御霊の自由はいのちをつなぐ☆

June 04 [Mon], 2012, 15:04
皆さんハレルヤ。
おはようございますまずは、御言葉の恵みから分かち合いさせていただきます。
朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着る時、死は勝利にのまれたととしるされているみことばが実現します。
第1コリント15章54節死に対する考えの変換この御言葉にあります朽ちないものを着るとはイエスキリストを着るということでありますが、キリスト信仰を持つようになりまして、死というものについての考えが基本的に変わったような感じがあります。
信仰を持つ前は死というものが、肉体に捕らわれていて、肉体が死ねばそれが死でありそれ以上でもそれ以下でもないと、思っていた節があり東京ジャンプステークス 2012ました。
ただ、命というのは手段であり、いかに生きるかというより、いかに死ぬかが焦唐あったように思います。
例えば、特攻隊の死に方は、日本国をまたは大事な家族や友人を守ると手段として自分の命を最大限に使ってくれたという感覚があり、それは数々の遺書からも感じるものであります。
また、日本は戦争に負けて勝者が敗者を裁くという裁判も受け、国として一度死にましたが、多くのアジア諸国は、そんな日本によって勇気付けられ独立を勝ち取って行った。
これも、当時の様々な国の指導者の発言からも感じ取れるものでありますこのような感覚がイエス様と出会う前からあり、イエス様と出会った時、自分のいのちを十字架上で犠牲にした理由が当時地球上で生きているすべての人たちや、今の今までに生まれて来たいのち、そして、今から世の末まで生まれて来るいのちを救うためだったと知った時、特攻隊や日本国のやったものとは比べものにならない壮大なスケールに凄さを覚えたものでありました。
しかも、イエス様は復活なされた。
自己犠牲は相手のいのちを生かすためだけではなく、自分のいのちを生かすように雛lがしてくださるものでもあるのは御言葉にもあり自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
ルカ17章33節の通りかと思います。
そのイエス様を信じる者には永遠のいのちを与えられるヨハネ3章16節イエス様を受け入れた時、命とは肉体的なものだけではなく、霊的なものもあり、それこそ雛lから来るいのちの源なのだと受け取りました。
このようなことをマザーテレサは次のように表現しました。
すべての宗教は永遠なるもの、つまり、もう一つの命を信じています。
この地上の人生は終わりではありません。
終わりだと信じている人たちは、死を恐れます。
もしも、死は垂フ家に帰ることだと正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです。
地上の人生で霊的ないのちを使うそういう視唐ナ見た時、地上での人生は霊的ないのちを溢れさせるものでありたい。
これが、雛lを信じた時にもたらされた情熱でありますでは、今日も目にとまった御言葉から書かせていただきます。
ディボーションエゼキエル43章1節9節目にとまった御言葉その方は言われた。
人の子よ。
ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。
イスラエルの家はその民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。
エゼキエル43章7節感じたこと人の子よ。
ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。
この御言葉を新約聖書の光に照らして読み、内側に入って来たのは、まずイスラエルとは、イエス様を信じる者がイスラエルと同じであること。
わたしの玉座のある所、足の踏む所とは、自分の心の扉を開けてイエス様に入っていただき、イエス様の足で踏んでいただき、心の中に入っていただくこと。
そして、自分の心の玉座にイエス様に座っていただくことで、イエス様は永遠に共に住んでくださることが約束されている。
イスラエルの家はその民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。
についてイスラエルの家はその民もその王たちも、とは、イエス様を信じる者は、国の王も国民も身分関係なくという意味だと入って来ました。
淫行とは、かつては他の吹Xを礼拝したりする偶像礼拝を差すかと思わされます。
高き所の王たちの死体とは、おそらく当時のエジプトの王たちの墓であるピラミッドを差すのかと思います。
そういう吹Xを拝んだり、王たちの死体を拝んだりするのは、すべてを創られた雛lに対する罪であり、汚れでありましたが、それらをやめてイエス様と共に歩む決心をして、イエス様が送る聖霊を受けることで、雛lから聖とされ、聖なる名は汚されない。
このように入って来ました。
いつでもどこでも祈りを通してさて、今日の箇所を過去の自分に当てはめてみますと、普通に仏壇に手を合わせたり、錘ミで参拝してましたが、聖書的な受け取りは、死者に対して拝む行為であると受けとっています。
勿A先祖に感謝する意味合いはありましたが、今はいつでもどこでも死んでいる者でなく、生きておられる雛lに対する祈りを通して先祖に感謝することも出来まして、わざわざ特定の場所に行かなくも、頼りになるお方にいつでもどこでも祈れる恵みを感じています。
今日の御言葉主は御霊です。
そして、御霊のあるところには自由があります。
第2コリント3章17節さて、これから仕事に行って来ます。
今日も生きておられる雛lに祈り、様々な場面で聖別を意識して行こう。
そして、御霊の自由に感謝して週末を過ごそう。
では、今日はこの辺でo今日もそれぞれに素敵な週末の時となりますように
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