたが、翌朝、尊像の姿はそこになく、最初に御安置した臼の上にお戻りになっておられました。そして善光に「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であっても、念仏の声のないところに住することはできない。念仏の声するところがわが住みかである」と仰せになりました。

善光は貧困で灯明の油にも事欠いていましたが、如来さまは白毫より光を放たれ、油の無い灯心に火を灯されました。
これが現在まで灯り続ける「御三燈の灯火」の始まりといわれています。
如来さまの霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。

皇極天皇二年善光の息子・善佐(よしすけ)は突然息たえてしまいます。悲しみに暮れた夫婦は如来さまに「私たちの後、御仏のご供養をするべきだった一人息子善佐の命を救ってください」と祈願すると、その願いもっともなりと如来さまは閻魔宮(えんまきゅう)に入って善佐の罪を救ってくださいました。
この世に帰る途中、善佐は地獄に堕ちてこられた女帝皇極天皇に出会います。そして、このいとやんごとなきご婦人を是非お救いくださいと如来さまにお願いし、ふたりとも生きかえることができました。

生きかえった皇極天皇は大変感謝し、善光を甲斐の国司に、善佐を信濃国の国司に任じて、ついに伽藍造営の勅許をくだされました。
こうして、天竺、百済、そして日本と三国伝来の生身の阿弥陀如来さまを御安置し、開山の善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称され、以来千三百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰され続けているのだとさ……
---

善光寺信仰をお話しだすとおしゃべりしたいことはたくさんあります。
たとえば善光寺の住職さんはふたりいます。
おひとりは天台宗から、そしてもうおひとりは浄土宗から…だとか、
こまかいこともたくさん。

で、なぜ椛が善光寺をご紹介したかったか。
それは熊野比丘尼つながりでもあったからです。
このお話に見るように、如是姫に、善光の奥さまの弥生御前や、
百済から日本に船に渡るときに
如来さまのあとを追って入水したのも多く女性たちだったとか。
皇極天皇も女帝ですね。
つまりは女人救済の仏、女人救済の寺が、熊野に引き続き、
この善光寺でもあるのですね。

善光寺信仰を広めた回国聖はさまざまです。
善光寺聖、というだけでなく、多くの修験者もそうでしたし、
一遍を筆頭に時宗の聖たちも。

そしてお能の大成者世阿弥が生きた時代には、
「本願(ほんがん)」と呼ばれる新しい勧進聖が登場します。

勧進聖と本願聖の違いは、前者が臨時の職務で、
後者が特定の寺社に定着して営繕部門を担当する、というもの。

で、この本願聖には当初から尼たちが多かった。
彼女たちは実にはなばなしい活動をしたと記録にあるんですね。
その女性本願の出自の多くが熊野比丘尼たちだったのです。

熊野から善光寺へ。今回の旅は
熊野比丘尼の導きだったような気がしています。

駆け足でなんとかGWに間に合わせようと筆を執ったために、
端折った部分がおおくてごめんなさい。

おみやげまでご紹介したかったのだけれど。
またいつか。

七年に一度のご盛儀。
ぜひぜひ長野へ。


*おすすめの展覧会

長野市立博物館
「女たちと善光寺」展

開催期間:2009年4月4日(土)〜2009年5月31日(日)
女性たちの善光寺まいりの様子がわかる資料や、室町時代の女性の衣裳や化粧道具も必見です。なにより椛に興味深かったのは、血盆経(けつぼんきょう)という女性が女性特有の出血のために、死後、血盆池(血の池)地獄に堕ちることを説く短文の仏教経典の絵解き図でした。かなり怖いですが、こういったものがあったとは!かえって女性差別につながったとのボランティアの方の説明も。必見。
こちらは、なにより立地がすばらしいです!はるけき山々を借景に川中島の合戦の地、いわば千曲川と犀川の中洲です。川中島の合戦も、こちらの展覧会場でもボランティアの方々のすばらしい解説を拝聴することができます。

長野県信濃美術館
「善光寺御開帳記念 “いのり”のかたち−善光寺信仰」展

開催期間: 2009年4月4日(土)〜2009年5月31日(日)
善光寺式三尊仏といわれる数多くの模造。それらは信仰の高まりから数多くつくられ、全国におよそ250体を数えます。重文を含む60点を一堂に展示。遠く海を越えて欧州からも帰ってきた仏像も。明治の廃仏毀釈で流出したのかもしれませんね。


*おすすめの本
善光寺御開帳公式ガイドブック 信濃毎日新聞広告局 ¥1000
善光寺まいり 五来重著 平凡社 


  

きものでお能 7 / 唐草文様 

April 22 [Wed], 2009, 0:00
●きものでお能7
熊坂(くまさか)で語る
唐草(からくさ)文様



日本では唐草文様といえば
蔓草(つるくさ)の唐草模様が一般的ですが、
茎をどこまでも延ばしてゆく蔓草(つるくさ)には生命力があり、
延命、長寿や子孫繁栄の象徴とされています。

唐草文様は植物の葉や花などに、
蔓や茎で絡み合わせたり、連続的に繋ぎ合わせた文様の総称です。
また、樹木信仰の象徴としての生命の樹やペーズリー、
幾何学文様の波状やメアンダーなども含まれます。

唐から渡来した文様という意味で唐草と呼ばれていますが、
その起源は古代エジプトにあり、
ロータスの花や葉や渦巻文と組み合わせたものでした。
また、古代オリエントでは、生命を象徴し、繁栄や発展を表わす
植物のパルメットと呼ばれる装飾文様が一般化します。

やがて、エジプトのロータスと
古代オリエントのパルメットが出会い、融合し、
古代ギリシアにおいて優美な曲線を持ったパルメット唐草へと発展して、
工芸装飾や建築にたくさん用いられ、
その後、アカンサスの葉や葡萄などのモチーフが配されるなど
唐草文様は多様化し、東西へと伝わります。

古墳の出土物から5世紀までには
シルクロードを経、すでに日本に伝播されていた唐草文様。
鳳凰とパルメット唐草が描かれた
正倉院宝物「密陀彩絵箱」(みつださいえのはこ)は、
唐草文様が広く伝わる過程で中国の神仙思想の影響を、また
薬師寺金堂の薬師如来像台座に刻まれた
葡萄唐草文は、西域やガンダーラの影響を受けているそうです。

ヨーロッパでは、ラウプウェルク、フォリッジ・スクロール、
ランソーなどの植物柄の唐草文様、
人物や動物や器などが組み込まれたものには
ローマ時代以来の古典柄からルネサンス時代以降の
グロテスク文様の流れをくむものまでが含まれるそうなので、
とにかく広範囲に亘ります。

中国では、蔓草(つるくさ)文のほかに、
龍などの、空想の動物を組み合わせた
独自の唐草文様が数多く存在します。

日本では、平安時代までは忍冬(にんどう)唐草、
宝相華(ほうそうげ)唐草、葡萄唐草などの唐草文様が主流でしたが、
室町時代から江戸時代にかけて、菊、桐、牡丹などを配したものなど、
日本人の好みを反映させながら、
日本独特の様々な唐草文様が生み出されてゆきました。

唐草といえば、緑地に白抜きの唐草模様のイメージが浮かびます。
獅子舞の胴や婚礼のたんすや長持など覆う布として好まれて使われたり、
マンガやお芝居では、泥棒が背負う風呂敷にはお馴染みの唐草模様。
この風呂敷の模様は、明治30年代から
明治40年代にかけて生産されたもので、
100年以上の歴史を持つ、ロングセラー商品なのですよ!

さて。

お能では平安時代末期の大盗賊
熊坂長範(くまさかちょうはん)を描いた「熊坂」で、
後シテの法被(はっぴ)に超極太、大きな唐草文様が使われたりします。
お能の盗賊にも唐草模様が使われる!?
もしかして元祖ドロボウの意匠ですか?

長範は実在した人なのかどうかは定かではないそうですが、
石川五右衛門、鼠小僧と並び称される盗賊の代名詞。
長範のお話はいずれも単なる盗賊、追いはぎというだけではなく、
無力で貧しい人たちを助けた「義賊」としても語り継がれています。

最終的には仏門へ入っただとか、
牛若丸には実は斬られてはいなかった……という説もあり
長範伝説は唐草模様のように四方八方に広がって、
日本全国各地にあるそうです。

これは余談ですが、「熊坂」といえば
博打の隠語。「ちょうか、はんかっ!」なるほど。

もとい。お能の「熊坂」。
後シテ熊坂長範の亡霊には、
長範頭巾、法被(はっぴ)、半切、腰帯、長刀(なぎなた)。

ところは美濃国(栃木)赤坂。
豪商三条吉次信高(金売吉次)の一行を襲うものの
同行していた牛若に討たれ、
命を落としたその有様をリアルに再現します。
牛若と長範の一騎打ち!翻弄されながらも
大長刀を振るスピード感のある長範の所作は
爽快でカッコイイんですよね〜。

前場。出家者の姿の前シテの庵には
仏像がないうえに、武具のオンパレード。
聞けば山賊が横行するこの界隈。悲鳴を聞けば
長刀を振るい人助けするのだと。

盗賊だった長範が死して罪滅ぼしか、人助け。
なんだか哀れで憎めませんね。

いまなお親しまれる
庶民派ヒーローの熊坂長範。
唐草模様の風呂敷一枚にも仏の心、
長範の物語をうつせば
その味わいもいっそう深まりそうな…。




*生命の樹 特定の樹木を生命力の源泉、また豊饒(ほうじょう)・生産の象徴として崇拝する宗教現象。古代オリエントを中心に、1本の樹木の両側に1頭の動物を描く図像があらわれ、東西に広く伝わりました。聖書では、エデンの園の中央に知恵の樹(善悪を知る樹)と並んで植えられていました。

*メアンダー 屈曲した川の流れの象徴。

*ロータス 蓮または睡蓮。エジプトにおいて生命の復活・再生を象徴。ロータスはオシリス神との関わりで語られる聖なる花だったようです。オシリスは古代エジプトの冥府の神。大地の神ゲブと天の神ヌートの子。女神イシスと結婚。弟セトに殺されるが、イシスの秘術で復活し、冥府の神となりました。

*パルメット 棕櫚(しゅろ:ヤシ科の常緑高木)の葉を扇形に開いたような植物文様。古代エジプト・アッシリアを起源とします。

*アカンサス キツネノマゴ科ハアザミ属の常緑多年草の総称。アザミに似て葉にとげがあります。

*神仙思想 古代中国で、人の命の永遠であることを神人や仙人に託して希求した思想。この信仰に基づいて不老不死の薬が探索され、養生法が説かれた。道教の中心的教説として取り入れられました。

*蔓草(つるくさ)文 蔓草文を総称して唐草文といいます。中国伝来の蔓草という意味で名づけられたものですが、からみ草の略とする説もあります。あるいは唐風(からふう)の草花に由来すると考えられており、日本では遅くとも平安中期までに成立。古い文献では、「枕草子」や「今昔物語集」などにその名が登場しています。

*忍冬(にんどう) スイカズラの別名。冬でも葉がしおれないのでいう。

*宝相華(ほうそうげ) 唐草文様の一種。唐草に、架空の5弁花の植物を組み合わせた空想的な花文。中国では唐代、日本では奈良・平安時代に装飾文様として盛んに用いられました。

*義賊 金持ちから金品を盗み、それを貧民に分け与える盗賊。

*法被(はっぴ) 単と袷があり、修羅能、切能の後シテに使われる男役の広袖の表着。単は金糸で模様を織り出し、紅糸などで刺繍したもの。袷は金襴の織物。右肩袖を脱ぐ肩脱ぎは、折りたたんで右腰にさして、矢入れを表わします。
肩上げは、両袖を肩幅に折りたたみ、両肩をぴんと張り上げて、襟元で留めます。威勢を表わすため、大将などの格のある役の場合に使われ、普段より大きい姿に見えます。

*金売吉次 陸奥国の金を京で売って長者となったといわれる、こちらも伝説上の人物。鞍馬寺で牛若丸に会い、藤原秀衡(ひでひら)のもとに案内したといわれています。後の名を堀弥太郎光景。NHKの大河「義経」では市川左團次さんが吉治役でした。ちなみに熊坂長範役は河原さぶさん。

*長範頭巾 能の「熊坂」で熊坂長範が用いる頭巾に似ているところから。目の部分以外は全部覆うように作った錣(しころ)付きの丸頭巾。享保・元文(1716〜1741)ごろ流行。

*錣(しころ) 兜・頭巾の左右・後方に下げて首筋をおおう部分。

*長刀(なぎなた) 長い柄の先に反り返った長い刃をつけた武器。

*「熊坂」に描かれた牛若との戦いを、牛若丸の側から描いたお能が「烏帽子折」です。

能楽ピクニック18 / 「那智参詣宮曼荼羅」 空想ツアー 

April 17 [Fri], 2009, 0:00
こんにちは、椛です。
紀伊熊野への旅の続きをお話したいと思います。
今回、自分用のおみやげに、熊野那智大社の宝物殿で
那智参詣宮曼荼羅(なちさんけいみやまんだら)の
9分の1サイズの複製を連れて帰ってまいりました。
椛はこういった紙物が大好きなのです!

この宮曼荼羅は、
その昔、熊野信仰を全国に広め、勧請目的のために、
熊野山伏や熊野比丘尼という女性たちが絵解きした、
という曼荼羅です。

白石加代子さんの百物語ではないですが、
熊野比丘尼が、語り、謡う。
きっと、ひとり芝居を演じるように美しい手振り身振りで
多くの人を幻惑の熊野詣に誘ったのでしょうねぇ。

私椛、能カフェスタッフに宮曼荼羅の物語りをしたところ
大ウケいたしまして、そんなことなら、
お能カフェブログでも「熊野比丘尼しよう!」と
伝えきれないのは承知で
みなさまを霊地熊野へと空想ツアーにご招待したいと
筆を執ってみました。

---

その昔、蟻の熊野詣といわれてなお、
ほとんどの人にとっては叶わぬ夢の地。
熊野比丘尼を先達に行く空想詣でに、
ひとびとはその魂をどんな浄土にあくがれ出したのでしょうか。

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●能楽ピクニック18 / 「那智参詣宮曼荼羅」 空想ツアー


さて、みなさん。
こちらが那智宮曼荼羅の全図です。
曼荼羅については、以前、春日宮曼荼羅の記事でお話済みですね。

こちらの那智宮曼荼羅は、熊野信仰を広め、喜捨を集めるため、
布教活動を行う際に絵解きされた曼荼羅です。

天の目、地の目でご覧ください。
全図を4箇所に分解してご紹介いたします。
全図といきつもどりつしてご参照を。

(図1)

全図画面右上、こちらはご存じ那智の大瀧です。
崖より三筋見せて流れ落ちるその様も今に同じです。
飛瀧権現(ひろうごんげん)と呼ばれるにふさわしい威容
飛び散るしぶき、荒々しい岩肌を見せつつ轟と落つその姿に
古人が畏敬を覚え、千手観音を見ていたというのは、
自然なことだったかもしれません。

全図画面には、公卿、武士、社僧、山伏、琵琶法師、巫女、比丘尼……
那智宮曼荼羅にはさまざまな人が描かれています。これらの眺めは、
那智山がいかに貴賎僧俗を問わずあらゆる階層の多くの人々に信仰され、
繁栄してきた霊験あらたかな土地であるかを物語ります。

宮曼荼羅の世界を行くあなたは、
先達に案内され山を巡る白装束のふたり連れ。
ところどころにご覧になれますか?

(図2)

全図画面右下は関所です。
浜の宮の関所では、参拝者もさぞ高い関銭を支払ったことでしょう。
絵図の関所は見どころのひとつで、那智の関所がいかに多くて、
いまの比でない拝観料徴収があったことがわかるんですね。
室町時代は、荘園を武士に押領された寺社や貴族が
自らの財源確保のために弱い旅行者から関銭を徴収していました。

関を通過したふたり連れが次に出会うのは
那智の補陀落山渡海(ふだらくとかい)へと船出する一行です。
補陀落山渡海というのは、南方の観音浄土、補陀落山をめざして
小舟で海を渡る捨身行です。
井上靖さんの「補陀落山渡海」は
補陀落山寺の住職が、61歳になると
渡海上人として船出するという名作。
那智勝浦や足摺岬などがその出発地として知られていますが、
那智では、平安時代のはじめから
江戸中期にかけて行われていたそうです。
補陀落山寺にいらっしゃることがあったら、ぜひ裏山に登ってみてください。
10分かからずして、渡海上人の供養塔と、
山成島で入水したと維盛伝説に伝えられる供養塔に参れます。

渡海舟の描写は歴史的資料が少なく、この絵はとっても貴重。
現在の補陀洛山寺では復元された渡海船が設置されています。

さて。大きな鳥居が見えるお寺の辺りが浜の宮王子。
しかしながら、浜を越えてまたも関所が待っています。

(図3)

もう少し進むと、桜の花を愛でる艶やかな女人の姿。
一説によるとこの方は和泉式部といわれているんですよ。

月の障りの最中だった和泉式部の本宮参詣を
熊野権現が許して参詣できたという伝説が
ここに描かれたらしく、恋の罪人 和泉式部の登場で
女人救済、女人にも開かれた熊野信仰の人気も
ことさら上がったことでしょうね。

続いて、入山を前にふたり連れは川で禊をして、二の瀬橋、
振加瀬橋(ふりかせばし)を渡っていきます。
この橋で龍神がふたりを照覧(しょうらん 神仏が御覧になる事)しているのは、
この橋から上が聖地で、下が俗界であることを告げているんですね。

橋を渡ると、こちらが杉木立に囲まれた
いまにも苔むした石畳が残る「大門坂(だいもんざか)」の登りです。
ふたり連れはここから御瀧本へと巡礼の道に歩みを進めます。

御瀧本に本地堂が見えます(図1をご覧ください)。
生き杉が屋根を突いているの建物が御瀧配所(お滝拝所)。
生き杉は屋根をつらぬくほどの霊力を描写しているんですね。
ちなみにここでは那智瀧本六十六人衆という
山伏たちが修行に励んでいました。

水垢離(みずごり)に励む行者も見えますでしょ。

対岸へ渡る霊光橋の上に立つ先達が被っているのが
いまなお那智大社で使われている烏帽(からすぼう)です!
過去と現在がクロスオーバーする感覚って
ときめきに満ち満ちてません?
平安なら千年を、室町なら六百年をひとっ跳びする
光陰がはっと瞳を見開かせてくれる思いがします。

那智宮曼荼羅って、ほんと、最高ぅ〜。

天降り下る見事な御瀧、その下に見える三人は
真ん中の方が真冬に三十七日の滝行をして凍死した文覚上人。
そして両側が文覚上人を蘇生させた不動明王の使者の矜羯羅(こんがら)と
制迦(せいたか)のふたりの童子です。
文覚は源頼朝の挙兵を促したことでも知られる荒法師。
平家物語を出典とするこの物語は当時多くの人々に知られていて、
聖地那智山を印象づけるのにうってつけの題材だったんですね。

御幸道をのぼると三重の塔が見えてきました。
ここでは鼓に笛を奏で、田楽(那智田楽?)を舞う人々が描かれています。
塔の前では行われているのは
社堂修営行事であるお木曳き(おきひき)です。

どうして、こんなシーンまで描かれているの?
なんて思われるでしょ?
このシーン。勧進を人々に勧めていた熊野比丘尼にとって、
欠くことができないものだったんですね。

語りを聞き、曼荼羅を見ることで、捨する人々は
自らの浄財で立派な伽藍が建立されるイメージが膨らんだことでしょう。

(図4)

さて。ようやく御本社社殿の御前に到着です。

回廊続きの建物が二棟。礼殿では僧侶が読経を行っています。
扉が閉ざされているのが観音堂(如意輪堂)、
現在の長生殿の場所にあたります。

礼殿の中に見える姿が神職ではないのは、
那智山(熊野那智大社)を宰領していたのが僧だったからです。
明治政府による神仏分離令で
観音堂はのちに場所を移され、那智大社と別れて、
お寺は青岸渡寺(せいがんとじ)となりました。
ちなみに青岸渡寺は西国三十三ヶ所第一番札所です。

御本殿は、第一殿から第五殿までが横一列に並びます。
御瀧をお祀りする第一殿だけが奥まった位置に見えます。

左側、画面縦方向に八社殿の大きな建物が続いて、
その横には御懸彦社(みあがたひこ)のお社が佇みます。
今日と同じ社殿構成でなんだかリアリティがあります。

御社殿前では、その服装からみても、
やんごとなき人物が参拝の最中です。
灯籠横にひときわめだって描かれているのは
花山上皇か白河上皇なのか…後鳥羽上皇とも言われています。
いずれも熊野詣の史記に登場する上皇さまたちです。

並み居る高官に混ざって、
白衣姿のふたり連れも参拝を行っていますよ。
はじめにも申し上げましたが、こうした眺めは、
貴賎上下を問わない熊野信仰の面目躍如ですね。

上皇の左横には、神武天皇東征に道案内を終えた八咫烏(やたがらす)が
その姿を変じたと伝えられる鳥石、
後白河法皇お手植えと伝えられる枝垂桜(しだれざくら)とおぼしき木。
これらの聖蹟も現存しています。

最後に御神前を辞したふたりは、
僧が水を汲んでいる閼伽井(あかい 仏に手向ける水)や
籠所といった諸堂の間をぬって画面左上へと
死者の霊魂が向かう霊域 妙法山へ登っていき、
極楽浄土の入口とも言われる阿弥陀寺でゴールとなります。

この図全体を取り囲んで見えているのは御神木たる杉。
そして仏の霊験を象徴する桜の花が咲き乱れる那智山は、
命を育み、豊穣をもたらす神と、
死後の救済をもたらす仏が共存する神聖なる地、
つまりは、信仰の理想世界が現出する聖地だったんですね。

熊野灘を遊覧船でめぐると
海上からくっきりと那智の大瀧が見えるのですが、
まさにその景観は天の御柱というにふさわしい眺めで、
大きく感動を覚えます。それは、はるかなる古へに
神武天皇がこの地に誘われ、緑深き原始の森に、
浮かび上がる大瀧に神を見、あがめ、ぬかずき、敬った
心にそのままリンクするような
時空間の宇宙にタッチさせてくれるんですね。

ネットの画像ではうまく映すことができなかったのですが、
熊野那智大社の宝物殿に展示されている実際の宮曼荼羅には、
熊野比丘尼たちが回国時に携帯のために曼荼羅を筋折した、
そのスジ山がちゃんと画面に走っているんです。

そのスジ山の愛しいことといったら!
みんな生きて暮らしてつながっていた庶民信仰の香り、
えもいわれぬ懐かしさに包まれます。

信仰は奇跡によって成るのではなくて、
信仰心を大切にした人々によって
幾世代も継がれてきたことがまさに「奇跡」なんですね。

長いブログをごめんなさい。

でもこれがご縁と、
ぜひ、ぜひ、ホンモノに出会う旅に
お出かけくださいね。




*那智参詣宮曼荼羅
熊野三山のひとつ、熊野那智大社の様相を描いた参詣曼荼羅で、中世の熊野信仰を知るためには欠かせないものです。見る人を那智へと誘うさまざまな聖地や説話が描き込まれ、特に右上の那智の滝はそれ自体が神とされてきました。また中央下部の鳥居には観音の浄土を目指して補陀落渡海に旅立つ舟が見えます。熊野比丘尼をはじめとする宗教者たちが、この絵を日本各地に持ち運び、熊野への信仰を広めたと考えられています。

*先達(せんだつ) 山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者。せんだち。

*権現(ごんげん) 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れること/仏・菩薩の垂迹(すいじゃく)として化身して現れた日本の神。本地垂迹説による。熊野権現・金毘羅(こんぴら)権現などの類/仏・菩薩にならって称した神号。東照大権現(徳川家康)の類。

*熊野権現(熊野三所権現) 熊野三社の主祭神として祭られる、本宮の家都御子神(けつみこのかみ)、新宮の熊野速玉神、那智の熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)の三神。熊野(ゆや)権現。

*比丘尼(びくに) 出家得度して具足戒(ぐそくかい)を受けた女性。尼僧。中世、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人などをいいます。

*熊野比丘尼 中世から近世にかけ、地獄極楽の絵解きをしながら、熊野三所権現勧進のため諸国を歩いた尼僧。小歌や俚謡(りよう 民間でうたわれている歌。民謡)をうたい、物乞いをして歩きました。歌比丘尼。勧進比丘尼。

*和泉式部(いずみしきぶ) 平安中期の女流歌人。大江雅致(おおえのまさむね)の娘。和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍を産んだ。為尊(ためたか)親王、次いでその弟の敦道(あつみち)親王と恋をし、上東門院彰子に仕えてのち、藤原保昌に嫁するなどした経歴から、恋の歌が多数みられます。生没年は未詳。「和泉式部日記」「和泉式部集」があります。

*文覚(もんがく)平安末期・鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠。もと北面の武士で、誤って袈裟御前(けさごぜん)を殺して出家。神護寺再興を強訴したため伊豆に流されましたが、そこで源頼朝の挙兵を助け、頼朝開府後に神護寺を復興しました。のち佐渡や対馬(つしま)に流され、九州で没したといわれています。生没年未詳。

*お木曳き(おきひき) 現在正月に行われている手斧始式(ちょんなはじめしき 家の建築に際し、大工が仕事を始める日に行う儀礼。木造(こづく)り始め。斧(おの)始め)の祖形であろうといわれています。

*花山天皇 [968〜1008]第65代天皇。在位984〜86。冷泉(れいぜい)天皇の第1皇子。名は師貞(もろさだ)。女御の死を悲しむあまり、藤原兼家らに欺かれて退位。出家して花山寺に入ります。歌人としても有名で「花山院集」がある。法皇は仏門に入った太上天皇の呼称のこと。花山法皇。

*白河天皇 [1053〜1129]第72代天皇。在位1072〜86。後三条天皇の第1皇子。名は貞仁。譲位後も、堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を執ります。深く仏教に帰依し、社寺参詣もしきりに行いました。法名、融覚。

*後鳥羽天皇[1180〜1239]第82代天皇。在位1183〜98。高倉天皇の第4皇子。名は尊成(たかなり)。祖父後白河法皇の院政下、神器継承なしに即位し、譲位後、土御門(つちみかど)・順徳・仲恭(ちゅうきょう)3帝にわたって院政を執ります。北条義時追討を謀って承久の変を起こしましたが失敗、隠岐(おき)に流されました。蹴鞠・琵琶・笛などの芸能や和歌にもひいで、新古今集を勅撰。日記「後鳥羽院宸記」があります。

花山法皇はご存知、西国三十三所霊場巡り中興の祖。花山法皇、白河法皇、後鳥羽法皇それぞれに熊野参詣に足しげく通われました。

*八咫烏(やたがらす) 日本神話で、神武天皇の東征のとき、熊野から大和へ入る山中を導くため天照大神(あまてらすおおみかみ)から遣わされた烏。新撰姓氏録(しんせいしょうじろく)は、鴨県主(かものあがたぬし)の祖である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が化したものと伝えています。

*法華経 《(梵)Saddharmapuarka-straの訳「妙法蓮華経」の略》大乗仏教の最も重要な経典の一。漢訳は、竺法護(じくほうご)訳10巻(正法華経)、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳8巻、闍那崛多(じゃなくった)ら訳8巻(添品妙法蓮華経)の3種が現存するが、ふつう羅什訳をさす。28品からなり、譬喩を交えた文学的な表現で法華一乗の立場や永遠の生命としての仏陀を説く。天台宗・日蓮宗の所依の経典。ほっけきょう。

*おまけ 熊野といえば、こんな怖いイメージお持ちでありませんか。
『日本霊異記』下巻に記されている奈良時代の話です。

紀伊国牟婁郡の熊野の村に、「南菩薩」と称せられるほどの徳の高い永興禅師というお坊さんがいました。ある時その永興のところに法華経を持った僧侶が訪れて、法華経を一年間毎日読誦し、その後山に入ると告げて永興の元を去っていきました。二年後、熊野の村の人が、川上の村で船を造るための木を伐っていたところ、法華経を読む声が始終聞こえてくるのですが、不思議なことに僧の姿は見えません。その声は何カ月経ってもやまず、やむことなく3年が過ぎました。永興禅師は山を入り探してみると、なんと永興の元を以前に去った僧侶が、両足に縄を付けて崖より身を投げて死んでいたのでした。ところが驚くことに、髑髏となった僧侶の舌だけが腐らずに残り、動いて、なお法華経を読み続けていたのでした。

法華経の霊験を伝える挿話ながら、熊野の鬱蒼とした森林にこのイメージ。なんだかすごく印象的なんですよね。昔はこういった捨身の行が海ならば補陀落渡海でしょうし、山ならば霊異記のようなやり方であったのです。自らのからだを乗り越えたところにある宗教的確信を得るために、厳しい捨身の行に挑む。すごい世界です。

*那智参詣宮曼荼羅の9分の1の複製 熊野那智大社の宝物殿で販売されています。
お値段は3000円です。

*おすすめの本
「補陀落渡海記―井上靖短篇名作集」井上靖著 講談社
「観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海」 根井浄著 吉川弘文館


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