織田 信長 

June 15 [Wed], 2005, 23:53
私の一番大好きな人。基本的に独裁者系に弱いので(笑)

吉法師・三郎・上総介・弾正忠・参議・権大納言・右大将・内大臣・正二位右大臣・贈従一位・太政大臣・法諡総見院泰巌安公
1534〜1582
織田信秀の嫡男。1551年父信秀の死により家督を継ぐ。「うつけ者」と呼ばれていた信長は、一族や家臣にも離反者が多かったが、1559年頃には一族と尾張国をほぼ統一。
1560年桶狭間で今川義元を破り、三河の松平元康と同盟。桶狭間の戦いでも今までは迂回説が有力だったが、最近では迂回はせず真正面から切り込んでいったという説が有力らしい。 一番の功労者が一番槍では無く地元の地形や天気、今川軍の行路を教えて貰った人物だったというのも信長らしい話。
1567年8月斉藤龍興を追放して美濃を征服し、地名を「岐阜」に変え本拠地も移す。ここに「天下布武」の印を使い始める。
翌年9月には足利義昭を将軍として上洛するが、義昭は本願寺や諸大名と共に反信長行動に出る。
1570年6月28日、姉川の合戦で浅井・朝倉軍を破り、翌年9月比叡山焼討を行う等、反信長勢力を壊滅させていく。
1572年12月三方ヶ原で武田信玄に敗れるものの、翌年信玄が病没した機に義昭を追放し室町幕府を滅亡させ、8月28日浅井・朝倉を滅亡させた。浅井久政・長政、朝倉義景の3人の髑髏を金箔で塗り、酒を呑んだという話は有名。
1574年9月29日長島一揆討伐、翌年5月21日には長篠で武田勝頼を破る。 この時、新しい鉄砲の活用法「三段式装填法」を編み出したとされる。
1576年、安土城を建築。7月13日、毛利水軍と戦い敗退するが、1578年7月、我が国初の甲鉄戦を用いて本願寺の救援物資路を断つ事に成功。
1580年8月2日に本願寺は完全降伏。1582年3月11日、武田家を滅ぼすが、秀吉の要請により、中国に出陣する為に宿泊した京都本能寺にて1582年6月2日未明、明智光秀の謀反により自害。 遺体が見つからなかった為、光秀は「信長がまだ生きているかも」という恐怖に駆られていたと云う。

織田氏 

June 13 [Mon], 2005, 0:23
戦国時代と言えばやはりこの人!織田信長
ということで、先ずは織田氏の説明から。

桓武平氏。平親真に始まるとされる。しかしこれは源平交代思想で信長が創り上げたものとされる。藤原姓か忌部姓の越前織田荘の荘官、または剣神社の神官が祖であるとされる。 織田伊勢入道常松が越前守護斯波義重に守護代に任命され尾張に移住し、後常松の系統が伊勢守として岩倉城に、常竹の系統が大和守として清洲城になったという。
信秀の時に主家斯波氏を滅ぼし、信長は一族郎党と対立しながらも尾張を統一。天下布武を目指すが、1582年本能寺の変で自害。信忠も討死した。
信長の弟・長益は有楽(有楽町の語源)と号し3万石の大名となり、長政の系統が大和芝村藩織田氏、尚長の系統が大和柳本藩織田氏となる。
信長の次男信雄は豊臣の大名となり、嫡孫信昌が上野国小幡で2万石、後天童藩となった。信雄の五男高長が丹波国柏原藩2万石となった。

家紋は木瓜。揚羽紋も使用。
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